第29話 幸奈の爆発
9月12日。
今日は帰る日だ。
本当は10日に帰る予定ではあったが、幸奈ちゃんの機嫌が悪く、伸ばした。
15日に学会があり、前入りが14日。
今日の夜に車で帰って、13日の朝。
13日の午後はPCの動作確認と旅立つ準備等が満載で、12日の今日、この日より先は伸ばせない。
やはり今日も朝から怒っているような雰囲気だ。
俺は機嫌の良い幸奈ちゃんを見て、感じて、そのエネルギーを溜めて向こうに帰りたかった。
しばらく帰れないから。
次に帰れても年末年始。
3ヶ月以上もある。
夜になり、予定では帰る時間だ。
「ねーさん」
「……」
「ねーさんってば」
「……」
怒ったような顔でこっちを見ない。
「なんで怒ってるの?」
「……」
「ねーさん」
「……」
何度も繰り返した。
そうすると幸奈ちゃんの目からスーッと涙が伝って、その後にやっとこっちを向いた。
「だって、なつが向こうに帰るって言うんだもん!」
もう帰したくない!
嫌だ嫌だ嫌だ!
帰さない!
爆発した。
子どものように泣きじゃくっている。
立ち上がってリビングから出ようとしたので、一緒に行こうとすると
「来ないで!」
そう言って、幸奈ちゃんは寝室の方に行った。
薄っすら泣き声が聞こえてくる。
こんな状況で家から出るわけにはいかない。
俺は胸がぎゅっとなりつつ、リビングで1人座っていた。
俺は帰らないといけない。
学生のくせに学会プログラムに穴を開けるのはとんでもないこと。
明日以降に帰りをズラすことはできない。
俺が帰らなきゃいけないことは、幸奈ちゃんもちゃんと分かってる。
そして、帰したくない…、帰さない…、このような台詞も、俺には言ってはいけない言葉ということも分かってる。
幸奈ちゃんはあえて言ったのではない。
出てしまったのである。
抑えが効かなかったのだ。
これを言うと、俺が本当に全てを投げ出してしまうと幸奈ちゃんは分かっている。
これまでもそういう機会がいっぱいあったが幸奈ちゃんは抑えてきた。
この約1ヶ月の同棲によって、以前の楽しかった同棲生活を思い出し、もう俺を手放したくなかったのだ。
俺は本当に投げ出してしまいそうな状況だ。
幸奈ちゃんの言葉で俺は動けなくなってしまってる。
今は親父のことで博士課程に進んだが、元々、大学院に進学したのは、ちゃんと就職して幸奈ちゃんと生活するためだ。
それが心の中心にあるから俺は動けない。
当初の目的を忘れていない。
もういっかなぁ…
このまま学校を去るのも。
修士も取ったし…
そう考えはじめて小一時間が経った頃、幸奈ちゃんが寝室からリビングにやってきた。
目を真っ赤に晴らして。
俺の横に座り、ぴとっとくっついてきた。
「なつ…。行かなきゃでしょ…」
「そうだけど…でも…」
「行かなきゃでしょ…」
「…うん」
「駐車場まで連れて行くよ」
このアパートは一軒一台しか契約できないため、俺は少し遠い場所に車を止めている。
歩くには少し遠い場所だ。
幸奈ちゃんは車でそこまで連れていってくれた。
泣くのを必死で我慢している。
その様子を見ると、俺はなかなか発進できない。
でも、行かなきゃいけない。
「ねーさん…」
そう言って、運転席の窓の外に立つ幸奈ちゃんを引き寄せて抱きしめ…キスした。
いつものように。
「じゃあ、行ってくる」
幸奈ちゃんは黙ったまま、こっちを見つめている。
後ろ髪を引かれる思いで、車を発進させた。
5時間以上運転して、俺は戻った。
すっかり朝だ。
俺は家で仮眠をとって、学校に行った。
中嶋先生にプレゼンを見てもらい、最終確認を終えた。
一緒に行く志田と明日の出発予定を決めて、やっと帰宅した。
俺は家に着くと明日の用意を整えて、その後に泥のように眠った。
俺にとっては2度目の学会。
1番最初に国際学会を経験したため、日本語による発表は楽な印象しかない。
質問も、英語から日本語への頭の中の変換などしなくて良い。
懇親会も楽しく、色々な知り合いができた。
研究の話をするのが学会の懇親会なのだろうが、そんなことはしない。
普通に気の合う知り合いを増やして楽しんだ。
たぶん、これが正解なのだろう。
研究者の卵の人たちと深く仲良くなれた。
学会が終わると、谷川先生に学生のことを頼まれた。
しばらく俺が休んでいて、あかねちゃんが困っていると。
彼女はM2(修士課程2年)で、修士研究のまとめの段階。
材料同定が上手くいかずに進めないそうだ。
それを手伝いに行くと、今度は未綺ちゃんが寄ってきて
「佐藤さん、久しぶりです!もし来週あたりにお時間があれば調査に同行して欲しいな…と」
「分かったよ。じゃあ、来週ね」
「ありがとうございま〜す!ついでにそのあとカラオケも行きましょ!」
「いやいや、調査でいっぱいいっぱいでしょ」
「連れないですね〜」
学会後は、休む暇なく、手伝い三昧で、あっという間に10月になった。
研究室は段々と厚着が増えてきた。
まだまだ暑さは残るものの、寒い日も混ざって、三寒四温ならぬ四寒三温になりつつあった。
ふと深谷が目に止まった。
この子は本当にもったいないな。
顔立ちは綺麗なのに、中学生が着ていてもおかしくないようなトレーナー姿と顔を覆うような大きいマスクを見てそう思った。
たぶん、飼育は汚れやすいので、服を合理的に選んだのだろうが。
マスクはブタクサ系アレルギーでも持ってるのかな…?
目に飛び込んできた深谷のPC画面。
パワーポイントで研究関係の何かを作ってるようだ。
写真や図は綺麗だが文字が多い…
「深谷、きれいな写真や図だね」
「ありがとうございます」
「字は少なくするか、アニメーションで出し消えさせたら、きっともっとカッコよくなるよ」
そう言ってその場を去った。
深谷は何か教えるよりこういう風に接した方がいい。
自分でいじるのが好きそうだし。
それに深谷に接し過ぎるとなんとなく幸奈ちゃんに悪い気がする。
あかねちゃんや未綺ちゃんと違って。
幸奈ちゃんと性格はまるで違うが、どことなく近いものを感じる。
自分でなんとかしようとする姿が。
こういうタイプは好きだ。
だから深谷には近寄り過ぎない。
俺は段々とまた学校慣れがはじまった。
1ヶ月の同棲で修正したはずだったが。
ここの生活が普通で、幸奈ちゃんのところが特別な世界のように感じはじめた。
本来は逆でなければならないのに。
考えてはいけないことだが…
学生の中で生活することで、“普通”に憧れはじめた。
幸奈ちゃんは大好きだ。
誰よりも愛している。
でも…
離婚…子持ち…そういうのが何もついて回らない真っさらな学生たち。
なんとなく羨ましいと思ってしまった。




