わがまま
その子は皆のお姫様だった。勿論比喩的な、しかもロクでもない意味で。
この翠子という娘は、自分のほしい物は何だって手に入ると思い込んでいる、実に利己的な子供だった。
友達がピアノを習っていると言ったら、
「お母さん、あたしもピアノやりたい!」
可愛らしいお人形を玩具屋で見たら、
「ねぇ、あの子をうちに連れてきてよ!」
……とまぁ、十歳になる今の今までこんな調子だったもので、父も母もほとほと手を焼いていた。
それこそ、お姫様のようにお顔が綺麗だったのが、せめてもの救いというものだ。翠子の明るい笑顔を見ると、誰もが――少なくとも両親は――この子の為に何でもしてあげたい気持ちになるのだった。いつか我が儘も治ると考えない者などいやしなかった。
「ただいま、ママ」
翠子は息せき切って玄関の戸を開けた。
「あら翠子、お帰りなさい。今日はお友達と一緒じゃないの?」
「気分じゃなかったんだもん」
母親に向かって膨れっ面して首を振る。
帰り道、友達は新型ゲーム機や漫画の話ばかりしていた。まだ買えていない翠子は輪に入れず、寂しさに耐えかね一人で帰ったのだ。
「ねぇ、うちでは『ウェイステーション』買わないの? 友達はもう皆持ってるよ、コントローラだけでも携帯ゲーム機になるし、運動もできるんだから……」
「運動したいなら、ジョンの散歩行ってきて」
母親は庭の犬小屋に顔を向けた。薄茶の雑種犬がぶんぶん尻尾を振って、翠子を見ている。その馬鹿っぽい表情は見ているだけで苛々した。
散歩させてやるのは面倒だが、外の景色を見れば少しはマシな気分になるだろう。翠子はランドセルを玄関の隅に置いて、噛み跡だらけのスニーカーのまま、犬小屋へ向かった。
散歩中も翠子はずっと気分が悪いままだった。曇りの日の午後は涼しく、外を出歩くにはちょうどいい天気に思われたが、翠子の足取りは重い。どこに行くのも拒んでいるようだ。
なんで他のおうちは良くて、あたしは駄目なの。ママだって言ってたじゃない。ムスメの笑顔が一番の宝物なんでしょ。それにこんなかわいくない、食べてばっかりの犬なんてイヤ。かじられた汚い靴なんてイヤ。
イヤ。イヤ。イヤ。
唇を尖らせ、わざと大きく足を鳴らして地面を踏んづけながら進む。犬が「どうしたの?」と不思議そうに翠子を見た。翠子は答えもしなかった。
酷い気分だ。まるで黒ずんだ泥水が胸の中で、角ばった小石を気管に詰まらせながら、渦巻いているような。
夜。翠子はなんだか寝付けない。肋骨の内側に溜まったどろどろが、勢いを強めているような気がする。
いつもの癇癪だと思っていた。思い通りに事が回らず苛立って、もやもやするのはよくあることだったから。だけど今日は食欲もなかったし、お腹の具合が悪い時みたいに、体が内側からぎゅうぎゅう押されている。
ゆっくり上半身を起こそうとすると、あのどろどろが胃から口内にせり上がってくる。我慢できずに翠子は口の中に溜まったものを、全部床にぶちまけてしまった。電気をつけてみると、タールみたいな黒い液体がフローリングに広がっている。小さな白い石ころに似たものも、タールに混じって転がっている。
「あーあ、やっちゃった……」
親に言うのもみっともない。どうせ寝てるだろうし、雑巾を持ってきて一人で片づけよう。
お風呂場へ行こうとした時、
ぴちゃ。ちゃぷっ……ぱしゃ。
何かが水の中で跳ねた音がした。振り返って耳を澄ます。
ぱしゃん……ぱしゃぱしゃ。
また跳ねた。どうやらあのタールかららしい。近づいてよく見ると、タールの中で白い石が揺れている。そればかりではない。液体自体も泡立ち、微かに波打っている。腐った魚の臭いが強くなる。
あまりの臭気に鼻を押さえた。
その瞬間、黒い液体が吹き上がり、揺れていた石達を生き物のように飲み込んだ。
〈つづく〉