第1話 出逢い
1月30日 日曜日
――23:03――
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」
真夜中の病院に元気な産声が鳴り響いた。
この世に新たな命が誕生した瞬間である。
僕がこの声を聴くのは、齢六歳にして三度目だ。いや、覚えてはいないけれど、自分を含めれば四度目になるのか。三度目は一昨年の四月で、実は結構記憶に新しい。
僕と父さんは、赤子の声を聴くや否や、慌てて分娩室に駆け寄った。
そこには、はあはあと息を切らして笑顔で迎える母さんと、その腕の中に既に泣き止んでタオルに包まれていた赤子の姿があった。
何の障害もない、普通に生きて、普通に育つであろう、元気な赤ちゃんだ。
よかったですね。頑張りましたね。ほら、元気な女の子ですよ。という感じで助産師から称賛の言葉を受け、僕も父さんも母さんも、新しい家族の門出を心から祝うのだった。
「ああ、良かった。心配だったけど無事に産まれたんだね」
安堵の想いと共に自身の妻を賛美した、黒い服に使い込まれたデニム生地のズボンを履いたボサボサ頭の男性は若葉晴幸。僕の父親だ。
「ええ、予定より一ヶ月早かったけど、本当に良かったわ」
一方、病床に横たわって赤子を抱き抱えているのは若葉日和。この度、四度目の出産を迎えた僕の母親である。
「どう? 晴樹。貴方、また一人妹が出来たわよ。幸せなお兄ちゃんね」
これが貴女のお兄ちゃんよー、と母さんは眠っている妹の顔をこちらに向けて寄越した。
僕はキラキラと目を耀かせて新しい妹を見つめた。目を瞑って眠ってはいるが、その寝顔がとても愛らしかったのである。
そんな幸せなお兄ちゃんこと、僕の名前は若葉晴樹。六歳。ちょっと小柄で、両親がすごい人、という事以外は至って普通の男の子である。
「それで、名前はどうするんだい?」
「そうねえ。って、晴幸さんの事だからいっぱい考えてきてるんでしょう?」
ニヤリ、と笑って父さんは鞄からメモ帳を取り出した。ページをめくると、大量に文字が刻まれていて、さながらアリに集られているかのようだ。その全てが、妹に名付ける名前の候補である。
上から下までびっしりと書かれていて、同じ名前でも別の漢字、同じ漢字でも別の読み仮名の名前と、様々なパターンでこれでもかと書き記されてあった。
「ねえ、どれが良いと思う? これかな? それともこれかな?」
「もう、晴幸さんったら」
興奮してメモ帳をペラペラと捲る父さん。それを宥める母さん。僕は眠っている妹が可愛くて、堪らずほっぺをふにふにしていた。
「晴樹はどれが良いと思う?」
突然父さんに話を振られて、僕は少し迷った。
どんな名前になるのかな、とか考えた事はあったけれど、自分に振られるなんて思ってもみなかった。
だけど何故か、どうしてなのか、僕の頭に一つの名前が浮かんだ。
「ありさ」
「ありさ……?」
「どうして“ありさ”なんだい?」
どうして、と聞かれても。
僕は何となくと答えるしかなかった。
何となく、ただその名前が浮かんだんだ、と。
僕は難しい顔をしてそう答えた。
すると、父さんと母さんはクスり笑い――――
「ふふ……うふふふふ」
「あっはっはっはっはっ‼」
次の瞬間、二人は声を上げて大笑いした。
突然笑いだすものだから、僕は戸惑いを隠せなかった。
「え? え? ダメ? ダメだったの?」
おろおろとする僕に対し、二人は優しい笑顔を僕に向けた。すると、父さんが急に僕の頭をワシャワシャと撫で回した。
「そうだよな。こういうのって勘が一番何だよな。あーあ、こんだけ考えたのに全部無駄になってしまった」
「むしろ、それだけ書き記しておいて“ありさ”の名前ぐらい無かったの?」
「いやあ、盲点だったよ。“ありさ”だなんて、可愛い名前を考えたなあ」
「じゃあ、この娘の名前は“ありさ”ね。でも字はどうしようかしら」
「確か、ギリシャ語やドイツ語で『高貴な』って意味があると聴いたことがあるが……」
「どうして、海外の意味になっちゃうの。まあ、家は確かに他と比べたらお金はある方ですけれど」
「それを実際言ってしまうのはどうなんだい? まあ、色々思い付きはするけど、明日考えようよ」
「そうね。そろそろこの娘をゆっくりさせてあげないと」
母さんはありさを隣に寝かせると、自分もゆっくりと横になった。
「じゃあ、僕は晴樹を連れて先に帰るよ。本当はもう少し付き合うべきなんだけど……」
「いいのよ。初めてじゃないんだから。子供達をお願いね」
「ああ、わかった」
――23:34――
時刻は深夜十一時半が過ぎた頃。後三十分で日が変わってしまう時間帯だ。
いつもなら僕も眠っている時間なのだけれど、昼間に母さんが陣痛を起こしてからというもののずっと付き添っていたのだ。
最初は妹達も一緒にいたけど、途中で眠くなったみたいで父さんが慌てて連れて帰って、今頃は家でぐっすり寝ている事だろう。
まあ、母さんの出産を見届ける為とはいえを幼い妹二人を家に置き去りにするのは、正直どうかと思うけど。
とはいえ、いざとなったら伯父さんや従姉のお姉ちゃんも呼べただろうし、あまり心配すことじゃないのかな。
そんなわけで。新しい妹―――ありさが産まれた所で、ちょっぴり名残惜しいけれど、僕と父さんは母さんとありさを残して病院を出た。
乗り物はサイドカー付きのバイクである。
何から何まで真っ黒な車体から放たれたヘッドライトで前方を照らし、真夜中の帰路を突き進んでいた。
ただ、乗っているサイドカーが揺り籠になっているお陰で、僕は急な眠気にうとうとしていたのだが、どうしても眠ることが出来なかった。
というのも、まるで眠るなとでも云うように冷たい雨が僕の頬を叩くからである。
今朝の天気予報も大はずれの豪雨が僕の顔面を打ち付け、無理矢理起こし続けてくる。
いやまあ、流石に最初は車で病院に行ったよ。僕と妹二人、陣痛で苦しむ母さんを乗っけるのにバイクとサイドカーじゃ不便だったはずだし。
でも、転た寝してしまった妹達を連れて一旦帰宅した父さんはその後バイク跨がって来てしまったらしい。まあ、車よりもバイク派の人だから、父さんは。
「参ったなあ。まさか、こんなに降るなんて。晴樹、寒くないか?」
「だいじょーぶ」
僕は覇気の無い声で応えた。
寒いより眠いよ父さん。すっごい眠い。寒いから眠いとかじゃなくて、ただただ眠い。
来る時は雲ひとつ無い綺麗な青空だったけど、今じゃこの通りの土砂降りだ。レインコートを常備しているバイクだからよかったものの、車で戻って来たらこうはならなかったのに。ああ、雨が冷たい。
僕は何度も首を上下に振り、それでもお構いなしに雨はごうごうと降り続ける。朦朧とする意識の中、次々と通り過ぎて行く車のエンジン音がヘルメット越しで聞こえてくる。
不意に雨の中を突き進んでいたはずのバイクが止まる。
赤い光が見えた。どうやら信号で止まったらしい。
お陰で雨粒が顔面を直撃することは無くなったけど、空気抵抗が無くなった所為で今度は頭からバケツを被ったような気分になった。
ふと、僕は右手にあった路地を見据えた。特に意味があった訳じゃないけれど、何となく気になったのだ。
それは見れば見るほど真っ暗で、あそこに入ればもう二度と日の目を見れないんじゃんないかと思える暗さだった。まるで深海みたいだ。実際はそんな事はないだろうけど、少なくとも六歳のただの少年には、そう見えたのである。
そんな深い闇の中で何かが見えた気がした。
あれは、ダンボール?誰かがあそこに捨てたのかな。それにしてはまるで誰かが組み立てたみたいに、二枚の板が一枚の板を支えている。
ガサガサ―――ガタッ……ゴトッ……
やっぱり、何かが動いている……?
路地裏で蠢く影。雨で視界が悪くてよく見えない。野良イヌか野良ネコか、元来動物好きだった僕はつい気になってしまい、眼を擦って、よーく影を見つめた。
見ればそれは、決して二匹のイヌネコの類ではない。二人の少女だった。
それを見た瞬間、僕はぼんやりとしていた意識をはっきりと取り戻した。
うとうとしてまだ運転中だという記憶が薄かったのか、僕はヘルメットを脱ぎ捨てて路地へと走った。
「ん? ちょ……おい晴樹! 何処へ行くんだ!?」
止めに入る父さんの声は雨に掻き消されて聴こえ辛く、必死になった僕の耳に届かない。
それどころか目の前でパタリと少女達が倒れ、同時に組み立てられたダンボールも崩れてしまう。それを見た僕は一層歩みを速めて駆け寄った。
――――どうして女の子二人がこんな所に!? とにかく助けないと!
僕の頭はその事でいっぱいだった。
「大丈夫!?」
息を切らし張り上げて叫ぶ僕の声に少女達は小さな声で応えた。
「だあれ…?」
「……?」
少女達は突然の声に驚きつつも虚ろな目で僕を見つめた。
近づいてようやくわかったけれど、外見から見て年齢は多分僕と同じくらいだ。
一方はオレンジ掛かった赤い栗毛の少女。もう一方は細身で黒髪の少女だった。
どちらもこの雨の中で既に衰弱していて、どう見ても健康な状態とは言えなかった。
「たす……け、て……」
「おね…が、い……」
栗毛の少女も黒髪の少女も蚊が鳴くような小さな声だ。助けを求めて手を伸ばすその様はあまりにも弱々しくて、このまま息絶えてしまうのではないかと思わせる。
体も冷えきっていて寒いのだろう。少女たちはお互いに身を寄せあっては体を暖めようとしていた。
その姿はまるで、捨てられた子イヌと子ネコの様。
多分、今までこのダンボールで雨を凌ごうとしていたのだろうけれど、この雨の中をさ迷っていたのだとしたら衰弱していて当然だ。
特に栗毛の女の子の状態は酷い。
腕や脚など所々に傷や痣ができていて、指には絆創膏がいくつも張られている。
黒髪の少女も目立った外傷こそなかったものの、二人の眼は死んだサカナの様に色を失っていた。まるで、何かに絶望して生きる意味すら失くしているかのように。
「えっと…えっと…!」
勢いで駆け寄ったは良いが、結局どうすれば良いか分からず、とりあえず二人の手を取った僕はきょろきょろと周りを見渡した。当然、何も無かったけれど。
「おーい! 晴樹ー!」
「……! 父さん!!」
後ろから聞き慣れた懐かしい声が聴こえたから振り向いて見れば、父さんが僕と同じように駆け寄って来るのが見えた。どうやら何処かにバイクを留めて追いかけて来てくれたらしい。
「こらっ! いきなり飛び降りたら危ないだろ! 信号で止まってたから良かったが、もし走行中ならどうなって…」
「父さん! お説教は後で聞くから、二人を……」
父さんは僕の指差す方を見て、ようやく彼女達に気づいた。
「……! 晴樹、この子達はいったいどうしたんだ?」
「わかんない。ただ、さっき雨の中でこの女の子たちが見えて、だから僕……」
すると、父さんの怒っていた顔が一瞬だけいつもの優しい顔に戻ると、またしかめっ面になって少女達を抱き抱えた。
「ここなら家の方が近いな。よし、連れていくぞ!」
「うん……!」
そのまま僕たちは近くにあったコンビニの駐車場まで走り、二人をサイドカーに乗せて家に帰った。
どうも、おそらく始めまして。仮ノ一樹ともうします。この度は、本作品を読んで頂き、誠にありがとうございます。
本作品は、不定期の投稿・及び現在作品全体の度重なる再編集を繰り返しております。今後も作者の都合により編集し直す可能性がありますので、ご注意ください。また、そのときには追って活動報告でお知らせします。
とまあ、堅苦しいのはここまでにして。改めて仮ノです。
第1話、読んでみてどうでした?面白かったでしょうか?個人的には、今までで一番気分の良い始め方ができたかと思っています。というもの、ご説明した通り何度もやり直してますので、この作品……。
いえいえ!それこそ拘っている証拠ですとも。
さてと。あとがきで長々と喋っても仕方ないので、このくらいにしておきます。もし、本作品を気に入ってくださったのであれば、是非ブックマークやお気に入りに登録を!面白いと思ってくださった方も、そうでない方も、感想や評価もしてくれると、モチベ上がります。それでは。