継父の入院
嫌な予感が頭をよぎる。
小岩の自宅の灯りは落ち、誰も居なかった。今朝の諍いが原因で、沙羅を置いて出て行ってしまったのだろうか。それとも、事故?。様々な不吉な予測が浮かんできた。
食卓は、昼食の後片付けがまだ終わっていない状態だった。継母の由美は保育園に真美を迎えに行くために、食器を洗剤漬けにしたまま出かけることがあった。しかし、食器を集めて置いただけの済ませ方は、いつもと違う。なにかがあったに違いない。周りを見渡して、置き手紙の類を探す。手紙はない。代わりに、診察券が棚の引き出しからはみ出している。病院へ行ったのだろうか。
誰もいない夜。沙羅は食器類を洗い終え、簡単な夕食を自分で済ませることにした。こんなことは、母が亡くなったとき以来だった。母が奪われ、更にまた、誰かを奪われるのであろうか。進学校ゆえ、こんな時も予習を始めたが、不安で身が入らない。ようやく予習も済ませ、洗った食器も片づけると、時計は二十二時を回っていた。
ウトウトしたところに電話が鳴った。継母の由美からだった。
「沙羅かい。お父さんが心臓の発作を起こして、今、墨東病院に来ているのよ。」
「お継父さんの容態は?」
「うーん、今は小康状態ね。気づくのが早かったから……、よかったよ。ところで、私は今晩からしばらく付き添いをしなければならないんだよ。今は、真美も一緒にいるんだけど、迎えに来て、銭湯へつれていってくれない?。それで、明日からは保育園へも連れて行ってほしいんだよ。」
「・・・わかったわ。今夜はどこまで迎えに行けばいい?」
国電の小岩駅から錦糸町駅へ。上りの各駅停車は、川を越えるごとに駅に停まっていく。新小岩、平井、亀戸……。一駅ごとが長い。快速電車は猛スピードで抜き去っていくのに、ガラガラの101系電車はのろのろ走っているように感じられる。これは、悪夢なのだろうか。
高架の下の多くは既に明かりを落としている。時おり明るい窓が通り過ぎる。明るい窓には団欒があるのだろう。沙羅には縁のない談笑と思い遣りとに満ちているようにも感じられる。こうして、街の人々は平安な夢の中で、幸せに浸っているに違いない。
錦糸町は、沙羅にとってはあまり馴染みのない飲み屋街だった。駅前の屋台のおでん屋さえ、そろそろ閉店する時間……。沙羅はようやく由美たちと落ち合うことが出来た。由美たちは飲み屋街の細い路地を抜けてやってきた。沙羅は思わず声をかける。
「お継父さんは?。」
「いまはよく寝ているよ。まあ、小康状態だって先生が言ってくれている。」
「そう・・・。『しばらく付き添う』て言っていたけれど、いつ帰れそうなの?。」
「正確にはわからないね。少なくとも2か月は加療が必要だって。」
「そうなの・・・。」
「ところで、明日から、あんたが私の代わりに家事や真美の面倒を見てほしいんだよ。」
「わかったわ。どれだけやれるかわからないけど。」
「私も不安があるけど、ほかの誰にも頼めないからねえ。」
真美があくびをする。由美が腕を持っているため、かろうじて立っている。
「この子も今夜はこれで限界なんだけど。帰りがてら、どこかの銭湯に寄っていってくれるかい。」
「はい。」
沙羅は真美を連れ帰り、途中で銭湯に寄ることにした。真美は、自分の母親由美と沙羅との間の微妙な空気を知っていたのか、それとも眠気のせいか、帰路は静かにしていた。銭湯で真美の長い髪や身体を洗ってやりながら、沙羅はぼんやりと考える。継父は亡くなってしまうかもしれない。母の入院の時もそうだった。そして、自らの白い肌と長い亜麻色の髪を洗いながら、長く先の暗くなった自らの未来に目を瞑る。
真美を寝かしつけたのは二十四時になってからだった。明日は二人の朝食を作ることになる…。真美と沙羅、二人だけの夜だった。
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アキラが帰宅したのは、すでに夕餉の時。東向島の仕事場横の家には、叔父の重蔵によってすでにメザシとおひたしなど晩飯が用意されていた。暖かな団欒の食堂。アキラはその光景を沙羅の姿と重ねた。思い出すのは手に残る沙羅の手の細さと冷えた柔らかさ。アキラは、手も洗おうとせずに立ち尽くしていた。彼の手にのこる感触。その宝をそのままどこかへしまい込みたかった。沙羅の笑顔の記憶、沙羅の指先の記憶とともに……。
「おめえ、呆けていやがるな。なんかあったな?」
重蔵が突然声をかけて来た。カンと論理思考の鋭い母方の親類らしく、重蔵はアキラの行動から何かを鋭く指摘することが多い。
「なんでもないです。」
アキラは急に鼓動が速くなった。重蔵は苦笑しながらアキラを睨んでいた。
「早く食べろ。冷めちまうぜ。」
「はい・・・・。」
「学校は楽しいか。」
「うん。」
「勉強は難しいか?。」
「うん。」
「俺は学がねえから、面倒見てやれねえけどもよ、なんでも一生懸命やるおめえなら、やってやれねえことじゃねえよな。」
「うん。」
アキラは重蔵の話を聞いていない。口数が少なくなっていた。気が付くと沙羅の印象が次々と浮かぶ。油断するとすぐ口元がほころんでくる。
「おい、さっきは手も洗わねえし、今は手を見つめて呆けていやがる。女の子か?」
アキラは顔から火が出たように感じた。笑っている重蔵を前に、アキラは慌てて食事を済ませて、自分の部屋に逃げ帰っていった。
次の日の朝。いつもアキラはブーンという回転ヤスリの音で目覚める。重蔵の仕事場からの音。毎朝早くから、重蔵は草履職人の仕事を始めている。皐月とはいえ、まだ朝食前のひと時は寒ささえ覚える。アキラは、朝食の用意ができたことを告げに、重蔵の仕事場へ歩いていった。
重蔵の仕事場は、食堂や寝室のある母屋から、庭を挟んだ向かい側にある。その庭には、重蔵の経営する木造のアパートも面している。仕事場を覗き込むと、額の絵が新しいものに変えられていた。
「あれは女の子?。かわいい子だね。」
額には、両手を合わせて祈唱する子供の絵が飾られていた。
「これは女の子じゃねえよ。サミュエルと呼ばれた預言者だぜ。」
「子供が預言者なの?。」
重蔵は、チッ、と言いながら、答える。
「知らねえのか?。これは、サミュエルの子供の時の姿だよ。子供の時から普通とは違っていたんだぜ。」
「どういうこと?。」
「前にも教えたんだがなあ。俺は、お前に祈唱することを教えたじゃねえか。おまえに『いつも祈れ』と言っていただろうが。お前だけでなく、俺も忘れそうだからな、この絵を見て思い出すために飾ったんだよ。おめえ、かわいい子が好きだろ?。」
「何言ってんだよ。」
アキラは沙羅のことを言われたと感じて、黙ってしまった。
「そう、おめえにもそのウチわかるだろうよ。おめえの死んだ父さん母さんも、よく静かに祈唱していた。そんな人々は天国でも祈唱している。祈唱の力ってのを持っているんだ。おめえも祈唱の力を持つならそれを活かすんだ、みんなのため、お前のためにな。」
「なんでそんなことを・・・・。」
「俺たちの祈唱は、物事を動かすんだよ。そうだ、朝飯の前は断食つまり祈唱のための心構えができているから、ひとつ、朝飯の前に祈唱を捧げてみろよ。」
アキラはふと、沙羅を思い出していた。この時、アキラは沙羅のために祈唱をささげることを考えた。ただ、彼の祈唱は拙く幼かった。
「えーと、御名だっけ?、御名のために…あれ、これでいいんだっけ…、先輩、相楽先輩、というか、沙羅先輩のための祈唱、よろしくお願いします。・・・・あっ、御名によってだ・・・。」
アキラの横をクスッと笑うかのように柔らかい風が通って行った。