30.
かすかに差す朝の陽射しが、ちょうど瞼裏を刺す。
「う……っ」
時間の感覚がなくなるよう外の明かりを遮断した室内で、そのわずかな洩れが刺激となる。重く感じる頭を起こし、手探りで手を伸ばすとランプのスイッチの紐にいきあたる。チェーン紐のスイッチを引くと、近くが明るくなったのを感じる。しかし、家に紐スイッチのランプなんてあっただろうか。
瞼をあげて、ぼんやりとした視界の焦点が合うのをまつ。
ようやく視界がクリアになったら、目の前に真っ赤な顔のアスタが固まっていた。遠い異国のドレスを身に着け、寝て崩れた髪の乱れ方が妙に扇情的だ。
知らない部屋のベッドで横になり好きな女性が腕のなかにいる。理解しがたい状況に、ロルフも硬直した。
ちなみにアスタは一睡もしていない。時間の延長を頼んだあと、眠そうなロルフをベッドに誘導できたところまではよかったのだが、眠っても彼の腕が外れなかったのだ。抱き締められた状態では、彼の触り方を思い出してしまい緊張して仕方なかった。
「…………っも、もう、いい……かしら?」
いっぱいいっぱいな状態のアスタの弱りきった表情を目の当たりにして、ロルフは覚醒し、すぐさま飛び退いた。
「すまない!!」
「いいのよ。ロルフも酔っていたんだし」
自分のせいだというのに、疲弊して弱った微笑に色香を感じてしまい、もうダメだと思った。酔って覚えていないだろうと気遣ってくれるアスタには悪いが、しっかり覚えている。睡魔が迫る直前までの自分の行動を振り返ると、地中深くへ埋まりたくなる。
項や背中、脚など覗く肌が扇情的だったことはもちろんだが、自身の腕のなかで意識して赤くする様子が堪らなかった。それで独占欲を丸出しにするなんて。自身の自制心の脆さを実感した。そして、ベッドで乱れ髪のアスタがいる今も目の毒だ。
酔いで睡魔が襲ってよかったと思う。でなかったら……
「娼館で一晩過ごして童貞を捨ててない男なんて、初めて見たわ」
アスタたちの起床を知らされたカロリーナが、就寝前に挨拶にきた。彼女の楽しげな視線に、ロルフはつい恨みがましい視線を返してしまう。彼女は金銭分の働きをしただけで、アスタが望んだことではあるので責めるべきではない。だが、状況を楽しむ余裕があるのが癇に障った。
いくらかの水をもらい煽ったあと、頭を覚ますため手洗いで顔を洗う。ロルフがそうして席を外している間に、アスタはドレスからもとの私服に着替えていた。見慣れた姿にロルフは安堵する。
見送りの段になると、カロリーナは手提げのついた大きめの紙袋をアスタに渡した。
「似合ってたから、あげるわ」
中身を確認すると、トンインの赤いドレスだった。生地の質といい、金銀の豪奢な刺繍といい、高価なはずだ。
「嬉しいけれど、お金はちゃんと」
払う、といおうとした口元に人差し指を当てられ、発言が封じられる。カロリーナはぱちり、と片目を瞑って笑った。
「友達価格でタダにしてあげる」
「と、友達……っ」
友人と認められ、アスタは喜びに頬を染める。傅かれる存在だったアスタには、これまで対等な相手という者がいなかった。同性ならなおさらだ。初めてできた友人という存在に、彼女は感激しきりである。
彼女の最初の友人が娼婦でいいのか、とロルフは思ったが、その考え方自体失礼だと思い直す。それでも、経験豊富なカロリーナから彼女が余計な知識を得ないかは心配であった。
またくるというアスタに、通うような場所じゃないとカロリーナの方が止める。今後は手紙でやりとりをする約束を交わした。文通友達ができて、アスタは嬉しさに頬を紅潮させる。その愛らしさにロルフは、誰であっても彼女が認めた相手ならいいかと思ってしまう。
娼婦と親しくすることをロルフが咎めるかと予想していたので、カロリーナは横やりが入らないことが意外だった。
「あら、文句を言われるかと思ったのに」
「ロルフは優しいから」
彼なりの価値観はあることだろうが、自分の考えを尊重してくれるところがある。基本的にアスタがしたいといったことに、懸念点をあげはするが、最終的にはいつも協力してくれるのだ。
その優しさに浸かって、花嫁修業を卒業したときに離れがたくならないか心配なぐらいだ。
アスタの感想をきき、カロリーナは彼女の思い違いに気付いた。
「アスタ、聖女じゃなくなったんだから、大事なこと教えてあげるわ」
「なぁに?」
カロリーナはそっと耳元に囁きかける。
「男が女に優しくするときは、大抵下心があるのよ」
人の善性に触れやすい環境にいたアスタとて、純真な善意であることが少ないとは解っていたつもりだった。しかし、ロルフの下心とは一体なんなのか。下心、ときいて、昨夜背中に感じた感触を思い出し、アスタは頬を熱くする。
アスタの反応に、何を耳打ちされたのか気になったロルフだが、昨夜のような女性の裏舞台の内容だった場合正直に教えられても困る。気になりはするものの、訊くに訊けなかった。
花街から朝帰りした二人は、なんだか気恥ずかしい空気をともなって帰路に就いたのだった。
家に入ると、街の人の気配もなくなり二人だけの空間になる。それが当たり前だったはずなのに、妙に意識して、互いに沈黙してしまう。
沈黙に耐えられず、アスタは努めて明るい声音をだす。
「ロルフ、おかえりなさいっ」
「あ、ああ。ただいま。アスタさんもおかえり」
「た、ただいま……っ」
会話が終わってしまった。話題を探して、無意識にドレスの入った紙袋を抱える力が籠る。カサ、とささやかな音に、ロルフが紙袋を見下ろす。
「それ」
「あ……、やっぱり変だったかしら」
ロルフはドレスの処遇を訊ねるつもりだったが、アスタは似合わないと思われたのかと受け止めた。何も感想はなかったし、彼は怒っているようだった。自分としては、カロリーナに施された化粧や髪型含めて割と気に入っていたのだが。異国のデザインはロルフには馴染みにくいものだったのかもしれない。
彼女を悲しませたくないロルフは、与えた誤解を解くことを優先した。
「……綺麗だった」
「え」
「アスタさんはもともと綺麗だが、他の奴に見せたくないぐらいに綺麗だった」
ロルフが自分の外見をどう思っているか、これまできいたことがなかった。日頃の評価含めて称賛を受け、アスタの頬が嬉しさに染まってゆく。
「じゃあ、ロルフにしか見せないわ」
嬉しかったので、照れながらもアスタはそう答えた。
そうしてはた、と互いに気がかりが生じる。他の者にみせたくないとは、どういう心境からの言葉なのか。自分にしかみせないというのは、意味を解っていっているのか。
どういう意味か、訊けばいいだけのこと。しかし、相手の言葉に鼓動が騒ぎ、冷静に訊ねられる気がしない。
「私、知らない場所でよく眠れなかったから、寝直すわね……!」
逆に酒でよく眠ってしまったロルフには、彼女が自室に戻るのをとめられない。野営でもアスタが熟睡していたと知っていても。彼女の寝不足が自分が拘束していたせいなら、申し訳ない限りだ。
自業自得とはいえ、彼女の逃げるような様子にロルフは嘆息を零す。意識されるようになるのは喜ばしい半面、今後怯えられ避けられたらどうしようと不安も過るのだった。
アスタは、もらったドレスを大事にクローゼットにしまい、寝巻に着替える。一人になったことで緊張の糸が切れ、ベッドへぼふりと身を投げだした。
ロルフのことは出逢った頃から、ずっと異性だと意識していた。けれど、彼に異性として意識してもらうとなると、途端に混乱する。彼の優しさは、聖女という肩書きをとったら何もない自分への同情からくるものだとばかり思っていたのだ。カロリーナの助言通りなら、彼の下心とはなんだろう。昨夜の眼差しや掌は、妹に向けるようなものではない。あのとき向けられた眼差しや掌の触れ方を思いだすと、肌が粟立つ。
自分は期待していいのだろうか。
膨らんだ期待の芽がほどけてゆくのとは反対に、身体は疲労で微睡みへ沈んでいった。