ふでばこ
休み時間。トイレから戻ると、さっきの下沢さんの所に、気の強い子達が集まって、何やかやと問いただしている。
「下沢。お前、何うるさくしてくれちゃってんの?」
「ただでさえあんた汚いんだから、これ以上皆にメーワクかけないでよ。バイキンちゃん」
赤いヘアゴムでポニーテールを作った女の子が、下沢さんから缶ペンを取り上げた。
「……か、返して」
哀れな少女はがさがさの手を伸ばすが、
「ダーメ。あんた、また『がっちゃーん』ってやるでしょ――こんな風に」
缶ペンが思い切り、持ち主の机に叩きつけられる。アルミ製の蓋がいびつにへこんだ。
「預かっとこうか」
ポニテ少女は缶ペンを持って、態と下沢さんの机を蹴って行ってしまった。
翠子は自分の席から、一連の流れを遠巻きに見ていた。関わり合いになると面倒だからだ。
「翠子ちゃん」いつの間にか香奈ちゃんが隣に立っていた。
「飯田さんも、酷いね。あんな、筆箱取っちゃうことも無いのに」
あのポニテ少女とその被害者間の、もはや見慣れきった茶番劇の話だ。
「そう思うんなら、取り返してきてあげなよ」
そう言うと、香奈ちゃんは首を横に振る。翠子もこれに関しては同意見だった。筆箱を取られたのはいささか気の毒だが、クラスの一軍に逆らう気も無い。それにそんな音の出るようなものを落とす方が悪いのだ。
「下沢さん、なんであんなに嫌われてるのかな……」と、香奈ちゃん。
「脂ぎった髪の毛と、毛玉だらけのセーターが嫌だから?」
翠子は半分だけ冗談を混ぜて返す。
あの子は汚い。フケまみれの頭から、黒ずんだ上履きの爪先まで。だから皆から〈バイキン〉って呼ばれる。煙たがられる。クラスのバカ男子が缶ペンで「がっちゃーん」とやった時は、悪意の無い笑いが返ってきたが、下沢さんにはそれすら与えられた試しが無い。
でも二人は知っている。
「翠子ちゃんも、早めに布ペンに替えた方が良いよ。あんまり音しないし、それもう大分長く使ってるでしょ。それに……」
「……そうだね」
いつ一軍の「標的」が増えるかわからないことを。
翠子は香奈ちゃんの手に優しく抱えられた、濃いピンクでふわふわした布ペンを横目で見た。
家に着くと、翠子は息せき切って玄関の戸を開けた。母親は、いない。またきっと八百屋のおばさんと立ち話だ。父もまだこの時間は、仕事から戻らないだろう。
(チャンスだわ)
居間へ入り、中を見渡す。怪しいのは箪笥の中だ。ママの貯金箱か、あわよくばお財布が入っているかもしれない。
ママが悪いんだ。皆三年生になったら柔らかいペンケースなのに、あたしばっかり入学した時から使ってるやつ。しかも硬くて重い場所とるやつ。
――ワンワン!
庭で犬が吠えた。うるさい! と怒鳴ってから、例のブツを探す。
箪笥の半分ほどを探し、後は上の段だけ、となった頃。翠子はハタと探す手を止めた。
『――ミドリコチャンのほしいもの、なんでもあげようね――』
昨夜の夢が蘇る。夢は夢でしかないだろうけど、賭けてみる価値が無いわけではなかった。
眠りの底から、どす黒いヘドロが沸き立つ音がして、果たしてアクガレは翠子の部屋に現れた。言葉を発する時に「下あご」をぱっくり開くところも、溶けて所々垂れ下がった肉体も、昨晩の夢のままだ。
「! ……ねぇ、アクガレ、だっけ」
震える声で、翠子は遠慮がちに尋ねる。
「欲しいもの、何でもくれるって言わなかった?」
『いったさ。ミドリコチャンのおねがいとあらば』
「そ、それなら、新しい布製のペンケースちょうだい」
間髪を容れず食い気味に言う。まだ恐ろしさに本能が追いつかず、若干声は震えていたが。
アクガレは長い沈黙を保っていたが、やがて「下あご」が動き、
『なんなりと』
弓形に整列した白い小石が見えた。
やった! これであたしも布ペンが貰えるかもしれないわ。翠子の口元が微かに緩んだ。
『かわりに、みほんはもらうからね』
「片腕」をアクガレがおもむろに伸ばすと、幽霊のように肉がたなびく。「手」を開くと、そこにはタールのようなもので汚れた翠子の缶ペンがあった。
『あさにはとびきりいいものをもってくるね』
安心して気が緩んだのか、翠子の瞼が重くなってゆく。目を閉じる直前に見たのは、真横にまで切れ目を広げた泥人形の「顔」だった気がした。
翌朝、翠子はベッドから出ると、何かに躓き転んだ。アクガレの黒い水かと思ったが、違う。細長い固形物だ。足を退けて見ると、そこにあったのは翠子の鉛筆だった。他にもペンや消しゴムなど、筆箱に入っていたものが全て床に散らばっていた。
いつも筆箱を置く机の上には、真新しいふわふわの黒いポーチが鎮座していた。
〈つづく〉