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第五話 少女と男

部屋の中で、怨霊と獣が戦っている。

怨霊は人の形をしていて、黒い背広姿だが、頭がついていない。体格の良さから男性の姿をかたどっているようだ。

体の表面が粘ついた質感をしていて、動くと表面だけが遅れて追いつくようにもったりと揺れる。頭がないためバランスの悪い動きでゆらゆらと獣の攻撃をかわしている。

怨霊と戦っているのは、二足歩行の猫に似た獣だ。

怨霊に比べると小柄な体躯をしている。全身が白っぽい毛で覆われているが、その顔は包帯が巻かれていてよく見えない。口元だけは布が破れていて、ネコ科の猛獣のように牙をむき出しにして威嚇している。

獣が怨霊の蹴りを避けて部屋の天井付近に飛び跳ねると、ダン! と音がした。そのまま手足の鋭い爪で壁にとどまっている。獣は低く唸り声をあげて威嚇しながら怨霊の様子をうかがっているようだ。獣の尾が二股に分かれてゆらゆらと思案するように揺れている。

目的も意思もなく、重力や磁力のように力の均衡によってのみ動く存在が怨霊だ。そのためかぼんやりとして立つ様は、戦いの最中だというのに、間の抜けた感がある。それが異様さを際立たせた。

怨霊には頭がない代わりに、胸と腹、そして背中に顔がついていた。顔たちはどれもが皆、ひしゃげたガラス瓶のように歪み、恐怖や絶望に支配され、「ウウウウウ……」とか「アアアアア……」と声を発している。

その声は、低いかと思えば高くなり、悲鳴のような、恨み言のような、はたまた締め上げられているかのような、いたたまれない気持ちにさせるものだった。

それは、少女が妖の眼球を通して視たものだった。風呂場に詰め込まれた後、怨霊に食われ、取り込まれたのだろう。顔はそれぞれ少年の父と母、そして小さい顔は、少年の弟なのだと、少女は知る。

「ごめんね、間に合わなかった……」

床にへたり込んだ少女の目の前に落ちてきた写真立て。

そこには、家族四人の笑顔がガラスの奥でひび割れていた。

目の前の光景に頭が混乱する中、少女の意識が遠のき始める。



「おや。主殿ではないかえ」

我ながらのんびりとした声が出た、と男は思った。

狩衣の男は先刻からずっとそこに佇んでいたが、戦いに夢中になるあまり、自らを呼び出した少女の存在に全く気がついていなかった。物音がしたので振り返ってみると、少女が床にへたり込んでいるではないか。

「瘴気に当てられたかの。しばし待たれよ」

男の声は奇しくも夜祭り見物の客のようで、目の前の陰惨な光景とはまったくもって不釣り合いだった。懐から和紙を取り出す仕草もまた、ゆったりとしたものである。これから、その和紙に歌を詠もうとしているように見えるが、無論そうではない。

ふう、と、ひとつ、息を吹きかけると、和紙はさらさらと黄金色に輝く光の粒になって飛び、少女の口の中へと流れ込んでいく。その粒子の流れまでもが、たおやかであり優美だった。

これが本物の力なのか、と少女は思った。頭痛やめまいが治まっていく。それどころか瘴気を感じられなくなっていく。

さらに、感情にまで作用しているのか、寄る辺ない感情に飲み込まれそうになっていたのに、強烈に冷静さを取り戻させられる、まさに圧倒的な力だった。

少女は、悪霊が見え、わずかだが術を扱える程度だ。だが、こんな状態の部屋のなかでは、ほとんどの術者は身動きがとれなくなるだろう。そんな瘴気にもかかわらず平然としているこの男に、賞賛よりも畏怖の気持ちが勝った。

しゃがみこんでこちらの様子をうかがっていた男は、少女の頭をさらさらと撫でて言った。

「よくなったかの」

「ええ、ありがとう」

少女は涙をぬぐいながら答えた。

「うむ」

「あれは、なに?」

微笑んでいる男に、ちょっと聞きたいのだけど、と前置きをしてから少女は努めて冷静になって尋ねた。

あれ、とはつまり、怨霊と戦っている、獣のことだ。

「ああ、あれか? 主殿が『助けろ』と言うたので、悪いところを取ったのだが、いかんせんほとんど喰われてしまっていての。これくらいの大きさになった」

男はそういって空中に指で四角を書いて見せた。その大きさは、少女にはノートパソコンほどの大きさに見えた。

「……そう」

静かに答えながらも、全身から血の気が引いていくのがわかった。やはり、あれは少年なのか、と目を疑う。

確かに助けたいと願った。自分に出来る最善の方法を選んだはずだった。だが、それは本当に、正しかったのか? それで助けたといえるのか。

そして、少女には新たな疑問が湧いていた。

「それじゃあ、なんで」

「ん? そんなに小さくなったはずのものが、なぜ獣の姿となって怨霊と戦っているのか、かえ?」

したり顔で話す男の切れ長の目は、何もかもを見透かしているようだった。


「いくら助かったと言っても、あのような姿では何かと障りがあろうかと思うての」

床に座り込んだまま、少女は怨霊と戦っている獣を見た。

怨霊の腕が鞭のように長く伸び、獣めがけて飛んでいく。壁や天井に跳ねてその攻撃を避けた獣は、そのまま反動をつけて怨霊に大きな爪で襲い掛かった。獣の頭は布で覆われているが、目元にわずかに空いた隙間から赤い光跡が暗闇のなかを勢いよく走り抜けていく。

麗しい容姿の男は話したくてたまらないといった様子で続けた。

「くっつけたのじゃ」

「……手足、を?」

少女はそうであってほしいと願った。しかし、それは否定されるのだろうということもまた、半ば無意識のうちにあった。だが、男の返事は少女の予想とは違ったものだった。

「まあ、そうともいえるがそうでないともいえるかの」

どういうことかと少女は男に尋ねようとしたが、「ふあぁぁぁ」という男の大きなあくびと「バンッ!」という衝撃音によって機会を逸してしまった。

獣が、怨霊の上に四つん這いになってのしかかっている。

「ウウウウウ……」

と、低く唸りながら怨霊を体の下に組み敷いた様はまさに、狩りをする獣そのものだ。顔の布の隙間から、ぽたぽたと何かが落ちている。

「!」

少女ははっとした。それは、よだれだった。

世界から、音が消えた。自分自身の呼吸だけが、うるさいくらいに聞こえている。ぐらぐらと、世界がまわっている。

「……めて、……やめて……もうやめてっ!」

少女は頭をふりながら叫んだが、その声は、どこにも届くことはなかった。

獣になった少年は、勢いよく怨霊に嚙みついた。粘ついた怨霊の飛沫が勢いよく壁に飛んでシミをつけていく。

怨霊の体に付いている家族の顔にも無関心なその様は、獣が本能のままに獲物に食らいついているようにしか見えない。

それは、願いが途切れた瞬間だった。望んだ未来とかけ離れた現実と、自分はただ、つぶやくことしかできない無力さのなかで少女は錯乱していく。

「おおそうじゃ。主殿、ひとつ言い忘れていたことがある。あのの子じゃがの」

座り込んで朦朧としている少女を前に腰を降ろしたまま、男は両手で頬杖をつく。

それは、少女が尾行し、喫茶店で言葉を交わし、妖に目を奪われそうになりながら、見様見真似のまぐれで呼び出した、いま目の前にいるこの本物の男に縋り付いてまで切望していたことだった。

「我を呼ぶ前にはもう、あれは()()()()()()()()()ぞ」

あそこまで堕ちるには、少なくとも一日はかかる、にこりと嗤いながら、男はそう言った。

それは、少女を壊すのには十分すぎる事実だった。

「……な、……そんな……じゃ、じゃあ、私が、私の、、、いや、ぁあああああ!」

少女は頭を抱えて叫んだ。

獣が怨霊を引きちぎり、硬いものをかみ砕く高い音が少女の叫び声とともに部屋をつんざいた。


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