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ペット&ライフ  作者: 仮ノ一樹
エピソード1 日常
13/18

第13話 この胸の内、モー烈につき ―前編―

9月12日 土曜日

 ――A.M.4:00――


 ―――牧場の朝は早い。まだ日が出て間もない時間、あるいはお日様が目覚める前の、まだ暗い時間帯。目覚まし代わりに聞こえるニワトリさんの朝鳴きから一日が始まります。


 朝ごはんを食べて、厩舎を開けて、そうして五時を迎えたあたりから、従業員さん達が続々と出勤してきます。厩舎によって、出勤の時間はちまちなのですが、大体五時から七時半までが原則です。

 作業着に着替えた後、厩舎の清掃や、家畜さんの餌やりと体調管理を始めます。鶏舎だったら、集卵を始めるのはこの時間からですね。


 それから、七時半から八時半の間には朝礼と打ち合わせを。とはいえ、ほとんどは三十分もかからないので、これは飽くまで目安ですね。各厩舎の状況や従業員さんの出勤状況の確認だったり、その日の出荷と前日の生産数の把握だったり、とにかく牧場全体の現状を皆で共有します。

 これが終わったら、牧場はようやく本格稼働。担当する厩舎毎にそれぞれの業務の始まりです。例えば、牛舎だったら、搾乳や放牧だったりですけど、ここからは多過ぎて一度に全部は語りきれませんね。


 平日も休日も関係無く、朝から晩まで家畜さんのお世話に明け暮れるのが日常です。だから、時間の流れもあっという間。

 特にうちは牧場を三つの区画に分けて、三種類の家畜さんを飼育しているので、敷地が広い上にやることも多くて大変です。時間が余れば、畑仕事や他の厩舎を手伝うこともありますし。


 なので合間に勉強の時間を取るのは大変ですけど、日課なので苦しいと思うこともありません。それよりも、ウシさんのお世話をする方が楽しいですからね。


 ―――これは、そんな毎日の一幕。掛け替えのないお友達との思い出話です。



 ――A.M.8:44―― 


 九月。夏休みも終わり、季節は秋を迎えました。

 私の高校一年生としての生活も、早いものであと半年。初めましての春も、忘れられない夏も、もう過去のものになりつつあります。

 とはいえ、夏の終わりに寂しさを感じているわけではありません。これから先、風がもっと冷たくなって、落ち葉も増えてくるのでしょうけれど、天気予報によれば、まだしばらくは残暑が続くのだとか。まだまだお日様は元気いっぱいのようです。秋の訪れを感じるようになるのも、もう少し先になりそうですね。


「ふう……」


 作業が少し落ちついて、私は額に溜まった汗を拭いながら、軽く息を漏らした。

 早朝が肌寒いからと、長袖を着るんじゃありませんでした。やっぱり動くと暖かくなるものですね。おかげで中はムレムレです。ちょっとだけ、胸元を開けて風を通しておきましょうか。


「モー」


 穏やかな鳴き声を上げて、目の前で牧草を食んでいたウシさんが私の頬をペロリと舐めた。

 突然のことで驚きはしましたが、これはウシさんの愛情の印です。きっと私のことを心配してくれてるんですね。


「ふふ、ありがとうございますね」


 感謝の気持ちを込めて首筋を撫でると、ウシさんも嬉しいのか、またモーと鳴いて応えてくれました。


「舞桜。そろそろお友達が来る時間じゃない? ここはやっておくから、あなたはいってらっしゃいな」

「は~い」


 お母さんの言葉に、私は緩く言葉を返して時計を見る。時刻は八時四十五分程。時間の流れの速さにちょっとだけ驚きつつも、頬についた唾液をタオルで拭き取って、軽快な足取りで牛舎を飛び出しました。


 そう、そうでした。実は、今日はちょっぴり特別な日なんです。なんと、生研の皆さんがうちの牧場へ遊びに来てくれる日なんですよ!

 あ、でも遊ぶんじゃありませんでしたね。これも部活動の一環です。案内する側として、気を引き締めないと!


 うふふ。それでも、やっぱり皆さんがうちに来てくれるのはとっても嬉しいです。牧場のお客さんだって、業者さん以外は滅多に来ないですし、自分でお友達をお招きするのは、これが初めてですからね~。

 何せ牧場のお手伝いが忙しいのと、牧場が街から遠いのもあって、今までこういった機会には中々恵まれませんでしたから。そう思うと、なんだかちょっとだけドキドキもしちゃいます。 


「あら? あれは……」


 ぽよん、ぽよんと胸が弾む気持ちの中、ふと柵の上に腰掛けていた男の子が目に止まる。パーカーを被っていて遠目からだと顔がよく見えないですけど、あの寂しそうな横顔には見覚えがあります。


「そーうーたくん。こんなところで、何してるんですか?」


 私は俯くパーカーを覗き込んで、にっこりと微笑んでみせた。すると、男の子とは確かに目が合ったものの、直ぐに視線を逸らされて。


「……なんだ、舞桜姉かよ」


 と、素っ気ない態度で返されてしまいました。


 ―――伊野井いのい颯太そうたくん。未來さんの二つ年下の弟で、中学生の男の子です。昔はとってもやんちゃな悪戯っ子で、よく未來さんに怒られては、私に泣きついていたのを覚えています。だから根はとっても甘えん坊さんなんですよ。

 だけど、今はすっかり反抗期に入ってしまったみたいで、何事にも真っ直ぐな未來さんとは対照的に、気難し屋な捻くれさんになってしまいました。

 牧場の手伝いもせず、学校にも行かず、遊んでばかりだ、なんて未來さんからの愚痴をよく聞きます。私と沙耶さんには、ぶっきらぼうながらも変わらず接してくれてはいますが、未來さんとは言葉を交わす度に喧嘩ばかり。なんとか仲直りさせられないものでしょうか。


「も~。つれないですね~」

「別に、音楽聴いてただけだし。舞桜姉こそ、こんなとこまで来てなんか用でもあんの?」

「いいえ、通りがけに見かけたので、声をかけようかと思って。それにしても珍しいですね、こんな時間に。いつもはあれだけ面倒くさがってたのに、今日は早起きさんなんですね?」


 颯太くんは軽く息を吐くと、柵を降り、パーカーの内からワイヤレスイヤホンを取り外してポケットの中にしまいました。


「今朝は未來姉に叩き起こされたんだよ。なんか、忙しいから手伝えって」

「まあ、そうだったんですね! ……あれ? それなのに、今はこんな所でおサボりさんですか?」

「……いいだろ、別に」


 ずっと不機嫌そうな彼の額に更にシワが寄るのを見て、私は自分が失言したのに気付きました。うっかりです。何か理由があってここに来たことぐらい、察していたつもりだったのに。


「もしかして、また未來さんと喧嘩したんですか?」

「……そうだよ。悪いかよ」

「も~、ダメですよ。ちゃんと姉弟で仲良くしないと」

「やだね。いくら舞桜姉の言う事でも、それだけは聞きたくない」


 颯太くんはつん、と口をとんがらせて言いました。


「どうしてですか?」

「どうしてもだよ。舞桜姉には関係ねえだろ」

「いいえ、関係あります。だって、同じ屋根の下で暮らしてるんですから。私たちは家族も同然、でしょう?」

「………」


 返す言葉がなくなってしまったのか、颯太くんは不満そうな顔のまま口をつぐんでしまいました。それでも、まだ言いたいことがあるらしく、しばらくの間口の中をもごもご。やがて抑えが利かなくなったのか小さく声を発して。


「―――さいから」

「……え?」

「うるさいから!!」


 あまりに小さな一言だったので、思わず聞き返してしまうと、颯太くんはまるで風船が割れるような勢いで怒鳴りつけたのです。


「そ、颯太くん!?」

「毎日毎日、勉強しろだの、手伝えだの、あれしろこれしろって、ブタみたいにブーブーと!」

「あ、あの。颯太くん?」

「大体、なんでせっかくの土日に四時起きしないといけないわけ? ありえねーって。朝っぱらからブタ小屋の掃除なんてやってらんねっつの」

「ええっと、あのね颯太くん、それはね―――」

「ダメだっていうんだろ? やっぱり、舞桜姉も未來姉と同じだ。そうやって、皆して俺に説教ばっかりするんだ!」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「舞桜姉のバカ! どうせ、通りがけなんてウソだ、ウソ! 最初から未來姉に俺のこと連れてくるように頼まれてたんだろ!絶対そうにちが」 

「えいっ」

「むぶぅ!?」


 癇癪は酷くなる一方で収まる気配もなく、感情が高ぶるあまり、颯太くんは今にも泣き出してしまいそうに。そんな苦しそうな顔を見て耐えかねた私は、声を荒げる彼の不意をついて、ギュッと抱き締めてあげたのです。

 ちょっと強引にやってしまったからなのか、勢いでパーカーが外れると、未來さんとそっくりの丸っこい顔が顕わになりました。


「~~~!? ~~~!?」

「怒らな~い、怒らない。も~、そんなにイライラしてると、幸せが逃げていきますよ~」

「~~~! ぷはっ。舞桜姉、離して、死ぬっ」

「あらあら~?」


 ちょっと力が強かったでしょうか。颯太くんが息苦しそうに訴えてくるので、仕方なく力を緩めました。すると、彼は私の腕を振り解き、バックステップで離れていってしまいます。


「ななな、何すんだよ舞桜姉!?」

「え? 何って、未來さんと喧嘩した時には、いつもこうしてたでしょう?」

「ししし、知らねぇし! 覚えてねぇし!」

「え~!? そんな~! 本当に覚えてないんですか~? ほら、颯太くんがまだこのくらいの頃、こうして両手をいっぱい広げて泣きついてきたことがあって―――」

「うわー!? 覚えてるから、思い出したから! ハズイからやめて、やめろーーーッ!?」


 私が思い出話をしようとすると、颯太くんは顔を真っ赤にして、今度は悲鳴にも似たけたたましい声をあげて、お話を遮ってしまいました。思ったよりも元気そうですね?


「そ、それは小学校の時の話だろ!? もう子供扱いすんなよ! だっ、誰かに見られたら、どうすんだよ!」

「も~。そんなにキョロキョロして大袈裟ですね~。小学校って、まだ二年前ですよね? そんなに昔じゃないと思うんですけど……」

「オレにとっちゃ十分昔だよ! 黒歴史だよ!」

「……中二病はこれからだと思いますよ?」

「そういうんじゃないから」


 颯太くんは心底嫌そうな顔をすると、ぷいっとそっぽを向かれてしまいました。


「あの……もしかして、本当に嫌でしたか……?」

「……え。あ、いや、別に。そういうわけじゃ……むしろ、ごちそう、さま、でした、というか、なん、と、いう、か……」

「……?」


 よくわからないですけど、さっきと打って変わって、なんだか急に表情が柔らかくなった気がします。少しは落ち着いてくれたみたいで、私も安心しました。もじもじしてるのは、ちょっと気になりますけど。


「つ、つーかさ。 今日忙しいなら、いつまでも俺なんかと話してて良いわけ? こんな所で油売ってる暇なんかないんじゃ―――」


 とそこで、お尻がぶるぶると震える違和感を感じて、私はポケットに手を入れる。スマホを取り出して起動すると、画面に表示された着信履歴には未來さんの名前がありました。


「ちょっと待ってくださいね」


 着信をタップして、トークアプリを開くと、三人で使っているグループの画面が表示される。


『舞桜、まだかかりそう?』


 未來さんからのメッセージです。アプリを開いた直後、その一言を読み終える前に今度は沙耶さんから。


『皆もう来てるよー』

『舞桜ちゃんも早くおいでー』

『早く来ないと、先行くからね。時間押してるんだから』


 そうして、未來さんからの追い打ちメッセージと同時に、早く合流するよう促すスタンプが送られてきました。


『あらまあ、大変! もうそんな時間なんですね!』

『もうちょっと待ってて下さい! すぐに向かいますから!』


 私はすぐにスマホを操作して返信を送ります。そして、ウシさんが走る可愛いスタンプを送ってみました。

 『既読』の文字はすぐについて、お二人からのお返事が届きます。


『さっさとこーい』

『りょ!待ってるよー』


 ここでスマホを閉じて、視線を颯太くんに切り替えます。


「あはは、みたいですね~」

「……はぁ。だろ? いいから、オレなんか放っといて、さっさといけば?」


 相変わらずぶっきらぼうな言い分に、ちょっとだけむっとしつつも、彼の言うことにも一理ありました。

 ―――でも、それで本当にいいのでしょうか?

 頭の中に疑問が、胸の中にもやもやしたものが浮かんでくる。脳裏に過ぎるのは、さっきのあの子の寂しそうな横顔。あれを見て、どうして彼を放っておくことができるでしょうか。


 昔から、嫌なことがあると決まって私の所に来ては、泣きついてきた颯太くんです。もっとも、中学校に上がってからは、そんなこともめっきりなくなったと思っていましたが。

 そんな彼が今ここにいるのは、どうしてなのか。口ではああ言っていますけど、本当は助けてほしいんじゃないかな、って思うんです。

 考え過ぎかもしれません。お節介かもしれません。それならそれで良いのですけれど。


「ねえ、颯太くん。やっぱり、一緒に行きませんか?」

「は、はあ!? ヤだよ。なんでそうなるんだよ!」

「どうしても嫌ですか?」

「どうしても嫌だよ。どうせ、未來姉もいるんだろ? 行ったらオレ、説教されるじゃん」

「そこは、私が説得しますから、ね?」


 颯太くんはしばらく考え込むと、やっぱり考えは変わらないのか、頭をブンブンと振り回す。すると、ポツリと零すように一言。


「……なんでそこまでするんだよ」

「だって颯太くん。さっき、すっごく寂しそうな顔してましたよ。本当は、皆と一緒にいたいんじゃないですか?」

「……何言ってんだよ。別に、そんな顔した覚えないし」


 そうすると、颯太くんはパーカーを被って、くるりと踵を返して私に背を向ける。まるで、自分の顔を隠すように。

 ……やっぱり、ダメ、みたいですね。しょうがありません。時間もありませんし、無理強いするのも悪いですから、諦めるしかないですね。

 そう思ってすごすごとその場を後にしようとすると。


「……一応聞くけど、未來姉に頼まれて、とかじゃねぇんだよな?」

「はい、未來さんは関係ないですよ~。私が今勝手にやってることです」

「……じゃあ、行く」


 その言葉を聞いて、私は飛び上がるくらい嬉しくなりました。

 も~、ほんと素直じゃないですから~。誰かさんと一緒です。


「本当ですか? 本当なんですか!? 」

「ち、近いよ、舞桜姉……」

「じゃあ、さっそく行きましょうか。皆さん、待ってるでしょうから!」

「お、おう……」


 相変わらず不機嫌そうながらも、ちょっとはこちらを振り向いてくれたことに、深い安堵の息が出る。これで一歩前進、ですね!


「なあ、舞桜姉。ところでさ、その皆っての、よくわかんねぇんだけど。未來姉と沙耶姉だけじゃねえの?」

「あれ、未來さんからお話聞いてませんか? 今日は高校の部活動の一環で、牧場うちで体験学習をすることになったって」

「あー……そういや、そんなの言ってた気がする。未來姉の話とか興味ねえから普通にスルーしてたわ。あっ、今の未來姉にナイショな。言ったらぜってーメンドクセーから」

「も~、ダメですよ。人の話はちゃんと聞かないと」

「はいはい、気が向いたらそうするよ」


 あらあら、ぶっきらぼうなのは、相変わらずみたいですね。


「颯太くん、もしかして少し元気出てきました?」

「別に。オレはずっと元気だよ。舞桜姉こそ、今日はずいぶん機嫌良いじゃん? そんなに今の部活楽しいわけ?」

「あれ? そう見えますか?」

「見える見える。めっちゃだらしない顔してる」


 指摘されて自覚が強まったからかでしょうか。我慢しようにも、自然とほっぺたが緩くなってしまいます。ちょっと恥ずかしいですね。


「にへへ~。もちろんですよ~。でも、今日は颯太くんも一緒なので、もっと嬉しいです」

「そ、そう…?」


 これはきっと、神様がくれたチャンスに違いありません。もしかしたら、お二人を仲直りさせてあげられるかも……!

 そんな期待に胸を膨らませていたところ、ふと思い出したことがありました。


「あ、そうだ。ねえ、颯太くん」

「ん? なに?」

「実は前々から、あなたにずっと紹介したかった人がいるんですよ~」

「……は? 誰それ。舞桜姉の友達とか?」


 颯太くんは不思議そうにこちらを見つめる。


「はい、その通りですよ~。私のクラスメイトで、若葉晴樹さんっていう方なんですけどね」


 そうです、若葉さんです。実は彼、以前から未來さんに颯太くんのことを相談されていまして、少なからずお二人の関係を把握してるはずです。この機に実際の様子を見て貰えば、何か良い知恵をお貸ししてくれるかしれません。それに、彼もご兄妹が多いですから。


「とっても優しくて、とっても頼りになる人なんですよ。だからきっと、未來さんとの仲直りの手助けを―――」

「それって、舞桜姉が好きだって人?」

「―――ふぇ?」


 その言葉を投げかけられた瞬間、私の頭の中は驚きと、焦りと羞恥と疑問と、色々な感情が入り混じって、一瞬だけ真っ白に染まる。

 そうして我に返った時、私の口から飛び出てきたのはすっとんきょうな悲鳴だったのです。


「ななな、なんで颯太くんがそれを~~~!?」

「ちょっと前に沙耶姉から聞いた。なんか、ビーチで助けられた、とかなんとか」

「も~~~~! 沙耶さ~~~~ん!」


 全部知ってるじゃないですか~! 誰にも言わないって約束したのに~!

 私は恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で多って、それでも収まらない気持ちを晴らすように髪を振り乱した。


「そっか。本当だったんだ……」


 そんな私のことを他所にして、颯太くんがポツリとつぶやいた。それは、何処か悲しそうな一言でした。私のそれまでの羞恥心を吹き飛ばす程に。


「なんだよ、それ……」

「あの、颯太く……」

「舞桜姉、ごめん。オレやっぱムリ」


 私が声を掛け終わるよりも早く、颯太くんは踵を返して駆け出した。


「え!? あ……颯太くん!? 何処行くんですか!?」


 フードで顔を覆っていましたから、表情はわかりません。だだ、必死な様子で腕を振って去っていく背中は、さっきのように寂しそうで―――いえ、それよりもっと悲しそうに見えました。

 突然のことで、何が原因で何が気に障ったのかもわからなくて。何を言って引き止めたらいいのかもさっぱりで。ただおろおろと、走り去っていく男の子を見つめているうちに、その背中はみるみるう内に小さくなっていきました。


 追いかけることはしませんでした。きっと、そんなことをしても煙たがられるだけでしょう。なので、このお話はここまで。

 私は頬を思い切り叩いて気持ちを切り替える。このままぼうっと足跡を眺めていても、何も解決しませんから。今は生研の皆さんを優先しないとですね。


「お昼までには、帰ってきてくださいね……」


 もう聞こえないと分かっていても、これだけは言いたかった。今日は、腕によりをかけて作るつもりだったので……。



 ――A.M.9:14――


 牧場に到着してから、大凡二十分。あと一人メンバーが揃わないために、僕たちは駐車場で立ち往生していた。

 暇なので、車の中で三尾がスマホを弄って偶々見つけた占いサイトで遊んでいた。


「えっと、今日の三尾の運勢は、なになに……」


 サイトの記入欄に三尾の名前を入れると、間もなく結果が表示された。内容は―――

『今日はあなたにとって最悪の日になるかも? 黒いものと白いものには要注意! 周りを見て動こう! ラッキーアイテムは「水」』

 ……少なくとも、あまり良くない結果であることはよく分かった。


「はいはい、いつものいつもの」

「……むぅ」

「ま、まあ、占いなんて当たるとも限らないんだし。そう気にするなって」


 ガガンと落ち込む三尾を励ます横で、晶はやれやれと呆れ気味である。


「あ、来た来た! おーい舞桜ちゃーん、こっちだよーこっちー!」


 おや、外が騒がしい。車の窓越しに風羽さんの声が聞こえる。ぴょんぴょんとウサギのように跳ねながら大きく手を振っているのを見るに、どうやら時間のようだ。

 車のドアを開けて外に出ると、すっかりお馴染みの面々とご対面だ。各々、好きに時間を潰していたのだろうけれど、今は同じ方向を向いている。


「若葉さーん、皆さーん。おはようございま~す!」


 牧野さんの声だ。随分と遅くなったらしいけれど、何か用事でもあったのだろうか。まあ、ここは牧場だ。何かしら不測の事態が起こったとしても不思議でない。不思議ではないのだが、あれはなんだろう。

 勢いよく走る様は大変心地よさそうで、ここまでの道のりはさぞ良いランニングコースなのだろう。そりゃあ、暑くもなるだろうし、蒸れもするだろう。

 しかし、無防備に開いたその胸元は如何なものか。これは、目のやり場に大変困ってしまう。

 そのダイナミックさや否や。重力に従って上下する上半身に、男子高校生諸君は釘付けである。


「おおっ……コレは中々」

「なるほど、なるほど。これが牧場娘。いやー、つなぎ姿がよく似合いますな~」

「なあ、晴樹。Gって、グレイトのGだと思うんだけどどうよ?」

「しらんわ、そんなもん」


 コイツら平常運転かよ。下らんこと言ってないでそこ並んどけ。

 などと思いつつそっと目を逸らす僕も、あまり人のことは言えないのであった。


「ごめんなさ~い。ちょっと遅くなっちゃいました~。……あの、皆さん?」


 牧野さんが首を傾げる。いや、そこはご自分で気づいてほしいのだけれども。ほんと。


「舞桜……あんたねぇ」

「え? え? え?」


 伊野井さんが呆れるのも無理はない。彼女は溜息を吐きながら、牧野さんの胸ぐらを掴むように作業着のファスナーを上げた。ちょっと乱暴にしたからか、一瞬胸がつっかえていた。


「も~! いきなり何するんですか~!」

「何やってんのかはこっちが聞きたいわよ。あーもー、男子どもの前で端ない!」

「舞桜ちゃん。そういうの、良くないと思う」

「え~? 沙耶さんまで~!?」


 風羽さんからも真顔で非難されて、彼女の目が点になる。ここまで自覚がないのは、ある意味で奇跡だと僕は主張したい。

 そして許して欲しい。彼女が助けを求めるようにこちらを振り向いても、僕らはそっぽを向くことしかできないのだ。

 いや、もう手遅れかも。既に晶と三尾が鬼の形相だ。これは宥めるのに苦労するやつだ。頼むからこれ以上問題を増やさないで欲しい。

 と、そこに小山先生がスマホを片手に近づいてくる。


「牧野、そろそろ良いか。今、親御さんと連絡ついたから、そっちまで案内頼むぞ」

「はい。お任せくださいな~」

「若葉も良いか? もう行くぞ」

「あ、先生ちょっと待って。おーい、愛理沙ー、行くぞー」


 車に向かって呼びかけると、ゆっくりとドアが開いて、中から女の子が飛び出した。

 黒髪に黒い瞳、幼いながらも母親譲りの端正な顔立ちが浮かび始める自慢の妹―――愛理沙だ。

 愛理沙は外に出るや否や、僕の膝の後ろに隠れてひょっこりと顔を出す。そうして、じっと牧野さんを見つめた。


「あらあら~! 愛理沙ちゃん、お久しぶりですね~」

「…………」

「ほら、愛理沙。挨拶しなさい」

「…………こんにちわ」

「はい、こんにちわ~」


 愛理沙は必要最低限のほんの小さな声量で、一言を呟くように言った。僕に言われてしぶしぶといった感じだろう。

 牧野さんは少し屈んで妹と目線を合わせ、にっこりと微笑んでくれる。が、目が合うと妹は直ぐに膝の後ろに隠れてしまった。

 やれやれ、この前の夏で少しは解消されたかと思ったが、まだ人見知りは健在らしい。


「というわけなんだ。悪いけど、もう一人追加でよろしく」

「それは構いませんけど……もしかして、愛理沙ちゃんだけですか?」


 牧野さんはきょろきょろと辺りを見渡して言った。上の妹たちを連れてきてないか期待してのことのようだが、残念ながら今日連れてきたのは愛理沙だけだ。


 単に都合がつかなかったというのもあるのだが、それ以上に愛理沙が今日になって突然せがみだしたからという理由が大きい。しかも、出発の直前にだ。そうでなければ、事前に知らせることぐらいしただろう。

 一応、最初は駄目だと言い聞かせたのだが、そしたら意固地になって引き下がってくれなくなってしまったのだ。

 一言「やだ」と言われたり、「にーにといっしょがいー」だったり、兎に角まぁ、つまんだ裾を離してくれなかったわけだが、何にせよ普段は無口な末妹が、こんなに駄々をこねるのは珍しいことではある。


 そういうわけで仕方なく連れてきたのだ。と、今朝のことをざっくりと話したのだが、なんだか照れくさい。もちろん、最初は先生にもこっぴどく怒られたのだが、電話で父さんが説得してくれた為に、今に至る。連れてきてしまった僕の言う事でもないのだが、あちらも親バカ全開だ。

 そんな僕に、伊野井さんがニヤついて。


「へぇ。きみって、もしかして妹には甘いタイプ?」

「あはは……否定はできないなぁ。ただ、愛理沙にあんなにせがまれたのは初めてでさ。こいつ、普段なら外に出ようともしない本の虫なんだぜ。なんだか嬉しくなっちゃって。愛理沙なら迷惑をかける心配もないし、よろしく頼むよ」

「ふーん。そうなんだ。やっぱり兄妹同士仲がいいんだ」

「そうかな? 皆我が強いから、僕振り回されてばかりなんだけど」

「いいんじゃない? それって家族に好かれてるってことでしょ?」

「それはそうなんだけど、あんまり妹たちの相手ばかりしていると、晶が機嫌悪くするから……」

「あー……。そ、それは大変ねー」


 僕が溜息を吐くと、伊野井さんはものすごく引き攣った顔で苦笑いした。君が言い出したことだからね?

 少し後ろに目を遣ると、こちらの視線に気づいた晶が、ニコりと笑顔を返してきた。お前の話をしてるんだよ。


「……というか、今更だけどさ。なんであの二人はフツーに参加してるわけ?」

「さぁて。なんでだろうねぇ……」

「そりゃ、ハルキくんが行くなら、当然私たちもついてきて然りでしょう?」

「ん。事前に参加許可はもらってる」


 などと言っているが、伊野井さんの指摘は正しい。すっかり馴染んでいるから感覚が麻痺していたが、二人は本来部外者だ。いやまあ、身内に部外者と言うのも気が引けるのだけれども。

 それがどうしてナチュラルに部活動に同行してるんだろう。というか、いつの間に許可取ってたんだろう。僕全然知らないんだけど?

 という疑念を含めた視線を先生に送ると、先生はそっと視線を横にずらした。暗に、何かあったらお前の責任な、と言われているようである。


「よーし、お前ら。雑談はそのくらいにしとけ。時間も押してきてるから、良い加減移動するぞ」


 先生の号令に従って、僕らは引率に追従する。引率というのは牧野さんたちのことである。これは事前の取り決めで決まっていたことだ。もちろん、学校としては社会見学の一貫でもあるので、大人の従業員に任せるのが一般的ではある。しかし、ここは職場であると同時に彼女たちの家だ。なので、せっかくなので道中の案内を任せるということで話をつけていたのだ。もっとも、それを初めに言い出したのは、他でもない牧野さんなのだが。今日の予定(プログラム)についても、彼女たちが自ら考案して、顧問に提出されたものだ。

 まあ何にせよ、これでようやく生研の活動がスタートできる。


「あ、そうだ。その前に……」


 突然、牧野さんが立ち止まり、ヒソヒソと三人で話し始めた。「アレしましょう!」「アレやるの?」という会話が漏れ聞こえた後、三人は大きく手を広げて。


「「「―――ようこそ! 牧野牧場へ!」」」



 ――A.M.9:32――


 一口に牧場といっても様々ある。僅かな土地を上手くやりくりして経営する所もあれば、広大な敷地をベースに家畜を伸び伸びと育てる所もある。

 また、一般的に牧場とは畜産の中でもウマやウシなどの動物を放し飼いにする施設を指す言葉だが、ここは他の農場と比べると少々特殊らしい。


 牧野牧場は、牧野、伊野井、風羽の三家族が中心となって経営している農場だ。それぞれに担当があり、その担当区域では別々の家畜を育てている。

 事前に渡されていた全体図を見ると、楕円を地形に沿って崩したような構造となっており、その土地を牛舎区、豚舎区、鶏舎区、そして敷地の真ん中の居住区の大きく四つの区域に分かれている。

 これがかなりのな広さがあり、地図で確認すると一目瞭然だ。山一つを崩して広げられた敷地は――地方都市とはいえ――街の隣にある牧場としてはかなりの広さを持つと言えるだろう。これは道案内が無いと、すぐに迷子になってしまいそうだ。

 

 各区域について見ていくと、まず、牛舎区は牧野さんの家の担当で、ここでは乳牛の飼育と管理、そして売上の主力である牛乳の生産を行っている。つまり、酪農を営むエリアだ。放牧場もあることから、ほかの二つと比べると、特に敷地面積の広い区域らしい。牧野さんが言うには、これから僕たちには、ここでウシたちと触れ合って欲しいそうだ。


 次の豚舎区の担当は伊野井さんの家で、こっちは建物が占める割合が多い印象だ。なんでも、ブタの生育は一貫経営の方針により、成長過程に合わせて厩舎を変えるらしい。その分の敷地面積も必要とするが、それよりも動員する従業員の数が特に多いと彼女が語っていた。


 一方で、風羽さんの家が担当する鶏舎区は前者二つと比べると敷地はあまり広くはなく、動員されている人員の数も少ないらしい。といっても、家二つは余裕で建てられるぐらいの広さはあるので、単にインフレが激しいだけのようだ。代わりに、集卵のため生活習慣をニワトリに合わせる必要があるとのことで、曰く「早起きがウリ」とのこと。


 そして、居住区では三家族が仲良く共同生活しており、全体的な経営責任者――つまり牧場主――には牧野さんの父親が就いている。なお、居住区の周りには耕された畑が点在しており、どうやら多少の野菜も育てているようだ。


 それと、これは後で聞いた話なのだが、元々牧野さんの家はしがない酪農家で、この牧場も彼女の曾祖父の代より前からあるものらしい。

 元は小さな牧場だったのが、祖父の代で経営が一度傾むき、それを立て直して今の形まで仕上げたのが現牧場主である牧野さんの父親なのだそうだ。


「―――と、言うわけで。こちらが、牧場主の牧野まきの雄一ゆういちさんと、牧野まきの優子ゆうこさんだ」


 小山先生の紹介のあとに続いて、夫婦が順番に挨拶をする。どちらも穏やかな顔つきがまきのさんとよく似ている。

 そして、ここは広い牧場の敷地の中心。居住区にある休憩スペースだ。僕ら生研プラスアルファの面々は、木造の小綺麗な椅子に座って、今日一日の流れを聞いているところだ。

 

「まず、午前中の業務として、生研の皆さんには、牛舎区で搾乳作業を体験してもらいたいと思います。その後、昼食を取り、豚舎と鶏舎の見学に赴いて貰う予定です。ええと、最初にあちらの更衣室で、作業服に着替えて頂いて、その後で放牧場へご案内します。搾乳には普段、搾乳機を使用していますが、今回皆さんには手作業で行っていただきます。えっと、手作業の場合、牛にもストレスを与えないために幾つかの手順が……」

「も~、お父さん。お話が長いですよ~?」

「え、あ、ああ。そうだな、舞桜。いやぁ、すみませんな先生。新人や大学の研修生なら兎も角、娘の知り合いだと思うとどうにもこちらが緊張してしまいまして……」

「いえいえ、お気になさらず。なんなら、こいつらのこと扱き使ってくれても構いませんから」

「え、え、あ。そ、そうですか。あはは……」


 あせあせとする雄一さんを見て、その場の皆からクスりという笑いが漏れる。

 確かに、なんの関係もない学生や新人の研修生ならば、扱いも心得ているかもしれないが、身内の知り合いともなれば、変な気の使い方をしてさぞやり難いだろう。

 友達の親御さんとの距離感は、やはりこのぐらいが望ましい。間違っても、年甲斐もなく若人に混ざって悪ノリなぞしてはいけないのだ。


「そ、それじゃあ、舞桜。皆さんを更衣室まで案内させてあげなさい」

「は~い。わかりました~」


 牧野さんたちは僕たちを奥の更衣室まで案内すると、改めて牧場でのマナーについて説明してくれた。

 まず、動物たちを傷つけないこと。大きな音を出して脅かすのはもちろん、石を投げつけるような真似はもっての外だ。至極当然のことではあるけれど、基礎の確認は重要だろう。怪我やストレスが品質に影響を及ぼすこともあるのだから、触れ合う以上、こちらも細心の注意をする必要がある。

 次に、牧野さんたちを含めた、牧場関係者の指示には必ず従うこと。素人である僕らは、ここでの細かいルールや常識はほとんど分からない。たとえ不可抗力でも、仕事の邪魔にならないよう、くれぐれも勝手な行動は控えるべきだ。それがお互いのためでもある。

 そして、消毒はこまめに行うこと。人間との接触が原因で病気が蔓延することもあれば、逆に家畜に付着した病原菌に人間が感染することも無いとはいえない。それを防ぐためにも、衛生管理は徹底的に、だ。


 彼女らに曰く、動物を扱って商売をする以上、牧場という施設は、とても繊細だ。ほんの少しの要因で家畜が殺処分となり、経営が傾いてしまうことも珍しくはない。せっく産まれてきた命なのに、ただ殺されるだけ―――というのは、やはり農家の立場から見てもやるせないものだそうだ。食べるための処理と、なんの益もない処分は別物ということなのだろう。


「じゃあ、舞桜。私ら、先行っておばさんたち手伝ってるから。皆のことよろしくね」

「はい。承りました~」

「あとでねー」


 ドアの向こうから話し声が聞こえる。皆よりも先に着替えを終わらせて、伊野井さんと風羽さんは、一足先に牛舎区に向かったようだ。

 そんな二人と入れ替わるように、僕と耶真人が更衣室の扉を開けて出てきた。


「まあ! お二人とも、よくお似合いですね~!」

「そ、そうかな?」

「こういうの、慣れてねえから、何だか変な感じだぜ」


 僕は牧野さんの言葉を素直に受取りつつも、耶真人に同意する。

 地味めな色のつなぎ服に帽子、長靴を履いて、ポケットには手袋が入っている。確かに、こういう衣服は身につけたことがないからか、なんだが不思議な感覚だ。

 ぶかぶかのようでフィットしているような。動き難そうで意外と小回りがきくような。残暑の所為か少し蒸れそうだが、かといって風通しが悪いわけでもない。

 初見はこれを着て毎日働いているのか、と暑苦しいのを想像していたが、動くと思いの外快適なのかもしれない。


「にーに~!」


 可愛らしく稚さのある呼び声と共に、愛理沙が扉から元気よく飛び出してきた。


「愛理沙さん! 走ると危ないですよ!」

「はべっ」


 扉の隙間を覗く晶の静止も聞かず、愛理沙は真っ直ぐこちらに向かってきた。直後、びたん! と音を立てて、顔面からこれまた勢いよく転んでしまった。


「「あっ……」」


 瞬間、僕と晶の声が重なった。


「おい愛理沙。大丈夫か?」

「うん……だいじょーぶ。ありさ、つよいこ?」

「うんうん。転んでも泣かない愛理沙は、十分強い子だぞ。えらい、えらい」

「えへへ」


 僕は直ぐに駆け寄って、妹を抱き上げる。

 涙一つ流さないで、きょとんとした様子を見るに、怪我をしているわけではなさそうだ。僕は安堵する。

 汚れを払って頭も撫でると、愛理沙は屈託のない笑顔を見せてくれる。


「ねえ、舞桜。もっと合うサイズの服ないの?」

「ごめんなさい。一応、それ子ども用のはずなんですけど、サイズはそれしかなくて……」


 なるほど。つまり、これが一番小さなサイズということらしいが、それでも少しだけぶかぶかだ。裾を踏んだように皺が寄っているのを見るに、妹が転んだのはこの所為らしい。とはいえ、急ピッチで用意してもらったものなのに、文句を言うのも筋違いだろう。


「まあまあ、晶。抑えて抑えて。しょうがないよ、こっちは無理言って聞いてもらってるんだから」

「もちろん、それはわかっていますが……」

「だろ? だから、牧野さんも気にしなくていいよ。自分の妹の面倒ぐらいちゃんと自分で見るさ。それにほら、ご覧の通り、うちの妹は強い子だからね」


 むふー! と愛理沙は、僕の腕の上で胸を張る。

 こうして愛理沙がきゃっきゃっと笑っている姿は、中々に新鮮だ。普段は三尾よりも無表情なのに。正直なところ、僕も内心では驚きを隠せないでいる。いや、本当に今日は元気だな!?

 妹から牧場が好きだという話は聞いたことがないが……まあ、そういう日もあるだろう。ただの気まぐれにしろ、楽しんでいるなら、それでいい。


「そういえば晶。三尾はまだ中か?」

「はい。さっきまで愛理沙さんの着替えを優先していたので、もう少し掛かるかと」


 それから間もなくして、三尾と先輩たち二人、先生も準備ができたことを確認して、一行はゲートをくぐってまずは牛舎へと向かった。

 建物に近づくに連れ、牧場独特の獣臭が鼻を刺してくる。鼻をつまみたいと思わなくもないが、その程度に不快感を抱く僕らでもない。

 何より、そんな感情が吹き飛ぶくらい、牛舎の中のインパクトと来たら。中へ入ると――あるいはそれよりも前から――数十頭のウシたちが僕らを出迎えてくれたのだ。


 品種はもちろんホルスタイン。乳牛といえばこれだ。正式な品種名はホルスタイン・フリーシアン。黒地に白の斑模様が特徴で、体高は大凡百四十五センチ前後、耳には番号札が取り付けられている。こうして近くで見ると中々にでかい。

 全体的にどっしりとしたフォルムは非常にたくましく、毛並みも滑らかで、斑点の境目がくっきり見えている。

 ただし、角は除角の為に無くなっており、唯一根本のこぶのような膨らみだけが確認できる。こんなに優しい目をしているが、家畜とはいえウシも機嫌を損ねてしまうと手が付けられない。少し可愛そうだとも思うが、角はウシと人間の怪我の元となる以上、取り除く他にないのだ。


 そんなウシたちを収容するこの建物は、木造の質素な造りだが、中は思いの外広く開放的だ。風通しもよく、ウシたちにもストレスは見られない。

 それどころか、柵を出て自分で歩き回って―――あれ? 歩き回ってる?


「ねえ、牧野さん。良いの? あれ。ウシが脱走してるように見えるんだけど……」


 僕がウシ達が行列を作って外へ出ていく様を指差すと、皆が一斉にその方向を向いた。が、当の牧野さんは冷静な様子で。


「ああ、大丈夫ですよ。あれは脱走じゃありませんから」

「そうなの?」

「はい。ウシさんは賢いので、放牧や搾乳の時間になると、ああして列を作って移動してくれるんです」

「へぇー。律儀に順番待ちまでするんだな」


 耶真人の言う通り、ウシたちは隣の建物まで綺麗な列を作り、それを崩すことなく少しずつ前に進んでいる。よく見ると、傍らには従業が何人かついて列の面倒を見ていた。

 牧野さんの話を聞く限り、列をずっと追った先が搾乳舎なのだろう。ちょっと気にはなるけど、残念ながら、目的地はこの先を少し歩いた先の放牧場だ。

 ウシたちの列を他所に、僕たちも列を作って牛舎を抜けると、その光景に男四人が揃って声を上げる。


「「「「おおー! すげえー!」」」」

「も~。皆さん大袈裟ですよ~」


 などと彼女は言うが、実際すごい。雲が漂う空の下、青々とした牧草が一面に広がり、気持ちの良い風が吹いている。とても自然に近い環境だ。見える範囲には建物も少なく、遠くに街が見えるくらいには、遮るものがない。

 確かに広大、と言うのは流石に言い過ぎかもしれないが、それでも僕らからしたら十分広いと思える空間だ。この牧場で一番広い敷地は牛舎区こことは聞いていたが、なるほど。これなら、ウシたちも伸び伸びと過ごすことができるだろう。

 それに、何よりこれが初めて生で見る放牧場だ。自由気まま、自然体で往来する動物の姿を見て、高揚しない生物好きは生研には存在しない。


「ふふ、ハルキくん楽しそう」

「ん。風も気持ち良いし。いいところ」


 これだけ見晴らしが良いと、ウシたちだけじゃなくて、人間にもいいストレスの発散の場になりそうだ。

 あんまりにも気持ちがいいから、僕は大きく息を吸ってみる。……と、そこに一頭のウシが前を横切ってきた。


「よしよし。今日はお客さんが来ているので、大人しくしててくださいね~」

「モー」


 どうやら、目的は牧野さんだったらしい。

 ウシは彼女の前で止まると、差し出された手を素直を受け入れる。そして、膨らみのある穏やかな声を聞きながら、気持ち良さそうに鳴いた。


「ねえ、牧野さん。僕も触ってみても良い?」

「ええ、もちろんどうぞ~」


 眼球が顔の側面についた動物は、物体を立体的に見ることはできないが、代わりに一度に見渡せる視界が広くなる。

 だからだろう。僕が横に立つと、ウシは牧野さんに夢中だったはずが、視線をこちらに移して振り返る。

 そして僕は、恐る恐るその背中に手を伸ばしてみる。


「あっ、でも下手に触ると危な―――」

「モォ~!」

 

 直後、ウシがなだらかな声で鳴いた。

 声色から特に敵意の様なものは感じられず、むしろ間の抜けた気持ちの良い鳴き声の様に感じる。

 試しに手の平を滑らせてみると、ウシはそのまま大人しく座り込んでくれた。

 とても、滑らかな肌触りだ。絹のような手触りで、ふくよかな体つきはとても柔らかい。毛並みが良いのはストレスがない証拠だ。それだけ大事に育てられているのがよくわかる。


「ありがとう、牧野さん。意外と大人しい子なんだね」

「え、ええ。そうですね……?」


 あれ、急にどうしたのだろう。牧野さんはポカンと口を開けたまま微動だにしなくなってしまった。

 まるで、ハトがマメ鉄砲でもくらったかのような、なんとも言えない――悪く言えばマヌケっぽい――顔だ。その様子にこちらが首を傾げていると、背後に気配を感じて振り返る。

 そこには、今しがた大人しく座り込んだはずのウシの顔面が、ぬっと眼前に現れていた。かなりビビった。


「わっ、ちょっ、やめっ……」


 そしてウシは僕と眼を合わせるなり、長い舌で頬を舐め回し、大きな頭を胴体に擦り付けてきたのである。


「どう? 驚いた? スゴイでしょ?」


 ウシと戯れる僕を眺めながら、何故だか晶が得意気な顔をする。そんな彼女に肩を叩かれて、はっと正気に戻った牧野さんは、強張った体をほぐすように間の抜けた息を吐き出した。


「ふわ……若葉さん、すごいです~。あっという間にウシさんと仲良くなっちゃうなんて。いくら人馴れしてても、初めての人にここまで懐くなんてこと、普通はないんですよ?」

「でしょでしょ? ハルキくんってねー、昔から動物に好かれやすい体質タチみたいなのよー」

「穏やかで優しい人が、動物に好かれると聞く。ん、ハルキくんのことで間違いない」

「にーに。すごーい」

「そうですよ~。自慢のお兄様ですよね~」


 晶どころか三尾に愛理沙まで、まるで自分のことのように誇らしげだ。あるいは、そんな僕のことを昔から知ってますよ、とマウントを取っているようにも見える。

 だがそんなことよりも、この状況を何とかして欲しい。このままじゃ、顔面が唾液でベトベトになってしまう。あとお兄様はハズイって。

 

「―――で、舞桜。あれはいつまで続くわけ? 私、そろそろ我慢の限界なんだけど」


 おおっと、晶さん。突然空気を変えるのはやめようね。

 にこやかだが、眉がヒクついている晶を見て、牧野さんは慌ててウシをなだめて離してくれた。というか、ウシにまで嫉妬するのかお前。まあ、助かったには助かったが、同時に牧野さんには色々と申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


「こーらー! さっさとこっちこ~い!」


 そんな中、向こうの方から伊野井さんの声が聞こえてきた。見れば、二頭のウシと手を振る風羽さんの姿も。いつの間にか、先生や他の皆まで向こう側にいた。どうやら、少し夢中になり過ぎていたらしい。



 ――A.M.10:10――

 

 そうして、再び合流できたところで、いよいよ牧場体験も本番です。

 まずは、二つのグループにそれぞれ三人ずつで別れてもらいます。一方のグループは揶真人さんと井根守先輩、そして魚見部長。もう一方は晶さん、三尾さん、そして若葉さんです。

 ただし、愛理沙ちゃんもお兄さんと一緒なので、こっちだけ四人ということになりますね。

 さらに、一つ目のグループには未來さんと沙耶さんが、二つ目のグループには私が指導役としてつくことになりました。ちなみに、小山先生は顧問として少し離れた場所で見守っています。


「えーっと……こう、握れば良いのかな?」

「もっと根本の方まで握ってください。こう、親指と人差し指を使って、それから―――」

「なるほど、こういう感じかな?」

「はい、良い感じですよ~。あとは教えた手順で、優しく搾ってあげてください」

「う、うん。行くよ……!」


 若葉さんは指示通りに乳頭を掴んで、神妙な面持ちで恐る恐るお乳を搾る。すると、勢いよく噴射した生乳が下に置いたバケツに着弾した。


「おっ。出た」

「「おお~!」」

「その調子です~! さあ、もう少し続けてみてください」


 頷くと、彼は拙い手付きでゆっくりとお乳を搾る。乳頭を握る手はとても優しくて、一搾り一搾りががとても丁寧で、初めてとは思えないぐらい十分なお手並です。

 ウシさんも搾られて気持ち良いのか、とってもご機嫌そうです。こんなにもウシさんと真摯に向き合ってくれる方は初めて見ました。

 だけど、いつまでも顔が強張ってばかりなので、なんだかそっちの方が可笑しくて堪りません。


「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ~。ちゃんとできていますから、リラックスしてくださいな~」

「う、うん、わかってるけど……」

「何か分からないところでもありますか?」


 すると若葉さんは、一度手を止めて少しの間考え込む姿勢をとった。


「そうだなぁ……搾るのにコツが要るのはよくわかったよ。でも、こうして至近距離に居ると、突然暴れられたら怖いなぁって。ほら、ウマとか後ろから近づくと嫌がって攻撃するでしょ?」

「う~ん。確かに、あんまり下手だとウシさんも嫌がっちゃうと思いますけど……。でも、大抵はそっと離れていくだけなので、機嫌が悪くなければ、突然暴れることはないですよ~。多分」

「多分なんだ……」

「うふふ、冗談です。確かに、気をつけないといけないところですけど、若葉さんならきっと大丈夫ですよ~。ほら、ウシさんもとっても気持ち良さそうにしてますから。自信を持ってその調子で続けてみてください。緊張してる方が、逆にウシさんを怖がらせちゃいますよ?」

「よ、よし。自信ないけど、頑張るよ」


 そう言って、若葉さんが一呼吸置いた後、再び乳頭を握ると。


「ぶべッ!?」

「あっ」


 なんと、ぴゅ~っと噴き出した生乳があらぬ方向へと飛んでいき、近くで見ていた三尾さんの顔面に直撃しちゃいました~!?


「いや、普通そうはならんだろ……」

「……ぷふっ」


 生乳が目元と前髪をを白く染め上げて、涙のようなラインを描いて頬を伝って滴り落ちていく。

 その光景に、後ろで見ていた先生が額に手を当ててポツリと呟いたり、晶さんは笑いを堪えきれずに軽く吹き出しています。ちょっと意地悪ですね。


「まあ、大変! 待っててくださいね、今タオルを持ってきますから~!」


 私は、お仕事も若葉さんもそっちのけにして、大慌てでその場を飛び出していきました。


「むぅ……」

「ご、ごめん三尾……その、大丈夫か?」

「……ん。だいじょぶ。けど、占い思い出した」

「えっと、白いものと黒いものに注意ってヤツだっけ? あー、もしかしてあれ、ウシのことだったのかもな?」


 三尾さんはすっかり肩を落としてしまって、萎れたお花のように、うなだれてしまいました。

 そんな彼女の頭を、若葉さんは優しくぽんぽんと叩いて。


「……まあ、そう落ち込むなって。今のは俺が悪かっただけからさ。次は気をつけるよ。言ったろ? 占いなんて、そう当たるもんじゃないんだからさ。これ以上悪いことが起こるわけもないって」

「んん~!」


 ちょっぴり涙目になっていた三尾さんのお顔に、ぱっと笑顔が灯る。でもその後ろで晶さんは「わざとらしい……」とか「ネコかぶりめ」とかと呟いてほっぺたを膨らませていました。同時に、「イチャイチャしやがって……」という恨めしそうな声が別のところから聞こえてきます。


「タオルで拭く前に、顔洗ったほうがいいわよー。牛舎の方に水道があるから、まずはそっちいってきたらー?」

「だって」

「ん」


 未來さんの助言も受け取ると、三尾さんは牛舎の方へ足を向ける。


「一緒に行こうか?」

「いい。そのくらいは一人ででき―――」


 すると、これまた唐突に、彼女の進行を遮るように横からウシさんが歩いてきて。


「おっと、あぶな……」


 そこに丁度、私もタオルを持って戻ってきたところだったのですが、よろける彼女の足元を見て、思わず叫んだのです。

 

「あ、三尾さん! そっちは……」


 ―――ぐちょり。


 嫌な音がしました。耳障りで、気持ちが悪くて、だけど新鮮で、元気な音。そう、これはウシさんが健康な証でもあるんですよね。


「―――は?」


 三尾さんのお口から思わず溢れてしまった渾身の一言。喉からではなく、お腹の底から。ネコさんが毛玉を吐き出すように。

 恐る恐ると視線を下へずらすと―――三尾さんの履いたブーツと、青い牧草。その間に挟まった、黒っぽい、茶色混じりの、泥のような、排泄物。


「黒いものって、それかぁ……」


 最早かける言葉もなく合唱する若葉さん。あまりのショックで硬直が解けない三尾さん。そしてもう遠慮する素振りすらもなく、牧草に転がって抱腹絶倒する晶さん。


 どうやら、今のウシさんが通り掛けにお漏らししちゃったもののようです。

 なんというか、本当にお気の毒と言うか。はい、ご愁傷さまです……。わ、私も経験ありますよ~。

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