あくがれ
白い石達を飲み込んだタールはまるで粘土細工みたいに固まった。かに見えた。
次の瞬間、固まった筈の黒い粘液がどろどろと溶けだし、よくわからない大きな何かが現れた――さしずめ半分溶けかかりのビターチョコでできた人形だ。頭も、胴体も、腕も、真っ黒でどろどろの半身像。
しゃがんだ大人の男ほどもある全身のあちこちで、溶けた粘液がだらりと垂れている。何か訴えたそうに伸ばした腕のような部分は、先端から粘液がしたたり落ちて、白い石がむき出しになっている。
やたらねばねばした黒い人形が出来上がるまでの間、翠子はへたり込んだまま一歩も動けなかった。
これはきっと夢なんだ。こんなデカくてキモいやつが、あたしのお腹から出てくるわけないし。勝手に暴れまわるわけないし。疲れてるから悪い夢を見たんだ。
お部屋から出よう。そしたらパパもママもいる。悪い夢から醒める筈……
『どこいくの?』
低くて暗い声がした。海の底から喋りかけられたのかと思った。
この部屋には翠子以外、いない。では誰が? その答えはすぐに見つかった。
『うしろをごらんよ、ミドリコチャン』
あの溶けかけた人形だった。身体から滴る黒い粘液は相変わらずだが、さっきよりもっと人間に近いシルエットになっている。頭部と思しき球体からは、下半分がぱっくり割れて垂れ下がり、その縁には弓なりに白い石が並んでいた。翠子が小さく悲鳴を漏らすと、徐に割れ目は閉じた。
『そうこわがらないでよ。ミドリコチャンがよんだんじゃない』
また、割れ目が開き、閉じる。
「あんたみたいなお化けなんか呼んでない! 何なの、突然出てきて」
『おばけ? アクガレはアクガレだよ』
人形は抑揚なく返した。
球体の下半分が、またもぱっくり開き、低い声が聞こえる。欠伸する人間のようにも見えるが、よくもまぁ「下あご」を動かすだけで、こんなにベラベラと喋れるものである。
『ミドリコチャンはさ、こまってるんだよね。いろいろ、たくさんほしいんでしょう』
翠子は何度も激しく頭を縦に振った。
『わかるよ。ゲームとか。ふでばことか。あたらしいくつとか。ママにかってもらいたいんだよね』
またも頷く。頭を振り落さんばかりに頷くのは、人形の言葉に酷く同意したからか、それとも幻覚を振り払いたいからか。
ずるずる、ぴちゃり。得体のしれない音。巨大ナメクジが泥水の中を這っているようだ。どろどろの人形が僅かにこちらへ近づいた。生ごみの臭いが漂い、翠子の心臓は破裂寸前だった。
『このアクガレをよんでくれた、おれいだよ。ミドリコチャンのほしいもの、なんでもあげようね』
「下あご」が切れ目からがくりと垂れさがる。
腐臭をもろにくらって、哀れな女子小学生は、そのまま気を失ってしまった。
目覚めたらふかふかした自分のベッドの中だった。変なの。床の上に座ってた筈なのに。翠子は不思議に思ったが、あの「アクガレ」のことを思い出しそうになったので、やめた――あれは悪い夢だったんだ。だって、床には滲みひとつついてないし、臭くもないもん。
強引になかったことにしても、頭にかかった霧が完璧に晴れたわけじゃなかった。
顔を洗っても、学校で友達とおしゃべりしても、「アクガレ」の幻影は脳味噌にこびりついたままだ。おかげで親友の香奈ちゃんに会った時、保健室行かなくていいの? と開口一番に言われてしまった。
それもそうかな。翠子は算数の問題をノートに写しながら思う。あんな醜悪さの塊みたいな奴が出てきた日には、いつまた遭うんじゃないかと、気が気でない……
と、いきなり教室に響いた大きな音で、翠子の意識は授業に引き戻された。
「おい、どうした? ……下沢が落としたのか」
振り返ると、教室の左の隅で、下沢さんが筆箱の中身をぶちまけていた。顔を真っ赤にして鉛筆や消しゴムを拾い、金属製の筆箱に入れていく。
「あーあ、馬鹿じゃねぇの、下沢」
「あんたがでかい音立てたから、先生何て言ってたか、わかんなかったじゃない」
クラスメイトが口ぐちに責め立てる。下沢さんはちらちらと皆の顔を見ながら、席に戻る。
翠子は何も言わず、自分の缶ペンケースをそっと手元に引き寄せた。
〈つづく〉