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少年デュラハン  作者: 天月シンヤ
2/6

‐1‐

 燦々と降りそそぐ午後の太陽が風にさざめく枝葉を透かし、地表に光と影のまだら模様を映し出す。

 誰もいない森の小さな池のそばで、おれは古木に凭れて惰眠を貪っていた。

 清い水辺や空気の澄んだ森林なんかが特別に居心地よく感じるのは、おれがれっきとした妖精だからであり、数日前に負った怪我が完治していないせいでもある。未だ自由に動かない右腕と四肢に残る鈍痛は、同族同士で争い、敗北を喫した証だった。あちこちの肌に浮かぶ青紫色の痣が見た目にも痛々しい。思い返すと、また嫌な気持ちになってくる。

 ふと不規則な軌跡をえがく小さな存在の気配を感じ、伏せていた瞼を開けてみれば、気配の正体は一匹の白い蝶で、今まさに肩先へと降り立つところだった。蝶は薄く透ける翅をそっと閉じ、ウィル・オ・ウィスプさながらにひかって、瞬きのあいまに封筒のかたちへと変化する。

 妖精同士で行われるメッセージのやりとり。肩からはらりとすべり落ちたその封筒を拾い上げる。蝶の紋章をかたどった白い封蝋と、流暢な筆跡のサインが送り主を明確に示していた。

「オベロン王……」

 つい、その名前をひとりごちてしまう。

 妖精王オベロン。言わずと知れた妖精すべてを束ねる王であり、ことおれたちデュラハンにとっては絶対に逆らえない上司のような存在でもある。こんなふうに王から直接おれのもとへメッセージが送られてくるときはたいてい、仕事の命令のためだった。

 中の書面に目を通す。何も難しいことは書いていない。ターゲットの居場所と特徴。それと、執行期限だけ。怪我もろくに癒えてないってのに次の仕事とか、鬼か。

 でもまあ、書かれている内容からして難しい仕事でもないんだろう。ならば命令に従い確実に仕留めるのみだ。

 おれたちデュラハンと呼ばれる妖精に与えられた職務は、人間の魂狩りだ。定められた命をこの手で終わらせるだけの簡単な仕事。

 かろうじて自由に動く左手で腰のホルダーを開け、仕舞っている大型のハンティングナイフを確認する。刀身は冷たくひかり、わずかな刃こぼれも認められない。

 ……さて、行くか。さっさと終わらせてしまおう。

 ナイフを収めて気持ちを切り替え、勢いをつけて立ち上がろうとしたそのとき、体の芯に響くような鈍い痛みがはしった。よろけて地面についた手のひらに、じわりと汗が滲む。

「ってぇ……。畜生、バンシーめ……」

 歯ぎしりをして、痛みと焦燥に耐える。

 黒髪赤眼の妖精バンシー。おれにここまでのダメージを与えた張本人であり、人間の死期がみえる性質を持っている。他者から攻撃されたときに自衛するくらいの力はあるが、それ以外にこれといった能力のない、死の運命にある人間に同情してはさめざめと泣くだけのか弱い種族だ。

 そいつはあろうことか死期が迫ったひとりの人間をかばい、魂を狩りに向かったおれの邪魔をしやがった。仕事を阻害する奴はたとえ同じ妖精だとしても容赦はしない。だが、おれは奴の力をみくびっていた。追い詰められた鼠だったのか、それとも初めから虎の資質を持っていたのかはわからないが、どちらにしても返り討ちにあったのには違いない。結果が、このざまだ。

 とはいえ、もちろんおれだって何もできずにむざむざとやられたわけじゃない。あいつがかばっていた人間に致命傷を与えることができたのだ。もはや命を落とすのは時間の問題でしかなく、任務はからくも成功した……はずだった。

 後日、オベロン王に報告をしたところで、あの人間はまだ生きているのだと聞かされ、おれは愕然とした。任務は失敗だった。

 実直に職務を遂行しようとした成果だけは認められ、王からの罰は免れたものの、次の仕事こそ失敗は許されない。絶対に。

 重い身体をひきずりながら、おれは森の出口へと向かった。人間たちの住む街の方向へ。


 ***


 街の中心部にそびえる総合病院を見上げてみれば、ほとんどの窓は薄いカーテンが引かれ、夕闇色に沈んでいる。それらは定められた消灯時間が過ぎた病室なのだろう。だとすると、乳白色の明かりがついているいくつかの部屋は職員の詰め所と、夜間の救急外来といったところか。

 病院の裏手側にはきれいに手入れされた小さな園庭があり、なだらかに曲がりくねる舗装された細道に休憩用のベンチが置いてある。おれはそのベンチに腰掛けて、ほとんどの人間が眠りにつく真夜中の時間がくるのをじっと待っていた。中で活動する人間が少なければ少ないほど、面倒事が減る。おれたち妖精の姿は普通の人間には見えないが、ごく稀に例外もいるからだ。

 妖精が見えるやつっていうのは、ひとつは生まれつき、または後天的に透視能力を持つもの。そしてもうひとつが、死期の近いものだ。つまり病院は、他のどこよりも人間に目撃される確率が高い。だから念には念を入れて、真夜中に職務を遂行するようにしていた。

 まもなく深夜二時になるころだ。人間たちのあいだでは草木も眠る丑三つ時なんて言葉があるらしいが、多くの妖精たちにとってはちょうど今から夜明けまでが一番活発になる時間帯だ。特に今夜みたいに月の輝く夜は、月光のエネルギーを過剰に受けてハイになってる奴らもいる。

 静まり返っていた園庭にも、おしゃべりと悪戯好きな妖精たちの、鈴を転がすような囁き声がそこかしこから聞こえはじめてくる。

 さて、そろそろだな。身体の痛みを忘れるように努めて、全身を黒い粒子に変化させる。窓や壁のごく僅かな隙間をすり抜け、病棟に入り、目的の部屋へ向かって薄明りの通路を進んでいく。

 やがて病室が並ぶ廊下に差し掛かった。手紙の文面を思い出し、部屋番号を確認しつつ移動する。あるところで、目の前のドアにつけられている番号と手紙に書かれていた番号とが合致した。ここで間違いない。

 ターゲットの特徴は黒髪に黒目、火傷痕のある若い男、だそうだ。王からの手紙はいつも情報が少なすぎる。間違えたらどうすんだ。心のなかで悪態をつきながら、施錠されているドアを難なく通り抜けた。

 中に入ってしまえばもう、こっちのものだ。カーテン越しの月明りだけが照らす暗い病室で、おれは黒い粒子から元の姿に形体を戻した。あとはベッドでぐっすり就寝中のターゲットにナイフを突き立てれば、任務完了……。

「……えっ」

「……は?」

 同時にふたつの声が上がる。

 いやまて、なんで……起きてんだよ、こいつ。

 ターゲットの男とばっちり目が合った。ベッドから上体だけを起こした姿勢のまま固まっている。そりゃそうだろ、不審者が突然部屋に入ってきたんだもんなぁ。でも驚いたのはおれだって同じだ。深夜二時だぞ。しかもこんなに真っ暗な部屋で、起きてるとか思わねーだろ、普通。

「えっと……」

 困惑の声を漏らしながら、線の細いその男は枝みたいに痩せた腕を枕元にそろりと伸ばした。まずい、あれはナースコールのスイッチだ。押されたら院内の職員が飛んできて面倒なことになる。

「動くな」

 仕方なく、声で恫喝した。びくりと手が震え、スイッチから引いていく。

「さっき、ドアが開いたように見えたか? 見えなかったよなぁ……。おれは人間じゃないんだ。信じても信じなくても、どっちでもいいけどさ」

 左手で腰のホルダーから大型のハンティングナイフを取り出し、ひらひらと弄ぶ。研ぎ澄まされた刀身が月の光を受けて青白く揺らめいた。

「人間じゃないって……。もしかして、死神さん?」

 向けられたナイフを見て、男は取り乱すでも泣きわめくでもなく、そんなことを口にした。うすぼんやりと月光を透かすカーテンを背に、シルエットだけが浮かんで、こちらを見ている。

「はあ、死神ねえ……。ま、そんなもんだよ。やるこた一緒だ」

「そっか……」

 そっか、ってなんだよ。感想はそれだけか。

 やや拍子抜けだが騒がれないなら好都合だ。傍に歩み寄り、喉元にナイフの切っ先を向ける。皮膚まであと数センチ。軽く横に薙げば、すべてが終わる。

 こんな状況になればさすがになにかしらリアクションがあるだろうと思ったのに、男はあろうことか目を閉じ、微笑んだように見えた。そのうえまったく動こうとすらしない。さっきからこいつはおかしい。騒ぐべきところで騒がないし、恐れたり悲しんだりって感情が、どうしてこの窮地で出てこないんだ。

「おまえ……なんでそんなに、穏やかそうな顔してるんだ」

 思わずそんな疑問を口にしてしまった。あまりにも屈託なく死を受け入れようとする男は、伏せていた瞼をそっと開き、微笑みを崩さないまま寂しそうに答える。

「僕はもう生きていたらいけない」

 なるほど、自棄になっているのか。けど、例えば病気で余命を宣告されて「もう残りの命は長くない」ならわかるが、「生きていたらいけない」というのは……。

「……なぜだ」

 気づけば頭の中で考えていた言葉の続きを声に出してしまっていた。

「僕と話をしてくれるの、死神さん」

 暗闇に慣れた目に、男の姿がようやく視認できる程度にうつった。すらりとした……というよりは、痩せ細った体躯。なによりも目を引いたのは、右半身に広がる火傷の痕だった。頬からはじまり、首や鎖骨がまだらになっていて、特に半袖の病衣から伸びる右腕が一番酷い。皮膚がでこぼこに歪んでケロイド状になっている。

 しばらく切っていないであろう伸びっぱなしの黒い前髪が、目元にかかって煩わしそうだ。このどこか捨てられた子犬を彷彿とさせる顔、どっかで見たな。……ああ、あいつだ。バンシーだ。もっともあのバンシーはもっと幼く、女みたいな顔をしてたけど。

 ターゲットを見つけ次第、迅速かつ的確に命を刈り取らなくてはいけない。誰よりもよく知っていたはずなのに、生きることを諦めながらも一向に微笑みを崩さない男の様子に、おれはわずかばかりの興味を持っていた。

 突き付けていたナイフを、そろりと下ろす。

「辞世の言葉ぐらいは聞いてやるよ」

「……ありがとう」

「手短に済ませろよ。言っとくが長々と聞いてやる気はねぇからな」

 男はまた微笑んでみせる。今度はなんだか嬉しそうだった。

「僕はこのとおり、生まれつき身体が弱くてね……」

 言いながら、火傷痕のない左の細腕を持ち上げてみせる。注射か点滴の痕だろうか、関節のあたりに赤い点がいくつもついて、皮膚が紫色に変色している。

「こんな僕を幼いころに引き取って育ててくれた養父母に楽をさせてあげたかったけれど、この歳になってもまともな自立もできずに負担をかけるばかりだ」

「養父母? 実の親はどうした」

 視線を落として、男は首をゆるく横に振った。

「さあ……。しばらくは檻の中だったろうけど、それも僕がずいぶん幼かったころのことだし、きっと今ごろはどこかで元気に暮らしているんじゃないかな」

 疎ましい存在はもう、傍にいないのだし……と、小声で続けながら、男は腕の火傷痕を左手でそっと押さえた。無意識にしたんだとは思うが、その小さな動きがいったい何を意味しているのか、さすがにわかってしまう。

「おまえ……」

「僕はもう、生きていたらだめなんだ。養父母にも世間にも、負担をかけ続けるだけの僕は……」

 うすい消毒液の匂いと透明な静寂が流れるこの部屋に、シーツを掴む音だけがやけに大きく響いた気がした。俯いているために長い前髪が垂れて、目元に大きく影を落としている。それなのに、やはり男は、微笑んでいた。

 おれはもうすっかり戦意を失い、やり場のない気持ちとともに握っていたナイフを腰のホルダーに収めた。留め具をかける音に反応して男が顔を上げて、不安そうに眉を下げる。普通はナイフを出したときにする表情だろ、それ。

「……僕を連れていかないの」

「どうせおれが手を下さなくても勝手に死ぬんだろ、おまえは」

 わざとそんなセリフを吐き捨て踵を返し、ドアの方向へ一歩足を踏み出した。後ろからひときわ大きく衣擦れの音が聞こえる。

「待って、死神さん」

 さっきまでの静かな声色とは違う逼迫した声に振り返ってみれば、男はベッドから降り、おれのあとを追おうとしていた。ベッドの柵に掴まって、生まれたての子鹿さながらの体勢でこちらを見ている。

「明日も、ここに来て。もっと話がしたい。ここは、すごく静かで……眠れない夜は長すぎるんだ」

 耳触りの良いやわらかな声が、鼓膜をくすぐる。だめだ、だめだ。これ以上こいつの話に耳を傾けたら……。

 おれは返事をせずに黒い粒子へと姿を変え、止める声にも構わず病室から抜け出した。

 言われなくてももう一度ここへ来なくちゃならない。このままじゃ職務放棄になる。失敗は許されない、絶対に……許されない。

 屋外へ出て上へ上へと向かう。やがて病院の屋上まで辿り着き、おれは元の姿に戻るとざらつくコンクリートの上へ降り立った。ぬるい風が髪を撫でつける。息苦しさがせり上がって、反射的に口を押さえ嗚咽した。

 馬鹿じゃないのか、おれは。なぜ手を止め話を聞いてしまったのか、後悔するも遅い。

 王から示された職務遂行の期限は、手紙を受け取った瞬間から数えてちょうど一週間後。ためらって先延ばしすればするほど手を掛けづらくなる。ならば今すぐ戻って、あの青白く薄い皮膚に刃先を突き立てるべきだ。おれたちデュラハンの持つナイフは掠めただけでも命を吸い取る力がある。そのうえ相手はまったくの無抵抗。殊更に簡単な仕事のはずだ。気が進まなかろうと、思い切ってやってしまえば、すぐに終わる。あっという間だ。

 それでも、あの病室へ戻る気にはなれなかった。その理由をうまく言葉にできないまま、ただ呆然と立ち尽くす。今まで数えきれないほど多くの命を無心に刈り取ってきたのに、ふと力が抜ける心地がした。

 いったいいつまで続ければいい。月の光が真上から降りそそぐ夜に、おれは自分の存在を呪い始めていた。人間の命をこの手で終わらせる、それがデュラハンという妖精に与えられた仕事であり、存在意義であり、使命である。ゆえに、課せられた職務から降りることは叶わない。

 ふと、屋上をぐるりと囲う鉄柵が視界にうつった。柵を乗り超えて数歩でも進めば、足を踏み外し真っ逆さまに落ちていくだろう。……人間なら。

 そのとき、唐突に昔の記憶が呼び起こされた。今よりもずっと前、故郷にいた頃の苦い過去だ。なるべく忘れるようにしていたのに、今回のことと屋上の風景が合わさったせいで、共鳴してしまったんだろうか。

 もはや溢れ出る記憶に蓋をすることはできなかった。無理に意識を逸らそうとしても重苦しい頭痛に襲われるばかりだ。おまけにあちこち痛む身体がひとときの休息を訴えている。おれは観念して柵の傍らに腰を下ろし背を預け、過去の情景に思考を委ねることにした。

 見上げれば濃紺の夜空が果てなく広がり、無数の星々とひときわ眩くひかる月とを浮かべている。そっと目を閉じれば網膜に焼き付く白銀の星座が瞼の裏でちかちかと輝いた。屋上に設置された空調の室外機が低く唸る音すら聞こえなくなるほどに、深く、深く、記憶の海へと潜って、思い出していく。

 ……友人を失ったあの日のことを。


 ***


 おれが生まれ育った故郷は小さな国で、人間たちはアイルランドと呼んでいた。一日のうちに四季がめぐるようにころころと天気の変わる土地だったが、夏は涼しく冬もそれほど寒くなく、一年を通して過ごしやすい気候といえた。

 妖精王オベロンが古くからこの国に居城を構えていたおかげで、妖精たちの間には一定の秩序が保たれ、異種族間のトラブルも少なかった。そのせいか、たくさんの妖精がここで生まれ育ち、終の棲家にするものも多かった。

 ずっと昔からそんな国だったため、人間と妖精はお互い大きく干渉し合うことなく、それなりにうまく付き合い生活していた。人間の生活には常に妖精の姿があり、妖精の生活の傍には常に人間がいる。いたずら好きの妖精が人間相手に小さなトラブルを起こすのは日常茶飯事だったけど、それを過剰に咎める人間はいない。それほどまでに、妖精という存在はこの国の人間たちの暮らしに溶け込んでいたし、おれもそんな生活が心地よくて、案外気に入っていた。王からの命令で人間の命を刈り取りに向かうときばかりは気分がゆらいだが、仕事だから仕方がないと割り切ってこなしていた。

 デュラハンとして生を受けてから何回目の仕事だったろうか。おれはいつものように命を刈り取るべく、ターゲットの人間の家へ向かっていた。早く終わらせてさっさと帰ろう、なんて思いながら。

 ところが、その家に住んでいるターゲットの男はどういうわけかおれの姿を見て開口一番「ようこそ、妖精さん!」なんて言って、とびきりの笑顔で歓迎してきたんだ。なんだこいつ、って思ったけど、やたらと嬉しそうなもんだからつい、流されるまま家へ招き入れられちまった。

 で、なんだかんだもてなされて、話を聞いてみれば幼い頃からずっと妖精が見えていたから、こうやってときどき妖精と話ができるのが嬉しいんだと。その大好きな妖精が死を運んできたなんて誰が思うんだろうな。おれはなんだか哀れになって、ここに来た理由も言い出せないまま、時間だけが無情に過ぎていった。

 すっかり夜も更け、ついには「お、話し込んでたらもうこんな時間か。せっかくだから泊っていけよ!」なんて言い出すもんだから、さすがにこのままじゃまずいと思っておれは腰のナイフに手を伸ばした。

 次の瞬間、おれの傍にいたそいつがナイフを抜き取ろうとするおれの手をそっと押さえて、言ったんだ。

「わかってる。俺の命を取りに来たんだろ? でも、もう少しだけ、話がしたい。できる限りでいいから」

 あいつはおれが何しに来たのかをわかっていて、心底楽しそうにおれと話をしていたんだ。


 タイミングをすっかり見失ったおれは翌日もその翌日も男の家に向かったが、やはり手を下せなかった。それどころか、あっけらかんと振舞うあいつと他愛のない雑談をしたり家に泊まったりしてるうちに、いつしか友人と呼べる間柄になっていた。

 ターゲットと仲良くなるなんて愚鈍の極みだ。わかっていたのにどうしようもなかった。あいつは気さくで前向きなやつで、今までに出会った妖精の話とか、趣味の旅行の話、妖精好きが高じて学び始めた地学や民俗学の話をよくしていた。そのどれもが新鮮で、かわりにおれが妖精の国について話すと、これでもかってくらい目を輝かせてたな。本当にいい奴だった。

 だからこそ……迫りくる執行期限が、おれを確実に追い込み、焦らせていた。

 このままあいつの命を狩らずに期限が過ぎればどうなる。職務放棄は罪であり、オベロン王からの罰は免れない。妖精でも人間でもない異形の姿に変えられたうえ、妖精の国を追放されるのだと聞いたことがある。その代わり、運命をねじ曲げられた人間は、定められた死から逃れられるとも。

 期限の前日、おれはあいつと会っていつも通りの一日を過ごした。

 もう、覚悟は決めていた。どんな罰が待っていようとも、今さらこいつを殺せないのがわかっていたからだ。

 おれはあいつに、やっぱりおまえを殺すのはやめたと告げた。あいつは驚いていろいろ聞いてきたけど、適当に流しておいた。

 日が変わり、いよいよ期限当日を迎えた。夜が明ける前にそっとあいつの家を抜け出し、森へと向かう。期限を過ぎた瞬間にあいつの目の前でおれの身に何かあったら、きっとショックを受けるだろうと思ったから。

 おれは森の中でじっとそのときを待った。ところが、日が暮れて夜になり、ついには朝になっても、何も変化は訪れなかった。

 さすがにおかしいと思いはじめたそのとき、一匹の白い蝶が目の前でひらひらと舞い、おれのそばに降り立った。蝶はオベロン王のサインが書かれた手紙へと変化して、ついにこのときがきたかと、息を呑んだ。さすがに恐ろしく、震える手でその手紙を開き、目を通して、おれは言葉を失った。心臓に氷が流されたみたいだった。

 その手紙には『ターゲット死亡につき任務完了と認める』とだけ、書かれていた。

 あいつが、死んだ……?

 おれは急いであいつの家に向かった。静かだったあいつの家には人間が何人も集まり、みんな悲しそうに俯き泣いているものもいた。

 ああ、本当だったのか。おれはその場で膝を折り崩れ落ちた。叫び出したい気分だった。

 少しして、あいつはこの街で一番高い建物の屋上から落下して死んだのだと他の妖精たちに聞かされた。

 急いで現場に向かうも、すでにあいつの魂は消えてしまっていて、代わりに自殺者特有の残り香が漂っていた。自ら命を絶ったという事実に、ぐるぐると視界が回り、吐き気すら込み上げてきた。このときだったな……もう二度とターゲットに情をうつすなんて馬鹿な真似はしないと、心に誓ったのは。

 ……あのときあいつは、何を思って屋上から飛び降りたのか。

 もう、理由を聞くことも叶わない。

 あいつはどんな顔だった。どんな声だった。忘れようがないのに少しずつ失われていくのは、おれがそれを望んだからだ。

 友人と思っていたのに、最後まで名前を聞かずじまいだったのをしばらく後悔していた。今は聞かずにいてよかったと思う。余計な情報は少ない方がいい。少しずつでも、忘れてゆけるから。


 記憶が徐々に収束していき、音が戻る。

 瞼を開けてようやく自分が病院の屋上に座っていたことを思い出した。

 ずいぶん長い時間、過去の記憶に浸っていたようだ。東の空がうっすらと白み、もうすぐ、夜が明ける。

 月光を十分に浴びたおかげで、体の痛みは随分ましになっていた。

 ……ちゃんとあいつは眠れただろうか。

 なぜか、おしゃべりだった友人と、病床で微笑むあの男が重なった。なぜこんなに気が進まないのか、理由がわかった気がする。

 定められた執行期限がゆっくりと、しかし確実に迫っていた。

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