第一話 少女(1)
この作品には、暴力シーンや一部グロテスクな表現が含まれています。苦手な方はご注意ください。
なお、この作品はフィクションであり、登場する人物・団体は実在のものとは一切関係ございません。
交通量の多い大通りから道を一本入ると、裏通りに出る。そこは落ち着いた住宅街で、雑居ビルや薬局が立ち並んでいるほかに、小さな神社もあった。
その境内には桜の木が植えられていて、毎年それが咲く時期になると、春祭りが催される。今日は、その祭りの初日だった。通りでは、露店の準備が進んでいる。
西にわずかに傾いた陽が、通りを斜めに区切っている。
その露店に隠れるようにして建つ、蔦の絡まったビルと煉瓦造りの古書店の間には、狭い路地があり、そこへ入って少し進むと『喫茶』とだけ書かれた看板が見える。
蔦の茂る壁の室外機にとまった烏が、首をかしげてこちらを見下ろしていた。
埃っぽい春風が、窮屈そうに路地へと流れ込んでくる。喫茶店の入り口には、丸い縁取りの眼鏡をかけた少女が佇んでいた。生ぬるい風が、少女の頬を撫ぜ、制服のスカートが揺れる。
入り口の戸がひたりと閉まって、制服姿の少女は通りから見えなくなった。
「いらっしゃいませ」
店の客は、ほかに一人きりだった。
「マスター、久しぶりだね。元気だった?」
カウンター越しに、よく通る声で少女は親しげに話しかける。四十がらみの柔和な表情のマスターと呼ばれた店主の男は、にこやかに笑っている。
「はい。おかげさまで。今日はどうなさいますか?」
「うん、いつもの、おねがいします」
利発そうなこの少女は、どうやら常連客のようだ。
「はい。かしこまりました」
店主はそのままカウンターの奥へと消えた。
少女はゆっくりと客席を振り返る。長い三つ編みが揺れた。
そこには少年がひとり、マグカップを手にして長椅子に座っていた。少女よりも二つか三つくらい年下のようだ。すこしうつむき加減で手にしたマグカップをじっと見つめている。
「君、ひとり? 大人の人は一緒じゃないの?」
少女は気さくに話しかけながら、テーブルをはさんで少年の向かいの長椅子に、制服のひだを折らないようにしながら座る。
「……うん」
少年はすこしいぶかりながらも、少女の問いに小さな声で答えた。体操着姿で荷物は見当たらない。
少女はこの少年が”かぎっ子”で、家に誰もいない間、この店に来ているのだろうと思うことにした。
柱時計の振り子が揺れる店内にはジャズが流れ、店主と客たちが作り上げる空間が成立している。店主だけでも、客だけでも、店は成り立たないのだ。
店の奥から店主が現れた。グラスの乗ったトレーを手にしている。
「お客様、お待たせいたしました」
「はーい、ありがとう」
少女はすっくと立ち上がるとカウンターに向かい、丸い氷の入ったグラスを受け取った。
「マスター、これ、上手になったねぇ」
明るい声で言いながら少女は、透明な茶色の液体の入ったグラスの中の氷を、指で軽く回した。
「恐れ入ります」
店主がはにかんだ。
「いただきます」
「ごゆっくりどうぞ」
一礼してから店主は店の奥に姿を消した。
少女が長椅子に戻ると、一部始終を見ていたらしい少年が、おもむろに口を開いた。
「それって、お酒じゃないの?」
「ん? あ、これ?」
どうやら少女の手にあるグラスのことを言っているらしい。少年の眼差しは、制服姿の少女が手にするには不釣り合い、といいたげだった。
少女は負けん気の強そうな笑みを返す。
「いいじゃん、別にィ」
少年から、表情が消えた。
少女はかまわず続ける。
「それにこれは」
「ダメなんだよ」
咎める声が重く響いた。少年の見た目にそぐわず押し殺した低い声だ。
それは、空間に歪んだ波紋をつくっていく。天井の隅から、地面の際から、闇が共鳴している。
どん、と突き上げるような大きな音が鳴った。体に直接当てられているかのような衝撃音だが、空気が振動しているだけで、店の様子はなんら変わりがない。
「ワルイことをしたら、怒られちゃうんだよ」
その声はつぶやくような小さなものだったが、頭の中に直接叩き込まれるように反響していく。
少年の体が、液体のように一瞬揺らいだ。そのまま、少女の目の前で少年は、とても人とは言えぬ姿へと変わっていく。
肩や腕、頬からシャボン玉のようにぼこぼこと皮膚が湧いてくる。その皮膚にはひとつひとつ小さな目があり、皆、一様に目つきが悪く、ギョロギョロと各々に目を動かしてこちらを見てくる。
「うわぁ……」
一部始終を静観していた少女は、少年の変化にたまらずうめき声をもらしたが、
「まあ、でも、”当たり”だったかな」
目の前の光景にさして慌てるふうでもなく言うと、紙製の財布のようなものをポケットから取り出した。そこから紙幣と同じくらいの大きさの白い紙切れを抜き出す。
それは、和紙のようだった。表面には墨で『睨』と絵に近い模様のような文字が書かれている。
和紙に、少女がふうと息を吹きかけると青白い炎を出して燃えだした。
すると、店の戸口に青い玉がぽこぽこと生え始めたではないか。それは同時に店の中の四隅にも生え、順々に目玉になっていく。みるみるうちに天井や壁の辺のすべてに、数珠つなぎになった青い目玉たちが、くるくると回ってうごめきだした。
頃合いを見て、少女がぱちん、と指を鳴らした。
それを合図に青い目玉たちは店の中央、少年に向かって一斉に「視線」を向け、強く光りだした。
それは、怨霊の動きを封じる『八方睨み』の術だった。
「うぅ……うぅ……」
青い目玉に睨まれた少年の怨霊は、異変を感じたのか寄る辺がないようすであたりを見渡した。その声は弱弱しく、かすかに震えているようだ。
「なんか、あっけないなぁ」
少女はとても期待をしていたのに、思っていたほどの手ごたえがない、といった様子で呟いた。そして今度は紙の財布から『封』と書かれた和紙を取り出す。
「ワルイことをしたら、怒られるんだ……ワルイことをしたら、いけないんだぁ」
怨霊が、ぶるぶると震えながら言った。
少女の手がとまる。
「怒られる……?」
少女は怨霊に問いかけた。
「ねえ、あなたは誰に怒られるの?」
「え……? えと、エっと……おト、おとコのヒと……」
そこにいるのはもう、とても少年の姿とは言い難いものになっている。どろどろとした黒い粘液状の体に、腕や足が逆さまになってあちこちから飛び出している。粘液には無数の不気味な目玉がぎょろぎょろとうつろに漂う。ぶくぶくと時折あぶくを出し、ツンと鼻につく臭いまでし始めていた。
「男の人って……まさかっ!」
何かに気が付いた少女は慌てて携帯電話を取り出すと、画面を操って従姉妹の連絡先を表示させた。従姉妹には、少年の家の見張りを頼んでいたのだ。
少女は画面上の通話マークを連打した。
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