35.
どうしてこうなったのだろう。
アスタは困惑していた。ロルフに多少なりとも異性として認識されていると知ってから、彼相手に緊張が増すようになったので触れるに触れれずにいた。それでも、甘え期間になると頼もしい抱擁が恋しくなるので、クマのぬいぐるみで代用を図った。一度ロルフに抱えさせることで、間接的抱擁ができる。それで当面の問題は解決したと思っていた。
なのに、なぜか毎日ロルフに抱き締められることになった。
間接的接触で済まそうとしていたはずなのに、直接接触する回数が毎日に増えてしまっている。これはどうしたことか。
ロルフの疲労回復になるというので了承したが、減らす予定の触れ合いが、以前より増えてやしないかとアスタは疑念をもつ。しかし、嫌という訳ではないので、抗議できずにいる。制御できないほど鼓動は跳ねるが、彼に触れられるのは嬉しいのだ。
晩御飯の支度を済ませると、アスタはそわそわと落ち着きがなくなる。帰ってきたら抱き締められると判っていると、どうしても緊張と期待で胸が騒ぐ。
両手を頬にあてて、表情筋が硬くなっていないか確認する。どんなに緊張していようと、疲れているであろう彼を笑顔で迎えなければ。
いつ玄関のドアが開くのかと、アスタは見つめる。凝視してしばらくして、がちゃりとドアノブが動いた。
「ロルフ、おかえりなさい……っ」
「ただいま。アスタさん」
アスタの笑顔に表情を綻ばせ、ロルフが彼女を抱き締める。アスタの頬は熱い。何度されようと彼からの抱擁に慣れる気配がなかった。
数分のそれに、アスタはじっと耐える。自分より大きな掌の感触を追うと恥ずかしくなってしまうので、なるべく意識しないように努める。
しばらくして拘束から解放された。緊張が解け安堵するとともに、彼との間にできた隙間が寂しく感じるのはどうしてだろう。
「今晩は何だ?」
玄関のドアを開けた瞬間にみえた疲労の色がロルフから消えていた。そのことにアスタは安堵する。
「グラタンを作ってみたの」
「美味そうだ」
抱擁のせいで彼を強く意識してしまうアスタは、最近晩御飯の味がよく解らない。味見のときは大丈夫だというのに。彼が美味しいというからそうなのだろう。
そうして自室に戻る頃には、鼓動の高鳴りに疲れてすぐさま眠るようになった。
翌朝もいつも通り早起きしたアスタは、ロルフが起きてくるよりまえに弁当と朝食を作り、彼が起きてきたら朝食を一緒にとる。出勤する彼を見送り、いってらっしゃいと手を振る。
ロルフがドアの向こうに消えてから、現状に危機感を覚える。
「このままじゃ、私ばっかりロルフを好きになってしまうわ……!」
どんどん相手を好きになるのが恐い。彼に好きになってもらうどころではなくなる。
見送った途端、彼の帰りを待ち望んでしまう。帰宅時の抱擁を約束してから、アスタは期待を覚えてしまった。自分ばかりが求めるようになって、彼に好かれるようにする手段を検討する余裕がなくなり、大層困っている。
何かしないと、という気持ちばかりが急いてしまう。
この家にきたとき、彼は恋人などの類いはいないといっていた。そこに偽りはないだろう。花街で酔っていたときも、好きになった相手だけを求めるといっていたので、不誠実なことはしないはずだ。けれど、自分以外に彼に想いを寄せる相手が表れる可能性がある以上、何かせずにはいられない。
十四の頃、巡礼で滞在した宿泊先でロルフが告白されているところに遭遇したことがある。王都周辺の教会では、王太子ヨキアムの眉目秀麗さが知れ渡っているので騒がれにくいが、聖女の護衛騎士というのは物語の題材になるほど女性の憧れの対象だ。ただ一人の女性に忠誠を誓い護るというのが、乙女心をくすぐる。アスタ自身、自分だけの騎士というのにときめきを覚えたから、その感覚は解る。巡礼では護衛騎士の聖女への献身ぶりがみえるので、ロルフの魅力に気付く女性がでてきやすいのだ。
そのときは、宿泊先の辺境伯の令嬢だった。想定できていたことだったが、実際に直面すると驚いてしまい、アスタは足が縫い止められたように動かなくなる。そのため、一連を立ち聞きしてしまった。
想いを告げられたロルフは、動揺した様子もなく静かにいった。
「自分は何を置いてもアスタ様を第一に動きます。それが恋人だとしても、です」
少女であっても他の女を最優先する男を許せるのか、とロルフは問う。告白した令嬢は、その宣言をきき悲壮に顔色を変えた。そうして、諦める旨を告げて去っていった。
その背を見届け嘆息するロルフをみて、これが初めてではないと気付く。断り慣れるほどに、彼に護ってほしいと憧れる女性がいるのだとアスタは知った。聖女でいる限り、彼は自分を最優先する。しかし、任期を終えて聖女じゃなくなったら? もし、聖女よりも優先したい相手が彼にできたら?
聖女を務めている間は、ロルフが誰かの想いを受け取ることは限りなくないに等しかった。それでも、彼に想いを寄せているであろう女性に気付くたび、護衛騎士を辞めないか不安になった。
彼に恋人がいないか訊くのは、この家にきたときだけではない。聖女時代も、いないでほしいと願いながら時折ロルフに訊ねた。訊ねると彼は決まってそんな相手はいないと断言してくれた。そのたびに安堵し、自分が機会を得る引退までそのままでいてほしいと願っていた。
アスタは、先日返ってきた手紙を開く。それはカロリーナからだった。
抱擁の習慣が決まってすぐ、アスタは動揺しきり、彼女に相談の手紙をすぐさま認めたのだ。手にしているのは、その返信である。
カロリーナからは、いっそ下着姿で彼のベッドに潜り込めば決着が早くつくとの助言だった。それは、いわゆる夜這いではないのだろうか。抱擁ひとつで戸惑っている自分には高度すぎやしないかと、余計困惑する。
検討に検討を重ねて、カロリーナの助言は実行しないことにする。
きっとこれをするときは、想いを諦めるときね……
花街の一件で、自分の色仕掛けでも通じると判った。だから、カロリーナの助言に従えば、一時の気の迷いだろうと彼は触れてくれることだろう。けれど、その行為に想いの有無は確認できない。ロルフが責任感を覚えて自分を娶ったとしても、それはアスタの望む家族の形ではない。
愛し愛され、その愛情をもって子どもを育みたい。
家族の愛情を知らないアスタには、それは壮大な夢だった。その相手がロルフであれば、アスタはとても嬉しい。
叶わないときは、一夜限りであっても彼に愛された思い出を求めることだろう。
アスタは、この家のドアをたたいた日のことを思い出す。あのときの自分は何もなく、何もできなかった。だが、今は洗濯に料理、掃除と生きていくために必要なことができるようになった。もう自分の足で立てる。少しは彼の役に立てるようになったはずだ。
聖女時代、十二分に彼に護ってもらった。今度は自分が彼を手助けできるようになりたい。
その決意はこの家にきたときから変わっていない。
初心を思い出すことで、アスタはいくらか冷静になれた。カロリーナが過激な助言を寄越したのも、自分に冷静さを取り戻させるためかもしれない。
手紙に目を落とし、友人がいるのはよいものだとアスタは微笑んだ。