マリッジ・ブルー
その呼び出し音は、3回鳴っただけで留守電に繋がってしまった。
若い女の戸惑ったような声が吹き込まれていく。
側まで飛んで来ていた私は、思わず耳をそばだてた。
「えっと・・今まで3年間、本当に楽しかったです。二人だけの大切な思い出として胸の奧に仕舞っておきます。あの・・昨夜は、泣いたりしてすみませんでした・・それから・えっと・・あの・・どうぞお幸せに・・」
慌てて受話器に手を伸ばした時には、もう電話は切れていた。
誰なのよ?・・という疑問が頭の中をグルグル回る。
昨夜ですって?・・昨夜は、残業で遅くなったって言っていたのに・・。
仕事が忙しいって言うから、代わりに引っ越しの荷造りをしてあげているのに・・。
私は受話器を持ったまま床に座り込み、ぼんやりと段ボールの山を見回した。
荷造りが出来ないと新婚旅行には行けないから・・などと脅かされて、泊まり込みで彼の部屋の片づけをしている最中だった。
甘い生活なんて期待してはいなかったが、ちょっとは幸せを掴んだ気になっていたものだから一発殴られたくらいのショックを受けた。
でも、電話が切れる前に受話器を取っていたらどうなっていたのだろうか・・?
チクショ〜!
私は立ち上がると受話器を床に叩き付けた。
いっその事、この時に破談にしてしまえば良かったのだ。
30を過ぎて何度目かのお見合いでやっと決まった結婚だったから、なんだか後が無いような気がしていた。
もし破談にでもなったら、親や会社の同僚、友達に何と言えばよいのだろう。
格好悪くて恥ずかしい。
人がどう思うかなんて本当はどうでも良い事なのに・・そんな自分の人生と引き替えにしてはいけない事が、重要な事のように思えてしまう。
彼との付き合いが長くて気心が知れていたら、問いつめる事が出来ただろう。
でも、そんな事が出来る仲では無い。
それに電話の主が誰で、どういう関係なのかが分かったところで何かが変わる訳では無いような気もする。
結局、その時間は買い物に出掛けていた・・という事にして、電話があった事にさえ気が付いていない事にしてしまった。
どちらにせよ、式の一週間前に破談・・・というのは、たとえ全面的に相手に非があったとしても受け入れがたい。
でも、長い人生を考えたら、受け入れてしまった方が良かったのかもしれないけれど・・。
それからの一週間は[彼は、私との結婚を選んだのだ・・彼女との事は終わったのだ]と、何度も自分に言い聞かせた。
お陰で楽しみにしていたブライダル・エステは効果が無かった。
ところが式の当日、ウェディングドレスを着て鏡の前に立った瞬間、全ての霧が吹き飛んだ。
思ったよりも綺麗な自分の姿に見とれて舞い上がってしまったのだ。
全ては夢だったのかもしれない・・とさえ思った。
気のせいだったのかも・・。
披露宴が終わるまでの間、魔法に掛かったシンデレラのような気分だった。
本当に、恐ろしいくらい幸せだった。
そんなステキな披露宴も終わり、控え室に戻った時だった。
「会社の連中が、君に挨拶しておきたいって言うんだけど・・」と、夫が顔を覗かせる。
新妻として、生まれて初めて「主人」という言葉を使った。
自分の中に湧き出した「妻の自信」というものに妙に感動してしまった。
その事に興奮したせいか、上司や同僚、同じ課で働いている事務の女性達に必要以上の愛想を振りまく。
「彼女が、ブーケを取ったのよ。」
年配の女性が、妙に後ろめたそうな顔をしている若い女の背中を押した。
「これ〜・・貰っちゃいました」
作り笑顔でブーケを振って見せる女の声が鼓膜に届いた瞬間、全ての魔法が解けていった。
代わりに不安と絶望が、暗いシミの様に目の前に広がっていく。
「次ぎに花嫁になるのは、私かも・・」と、聞き覚えのある[あの声]が意味ありげに言った。