第六話 男と少年
「さあ行こう。夜はわが庭ぞ」
陽の暮れ落ちた住宅街に、うす桃色の狩衣姿の男が布包みを抱えて佇んでいる。電柱から発する街灯の白光が男の滑らかな肌を一層際立たせた。
喫茶店を出た狩衣の男は、布で巻かれた赤子ほどの大きさの塊を手に、ひらひらと舞う蝶の後をゆったりと歩いていく。時折、春の風が吹いて袖を揺らすと、狩衣にまとわせた沈香がふわりと夜道に流れていく。
男は上機嫌でふうんふうんと鼻歌を口ずさむ。
「我はの、お主に会えてうれしいのじゃ」
そのまま塊に向かって、にこやかに話しかける。
「下界に降りるのも久方ぶりじゃが、お主のような拾い物をするのはもっと久方ぶりでのう。今日はなんと良き日じゃろうて。何もかも、あのおなごのお陰よのう」
夜道を軽快な浅沓のステップが舞う。
角をいくつか折れ、ゆらりゆらりと歩みを進めた先でようやく少年の住む団地が見えた頃、男は道でばったりと動物の死骸に出くわした。それは、街灯の下で銀色に輝く美しい毛並みの猫だった。
男の麗しい顔はみるみる上気していき、今にも蕩けそうになりながらうっとりと歌うような声が漏れた。
「まこと、今日はなんと良き日であろうのう!」
男は抱えている塊に向かって問いかけた。
「お主、これをどう思う?」
布の塊に耳を寄せていた男は、笑い声とうなずきで答えた。
「ふふっふふふふっふふふ」
喜びのあまり男の焦点は定まっていなかった。
狩衣姿の男と、頭に布を巻いた少年が団地の階段を上りきると、ドアの前に少女が気絶して倒れている。
「おや」
狩り衣の男は蝙蝠扇を手に、優美な仕草でしばし少女の体を検分してから、
「なにもないようだの。瘴気にも当たっておらぬし」
転んだだけかもの、と言うとそれ以上はさして気にする様子もなく扉の前に立った。
「では、参るぞ」
男が少年に、これからお待ちかねの時間だというような様子でにこりと笑いかけた。
先ほどまで布に包まれた肉塊だった少年は、今は男の隣に立っている。身長は男の肩口ほどで、立ち姿は一見すると人のようだが、全身がぶち模様のある銀色の毛で覆われ、手足の先には鋭い爪がついていた。手は人のものに近いが、足はまぎれもなく猫型のそれである。
うなずきの代わりなのか、少年のしなやかな縞模様の尾が、ゆらりゆらりと左右に振られる。その尾は、根元から二股にわかれていた。
男が静かに扉を開けて中に入っていく。
その後ろを猫の体になった少年が続く。
扉がばたんと閉まり、こちらとあちらが完全に分けられた。
室内は、廊下の途中から先が闇に包まれている。
明かりのない夜の部屋の見えにくさ、というよりも、闇に飲み込まれたかのように空間自体が光を吸い込んで黒くなっているようだ。
「ほう。ずいぶんと大きくなっておるのう」
それは、部屋中に怨霊が風船のように膨らみ、今にも破裂しそうなほどに大きく成長しているからだと、男は見抜いていた。
「ウウウウウウウ」
男の横で少年から発せられる声は、獣の威嚇、そのものだった。
「まあ待て。これではお主が早々にとりこまれてしまう」
男は、ふふ、と軽く笑い、左手の人差し指と中指をピンとのばし、他の指は畳んだ状態で、手の平側を闇に向けた。
「これはハンデ、というのだったかの」
そう言ったあと、男が小さく何事かをつぶやくと、玄関近くまで膨らんでいた怨霊が、風船が割れるような、ばんっという大きな破裂音とともに一気に縮んでいく。黒かった玄関の暗がりの向こうがかすかに光を得た。男は浅沓のまま、少年は猫足のままで玄関を上がり、歩みを進める。
男の衣の香りが部屋中に漂っていく。
「さて、どこかの」
男がつきあたりの部屋の入口で見回すと、左の奥に人型の怨霊が倒れているのが見えた。男はわずかに開いた蝙蝠扇を顔に寄せたまま、ゆっくりと怨霊に近づいていく。狩衣の背はピンと伸び、その足取りは、この状況下にあって少しの恐れも抱いていないようにみえた。
「こやつか?」
倒れている怨霊を前に、やおら振り向いて男は少年に尋ねた。
「……」
黒く粘着質のざらついた怨霊の体は人間の男の姿をしている。頭も黒く、その目は、どこまでも光を飲み込むかのように昏く深い。怨霊は横たわったまま、じっとりと二人を見ている。
少年は、顔に巻かれた布の隙間から怨霊を確認し、しっかりとうなずく。
二本の尾が、低い位置で勢いよくぶんぶんと振られて怒りを表していた。
突然、「アアアアアア」「ウウウウウウ」と怨霊の腹から聞こえはじめると、横たわる怨霊の体に、少年の家族の「顔」が現れ、不気味に歪んだ。
「ふむ。悪趣味じゃの。それだけ顔があれば十分じゃ。頭はいらぬな」
男は淡々と言い放つと、握りこぶしをつくり人差し指の側面を親指で巻き込むように押さえつけてから、勢いよく人差し指を離した。
反動で親指が中指に当たって「ぽん」と小気味よく鳴った瞬間、人差し指から強い光が弾けていき、怨霊を討ちぬいた。同時に強い破裂音と衝撃が部屋中に響き、怨霊の頭は木っ端微塵になって部屋中に飛び散った。
狩衣の男はそのまま右手の平を上に向けると、壁に弾けた破片の一部をじっとみつめたまま、まるで何かを握りつぶすような動作で手をゆっくりと閉じていく。
ゆるゆると風がおこり、手のひらに、吹き飛ばされた怨霊の頭の破片が逆再生されるように、すすす、と集まってくる。破片が次々に壁や天井から放れ、ひゅひゅひゅ、と空を舞い、手のひらに吸いこまれていく。
すべての破片が集まると、男の手には、ザクロ色の飴玉に似た小さな粒が乗っていた。
「これが種じゃ」
少年は男に近づき、手のひらの上の種を見た。
「これがお主の父君と母君、そして幼き弟君を喰ろうたのじゃ。そして、お主のこともな」
言いながら男はその実を懐紙に包んで懐に収めた。
「お主の中で育てて種となり、それをまた飛ばそうとしておった」
幾年月経とうとも変わらぬの、とつぶやいた後で、男は少年に問いかけた。
「お主、こやつをどうしたい?」
少年をみつめる男のおだやかな顔は、愛しいわが子へのそれになっていた。
「……!」
決意に満ちた少年の目は、力強く光っていた。
「ああ、許す。存分にやるがよい」
そして少年は、下顎に力を込めて口元の布を引き破ると、「ヴヴヴ……」という唸り声とともに怨霊に向かって飛びかかっていった。