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ペット&ライフ  作者: 仮ノ一樹
エピソード1 日常
9/18

第9話 若葉家の日常

 6月14日 日曜日

 ――A.M.8:51――

 六月。日本上空に梅雨前線が出現し、頻繁に雨が降るようになる季節。いよいよ梅雨の始まりだ。窓の外ではしとしとと雨が降り、春から夏への移り変わりを示すようにじめじめと空気が潤う。そのお陰で、カビは生えやすいし、湿気がお肌に悪い、と世の主婦たちは嘆く季節でもあるのだろう。


 ―――雨。というと、私たちが思い出すのはやっぱり()()()の記憶だ。親に捨てられ、宛ても無く彷徨い、路地裏で凍え死ぬかもしれなかった、あの雨の日の夜。

 これを他人に話すと――実際に話したことはないけれど――きっと勘違いされるのだろうが、別にこれが忌まわしい記憶というわけではない。むしろ、輝かしい記憶だ。

 確かに死にかけはした。あのまま誰も手を差し伸ばしてくれなければ、今の私たちは存在していないだろう。だけどそれ以上に、あの日はご主人様と出会った日であり、同時に地獄から解放された日でもある。私たちにとって雨というのは、何も嘆くようなものじゃなくて、むしろ晴れ晴れとした気持ちにしてくれる天気だ。

 因みにあれ以来、晶は寒いのが苦手になったらしい。かき氷やアイスクリームなんかの冷たいものもダメだ。もったいない。まあ、私も熱いのと暑いのが苦手だったりするが。


 そんなことを考えていた休日の朝。キッチンでは私と晶で朝食の準備を進めていた。

 トースターがパンを焼く音。まな板の上で私が野菜を切る音。電気コンロの上で鍋がぐつぐつとコーンポタージュを煮ている音。その横でアキラが休日の朝食らしいベーコンと目玉焼きを作る音。

 作る量は私と晶を含めて六人前。一世帯の家庭が食べる量として少し多い気がするが、実際人数が居るのだから仕方がない。それに、これでも実は二人分減らしている。


「三尾、そっち終わりそう?」

「ん。もう終わった。あとは盛り付けるだけ」

「おっけ。じゃ、ご主人様と愛理沙さんの分がもうすぐ出来上がるから、先にお皿並べといてもらえる?」

「ん」


 私は棚から人数分のお皿とコップを取り出して食卓に並べると、サラダ用のボウルにカットした野菜たちを盛り付ける。冷蔵庫からドレッシングやマヨネーズ、パン用のジャムとマーガリンを取り出してサラダの隣に置くと、丁度同じタイミングでトースターからチン、という音がなってパンが飛び出した。

 こんがりキツネ色に焼き上がったパンをお皿に載せると、次の分をトースターに入れて焼き上がり時間をセット。食べる人の好みに合わせて出しておいたジャムとマーガリンを塗っていると、晶がフライパンを持ってこっちまでやってきた。


「愛理沙さーん。ご飯できましたよー」


 晶がリビングに向かって名前を呼ぶと、ソファの影から小さな女の子がひょっこりと顔を出した。


「はーい」


 女の子は元気な返事をして、分厚い本を机の上に置くと、食卓の椅子に座った。「いただきます」と言って器用に箸を使って目玉焼きを頬張ると、熱かったのかはふはふしながらも美味しそうに食べていた。晶も他の盛り付けをしながら頬の角度を上げている。


「よし、これでなんとかあの人の分は用意できたわね」

「ん。じゃあ今日は私が起こしに―――」


 私が言いかけると、リビングのドアがガチャリと開いた。朝日の届かない廊下から出てきたのは、大きな欠伸をしながら、寝ぐせの目立つ頭を掻くご主人様だった。


「ふぁ~。おはよう、二人とも~」

「おはようございます! ご主人様!」

「……むぅ。おはよう」


 ……むぅ。残念。これから起こしに行こうと思ったのに。いつもなら、晶が我先にとあの人の部屋に殴り込みにいくお陰で先を越されてしまう。だから、料理で手が付かない今が好機チャンスだとこの時をずっと狙っていたのに。我ながら、相変わらず運が悪い。そして横にいる当の本人はクスクスと嘲笑わらっていた。屈辱だ。


「ん? どうかした?」

「うふふ。なんでもないですよ~。ね、みーお」

「………」


 相手にするだけ無駄なので、反応はしないでおく。


「にーに! おはよ~!」

「おっ。おはよう愛理沙。お前はいつも早起きだなぁ。えらいぞ~」

「えへへ~」


 女の子―――愛理沙さんがご主人様を見るなり箸を置いてあの人の足にしがみついた。

 普段、寝坊助なご主人様だが、今日この日。もっと言うと、日曜日の朝だけは早起きだ。というのも―――


「うわっ、やっべ。もうこんな時間かよ。しまったな。魔法少女見逃しちゃったよ」


 というのも、日曜の朝はアニメ&特撮作品の時間だからだ。テレビ業界における十九時以降の時間をゴールデンタイムというのであれば、この時間はさしずめ朝のゴールデンタイムとでも言うべきだろうか。


「ごめんなさい、ご主人様。本当はもっと早く起こしに行くべきだったのですが、実は今朝、晴幸さんと日和さんがご帰宅なさったので……」

「え、父さんと母さん帰って来てたの!?」


 私と晶は揃って頷いた。愛理沙さんも「そうだよ!」と元気よく答える。


「ん。丁度七時くらいに。だから、先に洗濯物やお風呂の用意をしてたから、朝食が遅くなった。だから、ご主人様を起こしにいくのも遅くなった。申し訳ない」

「いや、いいよ。そのくらい。むしろ僕の方が自分で起きろって話だしな」


 それは困る。ご主人様を起こしにいくのは、私と晶の朝の楽しみの一つなのだから。と喉元まで言葉が出かかるが、呑み込んでおく。晶も同じ気持ちなのか、笑顔で誤魔化していた。ちなみに、楽しみは二つあって、もう一つは私たちの作った朝食を食べてもらうことだ。


「参ったなあ。最近、晶と三尾に頼り過ぎてたかもなあ。今度からは、目覚ましをセットしておくことを忘れないようにしておかないと」


 そして夜中の内にこっそり目覚ましをオフにしておかないと。晶とアイコンタクトする。


「ってやっば。もう始まっちゃうじゃん! えーっと、リモコン、リモコン……」


 すっと風の様に速やかな動きで、私はリモコンにあるテレビの電源ボタンを押した。


『―――仮面の陰陽師 イナリ このあとすぐ!』


「あっぶねー。ちょうど告知CMか。あと一分気付くの遅れたら冒頭アバン見逃してたわ」


 ほっと撫で下ろすご主人様。まあ、見逃すと言っても、ほんの数秒の部分だと思うが、そこはそれ残さず目に焼き付けたいのだろう。ちなみに、『仮面の陰陽師 イナリ』とは、キツネの仮面をつけた陰陽師が次々に現れる妖怪を退治する、特撮ヒーロードラマである。

 私と晶もご主人様に釣られて毎週欠かさず視聴しているが、これが中々面白い。特撮ヒーローというと、男児向けの作品と思われがちだが、親の代から続くシリーズともなると、どの世代の視聴者でも楽しめる内容になっているからか、作品を重ねる毎にストーリーに奥深さが増していき、この歳になってからの方が引き込まれやすい所がある。近年は女児向けも意識しているからか、頻繁に女性戦士も登場するようになっているようだ。

 なお、この三十分前にさっき話題にしていた女児向けアニメ、更に三十分後には戦隊ものが放送している。


「ご主人様、愛理沙さん。スープをどうぞ」

「はい、ココア入れた」


 テレビを見ながら食卓に座るご主人様と愛理沙さんに、晶がほかほかのスープを、私も朝のコーヒーの代わりに入れたココアを持ってきて二人の皿の前に置いた。


 ドラマの冒頭部分に区切りが付き、オープニング開けのCMが流れた所で、ご主人様がパンをかじりながら話題を切り出した。


「にしても、父さんと母さん、また朝帰りか。最近多いよな。確か、遺伝子系の研究だって言ってたっけ。……無理だけはして欲しくないんだけどな」

「そうですね。今日はお休みの様なので、お二人にはゆっくり休養してもらいましょう。あの分だとお昼を過ぎたくらいまでは起きそうにないですし」

「そうだね。全く、あんまり心配させないで欲しいよ……」


 ず、とご主人様はココアを飲むと、朝食を食べながらCMが開けた番組に暫く釘付けになっていた。


 ―――日曜の朝のいつもの光景である。




――P.M.12:37――


 朝食を食べ終え、朝のゴールデンタイムも終了した後、ご主人様は直ぐ自室に戻って高校の課題に取り組んでいた。

 今日の課題の教科は数学。あの人が最も苦手とする科目だ。

 無論、課題の消化には私と晶も付き合っていた。こう言うのも難だが、進み具合で言えば私たちの方が遥かに早く、大抵はご主人様より先に提出分まで終わってしまうことがほとんどだ。だけどその分、あの人が躓きそうな問題は大体見当がつく。


「晶、ここってどうすればいい?」

「あー、ここはですね―――」


 自分達も問題を解きながら、どこかであの人にとっての難問が出現したところで、その都度解き方を教える。こうすれば、一つの問題に無駄な時間を割くことはないし、試験もこれで乗り越えてきた。あの人も地頭は良い方だから、指摘すると直ぐに理解してくれるから教え甲斐もある。

 ただ、私達からご主人様に教えることはあっても、逆はほとんど無い。というのも、私たちがこれまで勉学に勤しんできたのは、全てご主人様の為だからだ。

 自分たちの成績なんて二の次。ひたすらあの人をサポートすることだけを考える。そうする内に、いつの間にか私達の方が成績が上がっていった。この前の中間テストでも、学年トップの点数を叩き出していたらしい。

 とはいえ、ご主人様も全く勉強ができないわけでもない。得意科目は国語と生物、歴史や英語はそこそこ。特に高校レベルの生物基礎なんかは受けなくていいぐらいに熟知している。こればかりは、ご両親の影響なのだろう。


「あぁ~! 課題終わった~」


 そんな感じで、特に滞ることなく順調に課題を進めること二時間半。いつの間にか雨も止んでいた頃。ノートをパタンと閉じたご主人様は、椅子の背もたれに体重を乗せ、ぐぐっと両手を上げて伸びをした。


「お疲れさまでした。ご主人様」

「ん。お疲れ。はい、お茶」


 私はすっ、と自分の横に置いていた麦茶を紙コップに入れて手渡した。学校の課題にしろ、家事仕事にしろ、一作業終えた後に飲むお茶は美味い。


「ありがと、三尾。……ってもう十二時半過ぎてるのか。しまったな、ちょっと付き合わせ過ぎたかな」

「あ、ほんとですね。でも大丈夫ですよ、ちゃちゃっと作っちゃいますから、何かリクエストとかあります?」

「うーん。じゃあ、今日は中華の気分」

「わかりました! じゃあ、定番のチャーハンにしましょう!」

「ん。こんなこともあろうかと、お米は炊いてある」

「相変わらず準備良いなぁ」


 ご主人様に褒めてもらえた所で、私たちは部屋を後にしようと廊下に出た。すると、階段の下から何やら美しい音色が聴こえてくる。


 高く、華やかで、艶のある綺麗な音―――ヴァイオリンだ。一階のリビングから、ヴァイオリンの音色が聞こえてくる。

 曲名に覚えは無いが、この曲は知ってはいる。奏者作曲のオリジナルで、私や晶、当然ご主人様も度々耳にしている、この家に居る人間しか知らない名曲だ。

 間違いなく彼女だろう。この家で楽器を弾く趣味があるのは一人しかいない。

 曲の最後に徐々に音が大きくなっていき、指板を持つ彼女の指が小刻みに震える。そして、弓を持つ手で弦を一つ弾いて曲を締めくくった。ピッツィカートと呼ばれる演奏技法らしい。


「あれ、お兄ちゃん!? いつから聴いてたの?」


 曲が終わり、余韻に浸ろうとしたヴァイオリンの奏者―――琴音さんは、ご主人様の静かな拍手に驚いてこっちを振り向いた。


「最後の部分だけ。今々降りてきたとこだからな」

「あっちゃー……勉強の邪魔になるかと思って、ここで弾いてたんだけど、ダメだった?」

「いや、丁度終わった所だったから、問題ないぞ。なんならもう一曲弾くか?」

「うーん。お兄ちゃんがどうしてもって言うなら弾かなくもないけど、そうじゃないなら今日はもういいや。暇だからチューニングしてただけだし」

「そっか。……と? どうした、愛理沙?」


 ご主人様が視線を下にずらすと、そこには彼の膝にしがみつく愛理沙さんの姿があった。


「にーに。おひざすわってもいいー?」

「おっ、いいぞいいぞ。愛理沙はいつも甘えん坊さんだな」

「わーい!」


 ご主人様は愛理沙さんを抱き上げると、そのままテレビ前にあるソファに座り、はしゃぐ妹を膝の上にを乗っけた。一方で愛理沙さんは、抱っこされている間はしばらくきゃっきゃっと可愛らしくはしゃいでいたが、ご主人様の膝の上に座ると、急に静かになって今朝も読んでいた分厚い本を手に取って黙々と読み始めた。

 すごく、羨ましいのだが。やっぱりそれは言わないでおく。一番下の妹からのおねだりだ。どっちが我慢すべきかは言うまでもない。晶も微笑ましいという顔をしているが、多分、あのつらの下ですごい悔しがっていると思う。


「じ、じゃあ。私達、お、お昼作ってますから。皆さんはゆっくりしていて、く、くださいね、ね?」


 ほら、めっちゃ動揺してる。隠すの下手かよ。

 私は呆れてジト目になりながらも、ぎこちなく歩き出す晶に続くようにキッチンに向かった。

 私と晶が料理をしている間、琴音さんはさっきの曲を鼻歌で歌いながらヴァイオリンをケースに仕舞い始めていた。この鼻歌もまた上手いもので、鳥のさえずりのように聴いてて心地の良い旋律だった。


「にしてもさ、ちょっともったいないよな」

「うーん? なにがー?」

「お前の才能の話だよ。ヴァイオリンでもピアノでも、あとダンスとか歌とか。コンクールなんかに出れば優勝間違いないだろうに。別に隠したいわけじゃないんだろ?」

「まあねー。そのくらい出来る自信はあるよ。でも、そーいうの興味ないから、私」


 ―――若葉わかば琴音ことねさん。

 ふわっとしたおかっぱ頭が特徴的な若葉家兄妹の次女にして、母親譲りの天才肌。学校での成績も良く、非の打ち所がない優等生な上に絶対音感の持ち主であり、こと音楽系に於いてはプロも顔負けの才能を発揮する。小さい頃から幾つか楽器に触れており、現在の彼女の部屋には、ヴァイオリンやピアノ、エレキギターやトランペットなんかが置いてある。近々ドラムやシンセサイザーも購入したいとか。……最早バンドができそうな勢いだ。

 だからなのか本人曰く大体の楽器は初見でも弾けるとのこと。歌声も巷で人気のアイドルから歌姫のレベルにまで到達する程の美声であり、男女問わず憧れの的になっているらしい。

 しかも、これだけの才能を持ちながら、彼女はまだ十二歳。れっきとした小学六年生だ。

 彼女なら、きっと将来はピアニストにヴァイオリニスト、歌手やダンサーとしても世界中に名を轟かせることができるだろう。

 けれど、それを大衆の面前で披露したことは一度も無い。


「だって、私の夢は声優だもん。楽器は趣味で弾いてるだけだし。あ、でも歌は歌うよ?」

「ほー。余裕じゃん。果たしてちゃんと夢を叶えられるかな?」

「ふっふーん。見ててよ、今に有名人になってみせるんだから!」


 そう言って琴音さんはヴァイオリンを仕舞い終えると、そのままケースを抱えて二階に上がっていった。

 話し相手が居なくなり、特に何かすることもないご主人様は、ふと膝の上で妹が読む書物を興味本位で覗きんだ。

 次の瞬間、愕然とした表情を見せた後、納得したように苦笑いを浮かべた。

 愛理沙さんが読んでいるのは、子供向けの絵本でも、分厚い動物図鑑でもない。

 晴幸さんの書棚にあった、遺伝子工学の本。それも論文集である。


「それ、読んでて面白い?」

「うん!」

「そ、そっか……。お前も凄いな……。お兄ちゃん、自分が情けなく思えるよ……」

「……?」


 がっくしと首が項垂れるご主人様を見て、愛理沙さんはハテナマークを浮かべていた。


 そういえば、彼女の紹介が遅れていた。

 若葉わかば愛理沙ありささん。若葉兄妹の末っ子で、私たちとご主人様が出逢ったあの日に産まれていたというあの時の赤ん坊だ。

 もうあれから十年が経ち、すっかり私や晶からしても妹のような存在となっているのだが、一向に懐いてくれる様子がない。

 姉妹の誰よりもお兄ちゃんっ子であり、あの人の姿を見かければ、今朝や今の様に抱っこや膝の上を要求する甘えん坊である。それが羨ましいやら微笑ましいやら。

 ただし、見た目と年齢に騙されてはいけない点が一つだけある。

 晴幸さんや日和さんの研究者としての才、琴音さんの絶対音感の様に、彼女にも常人とは一線を画す大きな才能を持っている。


 ―――瞬間記憶能力。脳が起こす発達障害の一つであり、超記憶、あるいはカメラアイとも。普通、人間の記憶は余程のことが無ければ日に日に風化していき、自然と忘れてしまうか、他の記憶と混同して徐々に曖昧になっていく。

 だが、瞬間記憶能力を持つ人間は、視覚から得た情報を瞬時に記憶し、忘れることなく記憶を保持し続けることが出来るという。控えめに言っても天才児だ。


 ただし忘れてはいけないのが、これが発達障害の一種だということ。その影響なのかどうかは分からないが、言動から見てもわかる通り、歳が一番近い琴音さんと比べても、愛理沙さんの精神年齢は少々幼く感じる。まあ、琴音さんが結構大人びている部分もあるにはあるが。

 聞いた話では、愛理沙さんは同年代の子とあまり上手くいっているわけでもないらしい。力には代償が伴うというが、彼女の場合それを体現してる様な気がする。

 それに、幾ら記憶力が良いとはいえ、それを有効に活用できるとは限らないとも。今は本人の好奇心から様々な情報を仕入れている状態だが、それが将来どう役立つかは、彼女次第ということなのだろう。


 さて、そんな事を考えているうちに、昼食作りもいよいよ食材を炒める段階に入っていた。今朝は仕事の分担の関係上、晶がフライパンを握っていたが、今度油を引くのは私だ。その間、晶には余った具材でおかずでも作ってもらうとしよう。

 ここからはチャーハンを作る工程において、最も大事な手順なだけに、取っ手を握る手にも力が入るというものだ。


「ふぁ~。まだ眠いなぁ」

「でももうお昼よ。家に帰った時ぐらい、ちゃんとご飯ぐらい食べないと……」


 ……おや? 階段から足音が聞こえる。琴音さんが戻ってきたのだろうか。……いや、違うっぽい。足音は二つ。歩き方と聞こえてくる声からして、どちらも彼女のものではない。となると、思い当たるのは―――


「ふぁ~。みんな、おはよう~」

「って言っても、そんな時間じゃないけどねぇ」


 ガチャリとドアが開き、日和さんと晴幸さんが今朝のご主人様と同じような顔をしてリビングに入ってきた。


「あっ! パパとママだ! おはよ~!」

「おはようございます。晴幸さん、日和さん」

「ん。おはようございます」

「おはよう、父さん、母さん。思ったより起きるの早かったね。もう少し寝てるかと思ってたのに」

「いやー、本当はそうしていたいんだけどね。最近、ほんとまともに食事も取れていないから……。って、愛理沙。またパパの本を勝手に持ち出したね? まあ、良いけど」

「朝は流石に食べ損ねちゃったけど、食べれるときに食べておかないと、また明日からに響いちゃうのよ。……あら、いい匂いがするわね。今日のお昼は炒飯かしら?」

「ええ。もう少しで出来上がりますから、お二人とも、それまでゆっくりしていてください」


 晶が包丁でおかずを切りながら言った。

 ちらりとお二人の顔を伺ってみると、お世辞にもあまり気分の良い顔はしていなかった。寝起きだからというのもあるのかもしれないが、それ以上に身体に疲れが溜まっているのがよくわかる。目の下の隈が何よりの証明だろう。

 何せ、若葉夫妻は著名な学者であり、教授であり、日和さんに至っては医者でもある。今朝もご主人様が話題にしていたが、ここ最近の二人はやけに多忙らしく、毎日休む間もなく仕事や研究に没頭しているのだとしたら、疲れが溜まるのも当然だ。私にも、そういうの経験がある。

 無論、だからこそ私と晶で家事を担当しているのだが。


「そうか、それじゃあお言葉に甘えるとしよう。……ふう」


 晴幸さんはご主人様の横側にあるソファに座り、日和さんは食卓に椅子に座ると、二人供ぐったりと背もたれや机にもたれかかった。


「まったく……。父さんも母さんも、ほんと身体には気を付けてよ?」

「わかってるよ。だから今日、こうして休みを取ったんじゃないか」

「一日で良いの? もう二日三日ぐらい取った方がいいんじゃない?」

「それが出来たら苦労しないわよ……」


 晴幸さんは何もない天井を仰ぐように、日和さんは机に顔を埋めながら覇気のない声で言った。見れば二人とも髪もボサボサで、まともに手入れできていない様子だ。


「……まあでも、自分の健康管理もできないんじゃ、私も医者失格かしらね……」

「ちょっと母さん、卑屈になりすぎだって」


 日和さんは憂鬱そうに額に手を当てた。五月、六月は鬱病になりやすい季節だと言うが、日和さんがそうなっては一大事だ。日々の疲れを癒すという意味でも、ここは美味しい料理で元気を出してもらうとしよう。


 私はコンロのスイッチを切り、棚から人数分の器を取り出し、ヘラを使って出来立てのチャーハンをそれに移した。

 いつもなら育ち盛りの愛理沙さんや琴音さんの分は多めに盛り付け、後は均等に配分しているが、今回は晴幸さんと日和さんの分も多めに盛り付けておいた。

 あまり食欲が無さそうにも見えたが、少しでも多く栄養を取ってもらいたいので、ここは無理をしてでも食べてもらう。


 食卓にお皿を並べると、最初から机に突っ伏していた日和さんはもとより、晴幸さんは腰をゆっくり持ち上げ、愛理沙さんは読んでいた本をぱたんと閉じて先にそれぞれの椅子に座り、ご主人様はさっき二階に上がった琴音さんを呼びに行ってから席に着いた。

 私はというと、晶がまだ付け合わせを作っているのを良いことに、しめしめとあの人の隣を占有する。

 そこに遅れて二階から降りてきた琴音さんが席に着くが、家族皆で手を合わせるには、あと一人足りなかった。


「あれ、竜は?」


 ご主人様が問うものの、誰も反応が無い。私も晶も、身に覚えがないので首を横に振る中、沈黙を破ったのは、琴音さんだった。


「お姉ちゃんなら、さっき出掛けていったよ」

「出掛けてったって、いつ?」

「うーんと、お兄ちゃんが降りてくるより前? だっけ。丁度雨が止んだくらいの時だったと思うんだけど」

「十一時二十三分二十二秒」


 琴音さんの曖昧な記憶に対し、愛理沙さんの正確無比な解答が飛び込んできた。秒数まで言えるとはさすがだ。

 ご主人様が褒めると、愛理沙さんはこの上なく嬉しそうな顔をした。


「ねえー、もう食べてもいい?」

「ああ、うん。いいぞ」


 とりあえず、料理が冷めるのはもったいない。ということで、皆揃って手を合わせる。

 レンゲでご飯を救い、一口パクリ。我が事ながら、味付けは完璧だった。パラパラ具合も文句なしで、具材とも上手く調和出来ている。

 見れば、さっきまでだるそうにしていた晴幸さんと日和さんが大盛りのチャーハンを一口、また一口と食べ進めてくれていた。ちゃんと食べてくれるか少し不安だったが、杞憂だったらしい。

 無論、疲弊した肉体が栄養を求めた結果なのかもしれないが、思ったよりかはガッツリ頬張ってくれているので、作った側としては嬉しい限りだ。


 ―――ん。中々に会心の出来。

 私は心底満足気になって、心の中でぐっと拳を握った。ただし、猫舌なのが禍災いして出来立てを上手く食べられられないのが難点か。フーフーしてもまだ熱い。困る。……あっつ。


「竜のやつ、何しに出て行ったんだろうな。ランニングか? にしちゃ、遅いか……」

「知らなーい。だって、どこ行くの?って聞いても、無視して行っちゃうんだもん」

「ははは。きっと夕飯までには帰ってくるさ」

「そうそう。あの子の場合、心配する方が野暮になっちゃうわよ?」


 スプーンを咥えながら頬杖を付くご主人様は、ご両親の言葉に納得して頷いた。


「はーい、みなさーん。おかずできましたよー」


 そこに、晶が大皿にいっぱいの付け合わせと、幾枚も重なった取皿を持ってやってきた。

 そういえば、なんか静かというか穏やかな一時だなーと思っていたが、そうか晶がこの場にいなかったからか。今日はやけに大人しいからすっかり忘れていた。


「さあー、ご主人様! じゃんじゃん食べてください、ねっ!」

「ふべっ」

「あっ、えっ」


 ……前言撤回する。こいつ、不意打ちで私をご主人様の隣から弾き飛ばしてきやがった。そして、自分はさも初めからそこに居ましたよと言わんばかりに、私が元居た椅子に座るのである。

 油断していた私も悪いのだが、そのまま顔面から床に突っ伏してしまう自分は、晶からしたらとても無様に見えているのだろう。


「ああ、うん……」


 ほら、ご主人様もすっごいリアクションに困った顔してる。流石に強引が過ぎるだろ。そんなに隣がいいか。……まあ、逆の立場なら、私もやらないとは言い切れないが。


 私は「むぅ……」と唸りながら立ち上がると、しぶしぶと晶の隣にあった椅子に座った。

 本当は反対側の席に座りたいところだったが、残念なことにそこには愛理沙さんが居る。流石に彼女の特等席を奪うことはしたくないし、何より晶と同類にはなりたくない。

 だから仕方なく、私は空いている席に座るしかなかった。ご丁寧に、私の使っていた食器類までもそこに移動している。

 せっかく一家団欒とするご主人様達を傍らで見て和やかな気持ちになっていたのに、台無しにもほどがある。

 私はこっちを見向きもしない晶をギロリと睨みつけながら、屈辱で熱さを気にすることなく自分の作った料理のみを完食するのだった。


 ―――とまあ、割といつもこんな感じのお昼である。



 ――P.M.18:19――


 昼食が済んだ後、晴幸さんと日和さんはまだ眠いからと寝室へ。琴音さんは勉強するからと自室へ。愛理沙さんはまたすぐ読書に戻り、ご主人様は今朝見逃したアニメの録画を見た後、テレビゲームに熱中していた。

 私と晶はというと、食器を洗って片付けたり、リビングや廊下の掃除をしたりと、忙しなく家事に勤しんでいた。

 そうそう。三時のおやつには、晶が手製のドーナツをご主人様に食べさせていた。どうにも、この前のクッキーの件を根に持っていたらしい。私も今度何か作ろうかな。


 こうして、各々が自由に午後の時間を費やす一方で、私と晶はメイドか家政婦のようにせっせと家事に従事する。そして笑顔で食卓を共にして、一日を終える。

 大体いつもこんな感じ。これが私と晶と、若葉家の日常だ。

 毎日こき使われて辛くはないのか。その問いには、胸を張ってノーと答えられる。むしろ、こんな私でも役に立てるならと、毎日張り切っているぐらいだ。


 ―――何より、今とあの頃は違う。


 時々、思い出すことがある。

 言われた通りのことをやったのに、難癖つけられて暴力を振るわれた時の痛みを。

 機嫌が悪いからと、理不尽に罵倒された時の辛さを。

 そして、たかが花瓶を割っただけで、家を追い出されたあの忌々しい日を。


 ―――だけど、それはもう遠い過去だから。


 そう。あの頃とは何もかもが違う。

 欲にまみれて、権力と暴力を掲げる父親はいない。

 傲慢で、気に要らないことがあったら罵倒する母親もいない。

 善人ぶる癖に、全く庇いもしなかった、意気地なしの兄もいない。


 ―――ここには、あの人が居てくれるから。


 そうだ。あれはもう、最早遠い過去のお話だ。

 記憶の奥底に仕舞って、目を背けて、振り返らないで、今の幸せだけを目に焼き付けて、ただひたすらに楽しい思い出で上書きしてしまえばいい。


 悲劇のヒロインだなんて思わなくてもいい。

 自分が不幸な人間だなんて思わなくていい。

 いつまでも、いつまでも、あの人の隣に居れさえできれば、それでいいのだから。


 ―――――――――でも。


 でも?


 ――――――そんなあの人を不幸な目に合わせてしまったのは、誰だっけ?


「……お。……ーお。……みーお。三尾ってば!!」


 晶の呼びかけに、私はハッと目を覚ました。


「ったく。いつまで寝てんのよ」

「ん? 私、寝てた……?」


 まだ意識がはっきりしない。頭がぼーっとする。私は眠気を抑えて半目になりながら、起き上がってあたりを見渡した。

 ……ここは、ソファの上?


「大丈夫か? ちょっと前から、気持ちよさそうに眠ってたぞ」

「むぅ……?」


 ご主人様の声がする。

 私は眉を顰めて唸りながら、時計を確認した。

 時刻は既に六時を回っている。いけない。そろそろ夕飯の支度をしなければならない時間じゃないか。

 私は自分に何があったかを朦朧とする意識の中で記憶を探ってみる。


 ……思い、出して、きた。

 確か、四時頃だったか。折角晴れたのだから、と昼食後に干していた洗濯物を取り込もうとして……。

 夕方だというのに、ソファに差し込む日差しが、あんまりにも気持ちよかったから……。


「……あっ」


 なんと。そのまま眠ってしまっていたのか。確かに、ちょっと休もうと横にはなったけれども。

 高校生になって日向ぼっこですか。私、めっちゃ驚愕。


「あっ、て。あんた、サボってた自覚あるの?」

「ははは。三尾はマイペースな所があるよなぁ」

「む、むぅ……」


 なんて不覚。なんて不幸か。ほんの少し魔が差した程度のつもりが、まさかこんな醜態を晒すことになるとは……。それに、夕暮れの日光は紫外線が強く、お肌に悪いと聞く。はぁ、運が悪い。

 悔恨のあまり、私は唸りながら顔を俯けた。


「ま、そのお陰で私の仕事も増えたわけだし? あんたが寝てる間に全部片付けてあげたから。ね、ご主人様っ!」

「はいはい、えらいえらい」

「あれぇー?」

「あれぇー、じゃないよ。今褒めるタイミングじゃないから。でもそれはそれとして、いつもありがとうね」

「えへへぇ〜」


 唐突に漫才が始まった。まあ、実際、あれはあれで晶も私のことを心配してくれている。ブレを見せないところがほんと凄いと思うが。


 しかし……むぅ。そうか、私の仕事も取られていたのか。いや、考えてみれば当たり前の事だが。

 ようやく意識がはっきりしてきたところで、私はがばっと立ち上がり、キッチンに向かった。

 失態を、取り戻さなくては。


「おい、大丈夫か? 疲れてるなら、無理しなくてもいいんだぞ?」

「そうそう。別にあんたが居なくったって、夕飯は私が作るから」

「……問題ない」


 私は二人の制止を突っぱねて、キッチンへと向かう。すると、晶が少し強めの口調で言う。


「待てって。家事くらい、偶には俺がやるからさ」

「……必要ない。大丈夫」

「ちょっと。ご主人様を心配させないで」

「……平気。もう十分休んだから」


 実際、自分の身体に疲れが溜まっている感覚はない。本当にあれは、ただの日向ぼっこだったのだろう。

 そう言ってやる気を見せると、それ以上晶もご主人様も何も言わなかった。


 それから私は、夕飯の支度に取り掛かろうと、冷蔵庫の食材に手を伸ばす。すると、掌に何か湿った感覚があった。

 手汗だった。まあ、ずっと日に当たっていたみたいだし、汗もかくだろう。それとも、寝付きが悪くて冷や汗でもかいたのだろうか。

 ……そういえば、何か夢を見ていた気がするが、なんだったか。まあ、思い出せないなら気にしなくても良いだろう。夢なんてそんなものだ。


 手を洗って手汗を落とし、まな板と包丁を用意して、とん、とん、とん、と具材を刻む。すると、その音に紛れて、外から雨音が聞こえてきた。

 

「……また、降って来た」

「え? あ、ほんとだ。昼頃はいい天気だったのにね」


 晶がコンロ下の引き出しから寸胴鍋を取り出しながら言った。

 ん。梅雨だから仕方ない。と私は胸の内で納得しつつ、引き続き包丁を動かしていた。

 

 今晩のメニューはカレー。私の得意料理だ。

 カレーは何を入れても美味しいし、代表的な家庭料理ということもあって、とても作りやすい。

 ん。シンプル・イズ・ベスト。変に凝った料理よりも、こういうものの方が気楽に作れるというものだ。

 それに、意外かもしれないが、ご主人様は結構な辛党なのだ。甘いものもそれはそれで好きではあるが。というか、基本的にあの人に嫌いな食べ物は無い。本人曰く、命を大切に頂きたいのだそうだ。

 とはいえ、あまり辛すぎるとそれはただの罰ゲームになってしまう。程よい辛さ、程よい味があってこそ、料理も美味しく食べられるというもの。何事も程々が肝心。重過ぎる愛も良くない。うん。


「ん。できた」


 私は、満足げに頷いて、リビングにいるご主人様に夕食の時間を告げる。あ、もちろん妹さんたち用に甘口も用意してある。

 当然、得意なだけあって、夕食作りも私メインで進行した。さっきのこともあってか、晶も珍しく気を使ってくれたらしい。

 隠し味は、もちろん胸いっぱいの愛情だ。これだけは、私も晶も入れ忘れることはない。


 ずっと読書をしていた愛理沙さんを抜き、昼間のように――今度は私が――二階にいる若葉家の皆さんを呼び、全員揃ったところで、いただきます。


 香ばしいナツメグの香りを吸い込んで、スプーンの上を吐息でよく冷ましたら、一口パクリ―――しようとした所で、外で猛烈な雨音と落雷の音がした。


「あら、急に雨が強くなってきたわね」

「にーに。こわいー……」


 あ、あざとい。流石愛理沙さんあざとい……。

 いや、多分天然なんだろうけど。本当に雷怖いんだろうけど。


「おー、よしよし。大丈夫だぞ。怖くない、怖くない」

「ご主人様ー! 私もこーわーいーでーすー!」

「お前は駄目ー」

「なんでぇー!?」


 ええかげんにせいっ。

 ご主人様の声と、私の心の声が重なる。

 首に巻き付くように肩に手を回す晶と、涙ぐんで膝にしがみつく愛理沙さん。どっちが受け入れられて貰えるか、火を見るより明らかだと言うのに。

 私は呆れるあまり、額に手を当てる。……私だって、許されるなら、幾らでも……。

 しかし、刺客がもう一人いる事を忘れてはいけない。


「わーたーしーもー! みんなずーるーいー!」


 二人がベタベタとあの人に引っ付いているのを見てか、琴音さんまでが参戦した。プライドの高いところがある彼女だが、こういう時だけは、年相応の少女らしい顔をする。幾ら背伸びをしたとしても、彼女も愛理沙さんと同じで小学生だ。まだまだ甘え足りないというだろう。やっぱり皆、ご主人様が大好きなんだ。


「ち、ちょっ、こら。今ご飯中だからね!? これじゃお兄ちゃん食べられないぞ!?」

「ははは。相変わらず晴樹はモテモテだなぁ」

「んなのんきな事言ってないでよ父さん! 三尾、せめて晶だけでも引きはがしてくれ~」

「了解」

「だからなんで私だけなんですか~! い~や~!」


 私はピシッと敬礼すると、ご主人様にこれ以上被害が及ばぬように、力づくで晶を引きはがす。ご主人様の言葉もあって殆ど抵抗されることはなく、最後はしょぼしょぼとカレーを食べていた。


「ったく。二人供。あんな女の子になっちゃいけないよ」

「……?」

「ならないもん」


 結局、妹二人はご主人様の膝の上に座って食事をしていた。お陰でご本人は凄く食べ辛そうにしていたが。代わりに食べさせて上げようとも思ったが、それをするとまた余計な争いを招く結末になるので、残念だが胸の内に留めて置く。


「それにしても、竜のやつ大丈夫かな。さすがに迎えに行った方が―――」


 言いかけたご主人様の口が止まる。

 噂をすればなんとやら。ご主人様が彼女の名前を口に出すと、玄関からドアが開く音がした。


「あー、まったく。止んだと思ったらいきなりまた土砂降りだなんて。今日はツイてないねぇ」

「竜、お帰り! よかった、帰りが遅いから心配してたんだぞ。濡れてるなら、タオル持ってこようか?」

「ただいま、アニキ。いいよ、別に。ギリギリ家の近くで助かったさね。それよりか、風呂に入るよ」


 膝の上に居た妹二人を降ろして、リビングから飛び出て行ったご主人様は、帰ってきた彼女を迎える。もちろん、私と晶もついて行った。

 そこに居たのは、長い黒髪に怖い目つきの―――めっちゃガタイの良い大女だった。


 若葉家の長女。若葉わかばりょうさん。ご主人様とは二歳差で、現在は中学二年生。その名前の由来は、女の子でも竜のように強く逞しく育って欲しいという願いが込められていたとか。

 果たしてその願い通り、彼女は剛健で姉御肌みのある女の子に成長していた。

 事実、リーダーシップは高く、ご主人様に似てか面倒見も非常に良くて頼り甲斐がある。そんな彼女のことを、私たちも親しみと敬意を込めて「あねさん」と呼んでいる。


「お帰りなさい、姐さん」

「ん。お帰り。ご飯できてる」

「おう。飯よりか風呂、湧いてるね?」

「ん。湧いてる」

「じゃあ、私が着替えを用意してきますので、ゆっくり入って来てください」

「そうかい。んじゃ、そうさせてもらうよ」


 靴を脱いで、玄関から廊下に上がる彼女が、ご主人様と遅れて出迎えた私達と並んだ。

 いや、こう言ってしまうのも失礼だとは思うのだが、それでも思わずにはいられない。


 ―――でかい。


 男性のご主人様が小柄だからというのもあるが、実際こうして並ぶとその差が伺える。最早、どちらが年上かわからないぐらいだ。

 中二の女子とは思えない身長とガタイの良さだ。不意に迫られたら、思わず気圧されてしまうだろう。

 それもそのはず。何せ、彼女の趣味は筋トレだ。部屋にはダンベルが置いてあるし、暇があれば腕立て伏せ(ブッシュアップ)腹筋クランチをする姿をよく見かける。

 体型維持も完璧で、がっしりと鍛え上げられた身体の割には女性らしい部分をはっきりと残し、圧倒的肉体美によるバツグンのスタイルは実に羨ましい。まあ、服の上からだとちょっと分かり辛いかもしれないが。

 

 当然、腕っぷしも見た目通りで、私と晶が束になってかかっても敵わないだろう。まあ、景品がご主人様ならば話は別だが。


「……ん? 竜、その紙袋はどうしたんだ?」


 ご主人様の指摘によって、視線が姐さんの手元に集まった。

 姐さんは、腰の当たりに手を当て、若干照れくさそうにしながらも、紙袋の中を見せてくれた。


「ただの水着だよ。ほら、今度海水浴に行くんだろ? いい加減、新しい水着が欲しくてね」


 紙袋の中を見ると、確かに黒い生地の水着が入っていた。「黒」というと姐さんが好きな色だ。私やご主人様も好きだったりする。この家は、服装や髪色も何かと黒を好む人が多い。

 そういえば、ここ最近はグラビア雑誌を漁っていた気がするが、このためだったのだろうか。


「なあ、アニキ。親父ら、帰ってるのかい?」

「ああ、そうだぞ」

「ふーん、珍しいね」

「まあ、ね。ほら、せっかくだから顔ぐらいは合わせて来なさい」

「―――チッ。仕方ないねぇ。ま、そのくらいはしてやるか」


 文句を吐きつつも、姐さんはやけにゆっくりと歩いてリビングのドアを開けた。


「ただいまー」

「あらー! おかえり、竜」

「雨は大丈夫だったかい? どこか濡れていたりしないかい?」

「それ、さっきアニキにも同じこと言われた」


 姐さんが気まずそうにご両親と言葉を交わすのを後目に、私とご主人様がリビングに戻る。晶は姐さんの指示で着替えを取りに行っている。すると、愛理沙さんが涙目になってご主人様に張り付いてきた。

 やっぱりこのぐらいの歳だと、よっぽど雷は怖いのだろうか。ご主人様に抱きあげられると、彼女は途端に大人しくなった。

 一方、琴音さんは気が済んだのか、既に自分の席に戻ってカレーを食べている。


「ちょっと水着を買いに出かけてたからさ。選ぶのに時間がかかったから、遅くなっちまった」


 その買い物のためだけに出かけたにしては、やはり帰りが遅い気がするが……。なんとなく、それは詮索してはいけないような気がしていた。


「ほう、水着か。なんだ、竜にも女の子らしいところがあるじゃないか」

「よ、余計なお世話だよ。クソオヤジは黙ってな」

「クソ親父ガーン……!」

「貴方ね、そういうデリカシーが無いこと言うから娘に嫌われるのよ」


 娘に罵倒されたのが相当ショックだったのか、晴幸さんは口を開けたまま石のように動かなくなってしまった。そこに日和さんから追い打ちをかけられる。お気の毒に。


「じゃあ、アタシは風呂入ってくるから」


 そう言って、姐さんは腰に手を添えたまま、そそくさとその場を後にしようとすると。


「―――待ちなさい、竜」


 日和さんの声に、姐さんはピタリと止まった。


「……なんだよ、オフクロ」

「貴女、ちょっとこっちに来なさい」

「………」

「……はあ。三尾ちゃん、お願い」

「お、おい、何すんだよ……!」


 私は日和さんの指示に了解の意を示すと、素早く姐さんの背後に潜り込んで、服の裾を上げる。

 硬く筋肉質なへそ周りが顕になると、脇腹と腰の間に青痣があるのを確認した。帰ってきてからずっと、彼女が手を当てていた場所である。


「患部は左脇腹、それと右足と左肩のもかしら。他にも幾つかあるんじゃない? 痛むでしょ、それ」

「……何でわかったんだよ」

「うーん、医者の感かな。歩き方に違和感があったし、貴女、ずっと腰に手を当ててたでしょ?」


 姐さんは私の拘束を振りほどくと、諦めたようにため息を吐いた。


「ほら、手当してあげるから、こっちに来なさい」

「いい。こんなの、すぐ治る」


 そう言って、姐さんが日和さんの言葉を突っぱねると。


「何さ、変な意地張っちゃって。カッコ悪いの」

「あ……?」


 ギロり、と姐さんは琴音さんを睨みつけた。


「だってそうでしょ。何も言わずに出かけていったと思ったら、ケガして帰ってきてさ。みんな、どれだけ心配してると思ってるの!?」

 

 しかし琴音さんは臆することもなく、溜息混じりに言葉を吐き掛けた。


「まあまあ、落ち着け琴音。竜のことだ、きっと何か理由があるがあって―――」

「……別に。ちょっとムカついたヤツがいただけさね」

「竜……何か悩みがあるなら言ってくれ。俺にできることなら力になるからさ」

「兄貴に言うほどのことじゃないよ。ほっといてくれ」

「またそうやって誤魔化して! わかった、アレでしょ。お姉ちゃん、何か人に言えないことでもやってるんでしょ」

「なんだいそれ? アタシが犯罪でもやってるってのかい? 冗談も大概にしなよ」

「じゃあ、言ってよ。そんなケガまでして、こんな時間まで、どこで何やってたのかをさ!」


 琴音さんと姐さんの間で、バチバチと火花が散るのが見えた。


「―――ふん。まあ、アンタには一生わからないだろうね」

「な、なにそれ」


 互いにしばらく睨み合う時間が続くと、やがて姐さんは不意に視線をずらして。


「……チッ。やっぱ顔出すんじゃなかった」


 ぼそりと呟くと、姐さんはそそくさとその場を後にしようとする。すると、その剣幕のまま、着替えを持ってきた晶とばったり鉢合わせた。


「姐さん!? あの、着替えを持ってきたんですけど……」

「いい、やっぱり気が変わった」 


 僅かな間。足踏み強く、階段を登る音が聞こえてくる。


「……あのぉ、ご主人様。もしかしてまた……」

「ああ、ちょっと、な」


 廊下からひょっこりと晶が顔を出してきた。あいつの手元に着替えらしきものがないものを見ると、どうやら一応受け取ってはくれたらしい。


「やれやれ……」 


 ご主人様が溜息を吐くその影で、私は少しホッとしていた。

 これでも、昔はとても中の良い姉妹だったのだ。昔から毎日一緒に遊んでは、ご主人様について回って、それはもう無邪気だったのを覚えている。時には、皆でこぞってカラオケに行ったこともあったぐらいに。姉妹揃って歌を歌うのが好きだったから。

 そんな二人が争う姿など、見たいものではない。


「困っちゃうよね、私知ってるよ。ああいう人のこと、フリョーって言うんでしょ」

「こーら、あんまりお姉ちゃんのことを悪く言うんじゃありません」

「ええー、なんでー?」


 自分はちっとも悪くないと言わんばかりに琴音さんはムスッと顔を膨らませた。


「ねえ晶ちゃん、三尾ちゃん。竜はちゃんと学校には通っているのよね?」

「はい、日和さん。成績も問題なくて、大凡不良行為と呼べるようなことは、実のところ特に。男勝りの性格は昔からですし……」

「ただ、今日みたいな外出も最近は珍しくはない。時折ああして怪我をして帰って来ることがあるのも事実」

「なるほどね、大体わかったわ」


 私と晶が姐さんの近況を軽く説明しただけで、日和さんは満足そうに首を上下に振った。


「お母さんはわかるの? お姉ちゃんの気持ち」

「ううん。ぜーんぜん解んない。お母さんにもね、お姉ちゃんが何考えてるのか、さっぱり。何にも解んないわ!」


 全員ががくっとなる。そんな笑顔で身も蓋もない事言われても、こっちが困ってしまう。というか、さっきの頷きはなんだったというのか。


「だって、何も話してくれないんですもの。それじゃ解らないのは当然でしょ? 悩みがあるなら、相談してくれればいいのにって、お母さんも思うわ。でも、それができたら苦労はしないのでしょうね」


 酷く愚痴っぽい、けれど確かな慈愛を含んだ声色。それは医者でも教授でもない、彼女の母親としての貌である。


「……どういうこと?」

「今のお姉ちゃんはね、とっても複雑な時期ときなのよ」

「ふくざつ?」

「うーん、今の貴女には話しても、まだちょっと難しいかな~」

「ええー」


 飄々とした態度の日和さんに、琴音さんは不満たらたらに口を尖らせる。


「大丈夫、あと少ししたら、貴女にもわかるようになるわよ」

「ほんと?」

「ほんと、ほんと。それよりも、まずはお姉ちゃんと仲直りしなくちゃ。喧嘩したままだと寂しいでしょ?」

「えー、お姉ちゃんの方から謝んないとヤダ」

「あらら」


 そこで会話が終わった。琴音さんは額に皺を寄せたまま、黙々とカレーを口に運ばせ、食べ終わっても、日和さんはそれ以上彼女を諭すことはしなかった。


「……母さん、良いの? このままで?」

「良いって、何が?」

「琴音と竜のことだよ。仲直りさせなくていいのかって」


 最終的に痺れを切らしたのはご主人様だった。同感だ。日和さんも、親としては放っておくのは忍びないと思うのだが、得られた答えは違うものだった。


「いいの、いいの。本当に仲が悪かったら、口すら利かなくなるんだから。そうならないうちは見守るのが一番よ」

「でも………」

「人間、時にはぶつかることも必要よ。お互いのことを思うなら、尚更ね。貴方も、それは知ってるんじゃないの?」

「それは、まあ……」


 ご主人様は、こちらを見て日和さんに頷いた。

 

「じゃあさ、実際のところ、母さんは竜のことはどう思ってるのさ。その、もしも、不良……とかだったらさ」

「悪い事してないんなら、良いんじゃないの? むしろ、必要なことだと思うわ」


 歯切れが悪くなるご主人様に対して、日和さんは変わらずきっぱりと言う。

 そして、なんの前触れもなく、彼女はいきなりこんな話を語りだした。


「―――医者をやってるとね、患者さんやそのご家族に残酷な真実を伝えなきゃいけないときがあるの。それを言って納得する人もいれば、パニックになって罵倒する人もいる。それを一身に受けるのも、仕事の内よ」

「……何の話?」

「良いから聴きなさい。―――でも、必ずしも真実を伝えなきゃいけないわけじゃない。時には嘘を付くことだってあるわ」

「それって、家族の人から口止めされてるとか?」

「そういうときもあるし、現場の判断で敢えて伝えないことあるわよ? まあ、でも、結局は誰かしらに報告しなきゃいえないんだけどね」

「は、はあ……?」

「いい? 晴樹。どんなときでも、なんて私は言わないわ。嘘を吐くのは、確かに良くないことだけれども、時に嘘を付くことで、誰かを護ることもできる。それは、喧嘩や暴力も同じじゃない?」


 一瞬、日和さんがこちらを見た気がした。うん、確かにそれは、私達にも心あたりのあることだ。


「それは……そうかもしれない。でも、現に怪我をしてるのは、さすがに心配だよ」

「そうね。私も、大事にならないかは気が気でならないかも。でも、貴方だって、わかっているんでしょう? 竜が悪い子じゃないってことは」

「そう、だね。俺は、あいつが自分の為に喧嘩を売ったとは、どうしても思えない。何か理由があると思ってる」

「そう。それでいいの。大事なのは、信用すること。そして、受け入れることよ」


 ―――大切なのは、信用すること。受け入れること。 

 私は彼の傍らで心の中でその言葉を繰り返す。彼の顔を覗けば、同じように言葉を噛み締めていたのが見て取れた。


「もし仮に、あの子が本当の不良になって、大変なことを仕出かしたとしても、まずは受け入れることから始めなさい。そして、ゆるしてあげなさい」

「そこから……?」

「ええ、そこからよ。誰にだって間違いはあるの。だから、その人だけに背負わせてはダメ。だってそれじゃ思い詰めちゃうもの。誰か一人でも、支えてあげられる人が居なくちゃ。それが家族の役目でしょ?」

「支える、か……」

「そうねぇ……特撮風に言うと、『世界の誰を敵に回しても』ってところかしら。一番側に居て、一番その人を解ってあげられる人だけが、支えることができる。貴方なんて、いっつも支えられてばっかじゃないの?」

「それは……! 確かにその通りだね。参ったな」


 ご主人様と、私と、晶と、三人の視線が自然と合わさった。不思議だ。日和さんの言葉は、何も特別なことじゃないのに、こんなにも当たり前なことなのに、どうしてこんなに再認識させられるのだろう。

 いや、当たり前のことだからこそ、一番大事な時に見失いやすいものなのかもしれない。


「そしたら、ちゃんと道を正してあげないとね。罪を犯したなら償わせて、間違っていることはちゃんと教えてあげないとね」


 一頻り話し終えたのか、また数瞬の間が訪れる。ご主人様は俯いたまま、顔を上げようとしない。


「まだ、不安かしら?」

「ううん。大分棘が抜けた気がするよ。ありがとう、母さん」

「ふふ。立派なお兄ちゃんね、貴方も」

「そ、そんなことないよ。家族として、当然のことをしてるつもりさ」

「ふふ、そうね。晴樹はそれでいいわ。まあ、今は見守ることしかできないから。気長にやっていくとしましょう。ね、貴方?」


 返事がない。もしかして晴幸さん、まだ放心してらっしゃる!?


「……貴方いつまで固まってるのよ」

「―――ハッ!? あれ、竜は?」

「もうとっくに拗ねて上行っちゃったわよ」

「そ、そうか。そうなのか……」

「……はぁぁぁぁ」


 あの日和さんが、かつてない程の暗い溜息を吐いた。じわじわとオーラも伝わってくる。

 そんな奥さんを見て、晴幸さんは慌てて姿勢を正し、一つ咳払いをする。 


「し、しかし。竜もいよいよ第二反抗期みたいだな。うん」

「そりゃあね。中学二年生だもん。むしろ、晴樹たちが大人し過ぎるくらいだわ。もっとやんちゃに育っても良かったのに」

「ちょっとやめてよ、母さん。そういうのは。もう子供じゃないんだから。それはそれとして、晶と三尾が大人しいっていうのはちょっと異議を唱えたいです」


 日和さんは冗談めかして笑う。私も言われてちょっと恥ずかしくなってしまった。


「それで。最近、学校はどうなんだ? 竜じゃないが、楽しめてるのか?」

「まあね。生研に入ってからは、毎日楽しいよ。先輩も友達も気の良い人ばかりだし」

「でも、成績はもうちょっと上げた方が良いかもね。創命は偏差値高いわよー?」

「分かってるさ。これでも、この前の中間じゃ、クラス上位だったんだからね?」

「なんの教科が?」

「……生物基礎」


 目を逸らして不貞腐れるご主人様も、可愛いです。


「こりゃ、晶ちゃんと三尾ちゃんに、これからみっちりしごいてもらわないとな!」

「ん。任せて欲しい」

「夜の方も合わせていいですかね?」

「「オイちょっと待て」」


 晶の欲望に塗れたボケに、私とご主人様でツッコんだ。


「そ、そういえば。今度の夏休み、ちゃんと時間はとれるの?」

「夏休みって……ああ、生研の部員と海に行くって話ね」

「まあ、任せておきなさい。父さんとて、あの高校のOBだ。後輩と息子の為なら、なんだってやってやるさ」

「え~、ほんと~?」

「なんだ? 信用できないのか?」

「いやだって、今日だってボロボロで帰ってきたじゃないか。それに、いきなりの大発見で研究が進み出すとかあるんじゃない?」

「うぐっ。まあ、確かに。そういう可能性も否定は出来ないな……。が! 今時、融通の利かん職場の方が不味い! だから、まあ楽しみに待ってなさい」

「……わかった。部活の皆にも伝えとくよ」


 ―――――ピンポーン。


 他愛もない会話の真っ最中、突如として鳴ったチャイム音に、皆の視線が集まった。


「私が出る」


 インターホンはこの部屋の扉横に設置してあり、相対的に私が一番近い位置に居た為、私が率先して出迎えることにした。

 時計を見ると、既に七時を回っていた。騒ぐ程の時間ではないが、誰だろうかこんな雨の中。


 ボタンを押すと、モニターに訪問者の影が移される。

 見たところ、男性のようだが、レインコートを被っていて顔が確認できない。まさかこの雨の中徒歩できたというのだろうか。いや、見えないだけでそのあたりに車を置いてきているのかもしれないか。


「はい。どちら様でしょうか?」

『あのー。こちら、若葉教授のお宅でしたよね?』


 私は振り向いて晴幸さんの顔を見る。すると「続けたまえ」という仕草をされたので、モニター越しの会話を続けることにした。

 なんだが、雨と雷の音が妙に不気味に思えてきた。


「失礼ですが、お名前とご要件を」

『ああ、すみません。わたくし、教授の下で助手をさせて貰っています、新星あらぼし理来斗りくとと申します。夜分に失礼かもと存じますが、折り入って教授にご相談したいことがございまして……』


 晴幸さんの助手? 今までそんな話は聞いたことがなかったが……。

 しかし、私の記憶とは裏腹に、晴幸さんも日和さんも、心当たりがあるのか頷いていた。だったら、単に話していないだけか。

 物腰柔らかそうな人に見えるが、なんとなく胡散臭さを感じるのは気の所為なのだろうか……?


「そういうことなら、僕達は二階で食べてくるよ」

「え、いいぞ別に。玄関で話を聞いてくるから」

「でも、外は雨降ってるし、わざわざこんな時間にくるくらいだから、きっと大事な話なんでしょ? もしかしたら今の研究に関わることかも」

「ま、まあな……。そう、かもしれん……」

「だったら、部外者は立ち入らないようにしないと。ほら、皆行こう。琴音と愛理沙も、邪魔になるからついて来なさーい」


 ご主人様が呼び掛け一つすると、私と晶は食べかけのカレーを手に取った。琴音さんはともかく、愛理沙さんもいつの間にか食べ終えていたらしい。


「な、なあ晴樹。その、研究のことは、訊いたりしないのか? お前だって、気になるだろう? 父さんと母さんが、何をやっているか」

「え? まあ、気にならないっていうのは嘘だけど……。でも、大事な研究なんでしょ? だったら、詮索はしないよ。情報漏洩は少しでも少なくしておかないとね。発表できる日を楽しみにしてるからさ」

「……そうか。済まないな、気を使わせて」

「何だよ、急に改まって。別に、今に始まったことじゃないだろ」


 そう言って、ご主人様は階段を登って行き、私達もその後を付いていった。 

 そういえば、あのリクトという男。何処かで見たような覚えが……。気の所為、なのだろうか……。



 ――A.M.01:03――

 

 カタカタ、カタカタ―――えつらん。ないよう。けっか。


 カタカタ、カタカタ―――とくちょう。せいたい。しんか。


 カタカタ、カタカタ―――いがく。せいぶつがく。いでんしこうがく。


 カタカタ、カタカタ―――のう。さいぼう。げのむ。


 カタカタ、カタカタ―――カタカタ、カタカタ―――カタカタ―――――――――とじる。


 ―――――――しずか。とても。しずか。

 ―――――――くらい。みんな。ねてる。

 ―――――――だから。みんな。しらない。


 ―――――――?


 ――――――あしおと。きこえる。なんで? だれ?


 ――――――とんとん。たんたん。てくてく。


 ―――――のぼってくる。こっちにくる。だれがくる?


「あれ? 愛理沙じゃないか!」


 ――――にーにだ! にーにがかいだんをのぼってきた。でもどうしたの?


「いや、ちょっと喉が乾いちゃって下に降りてたんだけど。っていうか、愛理沙こそ、こんな時間に何してるんだ?」


 ――――えっと。えっと。どうしよう。どうしよう。


「あっ。さては、また父さんの部屋に勝手に入ってたんだな?」


 ――――こくり。うん。ごほん、かえしにきてた。


「そうか。でも、こんな夜中にはいけないな。勝手に部屋に入るのも悪い子のすることだぞ」


 ――――ありさ。わるいこ?


「良い子はもう寝る時間だからな。これから眠るなら、きっと良い子になれるぞ」


 ―――――じゃあ、にーにとねる!


「ええっ!? うーん……はぁ。しょうがないなぁ、甘えん坊さんは。じゃあ、一緒に行こっか」


 ――――うん!

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