日報029:情報戦と、オーガの生態
辺境での十四日目の昼下がり。
俺たちは、オーガの縄張りの手前にある、鬱蒼とした森の中に、息を殺して身を潜めていた。ミオが斥候として、単独で、森の主の生態調査に向かってから、すでに三時間が経過している。ハンスとゲオルグも、彼女のサポートと、万が一の際の救出役として、少し離れた場所から、後を追っている。
残されたのは、俺、セシリア、そしてトムの三人。荷車は、巧妙に、岩陰と、生い茂ったシダ植物の葉で隠してある。
「…………」
セシリアは、剣の柄に手を置いたまま、身じろぎもせず、ミオが消えていった方向を、鋭い眼差しで見つめている。彼女の全身から、張り詰めた緊張感が伝わってくる。
「慎一様……」
やがて、彼女は、俺の身の安全を確かめるように、小声で話しかけてきた。
「……斥候任務を、ミオ殿、ただ一人に任せるというのは、やはり、危険すぎたのではないでしょうか。彼女とは、昨日、出会ったばかり。その能力は未知数です。私か、あるいはハンスだけでも、共に行くべきだったのでは……」
彼女の懸念は、もっともだった。指揮官として、当然の思考だろう。
「俺も、同じことを考えた」俺は、静かに答えた。「だが、セシリア殿。君や、ハンス殿が近づけば、その気配で、オーガに感づかれる可能性が高まる。獣人であるミオの、気配を消す能力と、森との同化能力は、我々人間の比ではない。俺の【人材配置(A)】スキルが、この任務を、単独で、かつ、完璧に遂行できるのは、彼女だけだと、明確に示していた。……俺たちは、俺たちの『専門家』を、信じるしかない」
俺の言葉に、セシリアは、ぐっと、唇を噛んだ。彼女は、俺のスキルの、その異常なまでの的確さを、これまでの旅で、嫌というほど、理解している。だからこそ、反論できないのだろう。
俺たちは、再び、静寂の中、ただ、ひたすらに、時が過ぎるのを待った。
その頃、ミオは、巨大な獣の縄張りの、まさに中心部へと、深く侵入していた。
彼女は、もはや、森の一部だった。風の流れを読み、木々の葉のざわめきに耳を澄ませ、土に残された、かすかな匂いを嗅ぎ分ける。その五感は、人間が持つ情報を、遥かに凌駕する、膨大なデータを、彼女に与えていた。
(……近い)
獣の血が、警告を発している。全身の毛が、総毛立つ。
ミオは、巨大な岩の影に、完全に、その身を隠した。そして、岩の隙間から、前方の光景を、息を殺して、見つめた。
そこに、それはいた。
『森の主』。
身長は、優に五メートルを超えるだろうか。岩のような、筋骨隆々の肉体。角の生えた鬼とも豚ともとれるような、醜悪な顔。そして、その手には、大木を、根元からへし折って作ったと覚しき、巨大な棍棒が握られている。
オーガは、昨夜、自らが狩ったのであろう、銀牙狼の亡骸を、巨大な手で引き裂き、その肉を、貪り食っていた。ゴリゴリと、骨を噛み砕く、おぞましい音が、森に響き渡る。
(……間違いない。こいつだ)
ミオは、その圧倒的な存在感に、背筋が凍るのを感じた。だが、彼女は、一族の斥候としての誇りを胸に、恐怖を、冷静な観察眼へと、昇華させた。
彼女は、オーガの食事の様子を、詳細に観察する。どれくらいの量を食べ、どれくらいの時間で、食事を終えるのか。
食事が終わると、オーガは、満足げに、巨大なげっぷをし、近くの川で、水をがぶ飲みした。そして、その足は、一直線に、ある場所へと向かっていく。
ミオは、音もなく、慎重に、その後を追った。
たどり着いたのは、崖の中腹に、ぽっかりと口を開けた、巨大な洞窟だった。そこが、奴のねぐらだ。
オーガは、洞窟の中に入ると、すぐに、いびきとも、唸り声ともつかない、地響きのような音を立てて、眠りについたようだった。
ミオは、そこから、さらに一時間、動かずに、様子を窺った。オーガが、完全に、深い眠りに落ちたことを確認する。そして、彼女は、今度は、オーガの縄張り全体を、把握するために、動き出した。
どこに、獲物となる動物が多く、どこに、水場があるのか。そして、どこが、奴の主な通り道で、どこが、警戒の薄い、死角となっているのか。
彼女は、持っていた、木の皮の裏に、爪で、詳細な地図を、克明に、刻み込んでいった。
それから、さらに二時間が経過した頃だった。
俺たちの、隠れ家近くの茂みが、かすかに、揺れた。
「っ……!」
セシリアが、音もなく剣を抜く。だが、現れたのは、ミオだった。彼女の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいたが、その蒼い瞳は、任務を完遂した、誇りと、自信に満ち溢れていた。少し遅れて、ハンスとゲオルグも、姿を現した。
「……シンイチ」
ミオは、俺の前に来ると、木の皮を差し出した。
「奴の、すべてだ」
俺たちは、焚き火も起こさず、身を寄せ合い、その、ミオが作成した、驚くべき地図を、覗き込んだ。
そこには、オーガのねぐらの位置、主な狩り場、そして、行動パターンが、時間単位で、詳細に記されていた。
「奴は、朝、東の森で狩りをする。昼前に、ねぐらに戻り、食事をした後、最低でも、四時間は、深い眠りにつく。その間は、少々の物音では、起きない」
ミオは、地図上のある一点を、指でなぞった。
「そして、ここだ。この、南側の尾根沿いの道。ここは、奴の主な通り道から、最も離れていて、風向き的にも、私たちの匂いが、ねぐらへ届きにくい。奴が、眠りについてから、一時間後に、ここを通過すれば、遭遇する確率は、限りなく、ゼロに近い」
その、完璧すぎる情報に、俺たちは、言葉を失った。
「……信じられん」ハンスが、呆然と呟いた。「斥候として、これほど完璧な仕事は、見たことがねえ。嬢ちゃん、あんた、一体……」
「銀狼族の、斥候だからな。これくらい、当然だ」
ミオは、少しだけ、誇らしげに、胸を張った。
俺は、ミオの頭に、そっと、手を置いた。
「……よくやった、ミオ。素晴らしい仕事だ。君のおかげで、我々は、この最大の危機を、乗り越えることができる。本当に、ありがとう」
俺からの、純粋な賞賛と、労いの言葉。
ミオは、驚いたように、目を見開き、そして、すぐに、ぷいっと、顔を逸らした。だが、その獣の耳が、わずかに、赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
「よし、作戦は決まった」
俺は、皆に、最終的な計画を伝えた。
「今夜は、ここで、仮眠を取る。夜明け前に、出発だ。オーガの縄張りの手前まで移動し、ミオが、奴がねぐらに戻り、眠りについたことを、最終確認する。その後、合図と共に、我々は、一気に、このルートを駆け抜ける!」
全員が、緊張と、そして、かすかな興奮を宿した目で、力強く頷いた。
俺は、ミオが作ってくれた地図を、改めて見つめた。
それは、もはや、ただの木の皮ではない。
我々の命運を分ける、最重要機密文書だ。
明日の今頃、俺たちは、無事に、この森を、抜け出しているだろうか。
四十路の総務部長の、情報戦の、第二ラウンドのゴングが、今、鳴らされようとしていた。




