不安と孤独
次の朝、沙羅が作ることができたのは、二人で一枚のパン、卵焼き、ソーセージ、キュウリとトマトのサラダだった。
「お椀はないの?。お母さんはいつも作ってくれるよ。」
真美は少し不満そうな顔をしている。
「今朝は洋食にしてみたのよ。」
「洋食って?。」
「アメリカの食べ方ね…。たまにはカッコいいでしょ?。」
「アメリカ?。」
沙羅の遠い記憶に写真の三人が蘇った。アメリカでの日々。赤ん坊と両親の笑顔、その笑い声に満ちたカリフォルニアでの朝食。すべては希望とともに失われた過去だった。
今朝も、その記憶が沙羅の笑顔を消していた。真美は、沙羅の伏せた目線に入り込んで問いかけてきた。食事の終わった時、そして家を出る時・・・・。
「お父さんとお母さん、いないね。」
それは大いに沙羅を困惑させた。真美はまるで沙羅の心を読み取るかすように問いかけてくる。「お父さんとお母さん」とは、沙羅が失った両親のことか・・・・。いや、この過程でのお父さんとお母さんのこと・・・・。そう考えなおした沙羅は、このお父さんとお母さんも失ってしまうのかもしれない、と感じた。
「お母さんは帰ってくるのかな。」
「お父さんがどうなるかによるわね。」
「お父さん死んじゃうの?。」
そんなことはない、とは言わなかった。沙羅の母親、相楽花奈が亡くなったのも、沙羅が八歳のころだった。
「分からないわ。」
真美は半べそになった。慌てて言い直そうとした沙羅だった。慰めの代わりに沙羅の口から出てきたのは押し殺した嗚咽だった。真美が泣き声を上げた。泣かしてはいけない…と、沙羅はとどめることのできない涙を隠すように、天を仰ぐ。沙羅の後ろの誰かが困惑し慌てたように、肩に触れた。暖かい手のような風。まるで、真美にそっと添える自分の手とリンクするかのように、優しく、いつくしむような触れ方だった。
沙羅は急いで後ろを振り返ったが、誰もいなかった。そのとき、沙羅は初めて名前も知らない守護者への祈唱を意識した。その言葉は、継父が教えてくれたものだった。
「私は主のはしためです。御言葉通り、この身に成りますように。」
それは、継父が時々独り言のように繰り返していたものだった。
沙羅は、泣き続ける真美をあやしながら、保育園に向かった。京成小岩駅には、いつもより遅い時刻。遅刻ギリギリ。御花茶屋駅前に加奈子と真奈美の姿があるはずもない。昼休みも放課後も、沙羅は生物部の部室へ逃げ込んだ。一人になりたかった。
沙羅は一人で考えたかった。生き別れたカリフォルニアの父。帰国後に死別した母。両親の朧げな記憶と写真。母が再婚した優しい継父。母の死後もさらに優しく接し続けた継父。
五年後、再婚した継父は、もう沙羅ひとりのものではなかった。まだ優しさを残した継父だったが、今、彼も奪われようとしていた。それは継父による収入の道を断たれたることをも意味し、そのあと何が起きるかは想像に難くなかった。
「御言葉どおりにこの身に成りますように。」
口に出して唱えてみた。しかし、何故そんなことが祈れるのか。そんな祈唱は沙羅にとってとんでもないことだった。
・・・・・
放課後、アキラは部室へ向かった。先輩がいる。その想像が心を弾ませた。部室には、やはり人のいる気配がある。先輩がいる…。確かに、開けた戸の先に沙羅はいた。滲んだ目があった。慌てて後ろに振り向いて隠す彼女の顔。床に落ちるいくつもの涙のしずく。アキラは狼狽えた。
悔しさで涙を流す男女は珍しくない。悲しみを訴え、慰めを求める涙も身近にまたドラマでも見たことはあった。しかし、これは、諦めと疲れとを深く沈めた孤独な涙だった。それも憧れと笑顔の先輩に、見るはずのない泪だった。
アキラは無言のまま大机の反対側に座った。吉田先生を待つべき、何か慰めを言うべきか…。アキラは自分が慰めの言葉を一つも知らないことに気づいた。
「相楽先輩…。」
「ごめんなさい。誰にも言わないでね。」
「はい…。」
沙羅は、泣き顔を洗いに洗面所へ出て行った。入替わりで、吉田先生が部室へ入って来た。
「相楽さんは、なにかあったのかな?」
吉田先生は、いつもの淡々とした調子。それでも、心配そうな口調は伝わってくる。部室へ帰ってきた沙羅は、心配そうなアキラの視線と、温和な吉田先生の視線をうけとめた。先生は沙羅を見つめて言った。
「尋常ではありませんね。今日の授業にも、身が入っていなかったですよ。」
しばらくして、沙羅は事情を断片的に語り出した。吉田先生は何も言わなかったが、アキラは沙羅の不安と孤独を自分のことのように感じていた。
「混乱は、情緒的な打撃をもたらします。静かにして整理をしつつ、結論を待つようにしましょう。」
吉田先生の静かな声が響いた。
「継父さんが倒れた。心配だ、これは事実ですね。亡くなられたら、孤独なあなたにとって生計が成り立たないし、高校も通えないだろう。独り生活の見込みも立たないかもしれない。これらは、まだ可能性のみです。それなら、事実のみで考えてみませんか。」
アキラも続けた。
「相楽先輩。ご尊父がどうなるかなんて、先のことはまだわからないのですよね。僕が言っていいことなのかわからないですけど…、試練のとき祈唱しつつ耐えるしかないことなんだと思います。でも、一つできることがあります。あのぅ・・・、祈唱しつつ分かち合っていけば…、僕と・・・・。僕も何かやりますよ、先輩のために。先輩の継父さんのために。先生のために、学校のために、未来のために…。僕、何言ってんだろう。」
吉田先生が、ほほう、というようにアキラを見た。沙羅は、涙目で驚いた顔をした。『忍んで祈唱しつつ分かち合う』などとは、まるで沙羅の継父のようなことを言う子だ。