【短編】 緑のかけら
映画やアニメーションで、殺し屋が標的を追い詰めて、銃口を敵に向けたまま、勝ち誇ったように高笑いするシーンを見たことはあるだろうか。
俺は何度か見たことがある。映画でも、アニメーションでも、そして現実でも。
そういうやつは大抵自分に酔っていて、最後には返り討ちにされてしまうものだ。
もちろん、フィクションの世界だったら、大抵追い詰めて高笑いしているのは主人公の敵で、追い詰められて冷や汗かいてんのは主人公やその仲間だろうから、相手には余裕ぶっこいていただかないとこまる。大口を叩いて、散々ののしった挙句、あっさりとやられちまう。
それでいいんだ。主人公やその仲間が、てめぇはお喋りがすぎるんだよ、とかなんとか言って、実は隠し持っていた弾を取り出し、銃にこめて撃つ。その瞬間がたまらなくかっこいい。あぁ、やっぱりこいつは最高のガンマンだって思うわけだ。俺が好きなアニメーションでも、早撃ちのガンマンはいつだってかっこよかった。
しかし、現実の世界は違う。現実の世界では、殺し屋はさっさと標的を始末しないといけない。無駄口を叩く殺し屋は使えない。ミイラとりがミイラ、なんて笑えない。
何故なら仕事だからだ。へましちゃいけねぇ。仮に命は助かったとしても、のこのこと主人の元に帰って行けるはずもねぇ。帰ってったって、クビだろう。下手したら主人の命令で、仲間からずどん、なんてのもあるらしい。怖い怖い。
ここまで殺し屋の話をしといたのになんだが、俺は殺し屋じゃぁねぇ。元殺し屋だ。昔はどんぱち好き勝手にやっていたが、ある主人に仕えてから5年、一人も殺しちゃぁいねぇ。
俺の主人は、殺しを絶対に許しちゃくれないんだ。殺しはいけねぇ、どんなに悪党が標的でもな、ってのが、主人が俺に言った最初の命令。
唐突だが質問を一つしよう。殺し屋はなぜ人を殺すと思う? 大抵の理由は主人にとって邪魔だからだ。主人の役に立って、金を貰うためだ。時々癖やら趣味だったりする救えないやつはいるがな。俺がまだ殺しをやっていたとき、俺の周りの連中は、大抵金のためだった。
今の主人に出会って、そんなやつらばかりじゃないってことを知ったがな。今の主人は慕われる。人がいいんだ。救えない俺を救ってくれた、神様みたいな、そんな人だ。主人のまわりにいるやつは皆、主人の役に立ちたいと思って仕事をしている、それだけだ。他に何も見返りなんて求めちゃぁいない。
主人の部下は結構多いが、みんないいやつばっかりだ。気さくなやつ、物知りなやつ、バカなやつ。ホントに楽しいやつばっかだ。二ヶ月に一度ある、皆で酒をのみまくるパーティーは、最高なんだ。
そのパーティーで、新米が紹介されるんだが、俺はある日、仲間になったやつらの中の一人に、心臓を射抜かれちまった。もちろん本当の銃でじゃない。でも、確かに全身に変な感覚が走った。俺、死んじまうんじゃないかと思ったよ。
綺麗でくるくるした巻き毛を短くしている、目が大きな女の子。小柄じゃぁなかったが、俺は男の中でも背が高いほうだから、顔一個分ぐらい背の差があったかな。
一目ぼれってやつだと思う。もうそれは気に入っちまって、俺はすぐ主人に、あいつと仕事をさせてほしいって頼んだよ。酔っ払っていた主人は、豪快に爆笑した後、了承してくれた。酔った勢いで忘れていたら困ると思ったが、後日、ちゃんと仕事をよこしてくれた。頼りになる主人だよ。
簡単なミッションだった。それもそうだ、新米のこいつに、いきなり巷で騒がれている殺し屋をなだめて、殺しをやめさせる、なんて無理だろうがな。おれもその噂は聞いてて、いつか主人が行動を起こすと思っていた。ちょっと興味があったから、少し悔しかった。そういう殺し屋をなだめるのは本当にいい仕事だと思っている。追い詰めて、追い詰めて、身も心も追い詰めて、降参させる。そして約束する。次に殺しをしたら、主人がお前を殺しに行くからな、というセリフを残して。
しかし、まぁ、殺し屋より女だろ。
ってことで、パーティーからわずか五日の真夜中、俺はその女の子ととあるお屋敷に向かっていた。
今回のミッションは宝探しって所だ。主人の宝石が泥棒に盗まれたらしい。十五年前に。新聞に載っていた大富豪が、その宝石を身にまとっていたというのだ。思い出したら恋しくなって、寂しくなったので、盗み返してきてほしい。とのことだった。
その宝石は、なんとも綺麗な緑色のガーネットだそうだ。皆さんご存知かな? ガーネットは赤色だけじゃない。紫やオレンジといった色も存在する。その盗まれた宝石は、珍しい緑色のガーネットのペンダントトップ。かなりの大きさだが、シンプルで美しい。写真を見る限りでは。
もし持ち帰れたら、主人におねだりして、宝石をもらえないかとたくらんでいる。もちろんあげる相手は彼女だ。
「よろしくお願いします」
と、彼女は俺を見るなり頭を下げた。ぴったりと体にくっつくような革製品を身にまとっている。ひらひらしてなくて、動きやすそうだ。袖はなく、細い腕がすらりと伸びて見える。おまけにちょっとへそ出し。可愛すぎる。とても殺しをしたことがあるとは思えない。
ついでに俺は白いシャツにネクタイ、それに黒いズボン。まぁ、ほぼ正装だ。かっこつけたんじゃなくて、俺はこの格好が一番性に合う。
彼女が殺しをしたことがあると決まったわけではないのだが、ボスのつれてくるやつは大抵殺しをしている。多かれ少なかれ、だ。
俺はちょっとかっこつけて、あぁ、よろしく、と言い、手を差し伸べてみた。彼女は驚いたように顔を上げ、一瞬と惑ったが、やがてうっすらと笑い、小さな手を俺の手のひらに重ねた。小さい指だったが、やわらかくはなかった。俺は一瞬で、こいつは銃を扱いなれていることを悟った。
しかしまぁいい。おれは手を軽く握ると、急いで車に乗った。
で、二人きりでお屋敷に向かってるってわけだ。
初任務でどきどきしている彼女を助手席に乗せ、オープンカー、海の横を走る……これは想像でも妄想でもねぇ、なんと事実だ。はっ、最高!
しかし、それでも現実は残酷だ。お屋敷は近い。駐車場からたったの十分だ。つまんねぇ、二時間ぐらいかかればいいのに、あっという間についちまった。といってもお屋敷の前にこんにちはって車を止めるわけにゃぁいかねぇから、近くの道の脇に駐車しておいた。屋敷はちょっと遠くに、ひっそりと見える。どこか不気味だった。
屋敷へは裏口から潜入する。もう頭の中にばっちり地図は入っている。俺の仲間が調査済みだ。従業員しか知らないんじゃねぇかっていう部屋や廊下をするすると抜け、階段を上り、三階についたら、すぐ横の部屋が宝の保管部屋。巨大クローゼットだ。その部屋に宝石もたくさんある。もちろん警備は薄くないだろうが、ま、俺は結構パスワードとか解くのは得意だ。鍵ならもっといい、かちゃかちゃかちゃ、で開くはず。ま、何とかなるだろう。
ここで俺はまた後悔する。もっと遠くに車をとめときゃよかった! そうしたら二人きりで歩いて行けたのに……あっという間にお屋敷に到着。裏口の前。鍵がかかってたが、針金かちゃかちゃで開いた。
彼女は一言もしゃべらない。緊張してるのかもしれないと思い、俺は小さな声で話しかけた。
「大丈夫か? 初めての任務で怖いのは分かるが、まぁ心配いらねぇよ、俺もついてるし」
彼女は裏口のドアを見つめたまま、何度か頷いた。
「大丈夫です。貴方のことは信頼しています、このお屋敷にだって入るのは簡単なことじゃないはずなのに、あっさりと入ってこれたから……」
あんなカメラは隠しカメラとは言わねぇんだけどな。
「おう、じゃぁ行こう」
「はい」
彼女は重々しく頷いた。
ついでに彼女に道順は言ってある。地図も見せておいた。彼女は記憶力がいいようで、もう頭の中に地図も道順も入っているようだ。
「じゃぁ、私から行きますね……」
意外にも勇敢な発言をした彼女に、俺は少々驚いた。だがまぁ、強い女は好みだ。
「おう、後ろは任せておけ」
俺の前にずずいと進み、彼女はそっとドアを開けた。
それからは、ただそろりそろりと宝箱まで近づいていった。
彼女は優秀で、足音ひとつたてやしない。しかし角を曲がるときやドアを開けるときは、心配そうに俺を振り向いた。そのたびに俺は笑ってやった。
一回だけ、少女マンガみたいな出来事が起こった。月の光も届かない、結構な暗闇の中を進んでいたら、がたりと音がしたのだ。彼女は声こそ上げなかったが、驚いたようで、思わず数歩後ろに下がった。
そこにはもちろん驚きもしない俺がいるわけで。どーんとぶつかってきゃっ! ……とまでは行かなかったが、彼女の軽い体が俺の懐に入ってきちまったわけだな。嗚呼、ありがとうございます、我が御主人。アンド恋の神様。
ついでに彼女は、そのあと申し訳なさそうな顔をして、俺から離れ、頭を軽く下げた。俺は照れながらも笑ってみせたが、彼女に見えたかどうかは分からない。
針金が悪さをする音。かちゃかちゃ。
そして鍵がギブアップ。カチャリ。
とうとう宝箱があるクローゼットまでたどり着いた。俺はそっとドアを開け、彼女を先に入れ、ドアを閉めた。
この部屋は明るい。月明かりが十分に差し込む位置にあるようだ。彼女は淡々と細い通路を通っていった。両脇には服の山。まったく、どんだけ金持ちなんだよ。
彼女の足取りに迷いはなかった。紳士服のクローゼットを通り過ぎたら、そこを右に。ドレスクローゼットを進み、二つ目の角を左。するとその先が、宝石室だ。
彼女はすっと右に曲がる。俺もすぐに曲がる。紳士服が月明かりに照らされてきらきらしてやがる。くそ、ひとつ持って帰ろうかな。彼女の足取りが速くなってきた。焦ってるのか? 俺も慌てて後を追う。彼女は二つ目の角を左に曲がった。俺も後について曲がる。
目の前に、彼女はいない。
刹那、俺は左に飛び退く。煌びやかなドレスに突っ込んだ。次の瞬間、俺のいた場所に銃弾が飛んできた。
「くっ……」
俺は久々に冷や汗をかいた。危なかった。
続けて四発、立て続けに銃声が響いた。もちろん銃弾は、俺めがけて飛んでくる。俺は慌てて通路を挟み、目の前のドレスクローゼットにとびこんだ。俺が突っ込んだとこにあったドレスは、銃弾によって、無残な姿になっていた。
俺は背中の後ろにはさんでいる銃を取り出し、かまえた。銃弾が飛んできたであろう方向めがけて、一発、威嚇としてうちこむ。ちっ、と舌打ちの音がし、もう一度俺の近くに銃弾。俺は横に転がる。銃に弾をこめる音。そして少しの沈黙の後、ドレスの中から人影が現れた。
月明かりに照らされる、黒い衣装を身にまとった美女。
さっきまであいつは、俺と共にいたはずなのに。
まるっきり違う表情だった。あのかわいらしい表情は、跡形もなく消えていた。ギラリと、彼女の持つ銃口が俺に向かって輝いている。その後ろには、強い瞳。口元はうっすらと笑っている。
「どうもすみません、先輩」
心なしか、さっきより声が低いような気がする。コツコツと彼女は近づいてくる。高鳴る心臓の音が、耳の奥で響く。
しかし俺はあくまで平静を装い、にやりと笑い返した。
「どうした、急に宝がほしくなっちゃったのか?」
俺の質問に対し、彼女はふんと鼻で笑う。
「あのぐらいの宝石なんて、家に行けば山ほどありますよ。今度ひとつあげましょうか?」
「君の家に行って選んでいいのかな? んー、そうやって遠まわしに男を誘うのは、どうかな」
「変な風に解釈する男性は好みじゃないです」
「あらぁ、そりゃぁまいったな。俺、結構お前みたいなやつ、好みだけど」
「それはどうも、ありがとうございます」
そのセリフと同時に、彼女は止まった。
俺との距離、一メートルもない。銃口がゆっくりと、俺の額に触れる。
ひやりとした。
「では、好みの女に殺されてくださいね」
「……スパイか?」
「いいえ、あんな組織に興味はありません。狙いは貴方だけですよ」
「……」
「分かりますか? 私は貴方を殺すよう、依頼された殺し屋です」
だれがこんな美人に依頼しやがったんだ。俺は過去の記憶をひっぱりだす。しかし、その中から依頼人を探すのには無理があった。俺は恨まれるようなこと、たくさんやってきたからな。殺しとか、盗みとか。
カチリ、と銃が不吉な音を出す。
「この仕事が終わったら、宝石たくさん買えますよ」
「そらぁよかった。せいぜい高い宝石ちゃらちゃらつけて、男を誑かすこったな」
「ご心配なく、その予定ですから」
彼女は右端の唇だけにっと吊り上げて、俺を見据えた。
俺はそんな彼女の目を見つめながら、いろいろと考えていた。本当に、いろいろと。
彼女は以外にもお喋りで、また一人で話し始めた。
「しかし貴方もお間抜けですね。どうして私が弾を詰め替えている間に私を撃たなかったのですか? どうして銃をかまえつづけなかったのですか? ……まぁ、理由は簡単ですけど。貴方は私を殺せないから。しかし悪いのは貴方ではないです。貴方の主人が悪い。貴方のご主人が、妙な命令するからいけないんですよ」
最後の一言が、俺を現実に引き戻した。
それだけは、許せねぇ。
俺は彼女をきっとにらんだ。少しだけ彼女はひるんだが、相変わらず銃口は俺の額にあたったままだ。
「取り消せ……」
「はい?」
「俺の前で、俺の主人を侮辱するな!! それだけはゆるさねぇ!!」
「よろしい。それでこそ我が部下だ」
服の中から声がした。と同時に、ぱっと電気がついて、周りが明るくなる。
俺も彼女も、急な明かりに戸惑いながら、慌てて声の方向を向く。彼女の真後ろから、ガチャリ、と引き金を引く音がした。と同時に、俺の目の前を、下から上へ何かが通り過ぎ、銃が宙へ飛んでいった。
「なっ……!」
俺の目の前を通り過ぎたのは、白のピンヒールだった。危ない。あんなので蹴られたら、ひとたまりもない……俺は先ほどとは違う恐怖感を覚えた。
「くぅ……っ!」
彼女は腕を引っ込めた。右の指を痛めたらしい、うぅ、とうなり、苦痛で顔をゆがめる。
引き金が引かれた銃は、彼女のこめかみにあてられていた。
「動くなよ。俺はこの男達とは違って、人を殺すことなんてたやすいんだ。なぜだか分かるか?」
先ほど蹴飛ばされた銃が宙を舞う。彼女の真横に立っている声の主は、にやり、と意地悪そうに笑った。
「俺はこいつらに人を殺すなと命令している。理由は簡単」
ここで声の主はますます意地悪そうに笑うと、ゆっくりと言った。
「俺が、殺すからだ」
ぞっ、と。
彼女の体中に恐怖がわいてでてきたことだろう。
その落ち着き払った一声は、どんなときでも、どんなやつでも、恐怖へ突き落としてしまうことを俺は知っている。だが、特定のやつらには、その声は、神の一言のように重く、そして気高く、優しい。
「ご主人……!」
俺の主人は、ゆっくりと俺に目をやった。銃口は相変わらず彼女に突きつけられている。
「ごめん、危なかったな。でも、嬉しかったぞ」
白いスーツ、白いピンヒール。すらっとした女性。服とは対照的な色をした、黒い大きなサングラス。長い黒髪は、下にいくにつれ、まるで服に溶け込むかのように白くなっている、きれいなグラデーションだ。
「くっ……」
彼女は主人の一瞬の隙をつこうとしたのか、逃げようと体を動かした。
しかし。
「おっと」
主人は左手をさっと上げ、空中で何かを取ると、そのまま彼女の首に左腕を巻きつけた。そこには、先ほど彼女が蹴り上げた銃が握られていた。
「逃げちゃだめだろ?」
右手の銃は後頭部に、左手の銃ははゆっくりと下ろされ、心臓に寄り添う。
彼女は何も言わず、真っ青になってしまった。彼女の周りだけ時が止まったように、ぴたりと停止する。俺の主人は、何事もなかったかのように、俺を向いてにかっと笑った。真っ赤な唇が、嬉しそうに笑う。
「ありがとう、お前と出会えてよかったよ」
「そんな……」
照れながらも、俺は警戒をといた。主人が来たなら、もう俺の命は保障された。そんな俺とは対照的に、銃を突きつけられたまま硬直している彼女の表情は、恐怖に怯えていた。先ほどの美人はどこに行ったのだろう。主人は彼女の後ろから、そっと囁く。
「残念ながら、緑色のガーネットは頂戴いたしましたよ、あんたがドンパチやってるうちにな。まったく、俺の可愛い部下をいじめちゃだめだろ? まぁ時間稼ぎにはなったけどな。あんなロック、ないようなもんだ、気をつけろよ」
かたかた、と小刻みに彼女は震えていた。目も潤んでいる。くすくす、と主人が笑う。
「裏切りでも、一度は俺の仲間になったんだ。言ったよな? 俺の命令を破ったものは、即座に仲間から抜けてもらう。そして、仲間殺しという大罪を犯そうとしたお前はもちろん……?」
「ひっ」
彼女が悲鳴をあげる前に、鈍い音が響いた。
「いやー、綺麗だ、俺のガーネット!」
帰り道、助手席に座る俺の主人は、もう5分もずっと、ガーネットに話しかけ、キスをし、褒め称えている。
俺はボーっと海辺を運転していた。ほんの一時間前、彼女とこの道を通ったのに。海風がやけに冷たい。
「主人……」
「あ?」
「彼女のこと……」
「ああ、なんだ?」
「殺しませんでしたね」
主人は、あいつを殺さなかった。後頭部を、思いっきり殴りつけ、気絶させただけだった。今頃はもう、意識を取り戻しているはずだ。
主人ははっ、と鼻で笑った。
「ったりまえだろ。俺は殺しはしないよ」
「だって彼女に殺すのは俺だとかなんとか……」
「あんなの脅しに決まってんだろ」
「ですよねー……」
といいつつ、俺はふう、と安堵のため息を漏らした。そんな俺を横目に、主人は、ん? と首をかしげる。
「まさか俺が殺しをするとでも?」
「いえ、そんなことは思いませんでしたけど、あまりにさらっと言ったもんで、焦りましたよ」
「俺が殺すから、または主人が殺すから、ってのは脅し文句で使うだけだからな。俺だけ特別に、なんて、そんなの許せるわけねぇじゃん。しっかし、味方までだませるなんて、俺演技派だな。こんど皆で劇やろうぜ」
「やですよ」
「んだよー」
俺はくすりと笑った。それを見て、主人も笑う。
主人がゆっくりと手を伸ばし、ハンドルを握る俺の手の上に、そっと手のひらを重ねた。白い、小さな女性の手だ。
俺の心臓は跳ね上がった。
「しゅ、主人!?」
「ここ右!」
「え!?」
主人はえい、とタイヤを回した。
「わああああああ!」
悲鳴のようなタイヤのすれる音と共に、俺の愛車は九十度右に曲がる。海辺の道から一転、小さな小道に入った。
「あはははははは」
主人は楽しそうに笑っていた。ありえねぇ。
「主人! 何するんですか急に!」
「ちょっと遠回りして帰ろうよ。お前と二人っきりなんて、なかなかなれないからなぁ」
「なんですかそれ……」
ふふふ、と主人は意味ありげに笑うと、ガーネットを月明かりに照らし、小さくつぶやいた。
「なぁ」
「はい」
「宝石言葉って知ってる?」
「え?」
「花言葉とかあるだろ、あれの宝石バージョン」
「そんなのあるんですか」
「あぁ」
主人は相変わらずガーネットを月明かりに照らしながら、ぼんやりとそれを見つめている。ガーネットは月明かりに照らされ、綺麗に光り輝いている。
「ガーネットの宝石言葉はなぁ、『真実』なんだよ」
「……へえ」
主人はガーネットを眺めるのをやめ、ぱっと手のひらににぎりしめ、その拳を俺の前に突き出した。
「これ、やるよ。また女に惚れたら、プレゼントしてやるがいいさ」
「……お見通しっすか」
「あぁ」
「ついでに、彼女がスパイだったっていうのもお見通しですね?」
「じゃなきゃあそこで俺が現れるはずねぇだろ」
「ですよね……」
「ま、今回のは運が悪かったんだよ。たまたま惚れた女が敵だったんだ」
「ですね。どんなに嘘だ嘘だと嘆いても、それが『真実』だから……って、慰めてくれるんでしょ、主人は」
主人はあっはっは、と空を仰いで笑った。
「お前もなかなか詩人じゃないの。そして推理力もあるね。そうなんだよ、俺はそれが言いたかったんだ。これは真実だ。どうしようもなくな。だから、真実を受け止めろ。絶対に否定するな。そんで、散々真実にずたずたにされた後は……泣いちまってもいいからな」
「ったく……」
俺の頬を、涙がつたった。
「ホントに何でもお見通しなんだから……」
主人は何も言わず、すっと拳を引き、そのままその拳を俺のポケットの中に突っ込んだ。
「ま、次ぎ惚れた女にプレゼントを贈るときには、宝石言葉で、ガーネットは真実と言う意味なんだよ、俺、お前に俺の気持ちを伝えるよ、この気持ちは紛れもなく真実そのものなんだよ……とか言ってみ? かっこいいから」
「そっすか? なんかくさくないすか?」
「ばっか、お前、少々くさいほうが、女は案外落ちちゃうもんよ。おっ……」
裏路地を抜け、家が見えてきた。
「よーし、じゃぁ今日は、失恋残念でしたパーティーでもすっかな!」
「しましょうしましょう、酒がばがば飲みたい気分なんすよ」
「お、乗り気だね、じゃぁ急げ急げ!」
主人は俺の脚を踏んづけた。俺の脚が、アクセルを踏み込む。
「いってぇ!」
主人はまた、嬉しそうに声を上げて笑った。
ポケットの中のガーネットのように、湧き上がってきたばかりの、小さな想いだったかもしれない。儚いものだったかもしれない。しかし、俺にとって、やっぱりあの気持ちは真実だった。
あれは久しぶりに見た、小さな恋のかけらだった。