09.
聖女付きの護衛になった日、聖堂で誓いを捧げたロルフは拍子抜けした。
少女だ。
恐ろしい誓約書を交わしたあとだったので、聖女に選ばれた乙女とはどれほどのものかと身構えていた。しかし、会ってみれば十二の少女。十六のロルフにとって、女性ではなく子供の枠の存在だった。杞憂に終わり、彼は内心安堵した。
『ロルフさん』
『ロルフ、とお呼びください。聖女様』
仕える者として、彼女に聖女らしい態度を求めると、少し眉をさげ呼称を改めた。
『ロルフは、これからずっと一緒なのよね』
『はい』
聖女の任期の間、彼女を傍で護るのが護衛騎士の役目だ。役目を確認され、ロルフは肯いた。
『ひとつだけお願いがあるの。私ね、アスタ・ヴェッタシュトランドっていうの。ロルフには、名前で呼んでほしいわ』
命令ではなくお願いなあたり、やはり少女である。彼女の懇願に、ロルフはどうしたものか迷う。
『これから、私は聖女になるわ。だから、ずっと一緒にいるあなただけは、私の名前を覚えていてほしいの』
聖女となる彼女の名を呼ぶ者はいなくなる。そこにいたのは、自身の名前を忘れるのを怖がる少女だった。少女の懇願はささやかで、可愛らしい。
『わかりました。アスタ様』
呼んだ瞬間、嬉しそうに表情が綻んだ。自分ぐらいはただ一人の少女である彼女を覚えていようと、ロルフは決める。
聖女としてではなく、アスタという名の少女を護りたいと思った。そのときは純粋な庇護欲だった。
それがどうして――
ゆらゆらと微睡みが薄れてゆく。窓から差し込む朝日は、白く眩い。それが瞼裏からも判る。
揺れた心地は、意識が浮上してきたからではなく、実際に身体を揺らされているせいだと気付く。しかし、その揺らし方は優しく、微睡みから引き上げるには弱かった。
「……フ」
ぼんやりと瞼を起こすと、勿忘草色の髪が散っているのがみえ、綺麗だと感じる。
「ロルフ」
髪をたどって視線を動かすと、桜色の唇が自分を呼んでいた。この声に何度呼ばれたことだろう。
目の前には、出会った頃の幼さの消えた女性がいた。名を呼ばれる心地よさに、このまままた夢に落ちていきたくなる。手を伸ばして彼女の頬に触れると、さらりとした感触があった。
「アスタさ……」
「ロルフ、起きたのね」
感触があることに固まるロルフに、おはよう、とアスタは笑顔で挨拶をする。
現実だと気付いた彼は、身を起こし慌てて彼女がから距離をとった。それはもう壁際にべったりと張り付くほどに。
「アアアアスタさん!? どうして俺の部屋に!?」
「だって、起こしていいと言ったのはロルフでしょ」
彼女を待たせるのが申し訳なくて、確かにそういった。しかし、これは心臓に悪い。自身の願望が夢に現れたのかと思った。ロルフは、自分の発言の迂闊さに後悔する。
「次からはノックにしてくれ。男の寝室に無防備に入るもんじゃない。それも、寝巻のまま……!」
夢だと誤解した要因はそれだ。彼女は自分に気を許しすぎている。忠告に対して、野営のときも同様だったと比較されたが、状況が違いすぎる。第一、テントでの護衛の際はひたすら背を向け努めてみないようにしていた。なので、直視したのは今回が初めてだ。
聖女の礼服は、身体のラインが判りづらいデザインで肌の露出も最小限だ。だから、ロルフは知らなかった。彼女の身体の成長具合を。それが、寝巻という薄着で晒されている。出会った頃のように子供と思うことなど、無理だ。
「ロルフじゃなかったらしないわよ。昨日は私だけ着替え済んでたから、これでおあいこでしょ」
自分だけ許されていることを喜ぶべきか、警戒されていないことを悲しむべきか、ロルフの心中は複雑だった。
アスタは、昨日の朝、寝ぼけた彼が寝巻のままだったのを恥じていたので、こちらも同じなら公平だろうと思った。彼女からすれば、袖もありスカート丈も膝まであるので、色仕掛けにもならない服装だ。なので、彼が入室に驚いただけだと判断した。よもや、ロルフに効果があるとは思いもしない。お互いの服装に対する解釈の差が、如実に表れた朝だった。
支度をするから、と彼女も着替えるよう促し、部屋から出す。階段をのぼる音を確認して、ロルフは長い溜め息を吐き出した。朝から疲れた。
「勘弁してくれ」
誰にいうでもなく、独り言ちる。座り込んで、片腕は膝におき、もう一方の腕で頭を抱えた。
ロルフは、とっくに彼女が女性だと知っている。少女が女性へ変わるのを見守ってきたのは、自分だ。いつしか、杞憂だったはずの誓約が、自分を苦しめもし、救いもした。
脅迫でしかない誓約がない今、自制するのがだいぶ辛い。
まさか、手の届かない相手だった想い人が、自分のもとに転がり込むなんて。しかも、こちらが勘違いしそうになる言動をしてくるのだ。ロルフには、堪まったものではない。
想いを告げるつもりのなかった女性だ。なのに、ふとした瞬間に口がすべりそうで怖い。
きっと彼女からすれば、兄のような存在だろう。そんな相手から想いを向けられても困らせるだけだ。彼女の婚活を応援するといった以上、いい人がみつかったときに嫁に送りださなければ。
想像してみて、そんな日が一生こなければいいのにとロルフは思ってしまった。そして、彼女の幸せを喜べないことを申し訳なく感じ、猛省する。
諦めようとしていたのに、想いが増してゆく一方だ。
アスタが花嫁修業を終えたとき、ちゃんと送りだせるか、どんどん不安になる。
とりあえず先のことより、朝食の準備に専念することにした。
彼の作ったスクランブルエッグを食べ、美味しさにアスタは笑顔になる。そんなささやかなことにも幸せを嚙みしめてしまい、どうしようもない己を自嘲するロルフだった。