C.のあなたへ。
次の文章はとある作家の詩の全文である。
これを読んで、後の設けられていない問いに答えを出しなさい。
何時だったか。
何処だったか。
誰だったか。
何故だったか。
言っていたのを聞いた。
何かは覚えている。
この世は最終的に全て二択に別れるらしい。
どんなに複雑に聞こえて
細分化した選択肢に見えて
堅苦しい感触がして
きな臭くても
突き詰めて考えればなんてことは無い。
数学の公式よりも簡単で、単純な、
二択なのだ。
でも
わたしはどんな時でも迷って、いつまで経ってもその二択を決めることが出来ない。
先なんかに立ちもしない後悔に怯え
演出さえされていない恐怖に怯え
出現して無い他人の責任追及に怯え
何よりもただ利己的に《一番の利益》を求めて。
私は、自他ともに認める優柔不断というやつだ。
でも、それだけの愚かさなら、まだ救いようはあったのだろうか。
しかし、自分の意志も、先の未来の苦を見据えてなお楽な方にしか行こうとしない愚かな思考。何をしようとしても、苦労する前に辞めてしまう。
支離滅裂な理由を建てて。
まことしやかに嘘をついて。
最もらしい言い訳をして。
いつの間にか、私の得意技は言い訳になっていた。
こんな私に、何かの価値があるのだろうか。
誰が値打ちを付けると言うのか。
掛け替えの無い命と言うけれど、
奇跡で産まれた命と言うけれど、
皆違って皆良い?
狭い狭いスマホの世界の中で、金を使ってレア度で差別している人が何を言っているのか。
斯く言う私もその1人。
スマホから出た日常の中で私の周りを見てみるだけで自分と同じ趣味の人間で、自分よりも立派な人間はごまんといるだろう。
なら、世界中の中なら?
私でなくとも、私の中で友だちだと思っている人々と話の合う人間は居るのだ。
気の合う人間は居るのだ。
なんならその人なら私の友達の為になれたのかもしれない。
それがどうしようも無く申し訳ない。
恥ずかしい。
もしもこの世界でも自分の《レア度》が見れたら
諦めもついただろうか。
今日もまた私は私をころした。
もしも「ゆめ」と逢えていたら
何か変わったのだろうか。
今日もまた私は私をころした。
もしも本のように自分の結末を読めたなら
満足しただろうか。
今日もまた私は私をころした。
もしも空想少女のいるあの世界に行くことが出来たらどんなに嬉しいだろう。
今日もまた私は私をころした。
もしもいっそ死のうと思えたならどんなに楽だろう。
今日もまた私は私をころした。
でも。それでも。優柔不断でも。クソみたいな人間でも。わたしだから、わたしがいたから、そんな人生にしたい。
─────そんなことを思いながら今日も、こうやって自分に辟易しながら、自分を溺愛して
A.生きることを、する。
B生きることを、しない。
そんな二択を選び切れずに居るのだ。
読了お疲れ様でした。
心の中に何か1つでも答えは出たでしょうか。
言い訳を繰り返しA.もB.も選ぶことの出来ない《私》は《C.のあなた》、つまり二択の選択に囚われること無く《上手に生きるあなた》へのメッセージなのか、恨み言なのか、
はたまた願い事か。
そんな何かをあらすじの心情と共に感じ取って頂けたなら。
深い様な浅い文章にも意味は生まれるのでは無いでしょうか。