読書感想文と本当の感想
私は「○○○○〇」という本を読んだ。
読書感想文の始まりと言えば、決まってこういう文章で始まった。
書きたくもない感想文を書くのだから、当然と言えば当然だ。
行をできるだけ埋めるために、文章を引き延ばす。
タイトルの長い本を選ぶことで、作文の題名が2行にわたるようにしたことがあった。
もちろん、本の中身を吟味していないので面白くもなんともなかった。
次の行の最初の2,3文字が「す。」「ます。」とかで終わればほんのちょっと嬉しくなる。
語尾に「ざます。」を付けようかと考えたくらいだ。
小学生に上がって間もない頃の夏休みは「ママー!!」って叫びながら、終わらない感想文を泣きながら仕上げた……というよりママに泣かされた。
だって、面白かった。つまんなかった。以外の感想が出てこないのだから。
やれここは面白かった。ここはつまんなかった。
何度も何度も文章を引用してきては全く変わり映えのしない感想を繰り返すだけの文章を書いていれば、それはみんな同じ結論にたどり着く。
ここまで読んでくれている読者ならば一度は同じような愚痴を言ったことがあるだろう。
そうでないとしたら唯の本の虫だ。
感想文なんて書きたいやつが書けばいい。
自分が本当に思ったことを書かなかったら意味がない。
いくら何でも原稿用紙5枚分も感想を書くのは多すぎる。
やはり私には文才が皆無だったのだ。
というのも私自身、文を多く書いてきたわけではないのだが、年月がたてば多少は成長するものだ。
感想文という名の小説を書けばよかったのだ。とか、知らない言葉や歴史が登場した際に、これこれを調べたら新しいことを発見した。とか書いておけばよかったのだ。
好奇心が呼び起こした出来事を連ねるだけで、自然と白紙は埋まっていく。
そういうことに気づいたのが、すでにハタチを超えてからだった。
本の世界に対する好奇心というものが絶望的に死んでいたのだ。
それでも、課題図書のなかで一度だけ出会いがあった。
「ロビンソン漂流記」
私はこの本に小学3年生の時に出会ったのだが、これだけは本当に面白かった。
これだけは私に読書感想文を書く面白さを教えてくれた。
私が10歳くらいになって、それなりに言うことを聞ける年齢になった頃、祖父が釣りに連れて行ってくれた。お世辞にもきれいとは言えない近所のドブ川だ。
以前にも釣りに連れて行ってもらったことはある。
その時は青少年の森と呼ばれていたと思う山の上のほうに、透き通った水の流れる滝があって、近くにはダムがあって、深さを気にしなければ思いっきり泳げるほどの湖ができていた。
祖父と祖母と兄と私。
何度も釣りに連れて行ってもらった。
だったらドブ川での釣りなんて…と思われるかもしれないが、その時とは大きく違うことがあったのだ。
私は初めて釣り竿を握らせてもらえた。
つやつやとした塗料の光沢とその中に見えるラメの輝きに、自分は今宝石を握っているのだと思えるくらいに嬉しかった。
釣り竿は思っていたよりもずっと軽く、そして食らいつく魚はずっしり重く感じた。
釣り上げたのはハエやドジョウみたいな変な魚。祖父が名前を教えてくれていたと思うが、覚えていない。
漂流記というくらいだから、釣りに臨むシーンが必ずある。きっかけはその一点。
私は釣りという経験から無人島に漂流して、0から生活基盤を築き上げていく男のありように夢を輝かせ、共感したのだ。
漂流の苦労のクの字も理解していない子供が、1を見て10を知った気になっただけ。
きっと絶望や苦労になんてまばたき程した気を向けなかっただろう。
それでも面白かった。
筆は止まることなく、感想文は3枚半を越えた。自分史上最高の進みだった。
3枚半を越えれば、先生に受け取ってもらえる。
やれここは面白かった。ここはつまんなかった。
何度も何度も文章を引用してきては全く変わり映えのしない感想を繰り返す。
それが止まらなかったのだ。
28歳の私は、東京芸大を卒業した幼馴染のピアノリサイタルを聞きながら回想する。
フランスに留学する前の最後のリサイタルだそうだ。
曲目はフランツ・リストのバラード第2番。曲目の隣には柴犬をなでる幼馴染の写真。
通常、パンフレットは曲目の隣に解説をおくことが多いのだが、まったく背景を知らずに聞いてもらいたいというのが彼のこだわりらしい。
音楽を聴きながら、ずっとこんな感想がつらつらと出てくるようになった。
好奇心というより妄想の類に近いのだろうが、私自身も成長したのだなあと感じる。
小学生の自分と比較をしている時点で程度は知れているが。
楽譜を見ずに、観客の前でこんなに堂々と弾けるのはすごい。
ピアノの音にも息遣いと抑揚があるのだと感じられた。
フランスに留学して、さらに上達して帰ってくるのだろう。
この程度の感想しか抱けない私が、その成長を理解できるのかは怪しいところだが。
そうそう、私も原稿用紙5枚分くらいは書けるようになったざます。
次の日に文章を見返すと誤字や言葉遣いの間違いが見られる。
私は書いている最中には興奮していて、欠陥に気づかない。
翌日になると、冷静になって改善すべき点が見つかる。
前日に描いた絵がゴミに見えるのだ。
周りの絵描き達もいつもそう言う。