第7話 合縁奇縁 ー前編ー
5月10日 月曜日
――P.M.16:30――
五月。この学校にあの人と共に入学して、はや一月が過ぎていた。
入学式には満開だった桜はすっかり散り、碧い若葉だけが残った。気づけばゴールデンウィークも明けている。
梅雨入りはまだまだ先だが、春の日向もそろそろ夏の日差しに鞍替えする時期だ。ミオは暑いのは苦手だと言うけれど、私としては寒いのは苦手だから、暑い方が丁度良い。
まあ、あの人だったら、きっとそのどちらも苦手だ、と溜め息混じりに言うのだろうけれど。
――――ピッ!
顧問が鳴らすホイッスルが、甲高い声を上げた。試合開始の合図だ。
周囲を見渡せば、ユニフォームを着た女子が数人。三年、二年生が中心だが、同級生も居ないわけじゃない。もっとも、コートに立っているのはプレイの上手い奴ばかりらしいが。
先攻は相手側から。二年の女子がボールを蹴り、三年の女子の手に渡ると、そのまま一気にドリブルを仕掛けてきた。
無論、こちら側もただ突っ立っているわけにもいかない。
二年が二人、ボールの前に立ち塞がる。三年生ともなると経験もあって多少は腕に自信があるはずだが、相手がニ年とはいえ流石にいきなり二対一は分が悪いと考えたのだろう。ボールを後ろに蹴って、後続の味方にパスを回した。
敵に渡る前に味方に渡す。無理に突破しようとするよりも、実に合理的な判断だ。だけど、行動としてはあまりにも分かりやすい。
「―――晶!」
馴れ馴れしく私を呼ぶ声がする。振り向くと、緑髪の女がボールをこちらに蹴り飛ばしてきた。どうやら、パスが回る前に横取りしたらしい。
私は言葉を返すことも頷く事もせず、ただ飛んでくるボールをトラップしてコートを駆け上がった。
―――さあ、始めるわよ。
ただ、真っ直ぐゴールまで行かせてくれないのは相手も同じだ。
背後に二人、正面に三人。一人相手に五人もの守備に回すとは、これまた随分と大袈裟だ。さっきの仕返しのつもりなのか、それともそれだけ私が警戒されているのか。まあ、他人からの評価なんてどうでもいい。後ろの二人は、おそらくプレッシャーをかけるのが狙いだろう。もちろん。その程度で気圧される私ではない。
どちらにせよ、五人相手にボールを守り切るのは困難を極める。さっきの二対一じゃないけど、近くの味方にパスした方が確かに無難だろう。
とはいえ、前後を塞がれ、既に逃げ場はない。まあ、パスを回そうと思えばできなくもないけど―――いえ、やっぱり面倒ね。
背後の二人に後目に、私は眼前の肉壁共に臆することなく、一直線に突っ込んでいく。
要は、突破さえできればいいのよ。サッカーのルールに反することなく、かつ合理的に試合を有利に進められるのなら、わざわざ遠回りをする必要もない。
それを意外に思ったのか、追従する二人が私を挟み込むように左右に並んだ。このまま、前の三人のところまで誘導させるつもりなのだろう。しかし、視線は常に下を向いている。隙あらばボールを奪おうという思考が丸見えだ。
―――ここは、敢えて敵の策に乗ってみようかしら。もちろん、むざむざボールを渡すつもりもないけれど、その方が早く済みそうだ。
まるで、網に追い込まれる魚のように、私はボールを前へ前へと蹴り続ける。そして正面先頭の守備役との距離がいよいよ目と鼻の先まで迫った。
―――ニヤリ。笑ったのは、眼前の守備役だ。そこからは特に小細工をするわけでもなく、脚を伸ばして素直にボールを奪いにかかってきた。
八方塞がり。四面楚歌。逃げ場はなく、最早パスを回す隙間もない。
まあ、悪い作戦ではないと思う。少なくとも、この状況まで持ってくるのに、合図はアイコンタクトのみ。それなりのチームワークではあったらしい。それにしては、やり方があまりにもシンプルだけど。
しかし、掴み取る前に抱いたの勝利の確信は、ただの大きな隙でしかない。
―――ひらり。寸でのところでボールが後退し、相手の守備役は見事な空振りを披露した。同時にそれまであった余裕が一瞬の内に崩壊した。
そもそも、この状況は私が自ら持ち込んだもの。それに気づいていない時点で詰みだ。
そこからは、あっという間だった。フェイントに次ぐフェイント。空振りに次ぐ空振り。
右へ左へ。後ろへ前へ。果ては股抜き、頭の上。
ボールは地面どころか宙を舞い、五人がかりを物ともしないステップワークは、まるで踊っているかのよう。
結局、彼女らの必死のディフェンスも虚しくボールはおろか、私にすら触れることもできず、あっという間に五人抜きだ。
ついに目の前にはゴールキーパーがたった一人。性懲りもなく背後の五人が邪魔をしに来るが、もう遅い。
私はボールを天高く打ち上げ、私も飛び上がる。そして、渾身のオーバーヘッドキックでシュート。瞬間、矢のように直線を描くボールがキーパーの頬を掠めてゴールネットに引っ掛かった。
そうそう、触れることも出来なかった、というか私が触れさせないようにしていただけだった。別に私が潔癖症というわけじゃないけど、あの人以外の臭いがこの身体に付くのは嫌。気分が悪い。
―――はあ、こんな練習はさっさと終わらせて、私は早くあの人の所へ行きたいのだけど。
サッカーは試合時間ギリギリまで得点を競うスポーツだから、別に私がどれだけ点を稼いでも時間は変わらないのが辛い所だ。
だけど、万が一延長戦で練習が長引くのはごめんだ。だから、圧倒的点差で少しでも早く終わらせられるようにする。
相手が同級生だろうが上級生だろうが関係ない。それを邪魔する奴に、私は容赦はしない。
――P.M.17:00――
―――ピーッ!
三十分後。結果は当然私達の勝ち。練習とはいえ狙い通りの結果に、私は「ふう……」と満足げに息を吐く。
顧問が集合をかけ、部員達がコートの真ん中に一列に並んだ。
「明日は球技大会かあるから、今日はここまで。サッカーがあるのは男子になるが、皆健闘を祈る。張り切り過ぎて怪我はしないようにな。じゃあ、解散!」
『ありがとうございました!』
部員全員で顧問に一礼し、ようやく今日の練習が終わった。
私はダッシュで更衣室に向かうと、誰よりも速くロッカーの鍵を開け、ユニフォームを脱ぎ捨て、急いで制服に着替える。我ながら恐ろしいまでの早着替えだった。それだけあの人に早く会いたいのだ。
ロッカーから鞄を取り出し、すっかり汗をかいたユニフォームを畳もうとして触れる。すると、そのしっとりとした感触が、ふと私の頭を欲望が支配した。
―――ふふふ。この汗で濡れたユニフォームをご主人様に……いえ、駄目よ。落ち着きなさい、私。幾らあの人でも、流石にそんなことしたら嫌われるわ。そりゃあ、私の匂いを嫌がるような人じゃないけど、やっぱり汚いわ。あっぶなーい。危うく自滅するところだった……。私にだって、そのくらいの理性はあるもの。うん。……うん? 自分の汗なんかより、あの人の汗の方がよっぽど価値があるのでは!? 私は訝しんだ。
よし、明日は球技大会で疲れたあの人の背中に顔を突っ伏してみよう。きっといい匂いがするに違いない。ぐへへ。
「ああ、晶。ここに居たのですか。練習が終わるなり姿が見えなかったから、探しましたよ」
―――チッ。面倒なのが来た。しかも、明日の野望に妄想を膨らませているこんな時に。全く最悪のタイミングだ。
「ん? どうしました、そんな顔をして。私の顔に何かついてますか?」
「……別に」
私は軽く溜息を吐いて小さな声で答える。すっかり気分も萎え、湿ったユニフォームを折りたたんで袋に詰めると、鞄の中にしまった。
「じゃ、私用事あるから」
「あ、ちょっと待って欲しいのですが」
「……何よ」
「あ、いや、その。この後、時間はありますか? 折角早く練習が終わったのですから、ゆっくり話でも……」
「あのね、人の話聞いてた? 私、用事があるって言ったはずなんだけど?」
「ま、まあまあ。少しだけですから」
あー、めんどくさい。これからあの人に会えるってのに、ほんっと気分萎えるわー。しんどいわー。
私の生涯、怖いものはあるけど、ここまでイライラさせてくれる存在は初めてだわ。
「あー。そういや、アンタ名前なんだっけ」
「あれ、言ってなかったですか? 直実ですよ。黒海直実。おかしいな、入部の時に自己紹介は済ませたはずですが……」
惚けても無駄か。まあ、分かりきってはいたのだけど。ダメ元って、やっぱダメなのね。
「あー、うん。思い出した思い出した。悪いわね。私、人の名前覚えるの苦手なのよ」
ま、半分嘘だけど。覚えるのが苦手なのは本当だけど、忘れたってのが嘘。幾ら他人に興味のない私でも、ここまで絡まれると嫌でも覚えるわ。
―――黒海直実。地黒の肌と知的そーな眼鏡、それと、艶のある黒にも緑っぽくも見える髪が特徴のウザイ奴。
コイツとの関わりは、私がここのサッカー部に入部した時から始まる。
新入部員の顔合わせ、及び実力テストに相当する模擬試合。その時、一番最初に相対したのがコイツだった。当然、お互いに初対面だし、あの人以外に私が興味を持つはずもない。にもかかわらず、その日の部活の帰り――丁度今みたいに着替えていた時――に、突然馴れ馴れしく名前を呼ばれて、癇に障ったのを憶えている。無論、最悪の第一印象だった。
それ以来、私の何を気に入ったのか、部活の間は何かと付き纏うようになった。
ただし、交わす言葉は会話と言うには、あまりにも一方的。何か話しかけられる度に、適当にあしらっているはずが、それを気にしている様子は全くないのが死ぬほど面倒だ。
とはいえ、選手としての実力はそれなりにあると見ていい。誤解――コイツに興味が湧いたわけじゃないという意味で――を恐れずに言うなら、コイツがいれば、私がいなくともチームが全国入りする程度のことはできるほどだ。
……が、入部して一月経つ今、アイツは私の不快の象徴として君臨している。はやくどっかいってくれないかしら……。
一応は同級生だが、クラスや階も違うらしく、私とご主人様の時間を邪魔されることが無いのが不幸中の幸いだ。まあ、同じ校内にいる以上、それも時間の問題かもしれないけれど。もしそうなったら、頭を蹴飛ばしてやるけどね。
「そうだったのですか! ちょっと意外ですね。晶にも、苦手なことがあったなんて」
「…………」
「それにしても、さっきのプレーは見事でしたね。私のパスを受け取って、それからあっという間に五人抜きとは。実に大胆で鮮やかな勝利でした。あ、最後のオーバーヘッドもかっこよかったですよ」
「どうでもいい。言いたいのはそれだけ? じゃ―――」
さよなら。また会いましょうね敵として。明日の球技大会はクラス対抗戦になる。つまりはそういうコトだ。
扉に手をかけ、それを言おうとすると、アイツの声色が変わった。
「――――あの男の所に行くのですか?」
ピタリ、と私はドアノブを捻る手を止めた。内側に煮え滾る何かを感じながらも、それを押さえつけ、ゆっくりと振り返る。ただし、この瞳にはどうしようもない憤りの色が浮んでいた。
「だったら何? 私があの人の所に行くのに何の文句があるわけ? ……邪魔がしたいっていうなら、今すぐに蹴り飛ばすわよ」
「ああっ、いや、すみません。怒らせるつもりは無いんです。本当に。ただ、あの男とはどういう関係なのかと……」
「……はあ? アンタ何が言いたいの?」
「いや、なんのって、その……まさか、彼氏、だなんて言いませんよね?」
一瞬、頭が真っ白になる。直後、侮蔑や軽蔑の感情より先に、憤りすらも飛び越えて、笑いが込み上げてきた。
「……ぷっ。あっはははははは―――はーあ。あんた何言ってんの? あの人が私の彼氏なわけが無いじゃない」
すると、何を安堵したのか、アイツはくしゃりと笑った。
「そ、そうですよね! 晶に男なんて居るはずが―――」
「私とあの人はぁー、彼氏なんかよりもぉー、もぉーっと親密な関係なんだから。一緒にお風呂入ったことも、添い寝したことだってあるわよ」
「―――え? オフロ!? ソイネ!?」
「じゃ、そういうことでー」
「えっ、ちょっ、まっ」
バッタン。と、無感情な更衣室の扉がアイツの言葉を遮ってくれると、私はそそくさとその場を後にした。あのまま追いかけてきそうな雰囲気があったが、扉が再び開く様子はない。
途中で他の部員ともばったり出会ったこともあったが、足踏み強く速歩きをする私を見て呆然としていた。
更衣室を出てグラウンドを跨ぎ、本校舎に入って一階の廊下を突き当りを目指して歩く。
周囲に人気が無いのを確認して、私は溜まりに溜まった鬱憤を吐き出した。
「あーもう! なんなのよアイツ。私とご主人様の関係に、なんの文句があるわけ!?」
私のことだけならまだ良い。私が気にしなければ済む話なのだから。だけど、あの人のことをとやかく言うのなら話は別になる。
今までも、あの人の事を小馬鹿にしてきたり、虐めの対象にしようとした輩は何人かいた。ご両親が著名なだけに、それに対してひ弱で腰の低いあの人に付け上がるヤツがどの学年にも必ず一人は居たのだ。
当然、露払いは私と三尾の役目だ。誰一人として、あの人を傷つけることは許さない。
……なんだけど、あまりやり過ぎるとあの人にも、若葉家全体にまで迷惑が掛かるから、それなりにクラスメイトとの付き合いには気を配ってきたつもりだ。
「でも、今度ご主人様のこと話題に出したら、アイツの顔面にボールをぶつけてやる」
そんなことをぶつぶつと呟きながら、歩くスピードを上げていく。
まあ、この気持ちもあの人の匂いを嗅ぐまでの辛抱だ。どれだけ気分が悪くても、どれだけ疲れていても、あの人の存在さえあれば私は生きていける! 他には何もいらない!
「あー、早くご主人様に会いたいなー」
こうやって、歩いて向かう時間すら惜しい。一刻も早くあの人の顔が見たい。
いつもなら部活がもう一時間あって、終わる頃になると、あの人の方が迎えにきてくれるんだけど、明日の球技大会に向けて、運動部は早めに切り上げて英気を養わなくてはいけないらしい。つまり、目一杯あの人に甘えて良いわけだ。あー! 早く会いたいなぁ!
なんて、心の中でそればかり繰り返していると、やがて私は『生研』と書かれた表札の前に立っていた。
―――《生研》。正しくは《生物研究会》。普通は「生物部」とか「生物研究部」とか言うんだろうけど、ここではこう言うらしい。
活動内容は基本的に部員の一存によって決まり、例えば山や海に行って虫やら魚やらを捕まえて、現地で観察したり、家や学校に許可を取って実際に飼うこともある。あとは、まとめたレポートを文化祭や、自信があればコンクールなんかで発表する、なんてことも過去にあったそうだ。
ただ、この部活、去年までの部員数は二人と少なく、先輩部員は今の三年・二年がそれぞれ一人ずつ。今年でご主人様を含め、一年生が一気に五人増えたらしい。しかも、その一年生は全員がクラスメイト。驚いたことに、内三人は入学式の時のあの三人組だ。
「ごっしゅじ―――」
おっと。いけない、いけない。外でこれは禁止だった。私は部室の扉に手を掛けて、開ける寸での所で踏み留まる。もうこれは癖だから、テンションが上がるとついポロッと出てしまうのだけど、今はちゃんと名前で呼ばなくちゃ。
本当は、何時でも何処でもあの人の事を「ご主人様」って呼びたいんだけど、世間はそれを許さないらしい。難儀な世の中だ。
別に《若葉晴樹》という名前を嫌悪しているわけじゃない。というか、そんなはずがない。
―――あの日。どうしても、あの人の名前を呼べなくて、そこで貰った「ご主人様」という呼び方。あれが不思議なくらいすとんと胸に落ちて以来、私と三尾は好んであの人をそう呼ぶようになった。
何故、名前を呼べなかったのかは、実はよく憶えていない。三尾も――聞いたことはないが――多分憶えていない。憶えていないということは、大した理由ではなかったのだろう。どちらにせよ、やっぱり「ご主人様」と呼ぶのが収まりが良い。
―――あーあ、せめてイヌに産まれて来たなら、あの人の事を何処でも「ご主人様」って呼べるのになあ。あ、でもイヌじゃ喋れないから駄目か。
「ハールっキくーん!」
なんて思いながら、私は扉を勢いよくかつ派手に開けて、大声であの人の名前を呼んだ。これ見よがしに私の存在を主張するも、残念なことに返事を寄越したのはあの人ではなかった。
「うわ、来た」
「まあ~、晶さん! いらっしゃ~い」
「ぐう……すぴー……」
最初に反応を示したのは、丸顔で生意気そうな女子の伊野井未來。その次が憎たらしくい巨乳の牧野舞桜。そして、ちっこくていつも元気が良いだけの風羽沙耶は机に突っ伏して熟睡していた。涎まで垂らして、女子としては端ない姿を晒している。
「やあ、いらっしゃい。犬飼さん」
更に、もうすっかり見飽きた三人組に続いて私の声に反応する人間がもう一人。
魚海浪平。この部唯一の三年生であり部長だ。気前良し面倒見良しの優男で、中々に勉強もできるらしく、ご主人様も何かとお世話になっているらしい。小癪な。
正直、ご主人様以外に会釈をするのは少し遺憾だが、相手がセンパイである以上、多少の敬意は払わなければ。あの人の面子にも関わる。
「あどうもー、部長サン。あの、ハルキくんは……」
「ああ、若葉君なら、ほら。そこにいるよ」
そう言って、部長サンは殺風景な部室の角を指差した。いや、冗談抜きで、この部室には何も無いのだ。
中はそれなりに広いのだが、備品は長机を囲む椅子が何脚かとホワイトボードだけで、部屋の広さが妙に目立つ。ただ、必用最低限のものしかない割には備品は結構使い込まれているみたいで、机や椅子には幾つか傷が、ホワイトボードにも消しきれずに染み込んだ黒い線が点在している。
以前は、水槽やケージが置いてあったらしいけど、卒業していく部員が部室で飼っていた生き物に愛着が湧いてそのまま持っていったりとか、部員が減っていくにつれて、生き物の世話をするのが難しくなっていったりしたりした所為で、今はこの有様らしい。部屋が無駄に広いのも、その名残なのだろう。
で、そんながらんどうなはずの部室の隅っこで、何やら虫かごのようなものを覗き込む男子が三人。その中の一人がご主人様だった。
珍しく何か捕まえてきたのだろうか。ここらだと中身はよく見えないけれど、まあ、そんなものはどうでもいい。
「ハルキくーん! ハルキくーん? ハールーキーくーん!!」
辛抱堪らなくなった私はもう一度大きな声で呼び掛けてみるのだが、どうにもこちらに気づく様子がない。………あれぇ?
「若葉氏、若葉氏」
「―――はい? なんですか、先輩」
「いや、あれだよあれ」
両隣の男子が、ご主人様がこっちを向いてくれるよう、促してくれる。
「晶!? 来てたの!? ご、ごめん。夢中になっててぜんっぜん気づいてなかった……」
ご主人様が振り向くと、そこにはうるうると眼球いっぱいに涙を溜め、今にも泣きそうになる私がいた。ぴえん。
「今の時間は、まだ部活なんじゃ……ってそうか、明日が球技大会だからか」
「ぐすん……」
「わ、悪かったって。ほら、座ろ。せっかく早く終わったんだ、三尾が来るまで一緒に待ってようよ」
「はーい」
「ゲンキンなやつ……」
ご主人様が溜息混じりに椅子に座ると、私はウキウキと軽い足取りで彼の隣に座った。そして、腕と腕を絡ませて密着し、肩に頭を置いた。こうして私は、お気に入りの温もりを手に入れたのだった。
「あのー。晶さん?」
―――はぁ~。落ち着く~。
やっぱり、こうしてご主人様の肌に触れている時が一番安心するなぁ~。
もう一生こうしてたい。永遠に離れたくない。っていうか、私とご主人様を引き離す部活とか授業とか意味分かんない。
「……そういうのは、恥ずかしいので後にしてもらえませんかね?」
「いーやーでーすー。練習疲れたので、三尾が来る前にご主人様成分をチャージしておきたいんです~」
「うん、そういうのいいから。はいそこ! 恋人成分が何だとか、オキシトシンがどうとか議論してないで助けてくださいよ!」
ご主人様は何を恥ずかしがってか、私を引き剥がそうと必死で抵抗した。
仕方ない。ご主人様が嫌だというのなら、私も潔くこの手を離す他ないだろう。
しかし、ああ、どうしたものか。私の両腕はまるで接着剤でくっついたかのようで、ちょっとやそっとのことでは離れそうにはない。
ああ、大変だ。離れようとすればするほど、私の意思に反してより身体が密着しようと動いてしまう。これじゃ仕方ない。仕方ないったら仕方ない。
そんな、ご主人様との他愛ないスキンシップの中、部室の隅にあるあの虫かごがふと目に入った。片方には土が敷かれ、もう片方には水がかごの三分の一ぐらいに汲まれていて、どっちにも木の枝が入っている。遠目から中を覗いてみると、土が敷かれた方には二ホンヤモリが、水が入った方にはアカハライモリが入っていた。どちらも、それぞれを代表する種だ。
「ところでハルキくん。あれ、なんですか?」
「え? ああ、あれは―――」
「それについては、自分から説明させてほしいですぞぉっ!」
うわっ、びっくりした。
突然、視界の外から丸メガネの如何にもオタクっぽい風貌の男子が飛び出してきた。
井根森守。
洞察力と観察力に優れていて気配りが上手く、痒い所に手が届く性格の二年生。オタク口調で早口になりがちなのが玉に瑕だが、まあ、気の良いセンパイということで。
因みに絵を描くのが得意らしく、部活でもその観察力の高さを活かしてスケッチを担当している。ご主人様も、彼が描いた絵を見て一度感銘を受けたようで、実際私も見させてもらったが、確かに上手かった。猪口才な。
「こっちがイモリのイーコで、こっちがヤモリのヤーコ。どっちもうちの可愛い可愛いアイドルなのですぞぉ~!」
う、うわぁ。この人、ケージを抱えながら頬を擦りつけてるんだけど。流石にちょっとキモ―――あれ、でも不思議と既視感を覚えるのはなんでだろう。
「実は、前々から井根守先輩がイモリとヤモリを飼育してるって話を聞いてたんだけど。今日、無理して持ってきてくれたみたいなんだ」
「いやいや。無理などしておりませんぞ、若葉氏。まあ、この娘達を連れて来るのは、確かに少し苦労ではありましたがな」
「らしいよ?」
「はあ」
そうですか。と私は興味なさげに続けた。
「とはいえ、若葉氏も揶真人氏も、うちの娘たちを気に入ってくれて何より。自分も連れてきた甲斐があったというものですぞ~」
「いやいや。こっちこそ、良いものを見させてもらいました。かわいいですよね、ヤーコちゃんがペタペタと壁に張り付くところとか、イーコちゃんが尻尾をくねらせて泳ぐところとか」
「やっぱ、良いっすよねぇ、ヤモリのあの大きな眼。縦に伸びた瞳孔とか、間近で見ると堪んねえっすわ」
「アカハライモリの色合いもいいよね。赤と黒のカラーリングがさ、男心をくすぐるっていうかさ」
「うわぁ、それわかるわぁ」
「うんうん、二人共わかってくださる。自分は嬉しいですぞ~」
生研男子三人は、活き活きとした表情であの二匹について語る。特に、まるで子供のようにはしゃぐご主人様は見ていて愛らしい。
まあ、私への関心よりも、そこのトカゲもどきどもへの興味が勝っていたというのは、すこし悔しいけれど。そこはそれ。元々、ご主人様は動物大好きっ子ですし? 他人のペットに嫉妬する私でもないのである。
一方で、何が良いのか、全然わからない、と後ろの女子たちから聞こえる。まあ、中々ニッチな話題なのは否定できない。
「なるほど。それで、私のことは眼中になかったわけですか」
「だから、それはもう謝ったじゃないか」
「もう、わるい癖ですよ。夢中になると周りが見えなくなるの。全く、晴幸さんも蓮さんもそうなんですから。血は争えないっていうか……」
「いやぁ、あはは」
「むっ。こればかりは褒めてませんからね!」
私はぷっくりと頬を膨らませた。
「な、なんか晶、母さんみたいなこと言ってない?」
「当然です! 今ならわかりますよ、日和さんがどんな思いで晴幸さんとお付き合いしていたか」
「ご、ゴメンナサイ……」
ご主人様がしゅん……と縮こまる。少し言い過ぎただろうか。とはいえ、不満は言わなきゃ伝わらない。大切な人とはいえ、偶には叱咤をするものだ。
「なんか、二人とも夫婦みたいだね」
「そ、そんなことないですよ!? ねえ、あき―――」
「えー? そう見えますかー? もうっ、良いこと言うじゃないですか、部長サン」
「………」
ご主人様は何を呆れてか、眉をひくつかせ、掌を額に当てた。
―――キャッ! 夫婦だなんて。何よ、イイコト言うじゃない。このセンパイのこと、ちょっとだけ見直したかも。
「い、井根森先輩はどう見えますか?」
「え? まあ、有り体に言葉を述べるなら『爆ぜろ』一択ですかなぁ」
「答えになってないですし、それ実はめちゃめちゃ根に持ってますよね!?」
「なら、せめてちゃんと彼女として見てやれよ、それとも、やっぱり二股は気が引けるか?」
―――む。二股とは聞捨てならない。ご主人様はずぅーっと、私だけに夢中ですよーだ。この前だって、三尾の邪魔さえなければご主人様とあーんなことや、こーんなことを出来てたはずなんだし。
と、私は丁度ご主人様と正面から向き合える位置に座ってノートを開く男子に睨みを利かせた。
名前は鷲津耶真人。同級生だ。あの三人組と同じく、クラスメイトでもある。
口が悪く、偉ぶっていて気に食わないが、文武両道でかなり頭が回るらしく、恐らく生研の部員の中では一番成績が良い。顔も悪くないのか、聞いた話では、割りと女子人気があるとかないとか。まあ、ご主人様の方が断然イケメンだが。異論は認めない。
しかも、本人曰く若葉教授――つまり、ご主人様の父親の晴幸さん――に憧れを抱いているらしく、何処か彼のことをライバル視している節がある。全く煩わしい。……ただ、互いに同じ人物を目標にしているからなのか、ご主人様とは気が置けない仲にもなっているのも事実だ。
「耶真人、だから言ってるだろ? 晶と三尾とはもう家族なんだから、今更そんな目で見れないって」
「家族、ねえ。んじゃ何か? 犬飼と猫宮の事は、妹かなんかと思ってんの?」
「うーん。妹はもう三人も居るからなぁ」
「じゃあ、姉?」
「それも違うかな。他に思い当たる従姉がいる」
「じゃあ、何なんだよ?」
「前にも言ったけど、やっぱり二人は幼馴染みって感覚が一番しっくりくる気がする」
「彼女じゃん」
「だから違うってぇ!」
「同棲する幼馴染があって堪るか!」
羞恥で頬を赤らめるご主人様も、怒りで真っ赤になるご主人様も、どちらも素敵で微笑ましい。だからもうちょっとだけ見ていたいけど―――
「耶真人。それ以上ハルキくんをからかうつもりなら、私が相手になるわよ」
これ以上彼がからかわれっぱなしだと、私としても気分が悪い。
より一層鋭さが増した私の視線に、耶真人は意外そうな顔をする。
「なんだよ、犬飼。お前が止めるのかよ」
「ええ、そうだけど。なんか悪い?」
「いや、悪かないけど……」
「別に、気分が悪いわけじゃないわよ。むしろ、どんどん言いなさい。広めなさい。あ、でも。どっちかっていうと、恋人以上夫婦未満ってところかしら」
「おいちょっと待てー?」
ご主人様の鋭いツッコミをあえて聞き流し、私は続ける。
「でもね、私の目が黒いうちは、遊び半分で彼にちょっかいかけたら許さないから」
ゴクリ……と耶真人の喉から何かを飲んだ音がする。
私はさらに当たりを強くして言った。
「次『二股』とか言ったら酷いわよ? どうせ私の勝ちで決着は付くんだから、変なこと吹聴して回ってると、その頭、蹴り飛ばしてゴールネットにぶちこむから」
「はい……すいませんでした……」
耶真人の声が震えていた。まったく、この程度でビビるくらいなら、はじめからちょっかいをかけないで欲しいものだ。
「あ、晶。うん。ありがとう。もう十分に伝わったと思うから、その辺にしてあげよ、ね?」
うーん……。ご主人様がそう言うのなら、今回はこのくらいで許してあげるか。もっと言いたいことはあるけど、彼が望まないことをしては本末転倒だ。
「ま、そういうわけだから。今度から気をつけなさいよね。あ、でもこれだけは覚えておきなさい。ハルキくんが一番好きなのは、わ・た・し、なんだからね?」
「だからさぁ! そういうこと言うから変な誤解されるんだよ!?」
もう、ご主人様ったら。今更何をおっしゃいますか。この前だって、寝ながらも私のここを揉んでくれたでしょう? それって、私の夢を見てくれてたってことじゃないですか~。いやん、相思相愛!
それを直接言葉にはしなかったものの、私はそれはそれはもう、無垢な笑顔と純粋な瞳でご主人様を見つめていた。
しかし、そんな私の太陽みたいな眩しい笑顔を遮る様に、北風みたいに冷淡な声と黒い影が差し込んだのである。
「―――ほう。それは聞捨てならない」
「「三尾!?」」
私とご主人様の声がぴったりに重なった。
不意の乱入者に思わず振り返ると、開けっ放しになっていた部室の扉に、三尾が腕を組んで佇んでいた。カッコつけちゃってまあ。
「よ、よう。お疲れー、三尾」
「ん。疲れた。なので癒しを所望する」
「癒やし?」
その時、三尾の瞳がキラリと光った。
私がそれに気付いたときにはもう遅く、先手を打たれて荷物を乱暴に押し付けられてしまう。怯んだ私を素通りし、アイツはきょとんとするご主人様の隣へ。そして、彼が何をと疑問を口にするより早く、すとんとお行儀よく腰を下ろすのだった。
「なぁっ!?」
「ちょおっ!?」
私とご主人様が同時に声を上げた。
あまりにも一瞬。電光石火。ほんの瞬きの間の出来事だった。
油断した。不用心だった。目の前には、ご主人様の膝の上に無表情のまま、ちょこんと座る三尾の姿がある。
「特等席」
そして、ニヤリと笑って一言。このドヤ顔である。
「ちょっと三尾! 何勝手にそこ座ってんのよ!?」
「油断大敵。隙を見せる晶が悪い」
「ちょっ、こら、二人とも……」
三尾は勝ち誇ったかのように、その平らかな胸を張る。
「そこは私の予約席なんですけど!? 後から来て割り込むとか非常識でしょうが!」
「む。晶こそ、先に来てベタべタしてたのだから、これぐらいは当然の権利」
「と、とりあえず落ち着いて……」
バチバチと火花が散り、互いに顔を近づけながら、部室に獣のような唸り声を轟かせる。
「あーそう! じゃあ、盗られたものを奪い返すのも当然の権利よね? 今日こそ白黒はっきりつけようじゃない」
「望むところ。どんとこい」
「………」
私は脚を開き、距離はそのままにして一歩も引かない姿勢を見せつける。
三尾もまた、飽くまでそこを退くつもりはないのか、座ったままで拳を握りしめた。
竜の姐さん曰く、売られた喧嘩は買うのが礼儀だという。であれば、遠慮する必要がどこに有るというのか。
「お前ら、いい加減に―――」
ゴングを鳴らす準備はできた。後はどちらかが動けば、骨肉相食むドッグでキャットなファイトが勃発して―――
「―――せいっ」
「あうっ!?」
「ぎゃん!?」
突然、脳天にずん、という衝撃が走り、三尾と私は悲鳴を上げた。
頭頂部から伝わる、このほのかな温もりと肌触り。そして激しい刺激と思いやりの込められた手刀は間違いなくご主人様のものである。
三尾を膝の上に乗せているというのに、器用に腕を伸ばして両成敗とは恐れ入った。
「子供か、お前らは。人の膝の上を巡って勝ってに争いんじゃありません。部室の備品が壊れたらどうするんだ」
「「ご、ごべんなざぁい……」」
全く、三尾の所為でご主人様に怒られてしまった。チラリと隣に視線を向けると、三尾と目が合う。アイツも同じ気持ちなのか、横目ながらに眼光鋭くこちらに視線を飛ばしていた。
……が、お互いにそれをしたら頭上から更に強い圧力が向けられたので、さすがに反省せざるを得なかった。普段は優しい性格の彼だが、怒らせると怖いのである。
するとそこへ、彼の怒りを和らげてくれそうな、甘い匂いが私の鼻を刺激した。
「あの~。良かったらこれ、どうぞ~」
のほほんとした気の抜ける声と共に、小袋が手渡される。
小袋の持ち主は、牧野舞桜だった。
私と三尾はその小袋を受け取って紐を解く。中身はクッキーだった。
「何よ、これ?」
「……クッキー?」
「はい。喧嘩しないで食べてくださいね~」
なんだかナチュラルに癪に障られた気がするが、今はご主人様の目もある。無下には断り辛い状況だ。
まあ、くれるというのなら断る理由もないので、私と三尾は素直に一つ摘んで口の中に放り込む。
形は丸く、チョコチップやプリントもないシンプルなものだが、一口サイズで食べやすい。噛むとサクサクという食感と共に優しい甘味が口の中いっぱいに広がった。
ほんのりとミルクの香りがするが、中々に珍しい味だ。生地からして市販品とは出来が違う。断言しよう。これは手作りの味だ。
「ふーん、そこそこ美味しいわね」
「ん。及第点」
「何処目線で言ってんだ、お前ら」
ご主人様からの鋭い突っ込みが入った。
まあ、この程度のお菓子ぐらい私達も作れますし? むしろ、ご主人様が望むならこれより美味しいものを作ることぐらいヨユーですよ、ヨユー。
「で、なんでこれを私達に?」
味よりも気になるのはそこだった。私も三尾も所属は運動部――三尾はあちこちを転々としているが――だが、ご主人様が居る関係上、生研には頻繁に出入りしている。ましてや、舞桜とはクラスメイトでもあるから、まあそこそこの付き合いではある。
だけど、手作りのクッキーを渡されるほど仲良くなった覚えはない。展開が不自然なのだ。
「ただの差し入れですよ~? 生研の皆さんに作ってきたものですけど、せっかくだから、お二人にも食べてもらおうと思いまして~」
「「―――は?」」
その言葉が、私と三尾の思考を一瞬だけ奪っていった。
見渡せば、他の男子の手元にも同じような小袋がある。ずっとご主人様しか見てなかったから、今まで全く気が付かなかった。が、そんなのはどうでもいい。問題はここからなのだから。
私と三尾はまさかと思って、ご主人様の方を見る。しかし、現実は残酷にも、恐れていた事実を淡々と告げた。
「……ん? ああ、もちろん、俺も貰ってるよ」
そう言って、ご主人様はポケットから空になった小袋を取り出した。
「「なんですと!?」」
私と三尾は、同時に声を上げてしまう。
生研部員の為に作ったというのならば、それはご主人様の為に作ったのと同義だ。
つまり、ご主人様が他人の手作りを食べてしまったことに他ならない。考え得る限り最悪の事態だ。もはや事案といっても差し支えない。
「な、な、な、な……!?」
ほら、三尾がカタカタと震えている。普段はクールを決め込んでるだけに、ここまで動揺するのも珍しい。
「若葉さん、もう全部食べてくれたんですね~。どうですか? お口に合いましたか?」
「うん、とても美味しかったよ。食べやすいし、疲れた時にいいね、これ」
「まあ! そう言ってもらえて嬉しいです~。また今度、作って来ますね~」
「「ダメーーーッ!!」」
思わぬ伏兵の到来か。何にせよ、今後アイツへの対応は見直す必要が出てきたわけだ。くそぅ、ご主人様に二度と他人の手作りなんて食べさせてなるものかぁー!
「う~ん……ふあ~。良く寝た~。……ん? なんか賑やかだね、未來ちゃん」
「あんたもほんっとマイペースよね……」
「ふぇ? なんの話?」
「なんでもないわよー」
「ん~?」
流石に騒がしいと感じたのか、熟睡していた風羽沙耶が目を覚ました。状況が全く呑み込めず、寝ぼけた顔のままハテナマークを浮かべていた。
「あ、そうだ。牧野さん。例の件だけど、ご両親には伝えてくれたかな?」
「例の件、ですか~?」
部長サンの問いかけに、舞桜は首をかくんと首を傾げる。思い当たるものがないか、脳内を検索中のようだ。読み込みは遅そうだが。
「ああ、ごめんごめん。ほら、牧野さん所の牧場を見学させてもらえないかって話だよ」
なるほど、その話か。と私まで納得してしまった。
そういえば、牧場なんだっけ、アイツの家。結構大きなとこらしくて、肉とか牛乳とか卵とか、近くのスーパーで売ってる畜産物の大半は、その牧場からの産直だ。品質も申し分無いから私たちもよく買っている。
思えば、このクッキーも自家製のミルクで作ったものなのだろう。
しかも、未來と沙耶の家族も住み込みの従業員として働いてるらしくて、三家族で牧場経営をしてきたのだそうだ。
―――っていうのを、前にペラペラ喋っていたのを思い出した。その関係もあって、あの三人はずっと姉妹のように育ってきたとも。
まあ、でも、なるほどね。それならいつも三人で一緒にいるのも納得できる。私とご主人様、それと三尾と似たような関係にあるわけだ。
ついでに言うと、生研に入ったのは、入学式の日に部員が足りなくてセンパイ二人が手当り次第に勧誘していたところに捕まったらしい。家が牧場をやっていると話したらそれはもう凄い勢いで勧めてこられたられたんだとか。
初めは部活に通う気もなくて、勢いに押されたような所はあったみたいだけど、面白そうだから入部したというのが本音だそうだ。
ちなみに、あのクソお嬢サマの紹介で、生研に興味を抱いたご主人様も当然の如く勧誘を受けたのだが、そのプロフィールを知ってセンパイ二人が愕然としていたのを覚えている。何せ、有名な学者のご子息だ。驚かないはずがないだろう。
―――で、部長サンの言う例の件というは、要はアイツらの家で牧場体験がしたいという話だ。そこで体験したことや家畜達の生態なんかを資料に纏めて、文化祭の出し物にするのだとか。つまりは、れっきとした部活動、生研らしい生き物の研究の一貫ってわけ。
「ああ、そのお話ですね~! お父さんは、何時でも良いいって言ってましたよ~」
「んー、そっか。なら九月ぐらいにお邪魔しようかな」
「え、九月ですか? 夏休み中の方がよくないですかね?」
ご主人様の意見は最もだ。文化祭当日では各クラス、各部活ごとにそれぞれ出し物をする中、生研では生き物のスケッチや写真とかを使って来客に紹介することぐらいしかやることがない。いやまあ、売店を出すとか、もっとやりようはあるのだろうけど、生研らしい出し物というと、これが妥当という話だ。
開催は十一月の終わりで、まだ半年以上もあるが、それまでには資料を纏めて、台本も作って準備をしないといけない。映像を使うなら、動画編集の時間だって必要だろう。何事も早いうちに済ませておいて損はない。
となると、ベストなのは夏休み中。宿題さえささっと終わらせてしまえば、あとはゆっくり資料集めや編集作業に集中できるし、それまで何も出来ないというのももどかしいはずだ。
「それもそうなんだけど、ほら、夏休みは海に行こうと思ってるからね」
「海って……あ、そっか」
「先輩、詳しいのは水棲生物でしたもんね」
何かピースが埋まったように天井を見上げるご主人様に耶真人が続く。
「僕も、これが最後の文化祭になるだろうからね。海岸で捕った生物を解説しようと思ってる。なるべく身近なのを捕まえたいね」
もちろん、君達にも手伝ってもらうからね、とセンパイが続けた。すると、ご主人様はポンと手を叩いた。何か名案を閃いたらしい。
「だったら、折角なんで、うちの家族と海に行きませんか?」
「はあ!? え、お前それマジで言ってんの!? マジなの!? ねえマジなのー!?」
「いや、落ち着け」
「おお……! それは、渡りに船な提案ですな」
「こっちはそれで願ったり叶ったりで嬉しいけれど、本当に良いのかい? ご迷惑になったりしないかい?」
生研の男連中から驚愕と疑問の声が続々と上がる。特に耶真人に関しては、興奮して机に乗り出してくる始末だ。……それ以上ご主人様に近づくと蹴るわよ。
とはいえ、男連中が盛り上がるのもわからないわけでもない。
晴幸さんは世界的な生物学の権威で、日和さんは若くしてあらゆる医学を修めたスーパードクターだ。どちらも創命大を代表する名教授であり、生物オタクな彼らからすれば、一度は合ってみたい人物ナンバーワンに該当するだろう。というか、粛々と機会を伺っていたはずだ。
一方で、あっちの女子三人はさして興味は無さそうだ。精々、海に行くと言われて水着の準備がどうこうと相談を始めたぐらいである。
ちなみに私と三尾はというと、ご主人様が決めたことなら、特に異論は無い。ぶっちゃけ、ご主人様に水着を見せられる機会があればそれで良いし。
「大丈夫だと思いますよ。うちの家族、そういうのは大歓迎ですから。な、晶、三尾」
「私はどちらでも。ハルキくんとご家族がそれでいいなら従います」
「ん。右に同じ」
「なんだよー。連れないなー」
そうは言われても。私はご主人様と一緒にいられるなら、なんでもいいですから。
「な、なあ、晴樹。当然、教授も来るんだよな?」
「そりゃ、もちろん。来てくれないと、話にならないだろ? まあ、確かに。普段は忙しい両親だけどさ。こういう時だけはちゃんと都合とってくれるんだぜ。だから、期待していいと思う」
「よっしゃ! やった! サイン貰おう!」
「いや芸能人じゃねえんだから」
ご主人様は、子供みたいにはしゃぐ揶真人を見て、頬を釣り上げて苦笑いした。彼の立場からしたら、この上なく気恥ずかしいだろう。
「ねえねえ。だったらさ、お昼はバーベキューにしようよ。どうせなら、皆でワイワイする方が楽しいでしょ?」
「お、風羽にしては良い提案するじゃん」
「むっ。私にしてはってなにさー!」
ケラケラと煽る揶真人に沙耶がぷっくりと頬を膨らませた。
「なら、機材はこっちで持ってくるよ」
「え、良いの!?」
「さっすが、晴樹。気が利くぅ」
「実は、始めからそのつもりだったんだよね。やっば、アウトドアにバーベキューは鉄板でしょ! それに、どうせ移動は車なんだ。家族で来る僕ら方が、その辺り都合がいいだろ?」
確かに、と周囲が頷いた。
「となると、あとは食材だな。手分けして出し合うか?」
「でしたら、お肉はこちらに任せてくださいな~。ね、未來さん?」
「オッケー。うちの豚小屋特製厚切りベーコンとソーセージを持ってきてあげる」
「「何それ美味そう!?」」
「鶏肉もあるよー」
「私も、美味しい牛肉を持ってきますね~」
肉の話題に、ご主人様も揶真人も興味津々だ。まあ、バーベキューにおいて、肉は鉄板中の鉄板だものね。串にしろ分厚いステーキにしろ、豪快に焼いてこそのBBQだ。それに、これは私と三尾にとっても魅力的な話でもある。
現地でバーベキューをするというのなら、当然、料理は私と三尾の役目だ。質の良い食材を提供してくれると言うのなら、こっちも腕が鳴るというものだ。
「いつの間にか、普通に海水浴の話になってますぞ部長」
「まあ、それくらい全然構わないさ。折角海に行くのに、部活するだけじゃつまらないしね。めでたいことに、今年は女子も多いわけだし」
「はっはっは。そこは激しく同意ですな」
そうして、生研はすっかり海水浴の話で持ちきりとなり、夏休みの計画もいい感じに目途が立った。するとそこへ、やる気の無い声と共に部室の扉がガタンと音を立てた。
「おーい、お前ら。そろそろ部活終わるぞー」
顧問の小山秀太だ。そういえば、顧問の存在を忘れていた。
気さくで親しみやすく、生徒ともフレンドリーに接する二十五歳前後の若手教師だ。その性格故か、同学年からはそれなりの人気があると聞く。ちなみに、私たち一年組のクラス担任でもある。担当教科はもちろん生物基礎だ。
「お、犬山と猫宮もいたのか。お前ら、部活違うのにすげー馴染んでるよな。ってか、よくよく考えたらほとんど俺んとこのクラスのやつしかいねーわここ」
などと小山は愚痴っぽく言った。
ちょうどいい。話もまとまったところなのだし、部長サンには今までのことを説明してもらおう。
ちなみに、同じ苗字が三つも並ぶのもややこしいということで、私と三尾のことは小山からも旧姓の方で呼ばれている。
「先生、夏休み中の活動についてなんですけど―――」
小山は部長サンから話を聞くと、少しだけ考えて。
「―――まあ、なんとかなるだろ。教授としての参加の場合は大学に確認しないとだからメンドーだが、保護者同伴ってことなら、後は親御さん次第だ」
「保護者同伴って……ぷっ」
「笑うなよ」
耶真人はご主人様を見てクスクスと笑う。ご主人様は、そんな揶真人にジト目で睨みつける。
もちろん、私も気に食わないので、同時に視線を送ると揶真人は背筋を凍らせた。三尾もクール振ってはいるが、あまりいい顔はしていない。
「さてと。話も決まったことだし、自分はもう帰らせていただきますぞ。この娘達にも、そろそろ餌をあげなければなりませんしな」
ささっと荷物を纏めた井根守センパイは、鞄を肩にぶら下げてすっと立ち上がった。
「今日はありがとうございました、井根守先輩」
「いやいや、こちらこそですぞ若葉氏。後輩にうちの娘たちを見せて喜んでもらえて、自分も嬉しかったですからな。また今度、気が向いたら連れてきますぞ~」
そう言うと、センパイは憎きイモリとヤモリの入ったかごを大事そうに抱えて部室を出ていった。
時計を見ると、もうすぐ午後六時を回る。お開きにするには良い時間だ。
「僕達も、そろそろ帰ろうか。晶も三尾も、明日は活躍しなきゃだしね」
「まっかせてください!」
「ん。がんばる」
ご主人様の「お疲れ様でした」に対して「おつかれー」と返事を受けて、私達三人も部室を後にした。さて、明日は球技大会だ。ご主人様に私のかっこいいところ、見せちゃうぞー!