第11話 愛野あいこ
愛野あいこは福岡県の久留米市で生まれた。
物心がついた五歳の頃に『魔法のプリンセス』という魔法少女アニメに夢中になり、六才の誕生日には両親が『魔法のプリンセス』に登場する[魔法deスティック]というおもちゃをあいこにプレゼントした。
あいこはそのプレゼントを受け取り、大いに喜んだ。
「これで私も魔法少女になれる!」
本気であいこはそう思った。
あいこは両親に愛され、裕福な生活とまではいかないものの幸せに過ごしていた。
しかし、小学校に入学すると同時に『魔法のプリンセス』の放送は終了した。
放送の終了にあいこはショックを受けたものの小学校では新しい友達との出会いに恵まれ、周りの友達がみんな卓球クラブに入ったのであいこも卓球クラブに入った。
そのおかげで『魔法のプリンセス』放送終了で受けたショックは自然と頭から消えていた。
あいこは卓球のセンスが良く、両親からは「将来はプロの卓球選手になれるかもしれないな」と言われ、あいこ自身も将来はプロの卓球選手になってオリンピックに出場したいと思うようになった。
―――しかし、小学五年生の二学期に入った頃に事は起こった。
あいこは母に頼まれてスーパーにおつかいに来ていた。
野菜コーナーで頼まれていたニンジンを選んでいた時の事だった。
レジ辺りで若い女性の悲鳴が聞こえてきたのだ。
つい、あいこは驚いて手に持っていたニンジンを地面に落としてしまう。
あいこは何が起きたのかと悲鳴が聞こえた場所まで走っていった。
するとそこには女子大生が血を流して倒れており、黒いサングラスをかけたマスク姿の男が立っている。
男の手には血のついた包丁が握られていた。
あいこには一体何が起こっているのかが理解できなかった。
そして、あいこは足に力が入らなくなってその場に座り込んでしまった。
男は包丁を投げ捨て、走ってスーパーから出ていった。
衝撃的な現場に遭遇したあいこはとてつもない不安に襲われた。
心臓がバクバクと音を立てて、精神のバランスが崩れ、頭から足までの全身の血の気が引き、視界がグラグラになった。
あいこは思った。
「私はこのまま死んでしまうんじゃないか」
……と。
今まで味わった事のない恐怖に耐えきれず、あいこは叫んだ。
「お母さーーん! 怖いよーー! 死んじゃうーー!」
しかし、ここに母はいない。
あいこは不安と恐怖に怯え、左胸を押さえながら地面にうずくまってしまった。
それを見たスーパーの店員があいこの元に駆けつけた。
* * *
10分くらいが経過した。
スーパーの店員に背中をさすってもらっていたあいこは不安と恐怖が徐々に収まっていき、全身から大量の汗が吹き出た。
落ち着きを取り戻したあいこは心地よい安堵感に包まれた。
「生きていられる」ってのはどれだけ幸せな事なのだろう、と思った。
今さっきまで自分の身に起こった事に比べると、今まで生きてきた中での辛さや苦しみがとてもちっぽけなものに思えた。
あいこは家に帰って自分の身に起こった事を母に伝え、二人で心療内科に車で向かった。
医師からの診断結果は【パニック症】というものだった。
身体には何の異常もないとの事だった。
あいこは残酷な事件を目にした事でとてつもない程の不安と恐怖を感じて精神のバランスが乱れ、心のコントロールが効かなくなって発作を起こしてしまったのだ。
あいこは心療内科で処方薬のパキシルを貰い、家に帰った。
あいこは身に起こった出来事の原因が分かって少し安心した。
しかし、あいこは「また発作が起きるんじゃないか」という予期不安を感じるようになり、友達や他人の前で発作が起きたらどうしようという気持ちから不登校になってしまった。
あいこは発作を避ける為に、電車の中やお祭りなどの人が密集する場所に行かなくなった。
広場恐怖というものだ。
それでも、スーパーでの出来事を何度も思い出してしまってはパニック発作は繰り返し起こった。
小学五年の三学期から、担任の先生の配慮もあり、あいこは勇気を出して学校に行く事にした。
家から学校までの距離は決して遠くはなかったが、一人で徒歩で行く事があいこにとっては難しかった。
あいこは母と一緒に車で学校に向かい、教室の前まで付き添ってもらった。
母が教室のドアをトントンとノックし、担任の先生を呼んだ。
担任の先生はあいこを見て「よく来れたね! 頑張ったね!」と言った。
それでもあいこは教室へ入る事にとても不安だった。
担任の先生があいこの右手を握り、背中に左手を添えてゆっくりと教室へ案内した。
クラスの皆はあいこを見て少し驚いた表情を見せたが、すぐに拍手が起こった。
「あいこちゃーん! 待ってたよー!」
一番仲良くしていた友達のしずくちゃんが駆け寄ってきて、あいこの両手をギューっと握った。
あいこは思った。
「学校に来てよかった!」
それからは毎日学校に通うようになった。
パニック発作の数も減り、不登校になる前よりも友達がたくさんできた。
* * *
小学校を無事に卒業し、あいこは中学校に入学した。
小学校の友達や同級生もほとんどあいこと同じ中学校に入学したので、中学生になってからも学生生活は充実したものになった。
正直、あいこは中学校に進学する事によって親友のしずくと疎遠になってしまわないかと少し心配していた。
しかしそんな事は一切無く、中学生になってもしずくはあいこの一番の友達でいてくれた。
むしろ、しずくは「高校もあいこちゃんと同じがいいな! 私が目指している浜津高校はちょっと難関なんだけど、頑張って勉強すればきっと私もあいこちゃんも合格できると思うんだ!」とさえ言ってくれた。
だからあいこもその期待に応えようと、勉強を頑張ろうと思った。
* * *
中学三年生になると、周りは高校受験の為に勉強ばかりするようになった。
あいこも負けじと必死に勉強をした。
寝る間も惜しんで勉強に専念する日々を過ごした。
……しかし、どんなに勉強をしてもあいこの成績は伸びなかった。
あいこはプレッシャーを感じていた。
それは、しずくが学年トップ3に入る程に成績を伸ばしていたからだ。
「しずくちゃんと同じ浜津高校に入れなかったらどうしよう」
あいこは不安と焦りでストレスが溜まっていった。
収まっていたパニック発作がまた起こるほどに精神状態が乱れ始めていたのだ。
そして、受験シーズンも終盤に差し掛かっていた頃。
学校の授業が終わった放課後に、あいこは久しぶりにしずくに「一緒に帰ろ」と誘った。
しずくは正直、嫌だと思った。
成績の悪いあいこと下校している所を誰かに見られたらどうしようという考えが頭によぎったのだ。
そんなしずくだったが「一回くらいならいいか」と思い、嫌々ながらもあいこと一緒に帰ることにした。
* * *
夕方。
空はオレンジ色に染まっている。
あいことしずくは一緒に並んで帰路を歩いているものの、お互い暫く黙っていた。
最初に言葉を発したのはあいこだった。
「し、しずくちゃん、勉強がんばってるよね!」
しずくは元気のない口調で返事をした。
「……うん」
次の言葉が見つからないあいこは、また黙ってしまった。
しずくが言った。
「あいこちゃん、勉強してる?」
あいこは精神的なしんどさから最近はあまり勉強ができていなかったので、戸惑って何も答えられなかった。
「してないでしょ、勉強。見てればわかるよ。言っちゃうけど、あいこちゃんは浜津高校には入れないから。あいこちゃんの今の学力じゃ絶対に無理」
あいこは黙ったまま、何も言えない。
「あ。そういえばこの前の浜津高校の模試、何点だったの?」
しずくが嫌味を込めてそう聞く。
「……あのね、しずくちゃん。浜津高校の模試、私……赤点……だったよ」
あいこが声を小さくしてそう言うと、しずくは笑いながらこう返事した。
「あはは! あいこちゃん、冗談はやめてよ! いくらなんでも赤点は有り得ないって! ヤバイって! あはは!」
「……冗談じゃないよ。赤点だった」
あいこが呟くように言うと、しずくは少し間をとってから冷めた目であいこに言った。
「もう絶交ね。私、レベル低い人と友達でいたくない。うん、絶交」
あいこは『絶交』という言葉を聞いて、心臓がバクバクし始めて呼吸が乱れるのを感じた。
パニック発作の前兆である。
「し、しずくちゃん……! 嘘だよね? ずっと友達だよね……?」
「嘘じゃないよ。絶交」
「しずくちゃんッ!」
「しつこい。もう先に帰るから」
しずくはスタスタと小走りで先に帰ってしまった。
あいこはパニック発作で、独り地面に崩れ落ち、道路の端っこで涙を流しながら「しずくちゃん、しずくちゃん……はぁっ……しずくちゃん……はぁっ……はぁっ……」と息を切らしながら言葉を発していた。
10分ほど時間が経つとパニック発作は落ち着き、あいこは胸を撫で下ろした。
汗がぶわぁと吹き出し、心地よい安堵感に包まれる。
しかし、しずくの言った『絶交』という言葉が頭から離れなかった。
あいこは何とかして浜津高校の入試に合格し、しずくに自分の存在を認めてもらおうと死に物狂いで勉強をした。
―――それから数日後。
あいこは浜津高校の入試に落ちた。




