第四話 少女
「う……ぅあ!」
少女が目覚めると、そこは柱時計のちくちくと時を刻む微かな音とジャズが流れる喫茶店だった。
「わたし、どうなって、いつ、あれからなにが、うあ!」
起き上がって右手を椅子に着こうとしたが間に合わず、そのまま椅子から床に転がり落ちてしまう。動揺と混乱、記憶の欠如と身体疲労が一気に少女を襲い、めまいととまどいのなかで必死に記憶を辿る。
呻きながら床に起き上がると、椅子の座面が首にあたった。
「そうだ、あの子、あの子は!?」
目の前にあるマグカップとグラスを見て、少年が怨霊になったこと、自分のやったことを思い出して声を上げた。
ふたたび無意識に右手を床につこうとして、視界がぐにゃりと歪んだ。そして少女は、ようやく自分の右腕を見る。
「……!」
右腕の中ほどから先が無くなって白い布に覆われている。
切れ味の良い刃物で切られたように断面がまっすぐで、切られているはずなのに、それがすこしも不思議と思われないほどに、痛みは全くないのだった。
そんなことが、できるはずがない。あの禍々しい怨霊はどこだろう。
少年は、どうなったのだろう。
失われた右手が、少女に告げていた。
“彼“を呼んだのは、間違いであったのではないか。
そして、少女は思った。
彼は、何も救わないかもしれない、と。
体の真ん中がどくどくと鳴り響いている。少女は勢いよく立ち上がると、喫茶店を飛び出した。
テーブルの上には、飲みかけのココアが入ったマグカップと氷が溶けたグラスが取り残されている。店主が店の奥からトレーを手にやってきて、グラスを持ち上げた。
底にたまった水滴が落ちて、床に置かれたままの少女の眼鏡を濡らした。ひび割れたレンズを辿った水滴は、床のモザイクタイルにシミをつくっている。
店主は眼鏡を拾い上げると水滴を雑巾で拭き去った。
路地に投げかけられた店の灯が、闇に溶けて消えた。
路地を抜けた先では春祭りの真っ最中だった。
少女は通りに勢いよく走りこんで、そのまま祭りの男性客にぶつかってしまう。
「すいませんっ!」
足を滑らせながら、人がまばらになった露店の続く道を駆け抜けていく。
右手の先が無いと、こんなに走りづらいのかと、少女は思った。腕をうまく振れない。振り上げる高さが左右でそろわず、スピードを出せないのだ。さらに失った腕の重さの分、体が軽くなってバランスが取りづらくて仕方がない。少女は、何度もよろけた。
祭りを抜けてもなお、少女はスカートを翻して夜の住宅地を駆け続けた。
「はぁっ、はぁっ……」
無我夢中になって走ってきていよいよ息が上がってしまい、少女はたまらず立ち止まって、そばにある電柱に左手をつく。
うつむくと背中の三つ編みが前に垂れ下がった。激しい呼吸で肺が苦しい。足元のアスファルトには、乾きかけのシミがぼんやりと残っていた。汗が、少女のこめかみを伝う。
「熱い……はぁ、髪、切ろうかな」
三つ編みからほつれ出た髪の毛が顔に当たる。髪の中がじっとりと蒸れている。頭皮を汗が流れて気持ちが悪かった。
少女が息を整えながら振り仰ぐと、電柱ごしに目指す団地がみえている。
急激に喉の渇きを感じて、最後に飲み物を飲んだのはいつだったろうかと考えていると、飲み損ねた丸い氷の入ったグラスが思い浮かんだ。
ずきん、と胸が痛むのは全速力で走ってきたせいだけではない。
顎を伝う汗が、アスファルトのシミに落ちて重なる。
少女は夜を睨みつけるようにして、再び走り出した。
あたたかな風が、新緑の木々を揺らす。
ざわめきが、山々にこだまする。
少し陰りのある目が、舞い上がる木の葉をとらえた。
「さ、行こ」
着物姿の母親は、心細げな少女を勇気づけるかのように明るく言った。
「うん」
口を引き結んで石の階段に腰かけていた少女は、小さくうなづいてその手を握る。
母方の実家で紅い祠を見たのは、少女が五歳の時のことだった。
母親はその寺の生まれで、行事の手伝いのために時々こうして山の奥にある実家へ赴いていた。
幼い少女は母親に手を引かれて、森に囲まれた長い石段の先にある古い門をくぐる。買ってもらったばかりのお気に入りの靴を履いていたのを覚えている。それでも初めての場所に、すこし怯えていた。
「ねぇ、いっしょにあそぼ!」
だから、屈託のない笑顔の女の子から差し出されたその右手に、少女は少し戸惑った。
母はにっこりと笑って言った。
「一緒にあそんでらっしゃい」
「……うん」
母の生まれた家は子供の目には大層大きく、庭も広く見えた。その実家で遊び相手になってくれたのが、少女より一つ年上の従姉妹だった。
「この中って、どうなっているのかな」
「わからないけど、いつか見てみたいね」
「うん」
ほどなくして意気投合した二人の女の子は庭の奥の祠に興味を示し、幾度となくそこを訪れた。
紅い祠には扉があり、南京錠がしてあった。だが、子供たちにとっての興味はそれだけではなかった。
祠のそばには、古井戸があったのだ。金網で頑丈に囲われた井戸の中を覗いてみたいという欲求は、いつしか二人の絆となった。
二人が中学生になったころ、その機会は唐突に訪れる。
「え! ほんとに!?」
「しーっ。まだ決まったわけじゃないんだって!」
古井戸の金網を修復する、という話があると聞いた日からちょうどひと月後に、二人の念願は叶った。
工事の無事を願い、ご祈祷をするための準備に混ざって、二人はこっそり井戸の中を見ることができた。
「こっちこっち」
「どきどきする」
「「せーのっ!」」
「「え……?」」
石造りの井戸は、入り口から一メートルほどのところで土に埋もれていた。二人の大願は、想像以上にあっけない幕切れとなってしまう。
「ね、あれ、見える?」
「あの黒いの?」
「何? あれ」
それからしばらくして二人は、見えないものがみえ、聞こえないものが聞こえるようになった。
その後まもなくして、二人は師と呼べる人に会う。それは、仕事で長く海外に行っていた、二人の叔父にあたる人だった。
月に一度か二度、二人は叔父に”稽古”をつけてもらうようになった。常人には見えないものの扱い方、祓い方、あしらい方。
「この札を使う。文字が書いてある方に、息を吹きかける。そしてこれは最も大事なことだが、基本的には使うな」
「「?」」
だがそれは、いわゆる護身術であり、実戦に耐えうる技量も、経験も、彼女たちには不足していた。
軽い足音は、夜を切り開くようにして、団地のコンクリート製の階段を駆け上がっていく。
少女は激しく息をつきながら、重くなる足をしゃにむに動かした。心臓がばくばくと言い、息が上がってぜえぜえと苦しい。脇腹が痛む。それに耐えながら三階へ続く階段を上りきると、その先に廊下があり、同じ形の入り口が折り目正しく並んでいる。
そこに、見知った人物が倒れているのが見えた。
蛍光灯の下で少女は叫ぶ。
「ねえさん!」
少女は従姉妹に、少年の住む団地の様子を見て、異変があれば知らせてほしいと頼んでいたが、少女の予感は当たっていたのだ。
うつぶせに倒れる従姉妹の体を、左腕で必死に仰向けにして容体を確認する。息はしている。頬や手にかすり傷はあるが、ほかに目立った外傷は見られないようだ。少女はようやく安堵して壁に寄り掛かった。
「よかった……」
まだ肩で息をしながらも、何度掛けても電話にでなかった従姉妹が無事でいてほしいという願いは、天に届いたのだろう。
それは、少女にとっての救いとなった。
少女は、従姉妹の頭を膝に抱えたまま、顔を上げた。団地の白い光を介してみる夜空は、星もなく奥行きのないのっぺりとした壁に思えた。
まだ熱をもっている体に、床のアスファルトが冷やりとして心地いい。蛍光灯には気ぜわしく虫がぶつかる羽音が聞こえている。
事の発端は、二日前の放課後だった。
「ん~、おいしい~」
「ひと口ちょうだい。これ何味~?」
「ヘーゼルナッツだって」
「うま~」
新しくできたアイスクリーム屋に寄った帰りに、少女たちは少年を見かけた。先に気がついたのは従姉妹だった。
「ねぇ、あの子、大丈夫かな」
「え?」
体操着姿でリュックを背負って歩く少年は、まるでビロードのような黒い霧をまとって見えた。好奇心の赴くままに少女は、アイスを片手に下校途中の少年を追いかける。少年が自宅の団地に着くまで、尾行に気づかれることはなかった。
その時はまだ、好奇心の範疇の事だと少女は短絡的に考えていた。
「どうしよう、どうしたらいいの」
そして今日、少年の気配は、二日前とは比べようもないほどに異様なものとなっていた。どす黒く、濃い影によって少年は覆われてしまい、歩いている姿もほとんど見えない。
陽が西に傾きかけた住宅街を、影に覆われた少年からちょうど電柱二本分離れて少女は注意深く尾行していく。
黒い影に包まれた少年を追いながら、少女は不安を募らせた。こんな非力な自分にできることがあるのか、あるとしたらそれは何なのか、いくら考えても、思いつかなかった。
最初に少年を見かけたときから少女は、今日の尾行を終えたら、叔父に少年のことを話そうと考えていた。そのための情報収集が少女たちの為すべきことだったし、為せる全てだったからだ。
烏が、電線の上を飛び去っていく。
そして少年が向かったのは、あの喫茶店だった。少女にとって、自分がよく知る店に通う少年を助けようと決意するのに複雑な理由は、なんら必要なかった。
”呼びたいものを呼ぶ”。
それは、少女にとって一度見ただけの行為だった。
叔父の仕事というものを見てみたくて社会見学と称して無理やり付き添った先でのことだ。
それをやっているのを初めて見たとき、帰りの車内で質問攻めにした。
叔父は、「お前ならそういうと思った」と困り顔で言い、心得について説いてくれた。加えて強い口調でこうも言った。「絶対にやるな」と。
少女は携帯電話を取り出して、叔父の連絡先を表示させる。
あれは、未熟な半端者が、手を出していいものではなかったのだ。
きっと、連絡するべきなのだ。右手を失ったと、やってはいけないことを、したと。だが、そのまま少女は携帯電話の電源を切った。
やるべきことを、やるために。
「こういう時は、最後まで責任もってやらないと、だよね」
少女はつぶやくと従姉妹の体をそっと床に横たえ、ゆっくりと立ち上がる。
扉の向こうからは、何かがぶつかるようなにぶい物音が聞こえている。ドアの隙間や郵便受けから漏れ出す気配だけで鳥肌が立つ。
金属性の重い扉をゆっくりと引くと、そこから溢れ来る瘴気に目が眩みそうになる。
「く……」
玄関は暗く、中ではドン! ダン! と重そうな物音が響く。音は部屋のいちばん奥、リビングの方からしているようだ。うす闇に目が慣れないため、少女は壁伝いにゆっくりと廊下を歩いて行く。
充満する瘴気で体が圧迫されるのを感じる。耳の鼓膜が気圧で押されたときのような感覚が全身を包む。呼吸をするたび鼻腔に通り抜ける瘴気が不快だ。
少女は、たまらず腕で鼻と口を覆った。瘴気自体に匂いはないが、粘膜に沁みるような感覚があるのだ。それは細かく鋭い粒がぶつかってくるようで、わずかな痛みも伴った。目を細め、吹雪や砂嵐の中を行くようにして進んでいく。
玄関からダイニングの入口までわずか七、八メートルほど進んできただけで、少女はまるで高山病にでもかかったかのような状態になっていた。呼吸は浅く、頭痛やめまい、胸やけがひどい。瘴気が目に沁みる。少女は眼鏡を喫茶店に置いてきてしまったことを、瘴気よけになったのに、と後悔した。
「はぁ……、はあ……」
いくら呼吸をしても、足りない感じがする。さらに頭が締め付けられるように痛んできた。
少女は突き当りにあるリビングとダイニングの入り口まで来ると、ついに壁にもたれてへたり込んでしまった。
そして、瘴気の満ちたうす暗い部屋の中で、少女はそれを見た。