第4話 絶望の淵で
――今から三年前の事――
私が産まれたのはしがない―――とは言い難い有名な政治家の家だった。そうだったらしい。
覚えているのは三歳の時、初めて連れて行ってくれた遊園地の思い出だけ。物心ついたばかりのまだ幼い頃の記憶だけだ。
父は犬飼勝、母は犬飼葉菜と言う。
二人共とっても優しい人で大好きだった、という事までは覚えているけど、その記憶ももう曖昧だ。
実際家で二人が揃うのはかなり珍しい事で、片方が家に居れば、必ず片方が家に居ない。むしろ、二人共仕事に行っちゃう事の方が多いくらいだ。
だからかな。政治家という仕事がどんなものなのかはわからなかったけど、凄く忙しい仕事だという事は何となく理解していた。
だけど、こまめに暇を作っては、私と過ごす時間を少しでも増やそうとしてくれていた。きっと私に寂しい思いをさせたくないと二人も必死だったのだろう。
それでも、私は兄弟も姉妹も居ない一人っ子だから、幼稚園の無い時は一人ぼっちになる事が多い。
そんな時、いつも遊び相手になってくれたのが従姉妹の三尾だった。
私と同じようにあいつの両親も政治家で、むしろ私の両親よりも家に居る事は少なかったという。
多分、三尾にとっても私は良い遊び相手だったのだろう。
ただ、やっぱり心の何処かに不満があったのかな。幼稚園では喧嘩上等で、男の子相手に勝負を持ち込んではコテンパンにして泣かせてやったぐらいだ。もちろん両親に迷惑は掛けたくなかったから、暴力よりはかけっこやかくれんぼみたいな遊びで決着を付けていた。まあ、もし殴られたら殴り返すぐらいの気概は持ち合わせていたけど。
そんなやんちゃな娘に育ちつつあった私だったけど、幸せな毎日を送れていたのは確かなはずだ。
―――あの時までは。
あの日。お父さんとお母さんがいつもの通り時間を作ってくれて、産まれて初めての遊園地を一日中楽しんだ後の事。外はもうすっかり暗くなろうとする中、帰路を車のヘッドライトで照らし始めていた頃だ。
「今日は楽しかったかい?晶」
「うん! お馬さんと、大きなぐるぐる、楽しかった!」
「メリーゴーラウンドと、観覧車の事ね。また皆で乗りましょうね」
運転席にはお父さん、助手席にはお母さん、そして後部座席には私。私達はその日一日に出来た思い出を語らい、車の中は家族の笑顔で満たされていた。
「うーん、わたし、今度はオオカミさんの所行きたい!」
「「オオカミ?!」」
お父さんとお母さんは互いに首を傾げる。何しろ、私達が行った遊園地にはオオカミに関係するアトラクションなど存在していないからだ。聞き返すのも当然だろう。
「それとね、キリンさんとゾウさんと、あとライオンさんも!」
「あ……ああ! もしかして動物園の事か!」
まるで謎解きをするかのように、次いで放たれた言葉をキーワードにして、お父さんは私の言い分を理解してくれたようだ。
「動物園ねえ……。そうね。次は動物園に行きましょうか!」
「うーん。お父さんはまだまだ遊園地でも良いと思うぞ。動物園の動物はな、近くで見ると結構怖いんだぞ~」
「ぜったいヘーキだもん!こわくないもん!」
「おおう!? そ、そこまでいうなら、仕方がないか……」
以外にも、残念そうにお父さんはため息をついた。
「ふふっ。遊園地、お父さんが一番楽しみにしていたものね。まだ遊び足りないのかしら? あ、それとも……実はお父さんが一番動物が怖かったりして?」
「そそそそんなことないぞぅ。断じてそんな事は無いからなっ!?」
お母さんにからかわれて、お父さんの頬が赤く染まる。どうやら図星らしい。
「それじゃあ、お父さんもこう言ってるし、今度は動物園に行きましょうね~。楽しみね~」
「うん!」
何気ない家族の会話。また行こうねの約束。いつも通りの当たり前の日常。
だがその幸せな瞬間も、あの一瞬で全てが消え去った。
突然目の前が眩しく輝き、私は目を瞑る。お父さんとお母さんの笑顔は消え、直後に悲鳴と耳障りなクラクションが鳴り響いた。
「きゃああああ!?」
「うわああああ!?」
悲鳴の後、私の体にどかん‼ という強い衝撃が加わった。同時に体が炎に焼かれたように熱くなり、気づけば赤い液体と光を反射してキラキラと輝くガラスの破片が眼に移る。
何が起こったのかさっぱりだった。さっきまであんなに元気いっぱいだったのに急な眠気に教われ、私の意識はそこで途絶えてしまった。
――――――――
眼が覚めて起きると、そこは見知らぬ天井の下。壁も床も真っ白で、大きなベッドに私一人で横になっていた。
さっきまで夕方ぐらいだったのにいつの間にか朝になっている。
眠っていたらしいが、記憶が曖昧だ。いつ眠ったのか覚えてないし、近くにお父さんとお母さんもいないし、そもそもここは私の家ではない。
そんな現状に何がなんだかと戸惑っていると、私から見て左側にあったカーテンがゆっくりと開かれて、中から白い装いの女の人――看護師のお姉さんが顔を出した。
「あら、起きたのね。今先生を呼んでくるからね。ちょっと待っててねー」
「……?」
看護師さんは私が目覚めたのを確認すると、そそくさとその場を後にする。未だ困惑する私だったが、体を起こそうとした瞬間、頭や体の節々に電気が走ったような感覚を覚えた。
「痛っ!?」
ピリピリと痛む箇所を触ると、そこで初めて今の私の体が包帯だらけになっている事に気が付いた。足や手のひら、肩から胸にかけてもぐるぐる巻きで、まるでミイラみたいだ。
だけど骨が折れたような感覚は無く、痛みはあるけど足や腕は問題なく動かすことができた。
暫くするとお医者さんが部屋にやって来た。いくつか私の身体を触って軽い検査を済ませ、問題無いと判断したのか、優しい言葉をかけると一旦その場を後にする。
その後入れ替わるようにして三尾が扉の外から飛び出して来た。
「あきらーっ! 大丈夫だった? 心配したんだよ!?」
「え、みお……!? なんで……?」
「なんでじゃないよおっ!? あきらが大けがしたって聞いて、みお、びっくりして……よかったあ! よかったよお‼」
三尾は涙ぐみながら私に飛びついた。おまけにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、包帯だらけの私の身体にさっきみたいな電気が走ったような痛みが駆け巡る。
「痛い痛い痛いっ!?」
「ああっ、ご、ごめん」
痛がる私を見て三尾はそっと私の身体から手を放す。でも自分の怪我の事なんかより、もっと大事な事が気になってしょうがなかった。
「ねえ、みお。お父さんとお母さんは?」
「え? あれ、本当だ。おじさんとおばさん、居ないね?」
どうやら三尾も私の両親の事は知らないらしい。きょろきょろと病室を見渡して、私も改めて再確認した。
――お父さん、お母さん、どこ……?
「では、私が教えてあげようか」
その疑問に答える低い声が三尾の後ろから放たれた。
「あ――お、お父さん……」
扉を開けて出てきたのは、髭の目立つふくよかな体躯の男の人。信じられない――と言うのも失礼だが、この人が三尾の父親、猫宮彰人である。
「こんにちは! しょうとおじさん!」
私は叔父さんの姿が目に映ると、反射的にぺこりと頭を下げる。親が親なだけあって、他人に対する礼儀というのは物心付く前から教えられていた。これが私のお父さんなら、三尾も同じ事をやったはずだろう。
「……ふむ。元気そうで何よりだ。命に別状は無い、というのは本当らしいな」
おじさんは満足そうに微笑むと手元に置いてあったパイプ椅子を開き、私のベッドの前に置いてそこに座った。他に誰も居ない所を見ると、叔母さんは来ていないらしい。
「さて、非常に言いづらい事なのだが……。いや、私が後込みしても仕方があるまいか」
何の事なのか分からず、私は首を傾げる。
「晶、昨日の事は覚えているかい?」
「昨日の事―――?」
―――あれ、なんだっけ―――思い出せない。確か、昼間は遊園地に行って、メリーゴーラウンドと、観覧車に乗って、それから―――それから―――
「ええと……」
「大丈夫。ゆっくりでいいから、思い出してみなさい」
記憶が混乱して頭を抱える私を、叔父さんはその太い腕で優しく撫でてくれた。
「車で帰って、お父さんとお母さんと、今度動物園に行く約束をして、それから、そのあと―――あ……」
思い―――出した―――
あの時見えた眩しい光。あれはトラックのヘッドライトだった。それが、私達の乗ってる車にぶつかって、それから―――
「おじさん! お父さんとお母さんは!?」
「……」
「どこ!? ねえ、どこにいるの!?教えてよ!」
おじさんは私から顔をゆっくりと逸らし、質問に対して無言で答えた。
―――どうして……? どうして教えてくれないの? きっと近くにいるんでしょ? 隣のベッドに居ないなら、隣の部屋にいるんだよね? それとも、お医者さんとお話してて来れないだけ? わかった、お父さんもお母さんも本当は元気で、私の事お家で待ってくれてるんでしょ? 車が壊れて来れないだけなんでしょ! ねえ、どうして何も言ってくれないの!?
この時の私にもっと言の葉があったのなら、きっとこう訴えかけていたのだろう。実際はただ、おじさん、おじさん、と叫んで、喚いて、泣いて、内心何かを悟りながらおじさんの肩をずっと揺するだけだったのだが。
そんな私を哀れにでも思ったのだろう。叔父さんは顔を逸らしたまま、私に思いも寄らない真実を告げた。
いや。思いも寄らない、なんていうのは嘘かな。きっと、もうわかっていた事なんだ。目覚めていた時から。
「これは、お医者さんとも話し合って決めたんだがね。私から言うことにしたんだ。……いいかい晶。よく聞きなさい」
「はい……」
「お父さんとお母さんはね―――“天国”に行ったんだよ」
天に召される。天に昇る。旅に出かけた。迎えが来た。星になった。お空にいった。
どんなに取り繕っても、その言葉に込められた真実は変わらない。
お父さんとお母さんは死んだ。もう、この世には居ない。
事故に遭う間際、お父さんとお母さんがシートベルトを外して私の下に飛び込んでくれたのを思い出した。私を守るためだったのだろう。直後、ガラスが割れ、大きなクラクションと共にトラックが私達を潰そうと飛び込んできたのも覚えている。
だけど私は、その事を思い出したくなくて、きっと生きていると信じたくて、約束を守ってくれると期待して、なにもかもいい具合におさまるのだろうと思い込んで、全てが絶望に変わると思わなくて。
あの一瞬だけで夢なら覚めてくれと何度願っただろうか。何回神様を恨んだのだろうか。しかしこれが現実であることは、叔父さんの顔が雄弁に語っている。私の頬を垂れる涙が、せめてもの手向けになると伝えている。
病室に、少女の嘆きが響き渡った。
――数日後――
あれから私は一ヶ月近くの療養生活を送った。お父さんとお母さんのお陰だったのか、私の怪我はそこまで酷いものではなく、肉体的な損傷は一週間ぐらいで事無きを得た。
ただし、精神的な傷は別だ。初めのうちの何日かはショックで寝込む日々が続き、食事もろくに摂らなかった。
それでも、時々様子を見に来るミオや病院のカウンセラーのお陰もあって、日が経つにつれて事故の記憶も徐々に風化していった。今思えば、物心付いたばかりというのが幸いしたのかもしれない。
退院した私は、親族である三尾の家、猫宮家に引き取られる事となった。
病院を出る前にお世話になった看護師や医者に最後のお礼を済ませると、如何にも高級車と主張している銀色の外車に乗り込んだ。車内は然程狭くはなく、私が乗り込んだ後部座席も隣に三尾が入るというのにあと二人ぐらいは座れそうだ。まあ、私達の体がまだ小さいからというのもあったのだろうけれど。
正直な所、この時の私は少しだけワクワクしていた。お父さんとお母さんが居ない時、いつも一緒に遊んでいたのが三尾だ。その三尾の家に住めるのだから、きっとこれからまた新しい思い出ができそうだ、と。
叔父さんも叔母さんも優しい人だし、私が家族になると決まった時は、叔父さんはその太い腕で私を抱きしめてくれたものだ。
ただ一つ気がかりだったのが、三尾の様子がおかしい事だ。私が退院すると決まってから、いや、最初にお見舞いに来た後から、どうも私への態度が素っ気ない。
会話が成立しないというか、ずっと何か考えていて私の話を聞き流している感じだ。
「ねえ、みお……みおってば!」
「え―――あっ、な、なに?」
「もう、私の話聞いてた?!」
「ご、ごめん。聞いてなかった……」
「ほんとにもう!しょうがないわね。じゃあもう一回言うわよ」
「うん。おねがい……」
こんな風に話しかけても、三尾は私の顔を見てくれない。何度同じ事を話しても、適当に頭を縦に振るだけなのを今でも覚えている。
―――何か悩んでいるのなら、話してくれればいいのに。
その時はそう思っていた私だったが、その疑問もあいつの家に着いて直ぐに答えが手渡された。それも酷く残虐な形で。
途中で少しの間渋滞の巻き込まれたが、今度は事故を起こす事無く、無事に目的地に着いた事に私はちょっとだけ安堵する。
そこに叔父さんは早く入れ、と急かすように私を家の中に入れた。
何だか叔父さんまでいつもと様子が違う気がした。何を急いでいるのか、険しい顔付きで私の手を引いて、その後ろをテクテクと三尾が付いてくる。
「晶、お前は叔母さんに挨拶をしてきなさい。三尾、お前は上に行け」
「はーい!」
「はい……」
私は元気良く返事をしたのに対し、三尾は覇気の無い返事を返した。それが気になってしょうがなかった所に、目の前を六歳程年上のお兄さんが通りかかった。
三尾と同じ黒い髪を首元まで少し伸ばした、とびきり美形のイケメン男子だ。
この人は猫宮海斗。三尾のお兄さん、つまりは私の従兄弟にあたる人物だ。いや、これからは義兄になるのか。何にせよ、これから一緒に住むのは変わらないのだが。
学校では常に成績優秀のエリート学生。しかもかなり学力の高い学校でそれなのだから相当だ。というのも――私もそうだったけど――政治家の家に産まれた海斗さんは、家を継ぐために日々勉学に勤しんでいるかららしい。学校での成績も、その努力の結晶なのだろう。最も、これを知ったのはもう少し物分かりが良くなってからの事だが。
「あ……晶ちゃん……!?」
私の姿を見て、海斗さんは激しく動揺した様子で私の名を呼んだ。
「あ、かいとさん!えっと……よ、よろしくおねがいします!」
「え、あ、うん……よろしくね」
私は少し恥ずかしがりながらも軽く挨拶を済ませた。すると、海斗さんは挙動不審になりながら不器用な返事を返す。三尾の事も合わせ、海斗さんの様子が可笑しい事も何となくは気になっていたのだが、叔父さんの早く行け、という目線に私は振り返る事が出来ず先へ進んでしまった。
中へ入って廊下を渡り、丁度突き当りにリビングに繋がる扉があったので、そこに入る。
実は三尾の家に入るのはこれが初めてだ。この道順も叔父さんに教えて貰った通りである。何度かお父さんやお母さんに行きたいとねだった事はあったけど、また今度ね、と言われるばかりでとうとう家族でここに来る事は無かったから。
だからここで見るものは全部が新鮮だ。壁や床には家に無かったものがいっぱいあって、どれも高そうなものばかり。机や椅子、絨毯にテレビ、日用品は全部高級品だ。もちろん、その時の私に何がどう高い物かはわからなかったけれど。
そして部屋に入って直ぐ、その高そうな木の椅子に座って優雅に紅茶を飲む女性の姿が見えた。
猫宮眞知華。
三尾の母親であり、叔父さんの妻。私のお母さんの妹にあたる私の叔母だ。
今はもうよく覚えて無いけど、お母さんは結構な美人だったらしく、同様に叔母さんもそれなりの美人のはずなのだが、彼女はとんでもない厚化粧でそれを隠していた。これは後で三尾に聞いた事だが、叔母さんにとってはこれが最大の「綺麗」らしい。
よくわからないが、本人は自分の顔にコンプレックスがあり、化粧でそれを隠して自分をより美人に見せているのだとか。すっぴんの方が綺麗な人なのに、それに気づかずわざわざ隠してしまうとは。何とも哀れな話である。
でも笑い方はお母さんそっくりで、私に向かって微笑む時だけ、お母さんの妹なんだなと実感していた。
だから私は叔母さんを見かけた途端、死んでしまったお母さんに会えたような気がして、嬉しさのあまり飛びつこうとした、その時である。
「―――あら、遅かったのね」
扉を開け、その音に反応した叔母さんがゆっくり振り返ると、私の足はピタリと止まった。
私が見たのはまるで無理やり笑っているかの様なニタリと張り付いた笑顔だった。そこにお母さんの面影は全く感じられず、私は本能的な恐怖を感じて戸惑っていた。
「ちょっと道が混んでいてな。知らせた時間よりも少し遅れてしまった。悪いな」
突然後ろから声がして、私はビクリと身体を震わせる。振り向いて見れば、声の主は叔父さんだった。
「なんだあ、おじさんか。びっくりしたよ……」
「はっはっはっ。それはすまなかったな。それよりも、叔母さんに挨拶はしたのかい?」
私は首を横に降る。そういえば、まだしていなかった。これからお世話になるのだから、挨拶ははちゃんと済ませねばならない。
「えっと……まちかおばさん。これから、よろしくお願いします……!」
私は声を振り絞り、深々とお辞儀をした。
「ええ、宜しくね。それじゃあ、早速で悪いんだけど、二階の掃除をしてくれないかしら?」
「ふえ? おそうじ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。来たばかりでいきなり掃除をしろと言われれば、当然戸惑いもするだろう。
だけど、頭にハテナマークを浮かべて首をかしげる私を見て、叔母さんの表情が一変。引き攣った頬は下に下がり、机を勢いのままにバシン‼ と叩いた。
「いいからさっさと仕事しろッ‼ この屑姪がッ‼」
突然大声で怒鳴られ、怯んだ私の胸倉に叔母さんの手が伸びる。
私は何が何だか分からなかったが、とにかく恐怖を感じたのでこちらも大声で叫ぼうと思った。しかし、藻掻いたり口を開こうとするとその度に平手打ちを入れられ、私の頬は真っ赤に腫れていった。
「そのくらいにしておけ。まだ退院したばかりなんだぞ? 最初ぐらい丁重に扱ったらどうなんだ」
「ふん。あの女の娘よ。ただの残り滓にそんな価値があるとでも?」
そう言って叔母さんは私をまるでゴミを捨てるように手放した。ゆっくり下に降ろすような真似はしなかったので、どすん、という衝撃が私のお尻を襲う。
「おじさん! 助けてよ! おばさんが、なんかおかしいよ! こわいよ!」
私は叔父さんが庇ってくれたものと信じ、眼に涙を浮かべながら必死て縋り付いた。
しかし視線を横にずらせば、叔父さんの手には使い古された汚い雑巾と金属のバケツが。
そして有無も言わせずにそれをを私に押し付けると、叔父さんは私の首後ろの襟を掴んで無理矢理持ち上げた。
私はやめて、やめて、と訴えてじたばたと手足を動かして藻掻いてみるが、叔父さんもまた、うごくな!と私を平手打ちし、ゴミ袋を捨てるような扱いで二階の部屋に放り投げたのだった。
「きゃあっ!?」
床に頭をぶつけたのか、脳を揺さぶるような衝撃が走る。
「今日からここがお前の部屋だ。呼んだら必ず来るように」
それだけを言い残して、叔父さんはドアを閉めた。
「だいじょうぶ?あきら……」
痛む頭を手で押さえ、振り向いた先には三尾がいた。
「みお……?」
三尾は突然両腕を大きく広げた。私はあの二人のように三尾も叩くのかと警戒した。しかし、疑心暗鬼になる私の予想に反して、強くもなく弱くもない力の細い腕が私を優しく包み込んだ。
「ごめんね……あきら……ごめん、ごめんね……」
首筋を暖かい水の塊が一滴、二滴、辿っていく。そのうちに私の頬にも同じ塊が線を描いていった。
それからというものの、苦しい日々が続いた。
初めは掃除だけだと思っていたのだが、その内にやったこともない炊事や洗濯までやらされる様になり、幼稚園にも通わなくなってしまった。
床や服に汚れが残っていたり、料理が不味かったり、呼ばれて直ぐに来られなかったりした時は、その都度怒鳴られる様な毎日だ。まあ、お陰で一通りの家事はこなせるようになったから、その点だけはある意味感謝すべきなのかもしれないが。
その中でも、特に叔母さんは酷かった。
眉に皺を寄せ、目を見開き、獣のように歯を剝き出しにしては、吠えるように私を怒鳴る。意味の無い罵倒を言い放つ様は正に鬼の形相そのものだった。
機嫌の悪い時には私の髪を掴み、頬を叩き、頭を殴り、腹を蹴るというような理不尽な暴力を振るう事も厭わない。食事を抜かれたり、お風呂に入れない日々も少なくは無かった。
その間、海斗さんは脇でただその一部始終を見ているだけ。根は優しい人だったから、追い打ちを掛けるような事はしなかったけれど一度も助けに入るような真似もしなかったのだ。
私にとって唯一の救いがあるとすれば、それは三尾の存在だろうか。私一人ではこなせないような仕事はいつも手伝ってくれたし、私が虐められる度に負う怪我を手当てしてくれたのもあいつだ。
今ではあまり想像がつかないが、初めの頃は三尾の無邪気な笑顔に何度も励まされたものだ。
しかし、それが気に入らなかったのだろう。叔父さんと叔母さんの魔の手はいつしか三尾にまで向いていき、次第にあいつの笑顔は消えていき、口数も減っていった。
最早、三尾にとっても叔父さんと叔母さんは肉親とは呼べる存在ではなかった。本人曰く、海斗さんだけは唯一家族と言えるらしいが、苦しい顔でこちらを見ているだけで、何もしてくれない人が本当に家族と言えるのか、私には疑問でしかなかった。
そんな生活が約三年もの間続いた。毎日毎日、朝から晩まで雑用をこなし、遅くに寝ては早くに起きる日常。偶に休める時があっても、それは決まって暴力が終わってから。要するに、ストレス解消の道具にされ、怪我をして動けないか、風邪を引いて寝込んでいる時だけだった。
当然身体には疲労が溜まっていき、やがて失敗が多くなっていった。
そんなある日。ようやく転機が訪れた。
時刻は真夜中。
私はいつもの通り雑巾で二階の廊下を隅から隅まで綺麗に磨いていた。文句の付けようが無いくらいにしないとまた叩かれるから。まあ、付けようがなくとも暴力は振るわれるのだが。
そして今日一日分の仕事が終わった途端、急な立ち眩みに襲われてしまう。きっと気が抜けてしまったのだろう。
よろよろと後ろに下がり、何か手を付けるものは無いかと探っていると、肩が何かにぶつかった。その後、ガッシャーン! という何かが割れる音がした。
大きな音に反応して、立ち眩みが治る。視界が明けた先には、さっき拭いたばかりだというのに大量の水が。近くには一輪の大きな花と、割れた陶器の破片が散乱していた。
それが何か認知した私は、一気に顔が青ざめていった。
「何だ? 何の音だ?」
扉の向こうから叔父さんの声がする。それに続いて叔母さんが部屋から飛び出してきた。
「貴女、とうとうやってくれたわね」
冷徹にただ無情に。冷ややかな言葉が廊下に木霊する。
「あのっ、これは……その……」
「何? 言い訳する気?」
「いえ……そうじゃなくて………」
「じゃあ、何だっていうのよ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
叔母さんが私の髪を掴みかかろうとする所に、叔父さんが現れた。
「何だ、何があった?」
「あら、貴方。この屑がね、貴方の買った花瓶を割ったのよ」
叔父さんは花瓶が飾ってあった小机の下に目をやると、直ぐにこちらに視線を移した。
「なるほど。晶、お前が壊したこの花瓶、幾らすると思う?」
わからなかった。当然だ。正しい算術も知らないのに物の価値なんて分かるはずもない。
私は何も言わずに顔を横に降った。
「一千万だ。一千万した花瓶だったんだぞ!? お前、自分が弁償出来ると思っているのか?」
ガシリと叔父さんが私の頭を鷲掴みにする。
私は必死で抵抗し、何ども謝ったが、まるで面白がるように叔父さんは私の頭をグラグラと揺らす。
そこに、一階で掃除していたはずの三尾が飛び込んで来た。
「もう、止めて! あきらもわざとじゃないはず。だから、もう、止めてあげて……」
叔父さんは私の頭から手を話すと、ゆっくりと三尾に近づいた。そして、何も言わず、自身の娘の溝内を蹴り飛ばした。
「がっ!?」
三尾が小さく悲鳴を上げると、叔父さんは今度は三尾の胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「私に口答えするなあ!! 貴様、今まで誰に育てられたと思っている? 言ってみろ!」
「そ、それは……お、おとう―――」
「ならば何故口答えをする? お前は育てられた恩も忘れたのか!!」
叔父さんは三尾の胸ぐらを掴んだまま振り回し、そのまま勢い良く壁に投げつけた。
私は慌てて三尾に駆け寄る。声を掛けるが、咳き込むばかりで返事はない。恐らく壁に背中を打ち付けた所為だろう。
そして、怯える私と睨みつける三尾を見て、叔父さんはため息を吐いた。
「はあ、全く。あいつの娘はともかく、三尾。私はお前をそんな娘に育てた覚えは無いぞ」
「ケホッ……うる、さい……」
「ほう―――」
飽くまで食い下がる三尾の態度を叔父さんはゴミを見るような目で睨みつける。すると、次にこんな事を話し始めた。
「お前達。いい事を教えてやろう。社会ではな、暴力なぞ日常茶飯事だ。肉体的であろうと、精神的であろうとな」
……?
一体何の話なのか。私達の理解が追いつかなくとも、叔父さんは続ける。
「より強い者が権力を握り、弱い者は容赦無く蹴落とされる。分かるか? 強者は弱者に勝てない。所謂弱肉強食という奴だな。政治家とはそういう世界だ」
やはり何が言いたいのか解らない。つまり、どういう事なのか。
その疑問を抱くよりも早く、叔母さんが何が察して話に入る。
「もう捨てちゃうの? 折角の良い玩具だったのに」
「三年も経てば頃合いだろう。そろそろ目障りに思えてきていたしな」
何を、言って、いるのだろう。
捨てる? おもちゃ? 目障り? 二人には私が何に見えていたというの?
私の顔から血の気が引いて行く。今の自分がどういう状況にあるのか、少なくともこれがいつもの虐めと同じではない事は直感で分かった。
「そう、その顔だ。お前のその顔が、私は一番好きだったよ。きっと、あの世であいつも同じ顔をしているだろうさ」
高らかに。楽しげに。揚々と。叔父さんは声を上げて嗤い始める。それに追従して叔母さんも嗤う。
「それから三尾、お前にも失望したぞ。今までは娘だからと大目に見てやっていたが、もう知らん。これからは勝手に生きていくが良い」
それだけ言うと、叔父さんは私と三尾を雑に持ち上げて一階に下りると、廊下を真っ直ぐ歩いた。突き当りにの玄関に辿り着くと、鍵を開けて扉を開く。そして―――
「きゃあっ!」
「うっ!」
初めてここに来た頃のように、真夜中の外に私達を捨てた。
太い腕から放り投げられ、土が皮膚を掠め取ってゆく。
そのまま何も言わず、叔父さんは扉を閉めた。
「待って! 捨てないで! 開けてよ! おじさん! ねえ、おじさん‼」
私は扉を何度も叩いた。近所迷惑になるぐらい必死に訴えたが、反応は無かった。代わりに、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。
「ねえ、本当に捨てて良かったの? 警察が来たらどう説明するつもりなの?」
「心配するな。何かあればこちらから圧力を掛ければ良い。伝手はあるからな。そもそも、あの娘を引き取ったのも、あいつの遺産目当てだったしな。むしろ住まわせてやっていたのに、役に立たん小娘どもの面倒なぞ見たくはないわ」
これで精々した、とまた聞こえる嗤い声。
私は絶望した。本当に私の中の家族が崩れていった。いや、もうとっくの昔に崩れ去っていた事に今更ながらに気づいたのだ。
膝をつく私に、三尾が言う。
「……あきら、行こう」
悲しさか悔しさか、三尾は瞳に涙を浮かべ、地に付す私に手を差し伸ばした。
「行くって、どこに?」
「わかんない。でもここでじっとしているのはいけない。どこかに行こう。きっと、まだ希望はある」
『希望』だなんて、今の私はにわかには信じられなかった。こんな絶望の淵で、希望なんてものが何処にあると言うのか。でも、他に信じるものも無かった。だから、私は三尾の手を取った。
外は真っ暗闇かと思ったが、以外にも月明かりや街灯で明るかった。だが、近所に家らしい家は見当たらなかった。
この家は敷地を広くするために街から少しはずれた丘の上に建てられている。だから、家の中でも外でも、どれだけ悲鳴や叫びを上げても不審に思う人が居なかったのである。
だから、まずは人を探して私達は歩き続けた。
数時間後。
私達は、とにかく、人のいる場所に行こうと街へ向かった。しかし、真夜中故に人通りも少ない。途中車が通る事もあったが、身体が小さい事が災いし、運悪く死角に入った事で気が付いてもらえなかった。
次第に雲行きが怪しくなり、程なくして土砂降りの雨が降り始めた。
当然傘なんて持っているはずがなく、ずぶ濡れになりながらようやく街に着くも、そこで急に身体が激しく震え出した。
―――寒い。思えば今は一月、その最後の日。季節としては一番の真冬の時期に当たる。雪でないだけまだましだが、それに匹敵するほど冷たい雨粒が身体を濡らしている。おまけに今は誰もが寝静まった真夜中の時間。日の光なんてあるはずが無い。
「あきら、だいじょうぶ?」
「う……うん……だいじょう、ぶ。ちょっと寒いだけだから……」
私は三尾を心配させまいと強がったが、身体が限界を迎えようとしているのはどうしようもない事実だった。
それを一大事と判断した三尾は、私の手を引っ張り路地裏へ入り込んだ。そこで見つけた段ボールを使い、即席で二人が入られるだけの屋根を作って見せた。
ああ、そういや、三尾って結構器用なんだよね。柔軟っていうか、応用力があるっていうか。
ひとまず、休める事に安心した私達は、急な眠気にまで襲われた。多分疲れたのだろう。折角だから、ここで寝た方が良いのかもしれない。三尾も、どうやら同じらしい。
そして朦朧とする意識の中、叔父さん達の言葉が頭を過る。
今まで、私達は人とすら見られていなかった。ただの道具。ただのおもちゃ。
何が「一千万の花瓶を割った」だ。なんて安っぽい台詞なのだろう。逆に言えば、今まで私達はそんな安っぽい悪意に虐げられていたという事か。
別にここまで細かく考えていたわけじゃないけど、似たような思いが、悔しさが、胸に渦巻いていたのは確かだ。
きっと、ここで私達は死ぬのだろう。それもいい。ここで楽になれば、きっと、天国のお父さんとお母さんに会いに行ける。その方が幸せだ。
そういえば、あの時、二人が死んだ時約束したっけ……。えっと、確か―――
動物園……行きたかったな……
そんな、時だった。死を悟っていた私達に、光が差し込まれたのは。
―――たったったったっ
雨音に紛れて誰かの足音が聞こえる。走っている。こっちに……近づいてくる?
それを確認しようと振り向こうとしたが、不意に体の力が抜けていき、ぱたりと倒れてしまう。同時に組み立てた屋根も崩れてしまう。
「大丈夫!?」
聞こえたのは息を切らした男の子の声。
私達は虚ろな目で彼を見つめる。意識がはっきりとせず、雨とぼやけた視界で顔がよく見えない。だけど、私達と同じくらいの少年だという事は分かった。
「たす……け、て……」
「おね…が、い……」
私と三尾は必至で声を絞り出した。
いやだ。しにたくない。いきていたい。お父さんと、お母さんの分まで、生きて……いたい……!
私は、顔も分からない声の主に向けて、必死に手を伸ばす。それを見た三尾も同じく手を伸ばす。
おねがい……てを……とって…たすけて……ください……!
私は心の中で必死に叫んだ。
雨水が傷にあたって、体中が痛い。水は冷たいのにまるで火にあぶられているような気分だ。ここまで無理に身体を動かした事もあって、こうして腕を伸ばすだけでも辛い。
それでも、それでも私は手を伸ばす。絶望の縁で見つけた、目の前の希望を掴みたくて、いつかの幸せをもう一度夢見たくて。
そして、途切れかける意識の中、冷たくて熱い手のひらに、確かな温もりを感じた。
私の意識はそこで途切れ、気付けば、暖かいお湯に浸っていたのであった。
1月31日 月曜日
――10:33――
「そう、それは……辛かったでしょう」
約一時間、私は自分のこれまでを詳細に語った。途中、記憶が曖昧になっていた所とかは、三尾にフォローを仰ぎながらの長いお話だった。
それを聞いた日和さんの頬には既に涙が流れた跡があった。そして、ぎゅっと、私達二人を抱きしめた。
「ええ、認めます。貴女達を家の娘として迎えます。今までの事、全部とは言わないけれど、もう忘れて良いの。いえ、忘れなさい。これから、私達といっぱい楽しい事をしましょう」
暖かい、本当に暖かい抱擁だ。懐かしい。とても懐かしい。
そうだ。母親とは、こういうものだった。もう顔も思い出せないけど、昔お母さんに抱っこしてもらっていた時は、こんな感じだった気がするなあ。
そしてしばらくの間、いや、実際はほんの一瞬だったのだが、私達はじっくりとその温もりを堪能した―――はずなのだが、どういうわけかやっぱり何か物足りなかった。そう、あの人の手の温もりと比べると。
想いはしっかりとお互いに受け取ったつもりだが、これで私達はこの家族の一員になれたのだろうか。
「痛いっ!?」
突然私の身体に軽い痛みが走り、思わず声を上げてしまった。前の家で負った傷がまだ痛むらしい。
「あら、ごめんなさい! 傷が痛むのね。ほら、私に診せて。大丈夫、今度は痛くしないから」
言われるがまま、私と三尾は自分の身体の傷を見せた。ある程度の処置はあの人と晴幸さんにやってもらったけど、こうして改めて認識すると、本当に身体のいたる所傷があるのが分かった。
「本当に酷い……子供にここまでの事をするなんて……」
「とりあえず、こっちで応急処置は済ませておいたよ。少なくとも命にかかわるものじゃないのは確かだけど、一応診てもらった方がいいかい?」
「ええ、そうね。折角病院に来ているんだもの。ちゃんと検査してもらいましょう」
「ねえ、僕も二人について行っていい?」
「ああ、もちろんだとも。むしろ、こっちから言おうと思っていたぐらいだ。ついて行ってあげなさい」
「うん!」
晴幸さんの了承を受け、嬉しそうな顔で彼は頷いた。そして私も嬉しくなった。横で三尾も密かに笑顔を隠し切れなくなっている。
しかし、困った事が一つだけあった。
晴樹をなんと呼べば良いのかわからないことだ。
確かに、普通に名前で呼べばいいのかもしれない。けど、はるき……くん? さん?
何だか、それは、恥ずかしい、というか、おこがましい? というか、その……とにかく、どういうわけか、名前で呼ぶのに抵抗があったのだ。
(ねえ、三尾。あの人の事、名前で呼べる?)
(……なんで?)
(えっと、なんか、違う、気がして……)
(……実は、私も……)
そうだ。違う。何か、それは違う。そんな気がする。
でも三尾も同じだとは思わなかった。本当に、この気持ちは何なのだろうか。とにかく、名前を呼べないのはこの先非常に不便だ。だから私は、思い切って皆さんに相談することにした。
そして、返って来た返事がこれである。
「晴樹の名前が呼べない? どうして?」
「えっと、その……わっかんないです」
「何か精神的な理由でもあるのかしら? でも、確かに名前を呼べないのは不便よね……あだ名でも考える?」
「えっ」
あの人が固まった。多分、変なあだ名を考えられたくないんだと思う。
「おい、凄い嫌そうな顔してるぞ、あいつ」
「えー、でも他に名前以外の呼び方なんて……」
「ふーむ。あ、そうだ。いっそ『ご主人様』なんてどうだ?」
「はあ!? 貴方、ちょっと何言ってんのよ!」
「い、いやあ、ごめんごめん! 流石に冗談だって! パッと思いついて言ってみただけなんだって! ちょっ、痛い痛い! やめて、叩かないで~」
ごしゅじん……さま……?
何だろう、この気持ち……。心の底から、なんかスカッとした!
何でだろう、ごしゅじんさま……ご主人様!
私は心の中でこの呼び名を繰り返した。これがどうゆう意味なのかは正直分からない。でも、これがとっても呼びやすい気がした。これが、私の心の奥底にぴったりと収まったのである。
隣の三尾と目を合わせ、様子をうかがってみると、あいつもまんざらでもないようだ。
どうやら、私達にはこの呼び方が一番合ってるらしい。だから、思わず―――いや、心のままに口にするのだった。
「あのっ! それで、いいですっ」
「ん……わたしも、それがいい」
「「えっ」」
晴幸さんと日和さんが、さっきのご主人様と同じように硬直した。
「「これからよろしくお願いします。ご主人様!」」
「え、あ、うん。よろ、しく?」
流石に一風変わった呼び名だったので、ご主人様も戸惑いを隠せないでいた。首を傾げる様が、ちょっとかわいい。ふふっ。
「ちょ、ちょっと待て! 君達、早まっちゃいけない! それはまだ君達には早すぎるセリフだ。せめて十年、いや五年経ってからで……」
「何言ってるんですか! 貴方が変な言うからでしょうがっ!」
「あいたーー!?」
病室内が突然騒がしくなった事で、何人か看護師の人が様子を見に来た。日和さんが上手くかいつまんである程度の事情を説明したので、看護師さんは私達を連れていこうと声を掛ける。そこにご主人様も付いてきてくれて、私達はウキウキしながら病室を後にしたのだった。
その途中で黒いスーツの大人の人がそそくさと横を通り過ぎて行った。私はご主人様の事で頭が一杯だったので、あまり気には留めず、そのまますれ違うのであった。
――10:01――
三人が病室を後にして。ようやく僕と日和だけになれた。まあ、正確には直ぐそこで娘が一人寝ているのだけれど。
「いてて、まさかハリセンで叩かれるなんてね。どこにそんなのを持ってたのやら……」
「手で叩いたら、三尾ちゃんの両親と同じになっちゃうでしょう。貴方ってば偶に変な事を言うから、最近突っ込み用に購入したの。ネットって便利よね」
「いやいやいや、叩いてる時点でアウトだから。僕はお笑い芸人じゃないんだよ。あと古い」
「そうかしら? まあ、でも今は関係ないでしょう」
突っ込み所を作ったのは君だというのに。やれやれ、僕の妻の切り返しの良さには困ったものだ。
「それで、あの子達をどうやって養子に迎えるの? 私も協力したいけれど、日本の法律上、一方的に子供を養子に迎える事は出来ないでしょう?」
「ああ、だけど一つだけ考えがあるんだ」
「……それは?」
「組織の手を借りる」
「―――!? 貴方、それは……」
「ああ、向こうに協力を仰がなきゃいけない分、今後、僕たちも協力を惜しむ事を許されないだろう」
「そんな……もっと他に方法があるはずよ。組織なんかに加担したら、あの子達にも……」
数舜の間、会話が途切れる。
僕だって承知の上さ。これが一か八かの掛けになる事ぐらい。
だが、現状この手段が最悪手でもあり、最も有効的な手でもある。
相手が普通でない以上、こっちも普通の手段には頼っていられないのだ。
三尾ちゃんの両親。政治家である猫宮夫妻は、世間的にはそれなりにカリスマを持つ政治家として知られている。だがその反面、裏が黒いという噂もちらほら耳にするのだ。
実の所、その噂はほぼほぼ現実に近いと言っていいだろう。というのも、僕たちの言う組織はあちこちから技術や資金をかき集めていると聞く。それには政治家からの闇金も含まれているのだ。
その政治家――恐らく複数いるだろう協力者の一人として――というのが猫宮夫妻という事だ。最も、これは飽くまで僕の個人的な見解ではある。だが、先程も述べた通り、ほとんど現実味を帯びていると言ってもいい。さっきの二人の話を聞いて、疑いから確信へと変わったのだから。
「わかってはいるさ。でも、これが一番確実な方法なんだよ。大丈夫、話は僕からつけておくからさ―――」
そこで、ドアの向こうからノック音が聴こえた。大方、僕の予想通りの展開だ。
「ほら、噂をすれば客人の御到着だ」
息子と義娘達が出入りしていった扉の先から、黒尽くめの男が現れた。院内は白一色であるため、この場には非常に不相応―――妙な違和感を感じてしょうがない。
男は病室に入るやいなや、さっそくいつもの憎たらしい口を開いた。
「おはようございます。教授。奥様。ご出産誠にお祝い申し上げます」
「御託は良い。それよりもどういうことだい? 今日は遠慮してくれと、昨夜説明したはずだが」
「ええ、私も説明したんですがね。ただ上司がうるさいんですよ。だからこうして、直接交渉しに来たんですよ。まあ、この分だと要求に応じてくれそうにありませんが」
「よくわかっているじゃないか」
「ええ、流石にこう何度も躱されてしまうとね。色々と分かってくるんですよ。さて、来るには来ましたが、ここに居ても私は時間の無駄なので。どうか夫婦円満、家族団欒の時を楽しんで下さいませ」
そう言い残して、男は病室を後にしようとしたので、僕はそれを呼び止めた。
「待ちたまえ。資料を提供するにあたって、一つ条件がある」
「おやおや、これは驚いた。しかし条件とは……。大きく出ましたね」
「何、君たちにとっては簡単な事だろうさ」
「ふむ……。お聞きしましょう」
「どうせ君もさっき見かけたのだろう? 家の息子と一緒にいたあの女の子二人を」
「お友達か何かですか?」
「いや、違う。これから家族になろうという娘達だよ」
「養子……ですか?」
「ほほう。勘が良いねえ。その通りだとも」
「しかし、何故養子の引き取りなどに私どもの手を借りようと? ご自分でなされば良いものを」
「話は最後まで聞きたまえ。君、猫宮議員夫妻のことは知っているかね?」
「……あー、あーあー。あの付け上がり金持ちの! ええ、もちろん存じていますとも。日頃お世話になっている方々の一人かと」
「やはりそうか……。あの子達は片方が亡くなった犬飼議員夫妻の娘、片方がその猫宮議員夫妻のご息女だ」
「ほう……?」
「どうやら、二人は猫宮夫妻から深刻な家庭内暴力を受けていたらしい。それで、家を追い出されて僕の下に辿りついた―――何、拾ったのはただの偶然さ。だがまあ、家で引き取る事を決めたのは、ついさっきのことだがね」
「だから? それならば尚の事、ご自分で手続きをなさればよろしい。我々には関係の無いことだ」
「それはご最も。だが良いのかい? まずは警察に届けを出したとして、そうすると猫宮夫妻のDVが露見することになる。そうだなあ、例え全てが上手く行ったとして、そうなると君達は都合のいい金蔓を一つ失うことになるね」
「では、上手く行かなければ?」
「ま、事実を揉み消そうとして僕らを裁判にでも掛けようとするだろう。もちろん、判決は賄賂で有罪さ」
ここまで話すと、男はしばし考えたような顔をして。
「……いいでしょう。その条件、こちらもお受けいたします。では、この事は我々だけの秘密にしておきましょうか。その方が、私としても都合が良い」
「そうしてくれるならありがたいが、あまり信用はできないなあ」
「おやおや。ビジネスパートナーとしては、もう少し信用して頂きたいところですな」
男はそう言って不適に笑いながら病室を後にした。
交渉は成立したが、どうやら彼も腹に何かを抱えているらしいな。こちらとしては今はありがたいところだが、果たしてそれがどう転がってくるか……。
これから大変になりそうだ。やれやれ、ついに僕達の命運も握られてしまったか。これが運命だとするなら、神という存在は一体何を考えているのかねえ。