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第97話 馬刺し

作者: 山中幸盛

 名倉憲也がまだ黒髪ふさふさの三十代前半の頃、長野県茅野市に住む小説仲間の永田浩幸から封書が届いた。彼の二冊目の著作の出版記念パーティーの案内状だったのだが、会場は諏訪市内のホテルで会費もそこそこの金額だったので躊躇した。

 当時はまだ都市ガス配管工事会社に勤めていて生活が苦しかったので、諏訪市までの交通費と会費が惜しかったのだ。しかし、できれば参加したかったので、妻に手紙を差し出しながら、おそるおそる相談してみた。

「長野の永田さんが出版記念パーティーをやるらしくて招待状をくれたんだけど、そんな金ないわなあ」

 結婚する際に小金を持参してきた妻は案内状に目を通し、憲也の顔をじっと見て言った。

「お金はなんとかなるから行ってみれば。こういうのに出て刺激を受けるのもいいんじゃないの」

「ありがとう」

 まばゆく輝く妻に合掌礼拝し、返信ハガキの出席のところに○をつけたのだった。


 そして当日、早朝に家を出て、関西本線から中央本線に乗り換えて上諏訪駅で電車から降りると、1番線プラットホームに足湯があるのを発見した。もし帰りに時間があれば、そして空いていれば、水虫に効くかもしれないので絶対に足湯に浸かってから帰ろうと決めた。

 たまにはプチ旅もいいもので、初めての町並みをゆったり観察しながら、諏訪湖の岸辺にある会場の某ホテルまでぶらぶらと歩いて行った。受付で会費を払っていると小児マヒを患って足が悪いのに永田が急ぎ足でやってきた。

「名倉さん、わざわざ遠くから来ていただいてすみません」

「とんでもない、招待してくれてありがとう」

「マスコミの方が来てくれているので相手しなければなりません。腹いっぱい食べていってください」

「ありがとう」

 彼は地元では有名人だった。処女作の『美都子』は一万部以上を売り上げ、片岡義男、高橋三千綱が好評価し、椎名誠が選ぶ「本の雑誌」誌の恋愛小説部門名作百選にも選ばれている。しかし、五十人ほどいる来客の中で永田以外に誰一人として顔見知りがいないので、立食パーティーのその会場の片隅で憲也は『元を取る』気満々でいた。

 やがて来賓数人の祝辞が終わって宴会が始まると、腹が減っていたのでガツガツと食べ、そしてこのときとばかりにビールをガブ飲みした。すぐに、初めて目にする料理で、大皿にぐるりと並べられた肉らしきものに目が留まった。

 試しに口に入れてみると、うまい! 実に美味いのだ。憲也の家は貧しかったので、物心ついた時から口にするものは何でもウマイウマイと文句を言わずに食べてきた。

 しかし、この肉らしきものは真実心の底からウマイと思えるのだ。そのあまりの美味さに、思わず、近くにいた年輩の男性に声を掛けてしまった。

「これ、すごくウマイですけど、何ですか?」

 その男性は微笑みながら教えてくれた。

「馬刺しですよ」

「バサシ?」

「馬の赤身の刺身です」

「こんなに美味いものがこの世にあるなんて、信じられません」

「長野県の人じゃありませんね?」

「名古屋から来ました」

「遠方からご苦労さまです」

 彼は憲也のコップにビールをなみなみと注ぐと、軽く会釈してビール瓶を両手に持って隣のテーブルに移って行った。

 憲也はテーブルに並べられた料理を片っ端から腹に収めていき、時々、遠慮がちに馬刺しを口に入れる。ウマイ、死ぬほどウマイ。だが、地元の人は食べ慣れているせいなのか不思議なことに馬刺しを食べようとしない。憲也はまた恐る恐る箸を伸ばして口に入れる。くーっ、美味い!

 結局、大皿に並べられた馬刺しの半分以上を憲也が一人で食べてしまった。会場を見渡して馬刺が載っている皿を数えてみると六皿ある。一皿八人分の見当だろうから憲也一人で5人分平らげたことになる。だが馬刺しはまだ三分の一ほど残っていた。時間の経過を見計らい、もうぼちぼちいいかと十分も待ちきれずに何食わぬ顔で馬刺しを口に運ぶ。美味い、美味い、美味い!

 憲也の近くにいた招待客は全員が他のテーブルに移動して談笑している。お開きが近づいている気配なのにまだ馬刺しは四枚も残っていた。ここらでとんずらしよう、と決断して残り全部を口にほおばると、接客に忙しそうだったので永田には声も掛けずに会場を抜け出した。そして、足湯に水虫菌をばらまいて大満足で帰宅したのだった。


 後日、永田から謝礼のハガキが届いた。その最後の箇所に「名倉さんが声を掛けて下さったのは私の父です。馬刺しを気に入っていただけてよかったです」と認めてあった。

                  (『あじくりげ』平成24年12月号に掲載)



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