case04 ある夜道の一幕 ~真夏の夜の夢 ~
※注意
重くて暗くて救いの無い話です。
人の生死に関わる表現があります。
苦手な方はブラウザバックを推奨します。
こんばんは。
ああ、御免なさい。
脅かせてしまったかしら。
いえ、奥さんの事はいつもここでお見掛けしていたのだけれど、今日はなんだお洒落されているように見えたので、何か良い事でもあったのかと少しだけ気になって。
え、旦那さんが? たまには独身気分を味わってきたらとお子さんを預かってくれて? 最近引っ越されてきたんですよね。それで、漸く家の中も落ち着いたからと。
そう、素敵な旦那さんですね。
それで、昔の同級生とお食事を? あら、楽しそうですね。
ごめんなさい。不躾な事をお聞きしますが、その同級生とは女性の方ですか?
え? 男性? たまたま食事に誘われたから。そう……ですか。
ああいえ、わかっています。浮気とか不倫とか、そんなつもりはないんですよね。
同級生……お友達ですものね……。
ねえ奥さん。少しだけ、少しだけお話を聞いて頂いてもよろしいかしら?
お時間は取らせませんから。
話好きで面倒な、ご近所さんに絡まれたと思って少しだけ、ね?
ごめんなさいね。ありがとう。
何年か前の話だけれど、そこには一組の家族が居たの。
旦那さんと奥さんと、お子さんが一人。
旦那さんは真面目で優しくて、毎日一生懸命に働いてくれて、三十そこそこだったけれど、頑張って家を建てたの。
旦那さんの希望で、足を延ばして入る事の出来る広いお風呂。
奥さんの憧れだったカウンターキッチンに明るい居間。
お子さんはまだ小さかったけれど、将来お子さんが増えた時の為に、子供部屋も二つ。
あと、旦那さんの希望で屋根裏部屋が一つ。
……男の人って、どうして屋根裏部屋とか隠し部屋とかが好きなのかしらね。
ごめんなさい。お話が逸れましたね。
兎も角、何度もハウスメーカーと打ち合わせをして、予算もギリギリだったけれど、家族三人が、もしかしたらこの先増えるかもしれない家族が幸せに暮らす家。
お家が完成して初めて足を入れた日は大変だったわ。お子さんと奥さんは大はしゃぎで家を探検して、旦那さんは感極まって泣いてしまって。
お家が出来てからも、旦那さんは変わらず一生懸命働いて。
遅くなる事が多くて、お子さんが寝てしまった後に帰ってきて、少し寂しそうに寝顔を眺めている事はあったけれど、休日は家族で出かける事も多くて、御近所さんでも評判の旦那さんだったわ。
奥さんも……ね、家計をやりくりして、旦那さんのお弁当を毎日作って、どれだけ旦那さんが遅くなっても帰って来るまで起きていて、食事の準備をして、旦那さんが夕食を食べながら、その日一日の他愛のない話をして、一緒に眠る。
そんなどこにでもある、そしてとても幸せな家族の姿がそこにはあったの。
始まりは多分、奥さんが参加した同窓会。
地元の同級生たちが集まった同窓会で、奥さんは一人の男性と再会したの。
その場の雰囲気もあったのかも知れないけれど、彼は『昔から奥さんの事が好きだった』と告白して来たの。
勿論、奥さんは旦那さんを愛していたから、『ありがとう。ごめんなさい』と、それだけ返してその場はおしまい。
解散する時になって、折角だから皆の連絡先を交換しようって話になったの。
その中には、当然その男も含まれていた。
その場はそれでお開き。お家に帰って、旦那さんに『楽しい同窓会だった』そう報告して終わり。
翌日からは、また同じような少しだけ大変だけれど、とても幸せな毎日が続いていたわ。
一つだけ違ったのは、二、三日に一回程度、あの男からメッセージが届くようになった事。
メッセージの内容自体はひどくありきたりな事。
『この前の同窓会は楽しかったね』とか『またみんなで集まりたいね』とか。
奥さんは、ただ『そうですね』とだけ返していたの。
そのうち、奥さんを食事に誘うメッセージが混ざるようになる。
当然奥さんは全て断ったわ。お家の事もあるし、何より家族を、旦那さんを愛していたから。
そんなある日の事。旦那さんが泊りがけで仕事に行く事になって、その時に、どうせならお子さんを実家に預けて、一日だけでも独身気分に戻って楽しんで来たらどうか? と、旦那さんが提案してくれたの。
―― そう、今の貴女と同じね ――
そうして、決して多くないお小遣いから貯めていたと言って、奥さんにそれなりの額のお小遣いをくれたのね。
奥さんは感動してしまって、旦那さんの腕に笑顔でしがみ付いて、旦那さんも、お子さんも、みんな笑顔で……。
でもそれが、今まで曇り一つない幸せの中にいた家族の、本当に幸せだった最後の日だったの。
次の日、いつも通り旦那さんを送り出した奥さんは、近所の実家に子供さんを預けに行ったの。
前の日のうちに連絡はしてあったから、孫が可愛い両親は大喜びでお子さんを迎えて、お子さんは奥さんを笑顔で、小さい手を目一杯振りながら、『いってらっしゃい』って見送ったの。
奥さんはお家に戻って、いつもより少しだけおめかしをして出かけたわ。
予約していた美容室に行って、お洒落なカフェでランチをして、ウィンドーショッピングを楽しんでいたけれど、気が付いたら旦那さんやお子さんの服ばかり見ていたわね。
―― とても楽しかった ――
旦那さんとお子さんにお土産のケーキを買って、晩御飯をどうしようかと考えていたところで、あの男からメッセージが入ったの。
相変わらず奥さんを食事に誘うメッセージだったわ。
いつもなら断っていた奥さんも、その日がとても楽しかったから、少し舞い上がってしまっていたのね。
気付かない内に小さな間違いを積み重ねて来た奥さんは、ここで大きな間違いを犯すの。
その男の誘いを受けてしまった
食事をしたのは、お洒落なレストランなんかではなくて、その辺りにあるようなありふれた居酒屋さん。
元々お酒に強くない奥さんは、同窓会の時もお茶を飲んでいたのだけれど、楽しかった一日に舞い上がっていたのと、同級生という気安さもあって思いの外盛り上がった会話の中、少しだけお酒を飲んでしまったのね。
そうして記憶を無くして、気が付いたらホテルの一室。
記憶は無くても、その体には跡がしっかりと残っていたわ。
これが一つ目の大きな間違い。
錯乱する奥さんに男は膝をついて謝りながら、旦那さんに謝罪に行くと言い出したの。
ここでまた、奥さんは間違いを起こす。
男に、旦那さんには絶対に言うな、二度と会わない、連絡もするな、そう言って、男の携帯から奥さんの連絡先を消させて、家族以外の全ての連絡を着信拒否にして、そうして自分の家に帰ったの。
そうして、後は同じような生活が戻る筈だった。
奥さんは今まで以上に旦那さんとお子さんのお世話をして、家族みんな笑っていて。
だけど、奥さんの心は何時も曇っていたの。
家族でお出掛けした時、旦那さんと夕食を食べている時、家族で笑い合っている時。
ふとした瞬間、思いつめた様な顔をする奥さんに、旦那さんは気付いていたのね。
心配した旦那さんが、何度も何かあったのか、心配事でもあるのかと訊ねてくれたのだけれど、奥さんはなんでもない。としか答えられなかった。
当然よね。
そしてある時、旦那さんが聞いてきたの。
『浮気でもしてるんじゃないだろうな』って。
旦那さんはきっと冗談のつもりだったわ。でもね、奥さんの方がもう駄目だったの。
崩れ落ちる様に膝をついて、そのまま両手をついて旦那さんに謝ったわ。
『申し訳ありません。貴方を裏切りました』って。
―― そして、ここでも間違える ――
『貴方より愛している人が居ます。離婚して下さい』
なぜそんな嘘を吐いたのかは今でもわからないわね。もしかしたら、酷い女だと嫌いになって欲しかったのかも知れない。
兎も角、旦那さんはその相手を呼ぶように言って、奥さんはあの男に連絡したの。
『ずっと奥さんを愛していました! 僕が彼女を幸せにします!』
呼び出された男は、嬉々としてそう語ったわ。気持ち悪いわよね。まともな人間だったらそんなこと言えないわ。
奥さんは、肯定も否定もせずにただ黙っているだけだった。何も考えられなくなっていたから。
結局、その夫婦は離婚する事になったわ。常識的な慰謝料を支払う事になったけれど、男はそれなりの会社の御曹司だったから、奥さんの分まで気前よく払ってくれたわ。
え? ああ、駅向こうに誰も使っていない大きな建物が有るでしょう? それがその男の父親の経営していた会社よ。
それでね、勿論奥さんはその男と結婚なんてしなかったわ。当然よね。
それからずっと、実家に戻って部屋に籠りきりになってしまったの。
お子さんの事は実家の両親が見てくれていたから、問題が無い。とはいかないけれどなんとかなっていたの。
その頃は旦那さんもお仕事を休んで、あの家で籠りがちになっていたんですって。
当然よね。それまで幸せと信じて疑わなかった日常が、ある日突然奥さんに裏切られて、お子さんまで居なくなってしまって。
まるで抜け殻になったみたいだったって。旦那さんのお母様がお世話をする為に通っていたって聞いたわ。
そんな中、あの男は奥さんの元に毎日のように通ったそうよ。
奥さんの部屋の前で、毎日のように愛を語っていたんですって。自分に都合の良い、自分勝手な言葉を。
奥さんの耳には、まるで呪いの言葉の様に聞こえていたでしょうね。
そんな日が続いて、ある日奥さんのお母さんが、お子さんを連れて出かけてきたらどうかって言って来たの。
奥さんはずっと籠りきりだったし、お子さんが寂しがっているからって。
最初は乗り気ではなかったのだけれど、お子さんの事を言われて、奥さんは漸く部屋から出る事にしたの。
少しだけ身嗜みを整えて、お子さんと手を繋いで玄関を出た所に、
あの男が居た。
毎日奥さんのところへ通ってくる男に、奥さんのお母さんが絆されていたみたい。
地元でも大きな会社の跡取り息子。奥さんの再婚相手に申し分ないと思っていたのかも知れないわね。
奥さんは嫌がったのだけれど、お子さんの為だと言われて、強引に車に乗せられて、
―― そうして、また間違えた ――
ほら、少し離れたところに、ショッピングモールがあるでしょう?
この辺りの人は、買い物なら大抵あそこに行くわよね。あそこに連れていかれたの。
最初のうちは、奥さんも塞ぎ込んだままだったわ。
でも、お子さんは久しぶりにお母さんとのお出掛けにはしゃいでた。
奥さんへの贈り物は、奥さんが頑なに受け取らなかったけれど、あの男は何でも買ってくれたもの、お子さんがはしゃぎたくなるのも無理は無いわ。
そうやってお子さんの笑顔を見ていて、少しだけ奥さんにも笑顔が戻ったの。
はしゃぐ子供の手を取って微笑む奥さん。
そのお子さんの反対の手を、奥さんと同じくらいの男が繋いで歩く。
傍から見れば、仲の良い家族の様に見えたかもしれないわね。
そう。お子さんに微笑んでから視線を上げたその先に、
―― 旦那さんが立っていた ――
当り前の事よね、この辺で買い物をしようとしたら大抵皆あそこに行くわ。
旦那さんだって生活しているんですもの。買い物に来ていたってなにも不思議じゃないわ。
運が悪かったのかもしれない。巡り合わせが悪かったのかも知れない。
兎も角、旦那さんは見てしまったの。
自分を裏切った奥さんが、自分よりも愛していると言った男と、自分のお子さんも含めて『幸せな家族』をやっているところを。
ほんの少し前まで自分が居た場所に、別の男が居座っている姿を。
何も言わずに立ち去る旦那さんは、感情と言うものが抜け落ちた様な顔をしていたわ。
奥さんはもう立っている事も出来ずに崩れ落ちて、なんとか家まで送ってもらったけれど、また部屋に籠りきりになってしまった。
それから数日後の事よ。深夜に火事が有ったの。
燃えていたのは、旦那さんのお家だったわ。
深夜の事で通報が遅れて、火が消えた時には、一階は全て燃え尽きてしまっていて、二階がかろうじて家としての形を止めてるだけになってしまっていたわ。
そうして警察の人が燃え尽きた家の中で発見したのは……屋根裏部屋で首を吊って亡くなっている旦那さんだったの……。
遺体と対面した時の旦那さんのお母様は、涙一つ零す事も出来ない、ただただ無表情だったそうよ。
一人息子が結婚して孫が出来て、自分の家の近所に家を建ててくれて、旦那さんに先立たれた寂しさも癒えようとしていた矢先の話。
息子は嫁に裏切られて塞ぎ込んで、孫は裏切り者の嫁に連れ去られて、そしてついには……。
でもね、それで終わりでは無かったの。
数日して、お母様のところに、息子さんからの手紙が届いたんですって。
命を絶つ前に投函したその手紙は、言わば息子さんの遺書だった。
遺書には書かれていたそうよ、
ずっと騙されていた。
自分には妻などいなかった。
居たのは裏で自分の事を嘲笑っていた薄汚い女。
子供も居なかった。
あるいはあの男の子供かも知れない。
もうどうでもいい。
あいつらを見た。
幸せそうに笑っていた。
汚い男、汚い女、汚い子供。
あれが本当の家族か。
妻も子供も居なかった、せめてこの家は。
汚い女が汚い男を連れ込んで汚れた家。
それでも、何もない俺が唯一つ手に入れたこの家だけは持っていく。
あとは、お義母様への謝罪が書き連ねてあったそう。
ええ、奥さんが旦那さんを裏切ったのは一度きりよ。
でもね、あの男の言葉を聞いて、旦那さんはずっと前から裏切られていたと思ってしまったの。
自分が建てた家に、奥さんは男を連れ込んでいて、それだけずっと関係が続いていたなら、子供すら本当はあの男の子供じゃないかって。
そして、そう思ったまま亡くなってしまったわ。
もっとも、ずっと前からでも、一度きりでも、奥さんが旦那さんを裏切った事には変わりないわね。
旦那さんの葬儀は、実家で、近所の人達の手を借りてしめやかに行われたわ。
奥さんもお子さんを連れて、せめて最期に一目と伺ったのだけれど、参列どころか敷地に入る事すら許されなかったわね。
その時には、旦那さんを裏切って離婚したことは近所の人には伝わっていたし、あの男が度々奥さんの元を訪ねていたのも、一緒に出掛けていたのも知られていたから。
金に物を言わせて人の奥さんを奪った男と、金に目がくらんで旦那さんをだまし続けて来た奥さん。
それに旦那さんの種かも疑わしい子供。
遺書の件もあって、そう言われていたわ。
お義母様に罵られ、近所の人につまみ出されて道路に座り込んでいた奥さんに、旦那さんの遺書が突き付けられたわ。
それを読んで、旦那さんに誤解されていたという事と、もうその誤解を解く事も出来ない事を理解した妻は、夫に最期の挨拶をする事も出来ず、記憶が定かでないまま実家に戻って、ただ子供を抱きしめていたの。
夫の葬儀が終わった後、お義母様は遺書をコピーして配り始めたの。もうお義母様も正気ではなかったのでしょうね。
学校の前で、駅前で、あの男の会社の前で、色んな所でコピーを配り、あっちこっちの家のポストに入れて回って。
元々知っていた近所の人達の話もあって、あっという間に町中に広まったわ。
母があの男を招き入れているのも知られていたから、一家揃って夫を騙していたと白い目で見られて。
あの男も、あの男の会社も無事では済まなかったわ。
何しろ跡取り息子は金に物を言わせて人の妻に手を出す人間ですもの。
まず女の人が、特に旦那さんや恋人の居る女の人が辞めていったわ。
そのうち、そんな人間が跡取りの会社と噂されるようになって、あの会社に勤めているだけで後ろ指を指されるようになって。
次々と人が辞めて行って人手不足で仕事が回らなくなったんですって。
町中に広まっていたものだから、取引先の会社でも噂になったらしくて、取引を遠慮されるようになったの。
地元で一番の会社なんてふんぞり返っていたけれど、所詮は地方の一企業でしかなかったって事よね。
人も居なくなって、取引先も無くなって。
あっという間に左前になっていったわ。
結局、あの男も含めて、社長一家はどこかへ夜逃げ。
あとにはあの建物だけが残ったのね。
そんな中でも、相変わらず妻は閉じこもっていたのだけれど。
ある朝の事よ。
母の叫び声で目を覚ました妻が見たのは、妻の部屋の外で、包丁を握りしめて血まみれになって倒れていたお義母様。
妻の部屋の窓には、お義母様の血で一言、『ゆるさない』と書かれていたわ。
それを見た妻はもう壊れてしまって、それから数日経ったある日の深夜。
夫が命を絶った場所で、自ら命を絶ったの。
残された両親と子供は、逃げるようにこの町を去って、今では何処にいるかもわからない……。
これが数年前にこの町で起こった事です。
この町に引っ越してきてから、不思議に思った事はありませんか?
これだけ新しい家が立ち並んでいる中で、ここだけずっと空き地のままになっていますよね?
ここがそうなんです。
妻に裏切られた夫が命を絶った場所。
夫を裏切った妻が命を絶った場所。
幸せだった家族の夢の残骸。
誰もそんなところに家を建てたいだなんて思いませんよね。
ねぇ奥さん。
旦那さんのいる女の人を、二人きりで誘うなんて男に、下心が無いなんて事があるのかしら?
勿論、そんなお付き合いの存在を否定はしませんが、遠慮するのが普通ではないでしょうか?
思うんです。
あの時、どこかで引き返す事が出来ていたなら、どこかで間違わずに居られたなら、ここにはまだ、幸せな家族が、笑顔が溢れていたんじゃないかって。
貴女は___の様にはならないと良いなって。そう思うんです。
……少し風が出て来ましたね。
ごめんなさい。
すこし長くお話してしまいましたね。
待ち合わせの時間は大丈夫ですか?
あら、お家に帰るんですね。
それが良いと思います。
素敵な旦那さんが待っているのでしょう?
私? 私はまだここに居ます。
え? なんでそんなに詳しいのか? まるで見て来たみたい?
ふふっ、何故でしょうね。
ええ、お休みなさい。
良い夢を……。
道路上でビラやティッシュ等を配布する際は、事前に警察に許可を取っていないと捕まります。