朝
今朝のこと。継母の由美との激しい言い合いのあと、沙羅はそのまま学校へ来てしまった。言い争いの原因は、亡き母の形見のペンダント。継母の連れ子真美が、勝手に沙羅のペンダントを持ち出して遊んでいたことである。
朝食の際に、沙羅は抗議した。意に介さぬように、由美は冷たく言い放った。
「ちょっと触っていただけじゃないのさ。」
由美は、今までは沙羅だけのものと思っていた継父を横取りした。それだけでも我慢ならないのに、あとから家庭に入ってきたはずの由美が、大きな顔をしている。初めから気に食わない。対する由美も、沙羅を面白く感じていなかったのだろう、沙羅に対しては容赦がない。
沙羅は継母に食ってかかる。
「ちょっとじゃない!。留め金をいじって曲げちゃったじゃないよ。」
「飯を食わしてやっているんだから、そのぐらい我慢しな。」
沙羅は、食べ終わった食器を台所のシンクに投げ下ろして、朝食の場を立ち去った。食器が割れたかもしれない。しかし後は振り返らない。どうせ継父は何も言ってくれない。彼はもう沙羅の味方はおろか、仲裁もしてくれない。
沙羅は全くがまんならなかった。それでもこれ以上争うと由美に何をされるかわからない、と日頃の勘が教えてくれている。ペンダントは手元に戻ったのだからいいではないか、と。父ジュリオ ジョーディと母相楽花奈のそれぞれの写真。幼い彼女がカリフォルニアを後にした時に別れた父と母の姿。母が、事故死の直前に沙羅にくれたものだった。
既に中間テストが終わって皐月。初夏の空。高校までの道の途中、普段どおり青砥駅で加奈子とまなみが待っていた。
「おはよう。」
「どうしたの、暗いなあ。」
「うん、ちょっとね。母親と喧嘩したのよ。」
「そう。また何かやられたの?。でもここまでは追ってこないでしょ?。安心して。さあ、元気良く行こう。また、あの坊やが挨拶してくれるって!」
沙羅は、思わず反対側を向いた。赤面した顔を長い髪に隠して、反論する。
「えっ、彼は単なる後輩よ。」
「まあ、どうしたのよ。耳が赤いわよ。」
「もー。やめて!。」
はしゃいで三人は車道に飛び出した。いかつい重量自転車にぶつかりそうになる。止まった自転車から、挨拶の声が聞こえる。
「おっと危ない!。あれ、センパイ。おはようございます。」
青い坊主頭の若い男の子。頭が朝日に光る。彼の制服はまだ新しい。沙羅にとっては眩しくさえある。いつもならにっこり笑顔で返せるのに。先程まで心で意識した彼が、目の前に突然飛び込んできたからだろうか。驚き、ときめき、狼狽、羞恥。彼に感じていた日頃の感情が一度に吹き出していた。
赤い顔がさらに熱い。ろくに返事も返せずに俯く。沙羅は戸惑ったアキラの顔を見ることができなかった。
「…失礼します。」
低く沈んだ声とともに自転車は去った。あまりにそっけない。沙羅からアキラへ入部を誘ってあるのに……。このままでは彼に申し訳ないし、新入部員のいない生物部は廃部になってしまう。
現実に、廃部の危機は迫っていた。大量の国債償還に伴う補助金削減。教育現場の受けた影響は大きい。ベビーブーマーを迎えたこの学園は、もともと拡張移転の借入金を抱えていた。そこに補助金のカット。生徒たちの課外活動費は大幅にカットされ、活動が低調なクラブには容赦がなかった。
学校移転には、沙羅は個人的にも不安を感じていた。移転先が通える場所なのか、それとも学校をやめなせればいけない場所なのか。社会や学校の変化を前に、高校生一人は無力であった。三年生が多くいた昨年度は考えたこともなかった。今の引っ込み思案な沙羅には展望を開く力もない……。
ぼんやりそんなことを考えていると、加奈子とまなみが背後から突っついて来た。
「そんな顔していると、彼、ハンサムでモテるから逃げちゃうよ。」
「そうだった。彼を誘わなくちゃいけなかったのに。」
「へええ。沙羅、積極的!。」
「デート?」
「違います!。生物部に!。このままじゃ、生物部は廃部になっちゃうから。」
「沙羅はねえ、生物は得意なのに、男は不得意だものね。」
沙羅は男子生徒と話すのが苦手。それではいけないという加奈子たちの指摘は、もっともなのだが、言い方が容赦ない。
「男は嫌いなの。」
「男だって生物だよ。」
「うーん、彼は吉田先生のクラスよね。そうなら、吉田先生に頼んでみたら?。もともと吉田先生は生物部の顧問だからさ。」
彼女等は良き相談相手でもあった。
「あっ、そうか!」
なぜ沙羅はそのことに考えがいかなかったのだろうか。アキラのいるフロアへわざわざ行くことには、心理的な抵抗がある。行く大義名分が出来れば胸を張って出かけられる。沙羅の顔があかるくなった。加奈子が言った。
「現金な女だわ。というより、正直なのかしら。」
昼休みのアキラの教室のフロア。幼い高一のクラスらしく少々騒がしい。沙羅は通りすがりのふりをしてアキラの教室を覗きこんだ。
「河原アキラ君いますか?」
彼の友人らしい吉野圭太、茶谷智也たちが出て来た。ウエーブした髪の持ち主たち。彼等は、沙羅の付けているクラス章を一瞥する。二年生であるとわかったのか、ていねいな態度で沙羅に応対してくれる。
「はい、彼は今、当番で片付け作業が終わっていないようです。」
アキラは不在だった。張っていた気持ちが消え、少しホッとしつつ落ち込むのが分かる。
「ありがとうね。」
「失礼ですが、お名前をいただけますか?。」
沙羅は名前を告げた後、気落ちしながら螺旋階段室へ向かった。
校舎中央の螺旋階段室。生徒たちの喧騒は遠く、薄暗い上り口に生物教官室はあった。かすかにコーヒーの匂いがする。吉田先生がいる証拠だった。
「生物部の相楽です。」
短髪の淡々とした吉田先生は、静かに返事を返してきた。
「どうぞ。」
「入ります。」
中も少し暗めの室内。濃いコーヒーの匂い。沙羅にはここでしか嗅ぐことのできない贅沢な匂いだった。
「なんでしょうか。」
「先生のクラスに河原君がいると思います。彼が私に、生物に興味があると言ってくれたことがあります。」
「確かに居ますよ。ふーん、彼が興味を持っている…?。では、貴女から彼に入部を誘って見てくれませんか。人数が二人になれば、部費は増えますしね。」
「私からですか.…?。実は、今朝も彼を見かけましたが、彼に気まずくさせることをしてしまいました。ですから、先生から…。」
ためらいがちな沙羅のことばは、それ以上続かない。吉田先生はそれ以上聞こうとはせず、微笑んでこう引き取った。
「何か事情がありそうですね。幸い今の私には時間が出来たし生物部の存亡にも関わりますから、普通はやりませんが担任ですし、私からも聞いてみましょう。」