校正者のざれごと――ワーク・ライフ・バランス
私は、フリーランスの校正者をしている。
朝4時半。家族を起こさないよう、すべるようにそっとベッドから出る。仕事机へ向かい、ゲラ(校正紙)を静かに取り出す。家族が起きてくる朝6時過ぎまで、これでなんとか約1時間半は作業時間を確保できる。
忙しくなると、朝家事を終える9時ごろから夕飯の支度が始まる5時ごろまでの時間だけでは終わらなくなってくる。もちろん、土日はすでに使っている。そうなると、作業時間を確保するため早朝や深夜に時間を作る。私のなかではフェーズ2といったところ。
以前は深夜に作業することが多かったが、今はもっぱら早朝の時間を当てることにしている。早朝は夏でも空気がひんやりしていて気持ちいい。冬は寒いが、足元にはあんかも用意してある。それに夜は晩酌も……いやいや。
いま担当しているのは資格試験の過去問集。毎年携わっているものだ。解説にはひとつひとつ、その試験の問題について書かれた基本テキストのページが( )のなかに添えられている。これはすべてそのページにあたって、合っているか確認する。
この( )は一般的には「括弧」だが、仕事ではパーレンと呼ぶ。そして、「(3ページ)」のときと「(3ページ)」のときでは形、というか位置が微妙に違っている。前出が和文用、後出は欧文用で、欧文用のほうが位置が少し下がっている。そして、和文用のほうが前後のアキが大きい。実際のゲラでは、この和文用と欧文用が混在していることがよくある。「(3ページ)」のように起こしのパーレンが欧文用、トジのパーレンが和文用になっていることもある。フォントによっては見分けがつきづらいこともあり、必死に目を凝らして確認する。
ちなみに( )はパーレンと呼ぶが、他にもいろいろな種類がある。〔 〕はキッコウ、[ ]はブラケット、〈 〉は山括弧、【 】はすみ付きパーレンという。〈 〉は算数に出てくる不等号<>が間違って入っていることがあるが、不等号は全角で、山括弧は基本的に半角モノなので、これも見つけたらエンピツを入れる。
朝早くから仕事を始めると、当然午後の昼食の後くらいから眠気が襲ってくる。見落としの危険が高くなる。こんな働き方、よくないよな。わかっていても、依頼が来れば断れないのが現実だ。実際、出版業界や広告業界では働き過ぎがつねに問題になっている。過去には若い女性が過労から自死に追い込まれた、あまりにも悲しい事件もあった。
ワーク・ライフ・バランスという言葉がある。内閣府では平成19年、「仕事と生活の調和 (ワーク・ライフ・バランス)憲章」というのが策定された。ここには「仕事と生活の調和が実現した社会の姿」として、「健康で豊かな生活のための時間が確保できる社会」「多様な働き方・生き方が選択できる社会」をめざすとある。近年では女性の育児負担を軽減するため、男性の育児休業取得を推進するための制度も次々と作られている。
ところが、最近就任した日本の新首相はこんなことを高らかに宣言した。
「私自身もワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てます」
おいおい、ちょっと待て。いいのか、それ。さすがにこの言葉を聞いたときは不安になった。実際、彼女は初の国会論戦の日、朝の3時から勉強会を行ったそうだ。午後には、だいぶ疲れている様子だった。本人はともかく、付き合わされるまわりは大変だろう。やはり、働き方について少し考える必要があるのではないか。
私の所属する校正プロダクションの社長も、日によっては午前3時、4時くらいまで仕事をすることもあるという。以前「校正者のざれごと――編集者の闇」でも書いたが、編集プロダクションの人たちは家にも帰らず(帰れず?)、昼夜問わず仕事をしていたりする。そんな生活が続いたら、間違いなく人は体調を崩してしまうだろう。
ここで話はだいぶ変わるが、最近下の子は床屋ではなく美容院に行きたいと言うようになった。男の子なんて床屋でいいんじゃないの、と思っていたがそうではないらしい。仕方なく、私がいつもお世話になっている美容院に予約を取り、下の子を行かせてみた。すると美容師さんとも話が弾み、すっかり気に入ったようだった。
この美容院にはずいぶん長く通っていて、担当の美容師さんも何人も変わった。若い女性が多く、産休を取る人も多い。ある人は2年ほど休んでから復帰した。復帰してからも、保育園のお迎えに合わせて働いている。パーマの予約は午後2時半まで。日曜・祝日はすべてお休み。この話を下の子にすると、「ずいぶんホワイトな会社だよね」と笑っていた。確かに、まわりの理解がなければこんな働き方は難しいだろう。もちろん、それが本人の希望であればの話だが。育児の負担のバランスという点では、多少思うところはある。
数日前、2025年の新語・流行語大賞にノミネートされた30語が発表された。個人的には「オールドメディア」「フリーランス保護法」あたりが目に留まった。そして、先ほどの新首相の発した「働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相」も入っている。やる気はすごく感じられるが、果たして、結果はいいほうに転ぶのかどうか。
初の女性首相に対して厳しいコメントになったが、国民のために一生懸命働こうという姿勢はもちろん否定しない。自分の身を振り返れば、「お前が何を言うか」となるだろう。まあ、お互いにワーク・ライフ・バランスも大切にしていきましょう、ということで。




