第七話 男
「いや、ぁあああああ!」
「あな」
狩衣の男はあっけにとられている。
(おなごが暴れておる。なぜじゃろう)
男の言ったことは、まぎれもない事実だ。男の目から見える真実が、少女を錯乱させているようであることはかろうじて察しがついた。
「しかし、これでは……うむ」
怒られてしまうの、と独り言ちると、少女のこめかみに人差し指と中指を静かに当てた。
ツーンと耳鳴りがして、少女は気を失う。
少女の叫び声が止み、室内は猛獣が獲物を喰らう歪な唸り声だけがひびく。
男は少女を抱きかかえると、ソファに横たえた。
「よし。これでよい」
首尾は上々、と言いたげだった。
「さてと」
翻った男は、怨霊を今にも喰らいつくそうとしている獣に近づいた。
「もうよいぞ」
静かなその声に、獣の少年は大人しく従い、それ以上怨霊を喰らうのをやめた。顔の半分は布で覆われているが、あらわになっている口元は、どす黒い液体にまみれている。鼻と口は人のそれよりも猫に近い。少し開いた口元から鋭い牙が光った。
男が顔に巻かれていた布をゆっくりと外してやる。いちど肉塊になったはずの少年は、今は猫のような人のような、どちらとも言い難い顔になって男を静かに見上げている。
「うむ。少々雑に作りすぎたのう。あとで直してやろう」
男が、ふふふ、と笑って頭をやさしく撫でると、獣の少年は三角の耳を折り曲げてぐるぐるとのどを鳴らした。二股の尾が、左右にゆっくりと揺れている。
男が少年の頭を撫でていると、突然、部屋中にドラの音が鳴り響いた。男と少年はそろって天井をみる。
まるで岩かなにかが降ってきているような轟音だ。びりびりと空間が振動している。
『お前、なに好き勝手やってやがる』
鳴り響くドラに負けないほどの声量で若い男の声がした。
「おや。時間かえ?」
声の主は機嫌が悪そうだ。のんきな男の返事に語気を荒らげていった。
『なんでもいいからさっさと戻ってこい!』
「うむ。せっかちじゃのう、タカムラは」
仕方がなさそうに、男がつぶやく。
それは、地獄からの業務連絡だった。地獄からの連絡はいつも唐突であり、豪快なのである。
「さて、帰るかの」
その前に、と言いおいて、男は墨文字の書かれた和紙を懐から取り出すと、ふっと短く息を吹きかけてソファで眠っている少女に向けて飛ばした。和紙は少女の体に張り付くと明るく光りはじめる。やがてその光は少女をやさしく包み込んだ。
「さらばじゃ、娘」
その様子を見届けると男は静かに蝙蝠扇を広げた。
男の足が宙へふわりと浮き上がる。足元から無数の巻物が十重二十重と飛びだしてきて男を飲み込んでいく。巻物はぐるぐると球形に回転し、そのまま牛車の形になった。
それが、地獄行きの牛車であることは、古今東西誰も知らないことだ。
「お~い、行くぞ」
牛車の後ろからひょいと顔を出すと、男は獣の少年に手を差し出した。少年が男の手をつかんで中へ入り込む。
大きな牛車は、音もなくこの世から消え去った。
部屋の中は、まるで何も起きてはいないかのように静まり返っている。
遠くで、サイレンの音がなっていた。