いらだち
その夜、翠子は犬に齧られたスニーカーをアクガレに手渡した。身につけるものを取り替えてもらうのは今夜が初めてだ。
『ふくやくつは、おやにみられるとめんどうなんでしょ』
「底辺に差をつけるにはもうこれしかないの」
翠子の脳内を下沢さんの笑顔が、まだぐるぐると旋回している。
汚い底辺がなんであんな幸せそうな顔ができるのか、翠子には到底理解の及ばない謎だった。
『じゃあ、きょうはこのくつでいいんだね』
黒い球体の割れ目がぱっくりと開く。
いつものように意識が深い所へ落ち込む前に、翠子は一つ質問をした。
「ねぇアクガレ。生きてるもの――例えばできの悪い動物とかでも、もっといいのと取り替えられる?」
翌朝、翠子のベッドの脇には真っ黒なスニーカーが並んでいた。
でも心はちっとも弾まない。前ならアクガレがくれたプレゼントを見る度、天にも昇る心地になったのに。
そうか、きっともう一つが来てないから、あたしは不安になってるんだ。
翠子は無理やり自分を納得させる。アクガレは言ってたもん。『じかんはかかるけどだいじょうぶ』って。直ぐにジョンを取り替えてくれる筈。
散々自分に迷惑をかけてくれた馬鹿犬。
庭のあちこちで糞をして掃除を手間取らせた犬。人様の靴を隠して、新品をヨレヨレの泥だらけにした犬。
ザマァ見ろだ。お前なんかパパが勝手に貰ってきた癖に。今日でお別れなのだから、最期に散歩でもしてやろう。
そう考えるとどこからか急に元気が湧いてくる。翠子はクスクス笑いながら玄関を開け、庭へ向かった。
庭の犬小屋では薄汚れた雑種犬が退屈そうに欠伸をしていた。
一時間後、翠子は犬に引きずられるようにして戻ってきた。保障してくれた割には、アクガレは随分仕事が遅い。それに第一、アクガレがどうやってジョンを連れて行ってくれるかも聞いていない……。
「――翠子、翠子! やっと帰ったのね。あんたちょっと来なさい」
母親の怒鳴り声がした。よりによって、一番見られたくなかった自分の部屋から。
母親の激憤の理由は火を見るより明らかだった。
「この部屋にあるものはどこから持ってきたの?」
翠子は答えない。アクガレのことを話したって、信じてもらえないだろうから。
「なんであたしの部屋のこと知ってたの? いつも、勝手に部屋をのぞかないでって言ってるよね」
それでも漸く言えた言葉がこれだ。
次の瞬間、母親の左手が翠子の右頬を打った。
「ママの質問に答えなさい。あんたはこの部屋にあるものを――」
「先にママが答えて。これ、あたしとの約束だったじゃない」
「人の話を遮るな」
母親は肩で荒く息をしていた。
話によると、翠子の部屋のことは親友から聞いたらしい。庭で洗濯物を干していた所、香奈ちゃんがこないだ遊んだお礼に加えて、黒い部屋のことを洩らしたという。
「さぁ、言いなさい。どうしてママに黙って高い買い物をしたの? 縫いぐるみも、勉強机も。ママやパパが買ってあげたものはどこ?」
「……どっかいっちゃった」
「嘘をおっしゃい。盗んできたんでしょ。そんなに我儘な子に育てた覚えは――」
ワン! ワン、ワンワンワ……ギャウン!
ばきばきばき……ぐちゃ、ばたばた。
庭から響いた騒音が、母親の声を遮った。説教どころじゃないと二人はつっかけを履いて外へ出る。
犬小屋が潰れていた。ジョンを繋いでいた鎖は引き千切られ、点々と黒い染みが列をなして、家の外へ続いていた。
ご親切にもアクガレは一番悪目立ちする形で、望みを叶えてくださったのだ。
〈つづく〉