第6話 桜の花にミツバチは舞う
――十年後――
―――夢を見た。俺がフリスビーを片手に、飼っているイヌとネコと野原を駆けっこする夢だ。
イヌの犬種は、キツネのような赤い毛並みの柴犬か、或いは秋田犬か。
ネコはあの特徴的な真っ黒な毛並みから、多分ボンベイだろう。
二人とも、まるで夕方の砂浜で追いかけっこをするカップルのように、俺の跡を必死についてくる。
いや、その表現で言うと追いかけなきゃいけないのは俺なのだが。しかも二人いるし。まあ、そこは夢なので気にしない。そもそも相手はペットだし。
俺は突然立ち止まり、くるりと片脚を軸に向き直ると、手に持っていたフリスビーを「取ってこい!」と叫んで放り投げた。
すると、イヌが全身をバネにして軽々と高く飛び上がり、俺が投げたフリスビーを口で器用にキャッチした。ずっと走っていたのだし、助走も十分だったのだろう。夢とはいえ、良くできたものだ。
イヌはフリスビーを咥えたまま俺の下へ走ってきた。よっぽど褒めて欲しいのか、くるりと巻いた尻尾を千切れそうなぐらいブンブンと振り回して胸に飛び込んできた。
俺は彼女を両手で受け止め、ワシャワシャと頭を撫でる。すると、思わずフリスビーを離して俺の頬をペロペロと舐めてきた。
まるで飴玉のように舐められる俺だったが、別段気持ち悪さは感じない。だってイヌだし。これは単なる愛情表現だ。
というか、これは夢なんだ。だから、いくら舐められても気持ち悪いと思うはずが……はずが……
―――ちょっと待て。舐められる感触だけがやたらリアルに感じるのは何故だ!?
俺は慌てて彼女の毛を触った。夢の中なんだ。触ったところでリアルに感じることはないはず。もし感じたとしても、それはこの出来事を夢だと認識できない脳が錯覚しているものに過ぎないはずだ。
だが今の俺はこれが夢だと認識している。つまり、何を触っても特になんの感覚も無いはずなのだ。
「あんっ」
―――へ? イヌが喋った? というか、喘いだ?
い、いやいやいや。落ち着け。そうだ落ち着くんだ俺。だってこれは夢だ。例えイヌが喋ったり喘いだりしたところで、ここは俺の妄想の世界なのだからなんの不思議なことは無い。無いのだが……
―――おかしい。何かがおかしい。何故だろう。俺は毛を触ってるはずなのに、どうしてこんなに柔らかいのだろう。もしかして、実は俺はちょっと太り気味のイヌが好きなのだろうか。いやそんなマニアックな。イヌ限定のデブ専とか意味わからんわ。まあ、中にはそんな飼い主もいるのかもしれないが……。
……ん? 柔らかい? そもそもなんでそんなのが判るんだ? だって、これは夢なんだろ?なんで脂肪の質感がこんなにリアルなんだよ。それに、心做しかイヌの息が荒くなっているような。
ま、待てよ。いや、まさかそんなことは……。
時間が経つほどに異常を検出し続ける夢世界で、覚醒しつつある僕の脳が、意識が、一つの答えを導き出す。それは、他人から見ればきっと羨ましすぎて殺したくなるような、そういうあのシチュエーションだ。
「ちょ―――ちょっと待てーー!? あいたっ」
「ぷぎゃっ!?」
無理矢理瞼をこじ開け、今の自分に何が起きているのかと思って飛び起きた僕は、直後目の前にいた誰かの額と額をぶつけてしまった。
「いっつつ……」
痛みに悶え、ぶつけた部位を手で抑えていた俺は、ただ目の前の事実を直視した。
「はう~」
そこにいたのは、あの夢に出てきたあのイヌのように、明るい色の髪の少女だった。布団の上にぺたんと剥き出しの腿をつけていた彼女は仰向けに眠っていた僕の体に馬乗りしており、先程僕とぶつけたのであろう額を可愛らしくも両手で抑えて悶ていたのである。
「……あ、晶……?」
僕がその少女の名前を呼ぶと、彼女は指の隙間から眼を覗かせて、次にぱっと両手を開いて真っ赤になった額を顕にすると、こう言い放った。
「おはようございます。ご主人様!」
4月9日 金曜日
――A.M.7:42――
「ああ、うん。おはよう、晶……ってそうじゃなくてっ!」
「……?」
「わざとらしく首を傾げるな! お前、俺が寝てる間に何かしてたろ!?」
というか、まずはそこを退いてください。目覚めていの一番、可愛い女の子が起こしに来てくれる。こんなラノベ小説みたいな展開は男なら誰しも思い描く夢なのかもしれないが、実際にやられるとキツイものがある。
特に、思春期童貞お年頃の男児にとっては、色々と困るというものだ。
「だって、ご主人様ったら全然起きなかったんですもん」
「……それは、まあ、僕が悪かったけど。いやだからそうじゃなくって」
知りたいのは、僕が寝ている間に何をされていたかだ。ぶっちゃけ、あの夢での出来事を思い返すなら、何が起こっていたのか予想できなくもないのだが……。
どうかあれがただの夢でありますように。僕はもう神でも仏でもなんでもいいからとにかく祈った。
「それはもちろん、ご主人様の愛しい寝顔をペロペロしてただけですよ?」
しかしその祈りが届くことはなく、どころか目の前で霧散した。
……どうにも、僕の祈った神やら仏やらは、無慈悲なお方だったらしい。
頬を触ると、生温かく湿っていた。
「あのさあ……」
「……? 何か問題でも?」
「問題大有りだわ! このド変態ッ‼」
朝っぱらからこうして怒鳴るのもかったるいが、最早そうするより他なかった。
しかし、オレンジ掛かった栗毛の少女は、何の悪びれる様子も無く、むしろ既に腫れが引いていた額の代わりに頬をぽっと赤らめていた。
「そんな~、褒めないでくださいよ~。私照れちゃう」
「褒めとらんわ。というかいい加減そこ退けよ」
僕がそう言うと、彼女はしぶしぶと悲し気な顔をして、僕の身体、もといベッドの上からぴょん、と飛び降りた。僕も起き上がり、布団を退かして立ち上がろうとすると、少女がくるりと向き直ってあざとい笑みを浮かべた。
「でーもー。ご主人様だって、人のこと言えないじゃないですかー」
「な、なんのことだよ」
ぼ、僕が人のことを言えない、だって? いやいや、まさかそんなまさか。
こっちは被害者なんだ。顔面を直接舐められる以上の変態行為なんてあるはずが―――
その時、僕の脳裏に夢の中で起きたあの感触が微かに呼び起こされる。
そう。始めに異常を感じ、夢だと確かめようとして掴んだあの質感。頬をつねるわけでもなく触った程よく柔らかでかつボリュームのあったあの肉感。
―――嘘でしょ……。
僕は心底自分に失望した。そして同時にこの世の終わりを感じた。
動揺のあまりぱちくりさせる視線を、ある一点、いや二点? に集約した。せざるを得なかった。
気づけばわきわきして言うことを聞いてくれない右手。信じたくないと現実逃避して真っ白になる頭。そして、腕を組んで平均よりも少し大きめで程よく揺れる胸部を強調する晶。
最早言い逃れはできない。やってしまったのだ。僕は。
数秒か数分か。沈黙を破ったのは満更でもない笑顔を浮かべる晶であった。
「あ、さてはご主人様、本当は起きてたんですね?」
「あ、いや、ちg―――」
「やんもう! ご主人様のいけず! こっちの準備はとっくにできてますよ?」
うわっ、こいつ目付き変えやがった。あれはもう、獲物を狙う捕食者の眼だ。
まずい……逃げ場がない。こ、このままでは僕の貞操がなんかこう、すごい感じに……!
ああ、せめて、せめてもっとロマンチックに卒業したかった……。
「―――はあ。朝から騒がしいと思ったら……」
そこに現れたるは天の助けか。いや、ネコの手と形容しても良いかもしれない。
声の発生源は部屋の出入り口から。扉を抑え、怪しい手付きで這い寄る晶に心底冷たい目線を送る、黒髪の少女の姿があった。
「何よ三尾。今いいところなんだから邪魔しないでよ」
「いや、邪魔する。するべき。何よりご主人様が困ってる」
「困ってるんじゃなくて、恥ずかしがってるのよ。ご主人様ったら奥手なんだから。まあ、今朝はちょっとだけ積極的だったけど?」
「どうせ、晶がちょっかいかけてるだけ。ただの不可抗力に違いない」
「何よ、ご主人様が私に興味無いって言いたいわけ?」
「ん。そう」
栗毛の少女と、黒髪の少女がバチバチと視線を交わして睨み合っていた。それはもう、まるでペットのイヌとネコが互いを威嚇し、見合っているような、そんな構図だ。
はあ、弱ったなぁ。と僕は一つ溜息を吐く。起きて早々に猥褻行為をされるのは問題外としても、喧嘩されるのも面倒だ。
「お前らその辺にしとけよ。朝から喧嘩すんなー」
「「はーい」」
僕が一言注意するだけで、それまでいがみ合っていた二人が嘘のように声を重ねた。ぶっちゃけこの切り替え様はちょっと怖い。
「それじゃあ、ご主人様。朝ごはん出来てますから、早く食べに来てくださいね」
「ん。待ってる」
「うん、わかった」
最後にそれだけ言い残し、二人は部屋を後に―――
「あ、そうそう」
―――しなかった。
「……ん? なんだ、まだ何かあるのか」
「お着替え、済ませるなら私達は居ないと思ってくたさいね?」
「なんだったら手伝う」
はっはー、こいつら年頃の男子を何だと思ってるんでしょうかねぇ?
あとその気持ちの良いサムズアップやめい。微妙に腹立つから。
「お前らほんっといい加減にしろよ……」
呆れきって最早ツッコむ気力すらなかったが、せめてもの意思表示に僕は震える声で強く、強く拳を握った。
―――はあ。これがなかったら、二人とも普通の女の子なんだけどなぁ。
などと喚いても仕方がない。こういうのは、割といつものことなんだから。
そう。これが僕の、いつもの騒がしい日常の朝なのだから。
――A.M.8:23――
朝食を食べ終えて身支度を整えた僕達は、制服に着替え、鞄を携えて家を出立する。
季節は春。新しい草木が芽吹き、花が咲き、土の中で眠っていた虫たちがせっせと働き出す。暖かい風が命を運ぶ季節だ。人もまた心機一転、産まれ変わる様に新しい生活が始まる。或いは出逢いと別れのロマン溢れる季節とも。
かく言う僕達も、今年から晴れて高校生なった。新しい制服、新しい鞄、新しい靴、新しい通学路。何もかもが新鮮で、今の僕は後ろから吹いてくれる暖かい風と同じくらい爽やかな気分だ。
……と、言いたいけれど。そうもいかないのが我が家の家庭事情。華々しい高校生活を飾るであろう登校初日でも、家の頼りになる問題児達は容赦がない。
「はあ、まさか本当に着替えを覗き見されるだなんて……」
抜かった……。まさか、ベッドの下に隠しカメラを仕掛けられていたとは……。これじゃあエロ本も隠せないじゃないか! あいや、買う気は無いけどね?
「「いいモノ見させていただきました!」」
「やっかましいわッ!」
だからその、いい感じの顔でサムズアップするのやめなさいっての。僕は通学路のご近所さんに朝から迷惑を掛けないぐらいの声量でツッコミを入れる。
この二人もなあ。こんなんじゃなかったら、普通に可愛くて、普通に女子力が高くて、普通にモテる女の子なんだけどなあ。等と思うのも何回目だろうか。
はあ、と僕はまた溜息をつく。今朝だけで三回目とは、こんな調子で大丈夫なのかな、僕の高校生活……。
「ん? どうかしたんですか、ご主人様? 顔色が悪い様子ですけど……」
犬飼晶。十年くらい前から家に居候している女の子で、歳は十六歳。
居候と言っても、戸籍上は養子ということになっている。つまり、僕と彼女は一応義兄妹の関係にあるわけだが、同い年ということもあり、僕としては幼馴染みの同居人というイメージが強い。
普段は明るく活発で、テンション高めの女子像だが、先の通り性格に難有りの問題児である。あと、まるでイヌの尻尾みたいにちょいちょい揺れるあのアホ毛が妙に目立つ。
「気分が悪いなら、休んだ方がいい。なんなら私が運ぶ」
黒髪の彼女の名前は、猫宮三尾。晶と同じく十年前から家に住むもう一人の居候だ。実は晶とは従姉妹の関係にあって、歳も同じ。
感情的な晶と比べて非常に理性的で、黒髪とあまり感情を感じさせないジト目が特徴だ。口数が少なくてちょっとぶっきらぼうに見えるけど、決して無愛想というわけでもないクールな性格の持ち主だ。まあ、何かと晶と張り合ったり悪乗りして奇行に走ることもままあるんだけども。
「あのなぁ。ったく誰の所為だと思ってんだよ……」
そして僕は若葉晴樹。
自分で言うのも難だが、平々凡々なごく普通の学生だと思う。成績は中の上と下を行き来するようなぐらいで、それ以外の特徴といえば、背丈が平均より低いぐらい、かな。多分、今の僕よりも晶の方が若干背が高いかも。まあ、特別低くてチビ扱いされる程ではないけど、男らしさがあるかと問われれば迷わず皆無と答えられるだろう。あとはまあ僕陰キャの自覚があるくらいだし。
「にしても、一体あんなのどこから仕入れて……まさか、父さんか母さんの差し金か!?」
そう言うと、二人はニヤリと笑った。
片方か、或いは両方か。いずれにせよ、なるほどそうだと考えれば合点がいく。いきたくないけど。
全く。あの両親にも困ったものだと、今度は心の中で溜息を吐く。実に良い迷惑だ。お節介にも程がある。というかいくら何でも覗き見させるとか、お節介のレベルを遥か超えている。それを進んで行うこの二人の方にも問題はあるのだが。
人生をまともに全うしたい僕としては、できれば健全なる高校生活を送りたい。まあ、それが既に脅かされているわけんなんですけど。
なんて考えていると、あっという間に高校の校門前まで着いてしまっていた。この学校は山の中腹にあるはずだから、通学路の途中に上り坂があるはずなのだが、考え事をしながら歩いていると意外と気にならないものなんだな。
校門を潜った先には時計台を中心としたロータリーがあり、右手には自転車置き場と学校図書館、左手にある下り階段の先には広いグラウンドが見える。
そして、そのロータリーを超えた先にある大きな校舎。ここが今日から僕らが通うことになる『私立代美波学園高校』だ。
文武両道の普通科高校であり、部活でも学力でも大学進学を目指せるれっきとした進学校だ。
なんでも、理事長の意向で父さんと母さんのいる大学と提携していて、毎年大学から教授がやってきては各学年に向けて特別講義をしてくれるらしい。
しかも、成績・功績によっては大学への特別推薦なんかも検討してもらえるそうだ。最も、僕のレベルじゃあそういうのは無理そうだけどね。まあ、伝手を使えば貰えなくも無いだろうけど、それをやったら必死に勝ち取った生徒から恨みを買いそうだ。
不意にひらり、とサクラの花びらが落ちてきた。見上げると、そこには立派な二本のソメイヨシノの樹が校門を挟む様に佇んでいる。この時期のサクラの花なんて日本では特別珍しいものでもないはずなのだが、春風に煽られて舞い散る花吹雪が僕達新入生を歓迎しているように思えるのは、本当に不思議だ。
見上げて気づいたが、いつの間にか僕らと同じ新入生らしき生徒が校門前に集まり始めていた。いや、というよりは単に気づいていなかっただけなのだろう。なにせ坂道ですら気にしていなかった鈍い勘だ。人の気配にだって鈍感でもおかしくない。
「さあ、ご主人様、行きましょうよ」
「ん。早くしないと、入学式に遅れる」
晶と三尾の声で、僕はふと我に返る。どうやら新しい校舎を見てぼーっとしていたらしい。
「ああ、ごめん。ってか晶、外でご主人様はやめろって、いつも言ってるだろ」
僕は慌てて周囲を見渡した。真面目な話、今の会話を誰かに聞かれていたら、僕の華々しい高校生活が一瞬にしてどん底行きだ。
ただ、あまり大袈裟にキョロキョロしても逆に怪しまれるだけなので、そこは気をつけて目立たないようなるべく眼だけを動かした。
―――よし、特に誰も僕を訝しむような反応は無い。はず。僕はほっと安堵の息を漏らす。
見渡して気づいたが、ロータリーや昇降口前では既に二人以上のグループで集まっている姿がちらほらと見受けられる。男子は男子と、女子は女子と。もちろん、中には僕らのように男女でつるんでいる生徒だっている。
旧知の仲か、それとも早速知り合った新しい友達か。何れにせよ、どれも仲が良さそうな組み合わせばかりだ。
と、そんなことを言っている場合ではなかった。まだ時間に余裕はあるが、いつまでも校門前で立ち往生しているわけにもいかない。それこそ周囲から視線を集めてしまうというものだ。さっさと教室に向かってしまおう。
僕がそそくさと歩みを再開すると、晶と三尾は何も言わずに後をついてくる。
校門からロータリーを抜け、昇降口前まで移動すると、そこにはずらりと新入生の名前が記された看板が立っていた。
まあ、わざわざ説明する必要もないだろう。これから世話になる教室を記したクラス分け表だ。この学校は一度決まったら三年間クラスが変わらないらしいから、ここで仲の良い友達と一緒の学び舎になれるかどうかが決まる、重要な分岐点だ。
「えーっと……。あっ、あったあった」
思いの外早く自分の名前が見つかった。
それもそのはず。一年生の教室は全部でA~Eの五クラスあるのだが、僕の名前があったのが一番最初のAのクラスだ。名前は五十音で並んでいるみたいだったから、大体最後の方を探せば直ぐに見つかった。
因みに、晶と三尾は家の養子ということで、戸籍上の姓はちゃんと「若葉」になっている。ただ、二人は元の姓を名乗りたいらしく、形式上は旧姓を名乗っているのだ。
とはいえ、テストや受験票なんかではしっかりと現姓で記載しなければならない。よって、もし二人が僕と同じクラスなら、彼女達の名前が僕のを上下に挟んでいるわけで。
果たして僕が言うよりも早く、二人は歓喜の声を上げていた。
「あった! ありましたよごしゅ……ハルキくん! 同じクラスだよかったぁ~」
「ん。あった。私もごしゅ……ハルキくんと同じクラス」
「ごしゅ……」って、なんで二人とも普通に僕の名前呼べないのさ。そんなギリギリのライン責めなくていいよ。
と、ツッコミたくなったのだが、これはもう小学校の時にも中学校の時にも何度もやった下りだ。いい加減指摘するのも億劫なので、何も言わないことにしておく。それはそうと名前ぐらい普通に言いなさいよ。
そんなわけで、自分達のクラスを把握した僕達は、五階建て本校舎の四階にある教室に向かった。
教室に入ると入学式が始まる時間まで席で待つことになっていた。席は番号順―――つまりはクラス分け表と同じ五十音の並びになっていたので、僕達はちゃんと指定された席に座った。
ただ、席が僕の前後になった二人がうきうきして着席していたのは言うまでもない。
時刻が九時十五分を回ると、ガラガラと教室の扉が開いて、教師らしき男性が入ってきた。
男性は持ってきたリストから順番に生徒の名を読み上げて全員の出席を取ると、席順に廊下に並ばせて五階にある講堂へと向かった。
こうして新入生達がこぞって歩く姿はまるでアリの行進か、或いは蛇行するヘビのようだ。高校ともなると小学校や中学校よりも人数が多いから、さぞでっかい大蛇なのだろう。
『―――新入生入場』
マイクとスピーカー越しに講堂に響くその言葉と共に、僕達新入生が会場に入場する。
こういった空気にはお決まりの緊張感の中、妙に規律正しいヘビはうねりにうねって各自の席の前へ。そして『―――着席』の言葉と共に一斉に着席した。
着席するまでの間、保護者、来賓、教職員、在校生と会場に出席する人々から温かい拍手が送られる。本当に温かく送る人もいれば、適当に手を叩くだけの人、全く叩いていない人もちらほらと居た。まあ、普通はそんなものだろう。
ちなみに、この入学式には、僕達の保護者は来ていない。家は親族も含めて多忙な大人ばかりだから、こういう学校行事への参加は中々に厳しいのだ。まあ、昔は何かと時間を作ってくれたけど、最近はめっきりだな。寂しくないかと言われれば、寂しいけれどこの歳になってまで我儘を言うものでもないし。仕方ないだろ。
新入生の入場が済むと、そこからは新入生代表による宣誓だったり、校長先生による祝いの言葉だったり、淡々とプログラムが進んでいく。にしても校長先生の話って、なんであんなに眠くなるんだろうな。そこにいる女子なんて既に夢心地なんですけど。
『―――在校生代表。生徒会長祝辞』
マイク越しに式を進行させる司会の言葉に従って、一人の生徒が行動のステージに登壇した。
凛とした姿勢。一糸乱れぬ佇まい。大勢の前だというのに、彼女は余裕の笑みで講壇の前に立つ。
会場がざわついた。新入生達から動揺の声が上がる。一体何百回練習したら公衆の面前であんなにも綺麗な背筋で前に出られるのだろうか。
いや違う、そうじゃない。確かに僕はそう思ったけどそこじゃない。
僕達新入生の前に立った人物。彼女を今見た感想を一言で言うのは、そう難しいことではない。
ザ・生徒会長? 確かに間違ってはない。だけど違う。
優等生っぽい? それもそうだろう。だけど、もっと外見的な特徴を端的に表すことができる。
―――即ち、『金髪の美姫』。この一言に尽きる。
男女問わず黄色い歓声のようなものが聞こえた。もちろん、突然わーっ! と叫ぶのではなく、抑えようとしても漏れ出てしまった小さな声が積み重なっているだけのものだ。
因みに、何故あえて「美女」ではなく「美姫」と表現したのか。それは、美しい生徒会長様が言い放った次の挨拶を聞けば、嫌でも納得すると思う。
「ご機嫌よう、新入生の皆様。私はメリッサ。この学校で生徒会長を務めます三年生の八城メリッサですわ」
生徒会長、金髪、流暢なフランス語、そして極めつけのお嬢様属性。
顔を見る限り、多分ハーフっぽい。日本語まで流暢なあたり、帰国子女といった所だろうか。
うーん、属性の大渋滞。あとルビ振り多い。
その物珍しさ故か、普段は他人に興味を持たない晶と三尾すら相当のインパクトを受けていた。僕だって、開いた口が塞がらないくらいには驚いている。
生徒会長の八城メリッサさんが口を開く度、会場は騒然とした。最早新入生達が祝辞を聞いているかも怪しい。
それに気付きながらか、はたまた気付いていないのか。会長さんの言葉には全くブレがない。
それどころか、堂々と胸に手を当て、大衆の前で気持ちよさそうに声を上げるあの余裕というか、プライドの高そうな姿勢は、祝辞というよりはもう演説だった。
他の来場者に目を向けてみると、保護者の方々は新入生と同じく眼玉をぱちくりさせて、ざわざわしていた。
在校生の先輩方はさも当然のような顔をして、なんか達観している。
先生方に至っては、新入生に注意する素振りもなく、むしろどうしようもないと諦めているのか、中には朗らかに笑う人の姿もあった。
「―――と、言うわけで。新入生の皆様には、良き高校生活が遅れますよう、生徒代表として陰ながらお祈り申しておりますわ。ご機嫌よう」
―――オ・ル・ヴォワール。確か「さようなら」とか「またお会いしましょう」って意味だっけ。
会長さんは優雅に、そして慎ましく一礼すると、登場の時と同じように凛とした佇まいでステージを降壇した。
―――ん? 今一瞬、こっちに目配せしてきたような……? 流石に気の所為、だよな?
――P.M.13:23――
「ふう~。ようやく終わったか~」
――――キーンコーンカーンコーン。
この学校で聞く初めてのチャイムと共に、僕は疲れたと言わんばかりにぐでんと身体を伸ばした。
入学式が終わると、その次は教室でホームルームの時間だ。
教室に戻るとこれから必要になる教科書がどん、と机の上に用意されていて、まずはそれを鞄の中に詰める作業が始まった。
それが終わると、次はクラスメイト全員の自己紹介が始まった。と言っても、僕はほとんど聞き流していたが。
人の話を聞くのが苦手というわけではないが、さっきの生徒会長のインパクトにやられて、正直他の人間へ興味を向けるのがちょっと億劫になっていたのだ。
その後は担任の先生の自己紹介と、今後の学校生活についてあれこれと言われて、なんだかんだ気付けば午後一時を過ぎていたわけだ。
「お疲れ様、ハルキくん。このあとはどうします?」
「購買開いてる。何か買ってこようか?」
机にだらんと身体を乗っける僕に、前後から質問が殺到する。まあ、晶と三尾なんだけど。
「そうだなぁ。うん、お願いしてもいいかな?」
スキル「怠惰」発動! はっはっはっ! この俺がこんなかったるいときに自ら動くと思ったか!
というのはほんの冗談で。本当は晶と三尾を僕から一度引き剥がしたかっただけなんだ。
だって、こうでも言わないとあの二人は僕から離れようとしないんだもん。僕だって、偶には一人で居たい時ぐらいあるさ。まあ、かったるいっていうのは本音だけどネ!
「何がいいですか? サンドイッチですか? それとも無難に焼きそばパンとか行っときます?」
「おにぎりやカレーとかもある」
「なんでもいいよ。二人で僕が気に入りそうなものを探してきて。あ、でも買い過ぎないようにね」
この場合、「なんでもいいよ」というのは非常に困る解答のはずなのだが、それでも二人は屈託のない笑顔で返事を返してくる。
意地悪だったかな、とこっちが罪悪感を感じるくらいに、純粋な笑顔だ。
「はーい! わかりました!」
「ん。了解」
そういうと二人は、財布を片手に購買へ向かおうとする。しかし、その道を塞ぐように、三人の女子が僕達の前に立ちはだかった。
「ねえねえねえ! 三人ってさ、名字おんなじだよね! どういう関係なの?」
「兄妹……にしては似てないっていうか、なんか他人っぽい感じよね。でもその割には仲良さそうだし……」
「あっ、もしかして、偶然苗字が同じのカップルさんとかですか~?」
一人は、短い髪を後ろで小さく結んだ元気いっぱいの女子だった。背丈が僕より小さくて、高校生というよりもまだ中学生っぽい。あまり壁を作らないタイプのようで、中々にフレンドリーそうだ。ってかこの人、さっき入学式で夢心地だった女子じゃん。
もう一人は、丸顔の気の強そうな女子だ。腕を組み、きりっとした目付きでじっとこちらを見据えている。こっちはさっきの子とは真逆で、ちょっと関わり辛そう。
最後の一人は、なんというか、その……。どこから説明したものか。まず、黒い長髪とあの眼鏡は特徴的だろう。柔らかでのほほんとした性格と口調には何処か母性すら感じるのだが、何よりも目立つのは、あの殺人的なまでの「胸」だろう。軽くEいやFぐらいはあるのか?
兎に角、あの二つの御山があると目のやり場に困る……。それは他の男子も同じようで、ちらちらといやらしく見る奴もいれば、意図的に目を逸らそうと努力する奴も居たりと様々だ。
よく耳を澄ませてみると、視線は男子からではなく女子からも向けられているらしい。ひそひそと、あの御山を話題のネタにする女子も何人か居るようだ。
なお、それには晶と三尾も例外ではないらしい。さっきから彼女を見る二人の形相が凄い。特に三尾が。
「いや、流石にそれはないでしょ。だとしたら二股よ、こいつ」
おいコラ。さらっと誤解を招くようなこと言うんじゃねえ。
「ねえねえ、三人ってほんとに付き合ってるの? いつから? 中学の時から?」
「彼氏ですか? そうなんですか~?」
元気がいい方の子と、胸がでk……眼鏡を掛けている子が僕達に迫ってくる。
僕は今すぐにでも帰りたいと悶絶するが、二人は満更でもないない顔をして。
「うーん。彼氏っていうか……」
「付き合ってる、というか……」
おい止めろ。そこで『私のご主人様』とか言うなよ。俺の華々しい高校生活が、一瞬にしてずんドコ行きだから!
「まあ、小さい頃から、ずっと同じ屋根の下で、持ちつ持たれずの―――」
「共生生活、的な?」
その時、教室中が女子の黄色い歓声と男子の「マジかああああッ!?」「狙ってたのにぃ……」という悲鳴で溢れ返った。意外に肉食系多いなここ!? まあ、そこな猛獣達には叶わないだろうが。
つか、共生生活……は別に間違ってないけどさ。一応扱い養子なんだよな、この二人。俺としては幼馴染みたいな感覚なんだけど……。おー、そこやっぱり二股じゃねぇか! とか言うなー?
「ってか、あんた達誰よ」
「「「え?」」」
晶の言葉に三人の娘がきょとんとする。同じような顔を他のクラスメイト達もしていた。さっき自己紹介したよね? そういう顔だ。
ま、こうなるとは思っていた。この二人は一見男勝りなほど気が強くて、底知れない元気の良さがあるように見えるが、極度の人間不信でもある。だから、他人に全く興味を示さない。
その原因は……あまり吹聴して良いほど軽いことではないな。増してや、僕の口から言えるものでもない。
とはいえ、自己紹介を聞いてなかったのは僕も人のこと言えないんだけど……。
「あー、ちょっといいか? こいつら意外と人の話を聞かない奴らでさ。悪いけど、もう一回自己紹介してやってくれないかな?」
「へ~。やっぱり、仲がいいんですね~」
「まあね。長い付き合いっていうのは嘘じゃないし」
ちなみに、人の話を聞かないというのも間違っていない。聞いてるけど聞いてくれないんだよなこいつら。
「ま、そういうことなら」
「別にいっか!」
「うふふ。じゃあ、まずは私からですね~」
と言ってまず最初に名乗りを上げたのは、長髪と眼鏡のあの子だった。
「私は牧野舞桜って言います~。よろしくお願いします~」
「伊野井未來よ。ま、とりあえずよろしく」
「私は風羽沙耶だよ! よろしくね!」
次に丸顔の子、その次に元気の良い子が名乗っていく。
なるほど、そういやそんな名前だった気がする。
それぞれの自己紹介が終わると、風羽さんがこっちに迫り寄り、執拗に僕達の関係を尋ねてきた。
「で、で、ホントのところ、三人はどういう関係なの?」
ち、近い! 尋ねてくるのは別に良いけれど、この距離は非常にまずい!
いや。別に僕に女性経験が無いと言いたいわけではない。むしろ、日頃からこの二人や妹達の面倒を見ていたくらいだ。ある意味豊富と言ったって良いだろう。いいよね!?
って、違う違うそうじゃないんだ。顔が近いのが問題なのではなく、この距離自体が問題なんだ。
ほら、そこの二人がすっごい顔して風羽さんのことを見てるから! なんか物騒なこと呟いてるし!
「も~、沙耶さん。あんまりしつこく聞くものではないと思いますよ?」
「そうよ。それに、本当に二股なら、そいつケダモノよ。あんま近づかない方がいいって」
だから、しれっと誤解を招くようなことを言うなっつの!
兎に角彼女を自分から離さないと、と思った僕は、椅子から立ち上がって風羽さん達に事情の説明を試みる。
「だから、養子だってば!」
「ふえ? 養子?」
「養子」という言葉を聞いて風羽さんも含めてクラスメイト三人はまたしてもきょとんと首を傾けた。
「そう、養子。晶と三尾は、家の養子なんだ」
「え、じゃあ本当に兄妹ってこと!?」
「義兄妹っていうよりは、どっちかっていうと、幼馴染って感じかな。歳も同じだし、他に妹も居るから、僕としてはそういう風に見たことはないかな」
僕が説明を始めると、風羽さんは一歩ずつ下がっていった。どうやら、僕が立ち上がったことで目線が逸れ、二人があの顔で凝視していることに気付いたらしい。まるで猛獣から遠ざかるように戦慄している。
「じゃあ、前の名前とかあったりするんですか~?」
「バカッ、そういうことこそ詮索しちゃいけないんでしょうが」
「はっ! そうでした~。ごめんなさい~」
「別にいいわよ、そのくらい。今の暮らしに不満は全く無いけれど、名前にまで恨みがあるわけでもないし」
「ん。気にしない」
二人はそう言うと、特に前触れもなく先の三人と同じように名乗った。
「犬飼晶よ。覚えときなさい」
「猫宮三尾。ん、よろしく」
ちょっと上から目線なのが気に食わないかもしれないが、そこは我慢をしてもらいたい。僕と僕の家族以外には、二人は大体あんな感じで接するからな。
「犬飼さんと猫宮さんですか~?」
「うーん、その二つどっかで聞いたことあるような……?」
「ま、まあ。犬飼なんて、どこにでもある苗字だろ。猫宮はちょっと珍しいかもしれないけど」
と言って僕は訝しむ伊野井さんを誤魔化してみる。まあ、調べられたらすぐにわかっちゃうんだろうけど、その時はその時だろう。
「ま、呼び方は好きにしてくれて良いわよ。けど、苗字で呼ぶなら前の方で呼んで。晴樹くんと同じだとややこしいから」
「ん。私もそれで構わない」
「じゃあ、晶ちゃんと三尾ちゃんだね!」
フレンドリーな風羽さんが、親しみを込めて二人の手をぎゅっと握った。握手というよりも、手を繋いでいるような感じだ。
「それじゃあ、そちらも晴樹さんでいいですか~?」
「ああ、うん。僕もそれでかまわ」
「「そっちはダメ」」
「「「「えぇ……」」」」
僕と牧野さん、伊野井さん、風羽さんの四人は晶と三尾の真顔の即答に思わず声を漏らした。ほんっと、お前らって昔からそうだよな。
それからなんのかんのとあって話が終わると、クラスメイトの三人は用事があると言って教室を去っていった。晶と三尾も、当初の目的通りに購買に向かったが、今から行ってももう売り切れているかもしれないな。
そして気づくと、1-Aの教室は、僕一人になっていた。
「まあ、偶にはいいか。こういうのも。普段は俺一人っきりになることなんてそうそうないしな」
主にあの二人の所為なんですがね。悪い意味で言いたいわけじゃないけど。
……いや、珍しく一人になったというわけでもないか。中学の時は放課後はよく一人で勉強してたし。あいつら、基本的に僕と離れるのを嫌がるけど、意外にも部活にだけは熱心に取り組んでたから。
「……とはいえ、今は一人でいてもやることがないなぁ」
強いて言えば、こうして独り言を呟いているくらいだろうか。ああ、日差しも良いし机の上で日向ぼっこなんてのも乙かもしれない。
なんて思っていると、換気の為に開けられていた窓からミツバチが一匹入り込み、僕の居る机の上に止まった。
普通のヒトなら、ハチと聞いて取り乱すのかもしれないが、別にスズメバチでもなければ騒ぐ必要はないはずだ。むしろ下手に刺激するから刺されるのであって、大抵のハチは見た目に反して意外と大人しい種が多い。
それを知っているからこそ、僕は特に臆することなく、むしろそのハチをまじまじと観察しだした。
頭には二本の触覚。頭、胸、腹に分かれた身体に六本の脚、ニ枚の翅は典型的な昆虫の形態だ。
ミツバチの特徴というと、身体中を覆うこのもふもふの毛だ。これには花粉を付着させる役割があり、特に後ろ脚の毛のことを「花粉かご」と言って、ここに花粉を集めて花粉団子を作る。大きくも愛らしい一対の複眼と相まって、こうして見ると中々にチャーミングだ。まあ、虫が苦手な人からしたら、そうは見えないんだろうけど。
「さて、どうしたものか」
僕としては暇なこの時間の間、ずっとこいつを観察していてもいいのだが、誰かが戻って来た時に結局騒ぎになってしまっては困る。例えどれだけ大人しくとも、ハチ――或いは虫――という時点でヒトにとっては不審者同然だ。
それにミツバチだってハチだ。お尻にはしっかと毒針がある。ニンゲンには致死量に成り得ない程の微弱な毒性だが、刺されば激痛は走るし、場合によってはアナフィラキシーショックを起こしてしまう危険がある点も他のハチと大して変わらない。あと悲しいことに、ミツバチの針には返しがあって、これのお陰で針が簡単には抜けない構造になっているのだが、その為に一度刺すと針が内蔵ごとすっぽ抜けて死んでしまうのだ。
だから、なんとかして逃がしてやる必要があるのだが、困ったことに今ここには虫網も無ければ虫篭もない。手で掴んでも良いのだが、逃げられてしまう可能性の方が高いだろう。あと刺されたくない。
しかし、そんな僕の思索を無下にするように、小さな不審者は廊下へと飛んでいき、そっちの窓から大空へと飛び去っていった。
「―――きゃあ!?」
飛び去ってゆくミツバチに釣られて、廊下の方へ目をやると悲鳴が聞こえた。どうやら、不幸な誰かがさっきのミツバチとぶつかりそうになったらしい。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ。ちょっとびっくりしただけですわ」
どん、という尻もちをつく音がしたので慌てて駆け寄ると、そこには何処かで見たことある顔の、そして大変に聞き覚えのある声の人物が居た。
「せ、せせせ生徒会長さん!?」
「あら、貴方は……」
なんでここにこの人が居るの!? いや、生徒会長って入学式が終わった後も仕事とかあるのかな。祝辞言ったら後は帰って良さそうなものだけど……。
まあ、いいや。兎に角、このままぺたんと座り込んでいる会長さんを眺めているわけにはいかないや。
「あ……えっと立てますか?」
「お気遣い、有り難く頂戴しますわ、新入生さん」
僕が彼女に手を差し伸べると、会長さんは素直にその手を取って立ち上がった。
「今のは、ミツバチかしら」
「ええ、ニホンミツバチでしたよ。さっき、偶々教室に入ってきちゃったもので、どうやって逃がそうか考えてる内に逆に逃げられちゃって。すみません」
「あら、貴方が謝ることも無くってよ。ミツバチにも罪があるわけではないのですから。ところで、今『ニホンミツバチ』と言っていましたわよね? 日本にいるのだから、ニホンミツバチなのは当たり前ではなくって?」
うん? 妙な事を聞くな、この人。まあ、いいや。答えられないわけじゃないし。
「そうとも限りませんよ。ニホンミツバチとよく似た種類にセイヨウミツバチがいるんです」
「まあ、日本に居るのに西洋と名が付くんですの?」
「もちろん、外来種ですよ。ただ、セイヨウミツバチは一つの巣に執着する習性があって、ニホンミツバチより飼いやすい種なんです。日本だと、基本的に人の手が無いと生きていけないですかね」
「でしたら、野生化はしませんこと?」
「これまたそうとも限らないんです。相手はどうしたってハチですからね。実際にセイヨウミツバチが野生化した例はあるそうです。尤も、天敵の居ない土地だから、というのが大きいでしょうね」
「では、先程ニホンミツバチとセイヨウミツバチはよく似てると仰ってましたわよね? 具体的に、この二種の見分けはどうするんですの?」
「まあ、大体は野生化し易いか養成化し易いかでいいですけど、見た目で言うなら、身体の大きさとか色合いですかね。セイヨウミツバチの方が身体が大きめで色が黄色っぽくて、ニホンミツバチは身体が小さめで色が黒っぽい。ってとこかな」
そこまで言うと、会長さんは僕にパチパチと喝采を送った。
「とってもお詳しいのですのね! 貴方は虫が大好きなのですのね!」
「いや、あの。別にそこまで褒められる事じゃ……。それに、虫というよりは動物全般が好きなだけですよ。会長さんこそ、ミツバチに興味がお有りで?」
「いいえ、そうではありませんの。まあ、所縁が無いわけではありませんが。今のはただ、貴方と何かお話をしたいと思っただけですわ」
「……え?」
僕がきょとんとしていると、会長さんはスカートの裾を持ち上げて、如何にもテンプレお嬢様と言わんばかりの上品なお辞儀をした。……ちょっと際どい。
「ご機嫌よう、新入生さん。あ、それとも、若葉様とお呼びした方がよろしくて?」
「な―――!? なんで僕の名前を……」
「うふふ。私としたことが、挨拶遅れてしまいましたわ」
―――は? え? ドウイウコトデスカ?
意味がわからなかった。
生徒会長と僕は全くの初対面のはずだ。こうして対話しても、既視感なんてこれっぽっちも感じでいない。
「えっと僕達、初対面ですよね?」
「あら、さっき入学式でお会いした仲ではありませんの。アイコンタクトもばっちりでしたわよ?」
―――ええええ!? あれ気の所為じゃなかったの!? って、いやいやそうじゃなくて!
「あ、いや、そうじゃなくて。いや、そうだとしてもやっぱり初対面ですよね? 僕達」
「うふふ。ええ、そうですわよ。貴方がこの学校に来るまで、貴方と私は一度もお会いしたことはございませんわ」
「じ、じゃあなんで……」
「そうですわね。端的に言えば、愛してる。一目惚れですわ!」
「―――は、はあああ!?」
―――は、はあああ!?
思わず声帯の方の声と心の方の声が同時に出てしまった。
うん。これは流石に驚いて良い。
入学早々に一目惚れされるとか。僕はラブコメの主人公じゃないんだぞ。流石は愛の国フランスの民ってか!?
「あははっ、もちろん冗談ですわよ。もう、本気にしないでくださいな」
「……で、デスヨネー。ソウデスヨネー」
そりゃそうだ。キャラ作りなのか、これで素なのかは知らないが、こんなプライドの塊みたいな人が、僕のような卑屈の化身のことを好きになるはずがない。
―――それに、晶と三尾になんて説明すればいいか……。
「で・も」
ググイッと、会長さんと僕の距離が縮まる。うーん、今日はヤケに女の子に迫られることが多いな。
「貴方に興味があるのは、本当ですのよ?」
「え、だから何で……」
「―――はっ、そうでしたわ。私としたことがまたうっかりを。ちゃんと自己紹介をしなくてはいけませんわね」
僕の問に、会長さんは再びスカートの裾をつまみ上げて一礼して答えた。
「私は八城メリッサ。私立代美波学園高校現生徒会長であり、大手ファッション・ブランドメーカー、八城財閥当主令嬢、八城メリッサですわ。以後お見知りおきを、ムッシュ・若葉晴樹」
「―――――――」
声が出なかった。とんでもないプロフィールの公開に、僕は唖然と立ち竦むしかなかった。
え? 今なんて言った? 財閥の? 当主の? ご令嬢!?
モノホンのお嬢様じゃねえかようッ! キャラ作りとか思ってすいませんでした。
正直なところ、僕はこういう企業とか財閥とか、そういうのにはあまり興味が無い。だから名前を聞いても、いまいちピンと来なかった。入学式で妙に新入生達がざわついていたり、晶と三尾が彼女に驚きを禁じ得なかったのも、これが理由なのだろう。
……でもなんだか、テレビとかで名前だけでも聞いたことあるような気がしてきたな。
だけど、だからといって最初の疑問が片付いたわけではない。むしろ深まったと言えよう。
「え、ええっと……そのお嬢様が、どうして僕なんかに興味を?」
「あら、『僕なんか』だなんて。随分と自己評価が低いのですわね?」
むっ。確かにその通りだが、直に言われると流石に腹が立つな。
「からかいたいだけなら、僕はもう教室に戻りますからね」
僕は少し意固地になって、くるりと踵を返して教室の扉に手を掛ける。これ以上、この人の相手をしても時間の無駄だ。晶と三尾が戻ってくるまで、校門の桜の花でも見ていよう。
「―――若葉晴幸様。貴方のお父様ですわよね?」
ぴたりと足が止まった。同時に扉に掛けていた手を離して振り返る。
「……よく分かりましたね」
「あら、若葉という苗字と動物が好きというだけでも十分に連想できませんこと? この辺では、貴方のお父上は有名人でしょう?」
「それはそうですけど、若葉だなんて、何処にでもある有り触れた名前じゃないですか」
「それは確かに。ですが、その辺の一般人に情を抱く程、私も軽い女ではなくってよ?」
少しの間、睨み合いが続いた。数秒だったのか、それとも一分かニ分ぐらいか、ほんの数瞬の短い間だとは思うが、それがやけに長く感じた。
「あら、もしかして貴方のお父様から聞いていませんの?」
「父さんが? どうして……いや、そもそも、会長さんは僕の父さんの事を知っているんですか?」
もちろん、テレビや新聞なんかで讃えられる『若葉教授』としてではなく、だ。
まあ、家の父さんは取材やマスコミが嫌いだから、あんまりそういうのに出ないけど。
「そうですわね……私はあまりお会いしたことはありませんけれど、私のお父様がお知り合いなのだそうですわ!」
ふんふん、なるほど。父さんが財閥の現当主様とお友達だったと。わー、すごい話だなーってええええええ――――!?
「何それぇ!? 聞いたこと無いですよそんな話ぃ!?」
「まあ、そうでしたの? 私のお父様は鼻高らかにご友人のお話を語って聞かせてくれましたわよ? なんでも、今父は若葉教授の研究に資金援助をなさっているとか。ご存知でしたか?」
えー、何それマジで聞いたことない。
うちの親父にとんでもない接点現る。
あれ、実はこれ非常に不味いのでは。財閥のお嬢様という時点でそうだけど、あまり僕が失礼なことをしたら、親同士の関係か破綻してしまうのでは!?
僕はそれまで彼女に抱いていた警戒心丸出しの態度を改めて姿勢を正す。何かあってからでは遅いのだ。気付いたその時からでも、何かしらの対策を講じても遅くはないはず。
「うふふ、面白い方。急に畏まらなくとも良いのですのよ? 何でも、私のお父様も、貴方お父様も高校時代からのお知り合いだったとのこと。ですから、私達も仲良くしましょう? ね?」
またしても、会長さんはこちらに顔を近づけて来た。
僕は普通の男子よりも小柄だから、身長の話をすれば会長さんの方が背が高い。だからこう、何というか圧が凄い。
心臓がバクバクと脈打っているが、年上の女子の顔が近いからドキドキする半分、ちょっと圧にビビってる半分というところだ。
うーん、これは不味い。何が不味いって、そろそろあの二人が戻ってくる頃合いだからだ。
まるで不倫現場を見られたくない夫の気分だが、事実としてこんな所を見られたら、事態が余計にややこしくなるのは目に見えている。兎に角、彼女にはなんとしてもここで退散してもらわないと。
「あの、会長さん―――」
「あらあら、私のことはどうかメリッサとお呼びくださいな、だって私達、もうお友達でしょう?」
「……メリッサ会長。いい加減、こんなところで油を売ってていいんですか? せ、生徒会長として、他に仕事があったりとかは……」
「いいえ、今日はこれといって仕事はありませんことよ。だから、若葉様。このあとゆっくり……あら?」
グイグイと迫り、挙句手を握る会長さんの動きがぴたりと止まった。静かな廊下に携帯の着信音と僅かな振動音が鳴り響く。
「もしもし? 有愛ですの?」
良いところを邪魔されたと思ったのか、会長さんは少し不貞腐れながら電話に出た。
ってかアリアって、日本人なんだろうか。それとも外国人なんだろうか。この人の場合、友達とか身内とかでそういう人居そうだもんな。
『姫! 全く何処に居られるのですか!』
あ、うん。これは身内確定ですわ。
いやでも、流石に『姫』て。まさにお嬢様というか、将来は女王様にでもなるのかな?
「もう、ちょっとぐらい良いではありませんの」
『なりません。もう車も来ておりますので、お早くお戻りください』
「はあ、分かりましたわ」
溜息を吐きながら会長さんは、ピッとスマホの通話を切った。
「残念ながら若葉様、今日はここでお別れですわね。またお会いできる日を楽しみにしていますわ。では、ご機嫌よう」
またしてもスカートを摘んで上品に挨拶をすると、会長さんは優雅な足取りで廊下の角に消えていった。
「あ、そうそう」
「な、なんですか!?」
「そんなに生き物がお好きでしたら、生物研究会に入ることをお勧めしますわ。この建物の一階に部室がありますので、良かったら顔を出してみては如何でしょう」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
ふふふ、と微笑むと会長さんは今度こそ角の先に消えていった。
「ふう。なんとかなったか。よかったよかった……」
「何がよかったんですか?」
「ヒィヤァッ!?」
驚きのあまりに僕の口から変な声が出た。治まろうとしていた鼓動も、ドクンと一つ大きく脈打つ。
振り返るとそこには、小袋を三つ抱えた晶と、ペットボトルを三本抱えた三尾の姿があった。心臓に悪いってもう……。
「あ、晶、三尾。お、お帰り……」
「はい、ただいま戻りました」
「ん。ただいま」
うーん、笑顔が眩しい。世の中の不倫男性は奥さんの純粋無垢な笑顔が胸に突き刺さったりしないのだろうか。いや、僕は別に二人とケッコンしてるとか、したいとか、そういうことを言いたいわけじゃないんだけど。
「どうだった? まだ何か良いのは売ってた?」
「ええ、ドーナツとカレーパン、それと焼きそばパンもゲットしてきました!」
「ん。こっちは麦茶とコーラとメロンソーダ。好きなの選んで良い」
「じゃあ……」
僕は焼きそばパンとコーラを手に取ると、晶はドーナツとメロンソーダ、三尾はカレーパンと麦茶をそれぞれ手に取った。
良かった。なんとかバレていない……のかな? とりあえずはいつもと変わらない様に見えるけど……。
「で、ご主人様。誰ですか? さっきの女は」
「ぶふぉっ!? み、見てたの!?」
思わず口に含んだコーラを噴き出しそうになる。炭酸が口の中を刺激して、ついでに心も刺激してめっちゃ痛い。
「見てたの、じゃなくて、何なんですか?」
「……………」
あう……恐れていた事態が……。いや、まだだ。まだ諦める時ではない。事情を説明して、何とか気を治めてもらおう。二人だって鬼じゃない。猛獣だけど。でも、僕の言うことなら、素直に聞いてくれるはず……!
「さっきの人、確かこの学校の生徒会長とかでしたよね? なんだか仲が良さそうでしたけど?」
「……………」
「た、偶々だよ。偶然そこを通りかかったらしくって、ちょっと話をしてみたら、思いの外会話が弾んじゃってさ……因みに、何処から見てたの?」
「あのクソお嬢サマがご主人様の手を握っていた辺りですかね」
「……………」
畜生、なんて絶妙に間が悪ぃ!?
っていうか三尾さん? さっきから無言の圧力掛けるのやめてもらえませんかねえ!? そっちの方が問い詰める晶よりもこわ―――
「で、なんなんですか?」
「…………………」
「ヒィッ!?」
ペットボトルを笑顔で握り潰したぁ!? 入学初日から後片付け大変だよぉ!?
「あの、いや、だから、そのぉ……」
晶は笑顔で、三尾は無言で。のっしのっしととっても力強い歩みで僕に迫り寄った。
うーん。どうしてこうなったんだろう。僕、普通に教室に居ただけだったんだけどなあ。
この後。説得は家に帰ってまで続き、ようやく二人が納得したのはその日の夜だったという。
――――――――――――――――
校門に到着すると、そこには黒塗りで胴の長い車が止まっていた。あれではロータリーには入れないので、いつも校門で待ってもらっているのだ。
「さあ、姫。どうぞ」
「ありがとう。有愛」
有愛がドアを開け、私が先に乗り、後に続いて有愛が乗ると、運転手は黙って車を発進させた。
「全く、先程は少々無粋ではなくて? 有愛」
「流石にタイムオーバーです、姫。少し話すだけだと仰っていたではありませんか」
「うふふ。思いの外話が弾んでしまいましたわ」
「……それで、接触してみたご感想は?」
「そうですわね……。特にこれといって変わらない、普通の男子高校生でしたわ。外見的な所を上げれば、一般男子よりも少々小柄、という所ぐらいでしょうか。試しにちょっとだけカマをかけましたが、例の件については全く知らないようでしたわね」
「それがただの演技なのか。それとも本当に知らない或いは知らされていないだけか。前者であったら、侮れませんね」
「あら、その必要はなくてよ。私の見立てでは、あれは純粋に知らないという反応でしたわ。それに、中々面白い反応をしてくださるの。次に会う時はどのような顔をするか、楽しみですわ」
「……そうですか。姫がそう言うのであれば、私は従うのみです」
まあ、生真面目ですこと。ですが、そこが彼女の良いところですわ。流石は、十年私に仕えてくれた騎士兼秘書。さあ、次のお話をしましょうか。
「それで、研究の方はどうですの?」
「はっ。凛冴が伝え得た若葉氏の報告書によりますと、研究は順調に進んでいるとのこと。まだ幾度か人体実験を繰り返ス必要は有るそうですが、実用段階まではそう時間は掛からないそうで。既に組織では、先駆けて服用し、人格を崩壊させた者も居るとか」
「そう、それは楽しみですわね」
―――ええ、あの方――若葉様――とお会いすることと同じくらい楽しみですわ。この事実を知ったら、あの純粋無垢な笑顔はどう歪んでしまうのでしょうね。
一応断っておきますが、私にそのようなサディスティックな趣味はありませんわよ。ただ、彼が何気なく暮らしているその裏で、このような事実があることに嘆いているだけですわ。
「では、あっちの方は?」
「はっ。我が財閥としても、専用の装備の開発に勤しんでおります。ですが、何分資料に乏しく、そちらは難航しているようで。何せ、ヒトに使わせる物よりも汎用性に富んでいないといけませんから」
「そうですか。ですが、社員には焦らぬよう言い聞かせておきなさい。我が財閥の運営する企業は常に白でなければなりませんから。下手に圧力をかけてはなりません。情報規制も徹底するように」
「はっ!」
窓を開けると、桜の花びらが一枚、車中にひらりと舞い込んできた。
―――うふふ。これから先の一年、楽しくなりそうですわね。我が財閥の毒針も、より一層尖くなるというものですわ。




