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後輩

 アキラは、入学してから既に三カ月目であった。愛用の自転車は、古い荷物用。引くための武骨な車体はどっしりとしている。手入れは良く、力を込めればそれなりに軽快に動く。彼は、毎朝、東向島からこの自転車を走らせていた。

 今朝も、入り組んだ路地を抜けて、四木橋を渡ってから曳舟川沿いに進んでいく。やっと覚えた道順に、クラスメイトから聞いた道を重ねて、毎日の通学路としている。荒川河川敷、地区センター、お花茶屋駅前広場を過ぎる。真っ直ぐに進み、駅を通り過ぎて差し切ったところで、たいてい目の前に沙羅らを見出す。亜麻色の長い髪と溢れる笑顔。アキラは沙羅を見る喜びのために、修行のような高校生活を耐え忍んでいる。


 この日は沙羅に笑顔はなかった。戸惑ったような赤い顔と強張った表情。普段は怒らない先輩の異変にアキラは戸惑い、学校に着いてからも心を重くしていた。同じクラスの女子達数人が何やら勧誘して来たが、生返事しかできなかった。

 ホームルームも終わって、生物教官室へむかう。螺旋階段を上る脚が重い。アキラは溜息をついた。唯一の喜びが消え、学校に来ることが無意味に思える。英語や国語、社会のわからない授業など、どうでも良い。

 嫌なことを思い出した。授業料免除の手続きが国籍確認の遅延のために遅れている。気の滅入ることに、既に副教材費の請求、PTA会費、修学旅行の積み立てなど、様々な督促が身元引受人の河原重蔵の元に来ている。ホームルームのあとに、担任の吉田先生からの呼び出しも、そのせいだろうと思われた。

 戸口に着いてから、アキラは気持ちを何とか集めて、勢い込んで声を出す。

「河原です。失礼します。」

 生物教官室前の暗い廊下に声が漏れてきた。

「どうぞ。」

 吉田先生の声は幾分低めであった。

「ここに座って。」

 アキラは、切羽詰まったように返事をして畳みかけた。

「はい…。先生、待ってもらうことはできないでしょうか?。叔父の話では、国籍の確認の手続きが、戸籍原本の紛失だとかで、まだ認めてもらえてないんだそうです。学校を退学しなくちゃいけないんですか?。」

 アキラは吉田先生に食い掛かかる。

「退学するの?。そんな話はないと思いますよ。…それより生物部に入部する気はありませんか?。君は生物のテストもよかったようですしね。」

 吉田先生はおどろきつつも、いつもの静かな顔に戻ってアキラの強張った顔を覗きこんだ

「さっき、生物部の相楽さんがきて、頼まれたのです。部の顧問の私が君の担任であるからでしょうが。彼女は、君が入部してくれないかもしれない、と言っていましたよ。君達二人は気が合うんでしょ?。だから君は入部してくれると思うのですが。」

 アキラの心が緩んだ。そのあとの言葉に喜んだ。そして顔をしかめた。吉田先生の話は、アキラの思い込みとは無関係。アキラは心を緩ませてはいけなかった。相楽先輩から直接ではなく吉田先生から誘われたこと。自らは意識していないのに、沙羅と仲が良いのだろう、と先生から言われたこと。これらが無防備なアキラの心になだれ込む。

 驚愕、甘い響き、戸惑い、そして、倫理。頭の中はいろいろな激情が渦を巻く。頭頂部からは汗が吹き出す。相楽の名前に体が反応している。

「僕が朝、相楽さんを気まずくさせてしまったみたいで。」

「後で部室へ行きましょう。もう、相楽さんもいるでしょうから、話を進めましょう。」

「えっ、これから相楽先輩と会うんですか?。でも、部員が二名しかいないということは、男女が二人だけで同じ部屋にいることになります。」

「教師の私もいるでしょうが。」

「でも……。」

「化石みたいなことを言うんですね。とにかく、生物部に入部するんでしょ?」

「だ、だから同じ部屋に二人だけになるから、ためらっているんです。」

 畳み掛けるような先生の言葉に、アキラは目を剥いて先生を睨む。心の波間に浮かぶ期待、漂う不安、律しようとする思考。先生の不躾な指摘がアキラの心をひっくり返した。既に静謐な水面は消え、己の怒濤を力づくでは沈めることができない。

 先生から見れば、このアキラという少年は、不器用なほどに対応できていない。それを如実に表すように、偏屈な坊主頭の汗が背中の汗に代わっている。吉田先生は、落ち着かせるために、アキラの肩をポンと叩いて促した。

「君は、正直の上にバカがつくんですね。融通がきかないというか、唐変木というか……。」

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