31.
寝室でアスタが休んだ頃、ロルフは頭を冷やすためシャワーを浴びていた。湯ではなく水を頭からかぶり、猛省する。
彼女に逃げるような態度をとられたことが、想像以上に堪えていた。
これまでどうにか理性がもっていたのは、意識されるより嫌われたくないという比重が高かったからだ。彼女が安心できる関係を壊してまで、強引に手に入れようなんて勇気はない。一方で、異性としてみられていないだろう彼女の態度に不満も募っていたのだと、酒に酔ったことで気付かされた。
彼女の笑顔を守りたいのも、彼女に異性としてみられたいのも、どちらも本心だ。矛盾しているにもほどがある。
十分以上は浴び続けていただろうか。全身が冷えたことで、頭も冴えた気がする。それから、アスタがいつ起きてきてもいいよう温め直しのきく料理を作り、家のなかを念入りに掃除をしだす。何かをしていないと落ち着かないでいた。
ロルフは冷静になろうとしているものの、冷静ではなかった。
何時間かが経過し、ロルフが他に掃除するところはないか探し始めた頃、彼より軽い足音がゆっくりと降りてきた。
「んぅ……、ロルフに、ごはん……」
「飯ならできてるぞ」
寝巻のままのアスタは寝ぼけているのか、朝と勘違いし食事の支度をしようとぼやく。変な時間に寝たため、時間の感覚が奇怪しくなっているのだろう。着替えすら失念している。
無防備な寝間着姿にどぎまぎしながらも、ロルフは努めて平静に食事の支度が不要だと伝えた。
ゆっくりと瞼が開く様で、アスタの覚醒具合が知れた。開ききったところで、自分より先にロルフが起きている理由を思い出し、ようやく自身が寝巻のままであることに気付く。
恥じらったアスタは、脱衣室へ慌てて向かい、そのドアに身体を隠した。ぴょこりと顔だけだして、挨拶をする。
「おはよう? ロルフ」
アスタは、時間的に朝の挨拶でよいものか戸惑う。
「ああ。飯食えるか?」
「え、ええ……」
「なら、温め直す」
そういってロルフが台所へ向かうため、背を向ける。自分を気遣ってのことと察したアスタは、そのタイミングで部屋へ着替えに戻った。
コンロに火を点け、鍋をぐるぐるとかきまぜながら、ロルフは苦悶する。
どっちだ?
寝ぼけていたとはいえ、無防備な寝間着姿のままだったのはいつも通りに思える。だが、寝巻と気付いたあと隠そうとしたり、こちらと目を合わられず伏せて挨拶したのはこれまでとは違う。以前の彼女なら、自分の前で寝巻姿でも気にしない。意識されているのかどうかが判断しかねる。
意識されていた場合、どう対応すればいいのか決まっていない。これまで通り、彼女の安心を優先すべきか。しかし、これを機に危機感を本人にもってもらいたくもある。昨夜の一件のせいで、これまで以上に欲情しそうで自分が一番危険だ。己の自制心だけでは心許ないので、彼女にも自身を守ってもらいたい。
どちらなのかは、食事にありつけたときに判った。彼女と目が合わない。
いつもなら朗らかな空気での食事が、ほのかな緊張感を帯びている。まったく視線が合わない訳ではないのだが、合うと弾かれたように外されてしまう。戸惑いを隠せないアスタが、ロルフには愛らしく映る。そういえば、昨夜の戸惑いっぷりも堪らなかった。顔を真っ赤にして、弱って潤む瞳もあがる声も可愛くて、全身で自分を意識しているのをもっとみたくなる。
ばちん、と平手の勢いでロルフは顔を両手で覆った。彼の突飛な行動に、アスタはびっくりする。
「ロルフ? 大丈夫?」
全然大丈夫じゃない。痛くないかと気遣うアスタに申し訳なくなる。食事中に盛ってどうする。
顔を覆ったままテーブルに肘をつき自己嫌悪するロルフをみて、二日酔いにでもなったのかとアスタは心配する。どうにか気を持ち直して、ロルフは二日酔いではない旨を伝えた。彼女の安堵した笑みに、優しくされることもおこがましい身だと罪悪感が滲んだ。
彼も彼でいっぱいいっぱいなため、余裕なく、アスタの挙動不審をフォローしきるに至らない。その日の遅めの昼食は、ぎこちない会話が思い出したようにあるだけだった。
食べ終わり食器を片付ける。ロルフがまとめた食器を持ちあげ、台所へ向かうとき、思わず嘆息が零れる。今後が不安だ。主に自分が。
彼の溜め息をどう受け取ったのか、アスタは彼の服の裾をつまんだ。
ささやかな引力に気付いて、進行を止めたロルフは何かと振り返ろうとしたが、彼女の額がとん、と背中に当てられ視線が合わないようにされる。
「そのままで、お願い……っ」
「ハイ」
振り返らないように乞われ、ロルフは食器を持ったまま身動きがとれなくなる。
「あの、あのね……? 私、変だと思うんだけど、ロルフが嫌なんじゃないの。ただロルフにどきどきしちゃうだけで……!」
それを正直に申告してくるのか。彼女の素直さに、ロルフは噎せそうになる。彼女はいたって大真面目なので、咳をするのは堪えた。
アスタは自身の態度が悪く、彼に与えただろう誤解を解きたくて懸命だ。意識されていないからと思ってできた態度も、もうとれない。かといって、どういう態度をとれば正解かも判らないのだ。緊張が原因の態度だと説明するのすら、目をみていえない。
「だから、嫌いにならないで、ほしい、わ……」
態度が悪いのに虫のいい話だ。今だって目を合わせて頼めていないのに。返事を待つ間、アスタの緊張に不安が混じってゆく。
「わかった」
ロルフの了承を得て、アスタはぱっと表情を明るくする。最大の不安要素が除かれて安堵する。好きになってもらう努力も、嫌われてはしようがない。努力の余地ができて、アスタは喜んだ。
「私、頑張るわね」
緊張しないようにするのが無理でも、きっと落としどころがあるはずだ。今まで通りができないなら、それを模索するしかない。方向性も定まってはいなかったが、アスタは意欲だけは表明した。
彼女が背後で喜ぶ気配がするが、ロルフは戦々恐々としていた。彼女の一挙一動が恐い。アスタが可愛すぎて、食器を落とすところだった。
できれば頑張らないでほしいと思うロルフだった。