垂れ下がる藤の花の下で。
本の文末に書かれた『終わり』という文字がランタンの灯りに照らされている。満天の星空が地平線から昇る太陽に追われるように消え去り、ぽつんと輝く暁の明星も朝日に溶けこもうとしていた。眩しそうに目を細めたマキナはおもむろに……本を閉じた。
長く伸びた影がぐにゃぐにゃと揺れている。それはヴィータの姿を形作ると、草むらに座るマキナの前に立った。
「マキナ……頼む、物語の結末を変えてくれ」
「……どうやって? ここには草以外、何もないのに? 」
「大丈夫だ……。もうすぐ、もうすぐ、彼女がくる。私の大切な人形が……」
ヴィータは蜃気楼のように定まらぬ姿で、どれだけ人形を愛していたかを切々と語り始めた。物語の内容を思い出したマキナは腑に落ちないといった風に眉間にシワを寄せた。
「お前さ、そんなに好きだったのに、なんで人形を選ばなかったんだよ」
「……私は愚かだった。嫉妬に駆られ、目先の欲に囚われていた」
「すべてを失ってから気付いたってやつかーー」
「このままだと彼女は……神の箱庭でも、物語と同じ運命をたどってしまう。マキナ、彼女を助けてくれ」
「どうにかしてやりたいのは山々だが……」
物語を書いたことがないマキナは『荷が重い』とぼそりとつぶやき、憂鬱そうに本の表紙をじっと見つめた。なにゆえにゲーム会社はこんなに暗い話を大型アップデートにテーマにしたのだろうか。ハッピーエンド話にすればいいものを……。とてもじゃないが、理解できない。
ため息を吐きながらパラパラと本をめくっていると、突如ヴィータが自身の身体を抱えて、苦しそうなうめき声をあげ始めた。
「も、う……わた、しには……じかんが……な、い」
「ヴィータ!? おい、大丈夫か! 」
「かい……つに……な、て……まえに……。もの、がた……を……」
「しっかりするんだ、ヴィータ! 」
黒くて長い毛がヴィータの手の甲から伸びている。マキナはぎょっとしたように目を開いた。
「ま、まさか、このままだと物語と同じように、毛むくじゃらの怪物になっちまうのか!? 」
ヴィータは沈黙を保ったまま身体をぶるぶると震わせていたが、手をだらんと落として空を見上げた。虚ろな目は死者のように濁り……白い雲も青い空も映っていない……。
自我を保とうしているのか、変化の前兆なのか……。マキナは険しい顔をしているヴィータを見守った。
一筋の汗が額に流れる間に、人の心を失ったヴィータが神の箱庭のプレイヤーを貪る姿が容易に想像できた。思わずゾッとしてーー全身が氷漬けになったような感覚を覚えた。
「冗談じゃない……人殺しどころか食らうなんて。何とかしないとーー」
だがしかし、そもそも筆記用具もないこの状態でどうすればいいのかさっぱり分からない。マキナは困ったように顔を歪めながら、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「っつーか、ペンと紙があったとしても、俺に文才なんてないぞ!! 」
「じゃあ、WEB編集者である僕が書こうかな」
マキナは聞き慣れた声に耳を疑った。とうとう意識せずとも、幻聴が聞こえるようになったのかと……。
失望や絶望を味わいたくないのに、瓶に詰まった期待と希望がラムネの炭酸のようにぱちぱちと弾けている。マキナはアレやコレやという甘味料で味つけされたソレを、一口飲み込んで振り返った。
座り込んでいたマキナの右斜め後ろに1人の男が立っていた。浅くかぶった茶のコートのフードから銀髪を覗かせている。彼は少しずれ落ちた眼鏡を左手でクイっと押し上げると、口を開けてポカーンとしているマキナにニカッと笑うミンミンスマイルを見せた。
「やぁマキナ、お久しぶりっ。積もる話の前にーー」
右手を挨拶するように揚げた銀髪の男は大地を蹴って、2つの眼から赤い液体を流しているヴィータの正面に瞬時に立ったかと思うと、彼の胸に勢いよく右手を突っ込んだ。
パキンーー。
プラスチックの板が2つに割れた時のような音があたりに響き、ふぅ……と息を吐き出した銀髪の男は穏やかな表情に変わったヴィータから静かに離れた。
「笛を壊したから、これでーー」
「総司! 」
マキナは正面から銀髪の男の首に両腕を巻き付けて、がっしりと抱き着いた。草むら押し倒さんばかりの勢いでのしかかり、目から涙を滝のように流している。
「総司、総司……本当にお前なんだな?」
「マキナ、ゲームの世界でリアルの名前を言うのはご法度だぞ。ちゃんとルードベキアって呼んでくれよ」
涙もろい従兄の背中を軽くポンポンと叩くと、ルードベキアは朗らかな笑みを浮かべた。
「ったく、こうやってハグしてすぐ泣くところは、小学生の頃から変わらないな」
「なっ、俺は! 俺は……」
涙を拭かずにマキナはーールードベキアの首と二の腕ロックして、体重をかけながら自分に引き寄せるように軽くジャンプした。そして、仰向けに転倒させたルードベキアの右腕を両脚で固定し、抱えたまま倒れ込んだ。
「痛い、痛い! まじで、ごめん! 腕十字、痛い、めっちゃ痛いからっ! ってか、こんなことやってる場合じゃーー。いってぇぇえ! 」
何度も叩かれたキャットグラスのような草が大きく揺れている。苦悶の表情のルードベキアとは裏腹にマキナは許しを請う声を聞きながら、あっけらかんとした表情で青い空を走る雲を眺めた。
「確かに、こんなことやってる場合じゃないよな……。だけど、ここには何もない」
やっと技を解かれたルードベキアは大の字のまま草むらに寝転がり、『激しいスキンシップをありがとう』と皮肉った後に、ゆっくりと身を起こした。
「マキナは頭が硬いな。ここは神の箱庭で、しかもヴィータの仮想空間だ。想像力がものを言うエリアじゃないか」
「……まったくもって意味が分からない。どういうことだ? 」
パチンという指を鳴らす音と同時に、素朴な木の机と椅子が草むらしかない大地に現れた。空からは鉛筆やボールペン……様々な文具がパラパラと振っている。消しゴムを拾ったマキナはケースから中身を出してグニグニとしたゴムを確かめるように触った。
「ルー、お前……そのチート能力をどこで手に入れたんだ? 」
「あははっ。確かに僕はオーディンの人形の製作スキルが使えるけど、マキナだって同じことが出来るはずだよ」
「俺が? そんなこと出来るわけがーー」
「出来ないと決めつけているから、出来ないんだよ」
「そうかもしれないけど、どうやって? さっぱり分からない……」
「想像すれば創造できる。それだけだよ」
前ぶりもなく、眼前に出現した白い砂浜と真っ青な海にマキナは呆気にとられた。
真っ白なクジラが巨大な体躯を見せつけるように空を泳ぎ、ドクロの旗をかかげた海賊船が海を走っている。水面から顔を覗かせた岩場では煌びやかな首飾りをつけた人魚が棹の頭部にユニコーンの彫刻を施された馬頭琴を弾きながら歌い……美しいソプラノに合わせるように、薄くて透明な羽をつけた精霊たちが踊りながら飛び回っていた。
波打ち際の浜辺には、キャンプ場で見る様な折り畳みスツールに座ったタコとアジのような頭の魚人が釣りを楽しんでいた。彼らは竿の先端が音速を超えてるんじゃないかと思うほど、凄まじい勢いで仕掛けを遠投しているーー。
ルードベキアは小さくふふっと笑うと、呆けているマキナを置いて釣り人ならぬ釣り魚たちの所へ向かった。
「何が釣れるんです? 」
「シロギスだよ。天ぷらにしようと思ってるんだが、少年は刺身の方が好きかな? 」
「少年よ、アジさんの料理は美味いぞ。昼になったらまた来るがいい」
「いやいや、タコさんの包丁さばきには負けますよ」
「いやいや、アジさんのレパートリーの多さと言ったらーー」
2人のいやいや合戦を聞いたルードベキアが10代の少年のような笑い声を上げている頃、マキナはきゅっきゅと鳴く砂を確かめるように掴んで、パラパラと落としていた。
「これは本物なのか? ゲームの世界だから本物っていう表現はおかしいか……」
「マキナ、そろそろ本題に移ろうか」
「うわっ。ルー!? さっきまで、あっちにいなかったっけ? 」
マキナはびっくり箱を開けた時のような表情を浮かべた。ついさっきまで、ルードベキアは100メートルほど離れた波打ち際から愉快そうな声を響かせていたというのに。疑念よりも大きく膨らんだ不安に突き動かされて、マキナはルードベキアの両腕を掴んだ。
「幽霊じゃないよな? 今見ている風景は実は夢でしたとかいうオチじゃないよな?」
「随分と疑い深くなったんだな。それだけ辛かったのか……。ここにくるのが遅くなってごめん」
「優しい言葉をかけないでくれよ」
「なんでだよ」
「……幻かもしれないって思うからさ」
「んー。じゃあ、幻じゃないていう証拠としてマキナが知らない話でもをしようか? 」
「いや、痛いと感じれば思ずとーー」
「待て待て、その痛いのって……マキナ自身じゃなくて、僕なんじゃ? たんま! プロレス技はお腹いっぱいだって! 」
ルードベキアはレスラーのようにじりじりと迫ってくるマキナの背後を慌てたように指差した。猫のように指に釣られたマキナは波打ち際の先ある小高い崖上に視線を移した。
「山中湖にあった叔父さんの別荘に似てるな……」
「うん……。相続税云々で売っちゃったけど、あの別荘……好きだったんだ。楽しい思い出が多かったからーー」
マキナは冷たい水が心臓を掴んでいるかのように痛くて言葉が出せなかった。ルードベキアの顔を見ることが出来なくて、薄紅色の貝殻に心を乗せて波にさらわれる様子を眺めた。あの事故さえなければ……。
自分の事のように悲しんでいるマキナの肩にルードベキアは左肘を置いて寄りかかった。マキナに見せるように眼前に置いた右手の平には小さな星を降らせる虹が浮かんでいる。ルードベキアは球体の容器にそれを入れてマキナに手渡した。
「スノードーム好きだったろ? いつものように笑ってくれよ、従兄どの」
「ルードベキア……」
「どうにかして現実世界に帰ろう。方法は……手探りになるけど、小学生の頃に世界征服を目論んだ僕とマキナが組めば怖いものなしだ」
「はははっ、じゃあ……ふたりでゲーム会社という神から箱庭を獲るか? 」
悪役っぽいニヤリ顔をしたマキナにルードベキアは真剣な目を向けた。
「たぶんというか、何となくなんだけど糸口は大型アップデートで追加されたキャラクターなんじゃないかな。隠し要素がまだあるような気がする……。マキナはどう思う? 」
「プレイヤーと戦う要素があるぐらいだからな。もしかしたら『オーディン王の人形物語』と同じストーリーが箱庭で展開されるのかもしれない。だからヴィータは俺らに助けをーー」
「ってことは、悲惨な結末に向かってるのか!? 」
「ありえるな。このまま放って置くと、現実世界に帰る前に箱庭が壊れて……」
「嘘だろ……冗談じゃない。箱庭ってバッドエンドゲーなわけ? ログアウトできるならまだしも、現状だとどうなるんだ? ゲームの世界のモンスターやNPCだけじゃなくて、プレイヤーを巻き込んで……マジヤバじゃないか、マキナ! 」
「落ち着けって。どんなゲームにも、プレイヤーが攻略できる方法は絶対に用意されてるはずだろ? そうじゃなきゃ、ゲームにならないからな。そっちは俺が探ってみるよ」
「物語の差し替え方法も見つけないといけないよな……」
「消しゴムや修正液を使えばいいんじゃないか? ルードベキアがハッピーエンドを書いてる間に、俺がやっとくよ」
ひょうひょうと喋るマキナのTシャツはさっきまでは線香が1本立っていた絵柄だったというのに、いつのまにやら消しゴムが『俺に消せないものはない』と書かれた巻物を広げているものに切り替わっていた。
本人が気付いているかどうか分からないが、自然に能力を発揮しているようだ。ルードベキアは思わずプッと吹き出した。
「さすが我が従兄どのだ。そうだよな、難しく考えすぎてたよ」
「では早速、あの別荘で美味いものでも食いながら作業を始めようか」
「あぁ、そうしよう。でもその前に……僕はヴィータに話があるから先に行っててくれないか? 」
砂浜に打ち上げられた難破船の傍らにヴィータは立っていた。蜃気楼のようにゆらゆらとゆれてぼやけていた姿は鮮明に見えるようになっていたが、まだほんの少し透けている。砂を鳴らしながら歩いてきたルードベキアに関心を示さず、濁った眼でぼんやりと空を眺めていた。
「ヴィータ、僕らが君の望む新しい物語を作るよ。少し時間がかかるから、ルディと一緒に待っててくれないか? 」
ヴィータはルディと言う言葉にすぐさま反応した。ルードベキアの目線の先を見つめて、ハエのような小さな『眼』を飛ばし、その先を見ようと身を乗り出した。『眼』は菜の花畑が挟んだレンガの道を駆け抜けーー桜の花びらが舞う中、淡い紫の房をつけた藤の木で止まった。
砂に1粒の涙を吸い込ませたヴィータは……頭にかぶっていた帽子を手に取ると、深々とルードベキアに頭を下げた。
「感謝する。もう1人のルードベキアよ」
垂れ下がる藤の花の下でオーディン王の人形が椅子に座っていた。スヤスヤと眠る彼女は楽しい夢を見ているのか微笑んでいる。ヴィータは暴れる鼓動を押さえながら、静かに彼女を腕に抱えた。
「私の大切なルディ……。すまない……」
小さくて可愛らしい椅子が変化した2人掛けのソファに、ヴィータはゆっくりと腰を下ろした。寝息を立てる少女を愛おしそうに眺めている。
いつの間にか子守唄を歌っていた精霊たちは波が引くように消え去り、風の精霊の贈り物である1輪の白いガーベラだけが残されていた。それは花びらをくるくると回転させて、柔らかくて薄い毛布に変化すると、ソファに座る彼らをふんわりと優しく包み込んだ。
「精霊たちよ、ありがとう。私はルディと共に、ここで優しい夢を見ることにするよ……」
オーディン王の人形をとてもとても大事そうに抱き寄せた笛吹ヴィータは己が望む世界線に行くために……ゆっくりと瞼を閉じた。
システム:悲惨な結末で終わる『オーディン王の人形物語』を変えるために、ヴィータが望む世界線を林総司が書き始めます。このことにより、ゲームの世界『神の箱庭』はどうなっていくのかは……本編で。そしてヴィータの新しい物語は……本編がもう少し進んでからUPする予定です。20230721