帝国の残照 ~ヨハネス7世とその叔父~
誰もが最初の記憶を持っている。
赤子の時代と幼年期を繋ぐ断片は、当たり前のように人によって違う。乳母の乳房のやわらかさだったり、固めた蜂蜜が舌の上でとろける感触だったり、天を皹割る稲妻に鷲づかみにされる心臓だったりする。
ヨハネス・パレオロゴスの最初の記憶は、髪を荒々しく掴まれ、石造りの壁に押しつけられ、身をよじって逃れようとする父の姿だ。
『何をする』
記憶の中で父が喚く。
『余は皇帝ぞ!』
『それは昨日までのことにございます』
無感動なまでに冷たい声の、主の顔を覚えていない。父を拘束する兵士ではなかった筈だ。無茶苦茶に暴れる父を押さえこみながら、あんなにも落ち着き払った声が出せた訳はないからだ。
父を裏切った将軍の一人だろう、今なら冷めた頭でそう思える。
だが記憶の中のヨハネスはまだ幼児だ。暴れ騒ぐ父の怒声も温度のない男の声もただ恐ろしく、地下の暗い冷えた石の床の上に縮こまるばかりだ。
『奴らの差し金か! あの愚鈍な親父の! あの青瓢箪のマヌエルの!』
『両陛下はお気の進まぬご様子でしたが』
壁の燭台が作る影が、化物のように重なり合って体を揺らす。吼える父を宥める将軍の声まで、その影たちの喚きと聞き紛う。
『オスマンのスルタン・ムラトの意思です。反逆者の両の目を潰し、廃嫡に処せと』
『それを受け入れたのか! 親父が! 誇り高きローマ(ロマニア)の皇帝が! 異教の徒の長の望みを!』
『生き永らえるためです』
冷ややかな声が氷片のごとく尖った。
『やれ』
薄闇の中からもう一人、ぬっと兵士が歩み出る。
手に握られた太く長い針が、鈍く光るのをヨハネスは確かに見た。
幼い彼には分からなかった。父と将軍の会話の意味、父子がなぜこの状況に置かれているか、全てが暗夜の中だった。そのくせ妙な所で聡過ぎた。手の中の針が何を貫くために持ち出されたのか気付いてしまった。
ヨハネスは手を伸ばし、声を限りに父を呼ぶ。
――お父様。
針が大きく振り上げられる。
赤黒い血が噴き出し、呼び声は父の悲鳴にかき消される。
激痛にのたうつ父を兵士が顔をしかめて組み敷く。駆け寄ろうとするヨハネスの肩が掴まれ、耳元であの冷たい声が驚くほど優しく囁く。
『ヨハネス様』
有無を言わせぬ強い力に、ヨハネスは立ち竦んで動けない。
『次はあなた様です。ご覚悟を』
いや、と声を上げかけたとき、壁に背を押しつけられた。
助けを乞う声さえ飲み込まされて、幼いヨハネスの頭は沸きかえる。なぜ父が。なぜ自分が。なぜ。
針を手にした兵が迫る。
動揺が分水嶺を越えると、かえって周りはよく見えた。くすぶりながら震える燭台の炎も、床に落ちた影が歓喜するように震える様も、覗き込む兵士の血走った瞳も、弱々しくなっていく床に伏した父の痙攣も。
針が高く掲げられたとき、ヨハネスの目は違うものを見ていた。
地上へと伸びる階段に、さっきまで確かになかった影。
喪服めいた白い衣に身を包み、こちらを見下ろす蒼ざめたその顔に、ヨハネスは覚えがあった。
父の弟だった。
『叔父様!』
ヨハネスは呼んだ。
『マヌエル叔父様!』
怯えたように影が震えた。
『叔父様……』
重ねて呼ぶ声を振り下ろされた針が遮る。
脳髄を貫く激痛の一瞬前、影が身を翻し階段を駆け上がっていくのが見えた。
そこで光景は深く暗く沈む。
振りしぼるような絶叫を上げた筈なのに、記憶の中のそれは他人のもののように遠い。
+ + +
時は1390年、ヨハネス・パレオロゴスは20歳。もはや事情の分からぬ子供ではない。17年前のあの日、暴雨のように降り注いだあの出来事が何だったのか承知している。
ローマ帝国。ヨハネスの国は自らをそう称する。アウグストゥスが創り、ヴェスパシアヌスやトラヤヌス、マルクス・アウレリウスを産んだ国の後裔である。コンスタンティヌスが定めた都を帝都とし、テオドシウスが分けた西半分が滅びたのちも栄え続けた東半分である。
これほどの歴史と権威を持つ国なら、自然と帝位争いも激化する。ヨハネスがあの日見たのも、千年を超える年月数限りなく繰り返されてきた、帝位争いのほんの一幕に過ぎなかった。
皇子であり当時の皇帝の共治帝であった父が、皇帝の不在を狙い乱を起こした。そして敗れ、息子もろとも罰を受け地位を剥奪された。文字に起こしてみればそれだけのことでしかない。
「陛下」
恭しい呼びかけに、皇帝ヨハネス7世は振り向いた。
髪は地中海人種に典型的な濃い褐色、一方で肌は驚くほど白い。母方の祖母がヴェネツィア女、つまり北イタリアの出だったというからその血を継いだのかもしれない。
もっとも、多くの人種の入り混じるコンスタンティノープルでは珍しい容姿ではなかった。体を包む緋の帝衣を脱ぎ、生成りの羊毛の上下でも纏えば立派に市井に溶け込めるだろう。
ただし、そのためには隠さなければならないものがある。
薄い唇に神経質な色をたたえた皇帝は、潰れた左目を帝衣と同じ緋の布で覆っていた。どれだけ粗末ななりで街に降りたとしても、この一点で奇異の目を向けられるに違いなかった。
片方しかない黒い目で、ヨハネスは臣下を睥睨した。
「何だ」
跪拝。主人に(プロス)犬が伏せるように、皇帝の足元にひれ伏す行為。
帝国全ての民は皇帝の奴隷だ。将軍だろうと宰相だろうと、否、たとえ皇子だろうと、皇帝の前には等しく犬のごとく身を伏せるのだ。
「ジェノヴァの間諜からの報にございます」
伏した将軍が低い声音で言った。
「アドリアノープルにて、マヌエル様の……叔父君の姿を見た者があると」
「マヌエル……」
皇帝の唇がわずかに震えた。
忘れがたい名だった。
「何故その場で捕らえなかった?」
「畏れながら、こちらは申し上げました通りジェノヴァ人よりの報です。外つ国の問題に直に手を出しては内政干渉になるとの事で」
「チッ。どうせ『これ以上は追加料金』とでも抜かしたのだろう、金の亡者どもが」
舌打ちとともにヨハネスは窓の外に顔を向けた。
コンスタンティノープル北西部、皇族が居を定めるブラケルナエの宮殿からは、昼なら澄みわたった金角湾が望める。紅白縞の窓のアーチから覗く紺青の海を、パレオロゴス家の歴代皇帝たちは愛した。
夜が更けた9月の空には星こそ散れど、海に光は届かず混沌と暗い。この暗い湾の向こうにジェノヴァ人居留区があるはずだった。今は闇に沈むその街をヨハネスは睨み、そして将軍に向き直った。
「いつの話だ。手勢は連れていたのか」
「5日前と。供を2人連れていたそうですが、兵の姿は見当たらなかったとの報でございます」
「……アドリアノープルからここまで、馬で10日程だったな」
「飛ばせばその半分で着くかと存じます。馬は潰れましょうが」
オスマン語でエディルネと呼ばれる都市を、ヨハネスはギリシア語名で呼んだ。
実際、つい最近までその街はその名で呼ばれていた。長年バルカン支配の重要拠点であったかの地がオスマン帝国に陥とされたのはわずか30年ほど前の話である。
かつて広大であった領土は日に日に奪われていく。地に倒れ伏した山羊が狼の牙で肉をこそげられるように。在りし日の栄華の失墜は明らかで、外つ国の君主には、あんな名ばかりの国の帝位を何故争うかと嘲笑を隠さぬ者もいると聞く。
それでもヨハネスは信じてやまない。この国の帝位は、争うだけの価値をまだ失ってはいないのだと。
「マヌエルめ」
20歳の皇帝は叔父の名を吐き捨てた。
「この期におよんで無駄なあがきを」
「既に領内の兵には伝達を済ませております。僅かなりとも不審な者は一切の容赦なく捕らえろと」
「ジェノヴァ人にも追加料金を払っておけ。協力者を名乗るなら四の五の理屈を言わずに動けとな」
「御心のままに」
這いつくばった臣下の頭が、なお深く垂れる。
臣下が場を辞すのをヨハネスは見なかった。濃褐色の髪に覆われた頭の中は、あの日見た人生最初の記憶に芯まで染め上げられていた。
白い衣に身を包んだ影、あの日自分の叫びに背を向けた男の顔に。