最終話 好きを言う前に君の声は風になる
次の日の朝になり、目覚めのいい朝がきた。
ゆっくりと目を開けると、悠仁の腕枕で寝ていた。少し堅苦しい状況に困惑したが、幸せな気持ちで満たされた。
最高の朝だ。
ベッド横に置いてある目覚まし時計を確認すると、朝の7時を指していた。
今日は仕事が休みの日。久しぶりの1日休暇だから少し遅めに起きてみた。こんな時間に起きるなんて不安でしかたがないけど、その度に我に返って休みということを思い出す。
顔を少し横に向けると、カーテンの合間から入る太陽が額を温めた。
「うわぁ〜!」
ベッドの中で背伸びをして体に朝ということを伝えた。
私は悠仁の腕を押しのけて立ち上がった。裸足のまま純白色のカーテンを全開まであけた。
「おはよ。」
私は彼の方を見ながら挨拶をした。彼は無言のまま体の向きを変えてそっぽを向いた。
これは起きるまで時間がかかるな。いつもだったらこの時間には起きるそうだが、今日は日曜日だし、まぁいっか。
私は静かに足音を立てずに寝室の扉を開けた。ゆっくりと悠仁の方を振り向きながらそのまま部屋を出た。
ボサボサの髪の毛をかきながら洗面台に向かって水を出した。
シャーーー
冷たい水を顔につけて垢を落とした。
ティッシュで拭き鏡を見ると、目あにがたくさんついていた。
「ふわぁ〜!」
それと同時にまたあくびをした。寝不足だからって寝ても眠気は取れないもんなんだなと、内省する。
洗面台を離れてキッチンに向かった。
白色のポットに水を入れて白湯を作った。
私はなぜか台所に置いてあるリモコンを手に取ってテレビをつけた。
『明日から本格的な夏が、始まるでしょう。』
目がぱっちりとした天気予報士が明るく天気予報を伝えていた。私は彼女の表情と気象予報図を交互に見つめた。日本の夏にはもう懲り懲りだ。
私が立ち上がりコーヒーを作ろうとした時、机上の上にある一つのファイルに目がいった。昨日長谷川さんから貰った私宛の封筒だった。結局中身を見ないまま一夜経ってしまった。
「はぁ。」
小さなため息をついて台所に行く足を止め、方向転換して再びソファに腰掛けた。開けるつもりはなかったが、人間の本能というものだろうか。いつの間にか手を伸ばしてハサミを器用に使い封筒の先を開けた。好奇心と不安が交錯しながらもゆっくりと中身を取り出す。
中には.....
漫画?
小さな紙に書かれてある大量の漫画が入っていた。全て手書きで書かれており、消さないようボールペンで描かれていた。
「何これ。」
不思議なりながらも一枚ずつ見てみると、右上に数字がふられていた。その数字に沿って並べ替えると全てが一つのストーリーになっていた。並び替えられたホチキス留めのセットが大量に中に入っていた。
漫画編集者という立場からすると、思わず漫画にのめり込み中身をじっと見てしまう。
思考が動く前に目が行動を起こしていた。気づいたら漫画を目で追っていた。
この絵、この文字、どこかで見たことあるようなないような。無造作に描かれた文字体は遥か昔から出会ったことあるような気がした。う〜ん。思い出せないな。でも確実にどこかで出会ったことある。なんとなくそんな気がした。
次のセットの内容を見ると、見覚えのある顔がいくつも登場した。それは、スーツを着て相手方との商談をいくつも成功させている女性だった。キャリーケースを持ち飛行機に乗り込み世界を飛び回っている。これは正真正銘のキャリアウーマンだった。この顔は、自己中心的だが私に似ている気がする。輪郭はシュッと描かれており、人中も丁寧に描かれていた。
この漫画家、描き主は誰だか分からないけれど大御所のような腕前を持ち合わせている。背景も葉っぱ一枚までこだわっていて美しい。
特に目がいったのは二匹の小鳥と一人の男性だった。まるで恋人のような二匹が戯れあい、それを見つめる白衣を身に纏った医師のような男性。彼もまた、親近感が湧く。
“会ったことある”
そんな簡単な言葉では収めきれない。
主人公の少女が言う。
『綺麗な空ですね。』
続けて医師が答える。
『君もね。』
なんて、定番すぎるセリフが書かれていた。しかし同時に本当にあった出来事のようにも感じた。
この絵は没入感が激しく、読んでいる人もその場にいるような描写が目立つ。読む手は止まることを知らずに、私は続きを読み進めた。
♢
「おはよー。早いね。」
寝室から悠仁がノソノソと歩いてきた。台所に行き、まるで自分の家のようにコーヒーを作り始めた。これがお互いの家で当たり前になっていた。
「おはよ。」
「あら、何読んでるの?」
「ちょっと待って。」
悠仁の質問を拒否した。なんせ漫画の内容、展開、描写が完璧すぎたからだ。これは素人が描くような内容じゃない。自分の世界観がはっきりしておりさらにコマ割りもプロ顔負けのものであった。
おそらく最後の一セットになった。ここまでかなりの容量だったが、時間を忘れるほどスラスラと読めた。というか読みやすかった。
悠仁は無言のままそっと机の上にコーヒーを置いてくれた。
「あ、ありがとう。もうすぐ終わるから待って。」
「いいよゆっくりで。」
最後のページは他ページと異なる点がいくつかあった。まず、インクが薄くなっていた。使い古したペンなのかなと思う。そして決定的に違うのは以前のページと比べて覇気がなかった。途中で体が切れていたり、文字体が弱々しくなっていたりしていた。そして最後に近づくにつれて、完全に絵が途切れた。没入感が激しい分、作者のやる気の違いがはっきり伝わる。
内容量は漫画二冊分ほど。一気読みをしてしまった。
この作品は、ただにしておくわけにはいかない。
私は読み終えた全ての漫画を再び封筒にしまいリュックサックに勢いよく詰め込んだ。
「ごめん。実は急用で仕事が入っちゃって。今から会社行ってくる。」
私は会社に行く支度をしながら悠仁に伝えた。彼の方を見ると悲しそうに目を細めて頭を抱えていた。私はごめんごめんと呟きながら必要最低限の荷物を入れた。
「編集者大変だね。頑張って。」
コーヒーを片手に飲みながらもう片方の手で頭をポンポンとしてからそのままの流れで髪の毛を撫でた。
私は彼の方を向いて言った。
「ありがとう。行ってきます!」
「行ってらっしゃい。」
うん、素敵な距離感だ。彼は私の仕事に干渉してこない。それがお互いにできるから愛し合えるんだと思う。やはりお付き合いする上でのプライベートの確保は重要な項目の一つだと思う。
私はリュックの内ポケットから鍵を取り出しながら玄関に向かって走った。靴を履いて扉を開けて取り出しておいた鍵で施錠をする。
扉を閉めると同時にマンションの階段を駆け降りて自転車が止めてある駐輪場に向かった。
自分でもなんでこんなに急いでるのか分からない。とりあえずこの漫画を誰かに共有したかった。
片足で進みながら駅方向に漕いだ。夏場でしか感じられない薫風を浴びながらひたすら足を動かした。
幸いにも全ての信号が青信号で、ギリギリの黄色信号で渡ったのが一つ二つくらいで済んだ。駅近くの駐輪場に自転車を停めて息を切らしながら早足で駅を目指す。辺りはすっかり人混みができていた。夏場は全員が半袖に短パン。帽子を深く被り日焼け対策。行き先は皆バラバラである。
順調に駅の改札を抜けて東京行きのホームにたどり着いた。オレンジ色のラインが特徴的な中央線がやってくるのを待つ。きっとこの時間帯は第二の通勤ラッシュで混雑してるんだろうな。第一は6時半から7時過ぎ。この時間は死者が出ると言ってもいいほど、押しつぶされ、息ができなくなる。しかし今の時間帯はまだ空いているはずだ。
『まもなく4番線に中央快速東京行きが到着します。』
ホームでアナウンスが鳴り響き、ベンチに腰掛けていたサラリーマンが一斉に立ち上がる。さらに列ができる。これは、座れそうにないかな。
♢
『次は御茶ノ水、御茶の水———』
「すみません降ります。」
リュックを前に背負ったまま人混みを抜けようとした。運悪く奥の方に詰めてしまったのだ。周りの人に申し訳ない気持ちを持ったまま急いで駅に降りた。もうスイカは手にしている。改札を出て会社に向かって走り出す。
「はぁ、はぁ、はぁ.....!」
なんで走ってるの?こんなに走る意味ある?
でも、あの漫画は絶対に売れる。プロが言うんだから間違いない。この作品を世に出さないで終わらせる訳にはいかない。これを見て心動かされる人はたくさんいるはず。すでに私がその一人なのだから。
会社の自動扉を通り階段を使って私が所属している部署まで突っ走る。最後のひとっ走りだ。エレベーターを使うより自分の足を信じた方が早い。走れ。足を止めずに走り続けるんだ!
「....おはようございますっ!」
部署の扉を叩き倒すように開けた。出社していた社員が一斉に振り向いた。シーンと静まり返る景色を見て我に返った。一瞬で全身の熱が上がっていくのを感じた。急いで自分の卓に行き無言のまま席に着いた。
隣には同僚の琴ちゃんが座っていた。
「葉那ちゃん今日は休日じゃなかった?」
「あー実は長谷川さんに仕事の用があって。」
琴ちゃんは、ほんと〜?と怪しく睨みをきかせてきた。私はニコッと微笑みリュックサックから取り出した封筒を持ってその場を離れた。
「あー逃げたー。」
後ろから琴ちゃんがわざとらしく叫んだ。私は気にすることなく封筒を力強く握りしめて長谷川さんの元に行った。
長谷川さんは離れた誕生日席に座っている。彼は私たちが所属する部署の部長的な存在だ。漫画を世界で一番愛していると言っても過言ではない。
「すみません。」
私は彼の元に駆け寄り封筒を目の前に置いた。
「あれ?葉那さん、今日は休暇じゃなかったのかい?」
「そうだったんですけど、実は、お渡ししたいものがありまして。」
「渡したいもの?」
「これなんですけど。」
私は机上に置いてある封筒をさらに強調して長谷川さんに渡した。彼は私を見つめるや否や、封筒を手に取った。彼が中身を取り出し、漫画に目をやる瞬間を、私は忘れない。
「これは?」
「先日、長谷川さんが渡してくださった、私宛の封筒の中身です。今朝中身を確認しました。そしたら、大量の漫画が入っていました。その全てに目を通したところ、簡単に言えば、一目惚れをしました。」
「君が?めずらしいね。」
長谷川さんは満面の笑みを浮かべたまま一枚一枚を丁寧に広げて読み進めた。私は背筋を伸ばし、太ももに力を入れた。緊張して何を言われるか分からない。
「かなり、丁寧に描かれているな。」
「そうなんです。今の時代にそぐわない没入感が激しく描かれているんです。今時じゃない。これはかなり昔に描かれたものだと思うんです。」
「確かに。紙質からも考えて、10年以上前のものだね。それしても、素人はこんな絵、描けないよ。」
長谷川さんは目を丸くして私と同じように絵にのめり込んだ。
「私の直感を信じるのであれば、これは、世に出さないわけにはいきません。」
長谷川さんは黙り込み、ひたすら漫画の続きを追った。今朝の私を鏡で見ているようだ。溢れんばかりの汗がシャツに染み込んで痒くなる。
「これは、上に相談してみようか。希少性が高く、若者世代に響くと思うんだ。」
「あ、ありがとうございます!」
私は深くお辞儀をして地面に酸っぱい水滴を垂らした。ポケットからハンカチを取り出してその汗を拭う。
「ところで、作者は誰なんだ?」
「あ、それがまだ分かっていなくて。今から送り主を調べてみようと思っています。」
「そうか。君の目は間違っていない。安心したまえ。」
「ありがとうございますっ!」
二度目の深いお辞儀をした。長谷川さんは封筒を置き受話器に手を伸ばした。
よっしゃ。内心大喜びになり早速作者に連絡を入れようとした。
封筒に書かれたある住所の写メを撮り自席に戻った。隣にいるはずの琴ちゃんはいなくなっていた。そういえば校了直前の作品があるって言ってたのを思い出す。
そんなこと今は気にしてはいられない。写真フォルダに収めた封筒の表面を見た。送り主の場所は.....
「宮古島?」
思わず声に出した。何度も確認した。確かに間違いなく、沖縄県宮古島から送られてきたものだった。送り主の名前は”佐野春という女性らしき名前だった。
佐野。
どこかで聞いたことある名前だった。さの?佐野....
ダメだ思い出せない。
しかし宮古島という書体を見た瞬間、背筋がスッと凍った。なぜなら宮古島は、私が生まれ育った故郷であるからだ。こんなに広い日本でたまたま作者と私が同じ故郷であることあるか?
気がかりな点を残しながらも、早速記載されてある電話番号に電話をかけた。頭よりも体が動く。私の唯一の取り柄だった。
『ただいま、この番号は使われておりません———』
「おっかしいな〜。」
080の電話番号にかけても繋がらない。ただいま使われていないってどういうことだ?念の為もう一度同じ番号に電話をかけた。
『ただいま———』
ダメだ、繋がらない。その後も何度もかけても繋がらなかった。
♢
そのあと、作者不明のまま原稿確認部屋で検査を受け、上層部に受け渡すことになった。全員で集まり再度審査会を開くのは2日後。長谷川さんはこのことを私に伝えると帰宅してよいと伝えてきた。
「念の為すぐ連絡を取れる状態にしておいてくれ。」
「分かりました。本当に何から何までありがとうございます。お先に失礼します。」
私は荷物をまとめて琴ちゃんに挨拶をしたあと社を後にした。結果がどうあれ、佐野という人物が私宛に漫画を届けてくれたことに感謝する。
「もしもし?」
『もうすぐ着くから待っててくださーい。」
「ありがとー。」
走ってやってきた会社を出て外に出る。熱気が全身を見事に包み込み抑えていた汗が一気に溢れ出た。ハンカチで拭っても意味はない。
「あっつ。」
今日から本格的に夏シーズン。私が高校生の時からは気温はさほど変わらないが、その分湿気の度合いは年々上昇している。夏はもはや致死の世界だった。
悠仁の迎えを待っている間にビルの屋根がある影に入り少しでも暑さを凌ごうとした。
隙間から見える入道雲が激しく入れ替わり熱が混じった気流に変わる。人々の元に届く前に私たちは建物の中に逃げる。まるで人喰い鬼から逃げるように。日本の夏ってのはそんなものだ。
適当に前を眺めていると、十字路から見覚えのある車がやってきた。私は手を振り合図を送った。その車は目の前に止まった。助手席に周り扉を開けてお礼を言いながら車に乗り込む。
「お願いしまーす。」
「どんだけ可愛い子がいるのかと思ったよ。暑い中ご苦労様。」
彼は私のことを呼吸をするように褒める。最初は照れ臭くてどうしようもなかったが、長い間この態度なのでもういい加減慣れてきた。
「仕事のことで、相談あるんだけどいい?」
首都高速に差し掛かったころ、前の車との車間距離が縮まったタイミングで口を開いた。
「仕事のことなんて珍しい。どうしたの。」
「実は昨日私宛に封筒が届いて、その中身が誰かによって描かれた漫画だったの。」
「すごい葉那さん人気者じゃないっすか。」
「そういうのいいから。」
悠仁はすぐに反省して黙り込んだ。
「いつもだったらそんなのすぐに捨てちゃうんだけどね、今回のは頭一つ二つ抜けててとっても上手な絵だったの。」
「へぇ〜。いい出会いなんじゃない?」
「やっぱりそう思う?そしてびっくりなことがあって、送り主が宮古島から送ってきてるの。」
「宮古島?」
悠仁も私と同じように言ったことを繰り返した。やっぱり私たちは”宮古島”というワードに強く惹きつけられるのかもしれない。
「それも住所が私たちが住んでいたところのすぐ近くで。あなたが勤務していた病院のすぐそば。あのあそこ、分かるでしょ?」
「すごい偶然だな。でもそんな上手い話あるか?」
「送り主の名前が、内密にしてほしいんだけど、佐野春って人なの。まさか知るわけないよね?」
「佐野春?いま、佐野春って言った?」
「え、うん、言ったけど。」
「えちょ待って。何から伝えればいいのか.....」
珍しく悠仁が慌てていた。彼の横顔を見ると、何か言いたげな表情をしていた。
「ごめん、この話家帰ってからでもいい?」
「もちろん。」
悠仁はいつもに増して速度を早めて運転をした。
♢
駐車場に車を停めて二人で横並びでマンションの一室に戻った。その間、全て無言だった。何を話せばいいかも分からず久しく気まずいというものを肌身で感じた。
「何か飲む?」
「今はいいや。」
「そっか。」
悠仁はすでに手洗いを済ませてソファに座っていた。私も急いで手を洗い彼の隣に腰をかける。
「佐野春さんについて、何か知ってることあるの?」
私は悠仁の目を見据えて言った。運転中の彼は、確かにいつもと違っていた。
「あの実はさ、佐野春っていう女性?君の友達の、空音ちゃんの担当看護師だった人、なんだよね多分。」
「そら、ね?」
白夜空音。10年以上前に心臓病で亡くなった、私の親友だった。
彼の口から今、空音という名前が出てきた瞬間立毛筋が激しく目立った。
「なんで、空音が。えどういうこと?」
私は動揺を隠せず思わず頭を抱えた。空音の担当看護師?なぜそんな人が私宛に手書きの漫画を送ってくるの?看護師の傍ら、漫画を描いていたってこと?
「じゃああの漫画は一体誰が?佐野さんが描いたの?」
「......いや、佐野ちゃんはそんな漫画を描く時間なんてないと思う。毎日夜勤で働いてるって言ってたから。」
「じゃあこの漫画って....」
私たちはしばらく見つめ合ったまま、わずかながらの涙を流した。彼は優しく親指で私の頬を撫でた。
♢
作者不明の漫画が会社に届けられてから1ヶ月の月日が経とうとしていた。この漫画の才能は瞬く間に会社内で話題になり、一躍有名な作品にのしあがった。上層部との会議でも高く評価され、あっという間にコミカライズ化の話が進んだ。主な編集は私が、そして編集チームのリーダーは長谷川さんが受け持つことになった。”作者不明”というワードのパンチが強く、テレビや雑誌でも広く取り上げられるようになっていった。
「お疲れ様です。」
「葉那ちゃんご苦労さんね〜。今の時期忙しいでしょ?」
「まぁ、それなりに。」
鼻が高くなった長谷川さんが気さくに話しかけてきた。コミカライズ化の準備が順調に進み、来月上旬には本格的に書店に売り出される。そのため長谷川さんも私も大忙しの毎日だった。
「今夜編集チームで一杯行こうと思ってるんだけど、葉那ちゃんも行くかい?」
「あ〜すみません。今日は夜まで予定がありまして。今回はパスで。」
「そう?それじゃあまた次の機会にでもね。お疲れ様!」
見たこともないような笑顔を浮かべた長谷川さんはどこかに電話をしながら歩いて行ってしまった。ほんとに、前の時なんかよりも活気付いて明るくなった。
「琴ちゃん先に上がりますね。」
「お疲れ様でーす!」
私はカバンを持って通りすがり人に挨拶をした。みんなお辞儀をして見送ってくれた。
今日は悠仁の迎えは頼んでいない。なぜなら今から私は成田国際空港に行き、ある場所に向かうからだ。頼んでいたタクシーが会社の前まで来ており乗り込む。
「成田空港までお願いします。」
「かしこまりました。」
気丈のいい運転手がシートベルトをつけることを促したあとエンジンをかけて出発した。
揺れる車窓を眺めてある日のことを思い出す。彼女が死んだとき、心にぽっかり大きな穴が空いた。もう会えないんだと思うたびに涙腺が緩んだり。
けど今は違う。
涙腺どころか、思わず笑みが溢れる。漫画の下書きをみるたびに眉を寄せて口角を上げる。この作品は、彼女が生きた証だから。
ポケットから宮古島行きのチケットを取り出してしばらく見つめた。私の予測だけど、今からこの漫画の作者に会いに行く。
♢
「あっつ〜。」
宮古空港を降りて全ての荷物検査を終えた。東京とはまた別の熱気が伝わる。しかしまだ宮古島の方が涼しい。夏らしさをさらに感じた。
数年ぶりに生まれ育った故郷に帰ってきた。本当は悠仁も一緒にと思ったが、どうしても病院を空けることができず今回は私一人でやってきた。最近ちょくちょくテレビに出ているから、通りすがりの人に話しかけられる。
「あの漫画の葉那さん?!あらこんなところで会えるなんて嬉しいわ!」
「ありがとうございます。」
「宮古島楽しんでくださいね!」
おばちゃんにお辞儀をして握手をして別れを告げた。宮古島は狭いため、もはやお互いのことを把握しつつある。このおばさんともまた会うんだろうな。
そのままの足で海に近い墓に向かった。足が重くなることはなく、順調に歩く。
「はぁ———!」
潮風を全身に浴びながら大きな背伸びをした。ここは本当に気持ちがいい。私も死んだら海に近い墓にしようかな。なーんて、また怒られるかな。
東京とは違いビルひとつない。老舗の店が立ち並ぶ通りを抜けて一気に田舎町へ辿り着く。
木陰になっている階段を遠くに見つけてやっと出会えることを実感した。
階段を登る前にある乾いた墓を潤すために清める冷水を桶に入れて片手に持つ。これがなんやかんや重たい。けどずっと喉が渇いているのも可哀想で仕方がない。
ずっと続く階段を登り深呼吸をしながら疲れを凌いだ。歳をとり体力の消耗が早くなったと改めて感じた。流石にもう少し運動時間を増やそう。静かに一人で内省する。
「よいしょっと。」
最上階まで登り、一度桶を地面に置く。
「疲れたー!」
もう一度背伸びをして辺りを見回す。遠くに海が見えた。何度も波打ち砂浜で家族が喜んでいる。海は死ぬことはない。どんな時も生き続ける。
しばらく海を見たあと、墓に向かって再び歩き出そうとした。
一直線、彼女の墓が見えた瞬間、一人の人が彼女の前で手を合わせていた。まさか誰かいるなんて思っていなかった。私は目を細めて険しい顔で見つめた。
「誰だ。」
彼女の墓は一番端にあるため誰がいるかすぐに分かる。
私は恐る恐る墓に近づいていった。フォルム的に男性のようだった。黒いズボンに薄いカーディガンを羽織っている。夏場なのに暑苦しい服装をしている。
「あの....」
声をかけると素早くこちらを振り向いた。彼女の父親ではない。てっきり彼女の父親かと思ったのだが。彼は誰だ?昔会ったことあるような、ないような。見覚えはある顔ではあった。
「いきなりすみません。彼女のお知り合いですか?」
重くのしかかる桶をその場に置く。水の泡が地面に溢れる音がした。
「........。」
「あの〜。私も彼女のお墓参りに来たんですけど。」
「........。」
目の前にいる男性は何も言わない。ただ下からこちらを見つめているだけだった。聞こえているのか?聞こえてないのか。不思議な空気を纏う彼の瞳に圧倒される。この瞳も、身近に感じるのはなぜなろう。
「すみません。」
私は地面に置いた桶を手に取り彼の前に立ち彼女にかけた。
しばらくの間喉が渇いていたのか、冷水をかけた瞬間墓が明るさを取り戻した。
その場にしゃがみ、手と手を合わせる。
「.......。」
心の内で何度も彼女の名前を読んだ。ただいまを言い今日まであったことを一通り話す。
そういえば多分だけどね、あなたが描いた漫画、佐野さんが送ってくれてコミカライズ化することになったんだ。これ、本当にあなたが描いたの?答えてよ、空音
私はカバンから取り出しておいた漫画の本当の下書きを彼女の墓に置いた。息を呑み何度も彼女に問いかける。この字はあなたの?この絵を描いたのも、あなたなの?
質問しても返ってこない答え。真相は分からない。なぜなら佐野さんに連絡しても繋がらない。元研修医で仲がよかった悠仁が連絡しても繋がらない。
確実な答えがないまま、この漫画は世界に羽ばたこうとしている。その前に、最後にもう一度確かめにきた。
「.....よしっ。」
一通り話し終わったあと、最後にお辞儀をして空になった桶を持ちその場から離れようとした。
「えっ。」
しかし、自然と足が止まった。なぜなら後ろから終始隣にいた男性が肩に触れたからだ。
彼は口を開き、何かを言おうとしていた。
「......!」
私は眉をひそめた。
「もしかして、耳が聞こえない?」
私はジェスチャーで耳が聞こえないのか尋ねた。彼は首を横に振った。
「声が、出ない?」
彼のジェスチャーに合わせて私が代わりに声を出した。彼は深く頷き嬉しそうにした。
「なんで、彼女の墓に?」
彼はポケットから紙とペンを取り出した。そのペン、空音が使っていたものと同じだった。そして紙に何かを描き始めた。
(朝倉涼、覚えてますか?)
綺麗な明朝体が紙に書かれたのを見せられた。
あさくら、りょう。
昨日、悠仁に聞いたばかりだった。
悠仁が佐野さんに連絡を取るために同じように連絡した相手がいるって。それがまさに朝倉涼という空音の元担当医だった。
「あなた、朝倉涼.....?」
彼は深々と首を縦に振った。
「うそ.....」
思わず両手で顔を隠す。
「なんで空音の墓参りを?」
(彼女のことを、ずっと忘れられませんでした。)
達筆な字なのにどこか優しが見えた。
私は視線を紙から彼に向けた。
なぜ彼は喋れないのか、最後に会ったのは空音の葬式だった。その時は普通に喋れていた。しかし今はそんなこと気にすることではない。
この瞬間、二人がただの患者と医師ではなかった、ということが分かった。
私たちはしばらく見つめ合った。
初夏の潮風が髪の毛を揺らし、わずかに眉毛が震える。波音がここまで届く。今日は少し荒いみたいだ。
「あ、そういえば。」
今パッと思い出したことがある。彼とまた出会えるなんて偶然すぎる。このチャンスを生かすために、私はカバンの内ポケットからあるものを取り出した。
「小林悠仁のことは、もちろん知っていますよね?」
朝倉はコクンと頷いた。
「もし日程が合えば、来てください。家族にこれを渡そうと思って多めに作っておいたんです。」
心と体が震えながらも彼の手に招待状を伸ばした。
なんで私が彼に招待状を?って思いけど、自然と体が動いていた。
言いながら白い手紙に花柄の結婚式の招待状を渡した。彼の手が招待状に優しく触れる。
「よかったら、空音と来てください。それでは、失礼します。」
私は深々とお辞儀をしたあと、彼の目も見ずに振り返り来た道を辿った。
「2037年度マンガ大賞栄えある受賞、誠におめでとうございます。なお、作者ご本人はすでにご逝去されておりますため、本日は代理として、編集チーム代表・葉那さんにご登壇いただいております。それでは、どうぞ前へお進みください。」
「ありがとうございます。」
「今のお気持ちを、お聞かせしてもよろしいですか?」
“緊張”という言葉でしか、今の私は表せない。
「本当に素晴らしい賞をいただき、感無量です。まさか自分がこの作品に携われるなんて思ってもいなかったです。数年前の自分はただの漫画編集者で、与えられた仕事しかこなしてきませんでした。しかし人生はいつ変わるか分からない。この作品に出会い様々な変化を体験しました。本当にありがとうございます。」
観客席で一斉に拍手が湧いた。私は必死に涙を堪え彼女と同じペンを握りしめる。
「作者の方に、何かありますでしょうか?」
マイクを近づけられ、使い慣れていないせいか無駄な呼吸が音になり会場に響き渡る。
「すみません。マイク使い慣れていないもので。」
真剣に答えたつもりがまさかの笑いが起きた。少し心が満たされたあと、再び真剣な眼差しで会場を見渡した。
「天国にいる作者にこの素晴らしい光景を見せてあげたかった。少なくとも私なんかが見るのではなく。でも、彼女はきっと笑顔でこの様子を見てくれていると思います。そんな彼女の前では私も笑っていようと思います。そうすれば、”あぁ、漫画を描いてよかったな”と言ってくれると信じています。この作品が残り続ける限り、これは彼女の人生であり彼女が生きた道、その証だと思います。改めまして、本当にありがとうございます——!」




