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第八話 少年

地獄へ向かう牛車は、わずかに揺れながらこの世でもあの世でもない場所を進んでいく。外はごうごうと嵐のような風が吹いているが、牛車の中は静かなもので、狩衣に立烏帽子の男が、ひとり座している。その膝の上では銀色の猫が丸くなって眠っていた。

牛車が動き始めてからしばらくたった頃、心地よい揺れで強い眠気に誘われた少年は、たまらず眠ってしまったのだった。

温かい手が、ゆるりと猫の姿に変化した少年を撫でている。


少年は夢を見ていた。それは、ある男の子が人の体を失い、獣になるまでの物語。


「なんで俺まで……。お前がいれば十分だろ」

「なんでって、あの方が一緒にいてほしいっておっしゃるから」

「なんなんだよあの方って! もういいかげんにしろよ!」

少年が学校から帰宅したその日も、両親はケンカをしていた。

十三歳の少年には、話の内容はわからなかったが、会話のなかには「お金」とか「来月」という言葉と、「オオカミサマ」、「キョウソサマ」という言葉がよく聞こえていた。

ピンポン、と背後で呼び鈴が聞こえた。

「ぐぃ~ん、がちゃがちゃ~」

 リビングの窓側で、弟がおもちゃに夢中になって遊んでいる。

少年はそのままカバンを置くために一度部屋に入った。

玄関で話し声がして、母親と共に入ってきたのが黒いスーツ姿の男だった。お面を張り付けたようなのっぺりとしたその顔を見て、少年は薄気味悪く思った。

だから、なるべくすぐに家を出ようと思ったのだ。だが、「おやつがあるから食べなさい」と母親に促され、仕方なくダイニングテーブルに向かい、椅子に腰かけた。

食卓には、スーツの男が持ってきた大福があった。

父は寝室に行ってしまい、母とスーツの男はソファに腰かけて会話をしている。何を話しているのかは、少年にはよくわからなかった。

少年が「早く喫茶店にいきたいのに」と思いながら大福を口に運んだ瞬間、真っ黒くて大きな闇が、あんぐりと口を開けて少年を飲み込んだ。

驚く間もなかった。

音も光もない真っ暗闇のなかに堕ちて行きながら、今さっきみた光景(ショベルカーのおもちゃで遊んでいる弟の姿)が、目の裏に張り付いていた。

家族のことが気がかりだったが、暗闇では何も聞こえず、見えない。堕ちているのか浮かんでいるのか、わからない。体の感覚はなくなっていた。

意識だけが、取り残されたままだった。

少年は、思いを巡らす。

もうお母さんの作るおいしいカレーも、からあげも、もう食べられないのかな。優しい笑顔も、楽しそうな顔も、怒った顔も、面白い変顔も見られないのかな。

でも、と少年は思い出す。

お母さんはこの頃あまり笑っていなかったな、お父さんに、叩かれていたからだ。だけど、ぼくも、もう、お父さんに叩かれないんだ、お酒くさいお父さんと、かなしい顔のお母さんを、もう見なくていいんだ。

でも、と少年はまた思う。

小学生になる弟のアキトとも、もう遊ぶことはできないのかな。自分の後をつけてくる、人懐こい笑顔を、もう見ることはできないのかな。

ぼく、どうなっちゃうんだろう、と少年は暗闇のなかで考えた。ここから、もう出られないのかな。このまま死んじゃうのかな。お父さん、お母さん、アキくんは、大丈夫かな。

暗闇の中でだんだんと、少年の意識は薄れていった。

細い絹のような何本もの光の糸が、闇に溶けていく少年を追いかけている。

それは誰かの願いであり、誰かの祈りであり、遂げられなかった夢、救われなかった命だ。生きたいと願いながら怨霊に取り込まれた、いくつもの無念の残光だった。

流れ星を見たような気がしてから、少年の目が次に見たのは、喫茶店のガラス戸に映る自分の姿だった。

「……」



常連客の少年がガラス戸を開いて店に入ってくる。

「いらっしゃませ」

店主はどのお客様にもそうするように、挨拶をする。今日の少年は、いつもと違っていた。何がどう違うのか、店主にははっきりとはわからないが、とにかく、どこかが違う、と感じた。

見ているのに見ていないような、何も考えていないような、洋上を漂う浮子ふしのようにあてどない様子に見えた。

「ここあ、ください」

少年の注文は、今日も同じものだった。ただ、その声の抑揚は波のようにゆらゆらとおぼつかなく、まるで幾人かの声が混ざったかのような、聞き覚えのない声になっていた。

「かしこまりました」

店主は、どのお客様にもそうするように答えると、ココアを作りはじめる。



席についてココアを口に運ぶが、少年にはココアの味はわからなかった。

しばらくして、少女が店にやってきた。少女の手にしたグラスを見たとき、少年には、自分のものではない記憶が見えた。

それは、怨霊に取り込まれた誰かの記憶。何十人、何百人もの人間たちの記憶の断片だった。

「それって、お酒じゃないの?」

話しているのは自分ではない、声も、別人のそれだった。そこで、記憶が途切れた。

暗闇で、何かが触れたような気がした。

『この子を、救って』


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