03.
アスタに宛がわれた部屋は、三階の空き部屋だった。
使い道に困った家具などがしまわれた、半分倉庫のような扱いだった部屋だ。ロルフは、窓を開けて積もった埃を払い、最低限の掃除をした。窓辺に大きなソファがあり、今夜はそこをベッド代わりにしてほしいと、申し訳なさげに言われたが、アスタは楽しそうだと了承した。
ロルフの家には、客室などない。寝具については、明日買いに行くことになった。任期をまっとうしたアスタには退職金があるので、彼に負担させることはない。運ぶのに、男手で助けてもらう必要はあるが。
不要な家具の移動や、寝具以外の必要なものの買い出しは順次行っていくことで話がつく。自分は掃除で埃っぽいから、とアスタは風呂の順番を譲られた。
「そういえば、ちょうどいいから切ろうかしら」
浴室に向かいがてら、腰を過ぎた長い髪を持ち上げてアスタがいうものだから、ロルフは固まった。
「待……っ!!」
「だって、街にはこんなに長くしている人いなかったわよ? 私だけじゃ手入れも追いつかないでしょうし」
まっすぐに伸びたアスタの髪は、下ろしていると太腿の裏に毛先が届くほどある。聖女ゆえに伸ばされていたそれは、侍女たちがいたから保てたものだ。
彼女の言い分は解るが、ロルフは肯けずにいた。
「乾かすのとか、手伝うから、そのままで……っ」
三つ編みにしてまとめるぐらいなら、男の自分でもできなくはないはずだと、ロルフは手入れの補助を申し出る。食い下がってまで、髪の長さの維持を乞われ、アスタは不思議がる。
「どうしてそこまで??」
純粋な問いかけに怯みながらも、ロルフはぼそり、と打ち明けた。
「もったいないだろ……、綺麗なのに」
護衛をしていると、彼女の背後にいることが多く、よく空が滲んだような色の髪が揺れるのを眼にしていた。それが彼の目の保養だったのだ。こんなことを本人に打ち明ける日がくるとは思わなかった。とても気恥ずかしい。
頬が熱を帯びている気がして、ロルフは手で覆って隠す。
だが、そんな彼よりもアスタの頬に差した朱の方が強かった。
「そ、そう、ロルフがそう言うなら……」
自身の髪をいじりながら、アスタは現状維持を了承した。互いに相手の顔をみれずに、なんともいえない空気が流れる。それに耐えかねたアスタが、当初の目的の入浴にいくことでその空気は打破された。
その場に残されたロルフは、前途多難さに長い溜め息を吐いた。他に物音をたてる者もいないため、脱衣所からの音がかすかに聴こえてくる。護衛業をしていたため、ロルフは目や耳がいい。彼女がいることを強く意識しているせいもあるだろう。
聴いている訳にはいかないと、三階の部屋の家具をもう少し片付けることにする。それだけ遠退けば、さすがに聴こえないだろう。
「ラジオかミュージックボックスか何か買わないとな」
音を相殺するものがないと、これからやっていけない。彼女の前では吐けない溜め息をまた吐く。頷いたもののの、これからやっていけるか不安でしかなかった。
アスタの入浴後、彼女の髪を乾かす手伝いをしてからロルフも入浴を済ませる。それから、ありあわせの食材で作った晩飯をアスタは美味しそうに食べた。
会食などの機会以外で誰かと向かい合って食べる食事は初めてだ。これまでは頼んでも頑として断られたロルフが目の前にいる。アスタにはそれが嬉しかった。もう彼は自分の背後に控えることがないのだから。
そんな彼女の笑みにつられて、ロルフも知らず口元が緩むのだった。
宵闇が空に満たされた頃合いに、互いに就寝することになる。ロルフの寝室は二階のため、階段で夜の挨拶を交わす。
「おやすみなさい、ロルフ」
「はい、おやすみなさい」
たんたん、と階段をあがり、今日から自分の寝室となる部屋に入る。そうして、ぱたん、とドアが閉まる音がした途端、アスタはその場に屈みこんだ。
膝を抱え、そのなかに顔を埋める。長い髪が床に散らばるが構っていられない。夜の静寂に満たされた寝室で、自身の心臓の音だけが大きく響いているような錯覚を覚える。どくどくと強く脈打つのに比例して、アスタの顔は今とても熱い。
「…………勇気だして、よかったぁ」
安堵いっぱいの吐息が吐き出される。
本当はこの家のドアをたたくのにだって、何度も深呼吸を要した。隣の八百屋の店主には不思議に思われたことだろう。
聖女の務めで表面だけでも取り繕う術を身に着けておいてよかった。公を前にする儀式や、身分の高い者たちとの会食で、どんなに緊張していてもアスタは微笑みで覆うことができる。それでも、ロルフを前に平素通りではいられないので、どこまで平静を装えていたか定かではないが。少なくとも、自分の本当の目論見はバレていないはずだ。
アスタだって、独居男性の家に住み込みを頼むことが大胆なことだと理解している。だが、多少無理がある理由付けでもないとロルフとの縁は切れてしまう。護衛騎士である彼が、聖女でない者を護るいわれはないのだから。
ロルフが護衛騎士として自分に就いたのは、十二のとき。聖女就任と同時だった。聖女の証である聖痕を、先代から引き継ぐ儀式のあと、彼から忠誠を誓われた。
自身の身命を賭してあなたを護る、という形式通りの誓い。
宣誓の定型文だと解っていても、アスタはときめいた。自分だけの騎士に、乙女であった彼女は少なくない憧れがあったのだ。それから、自分第一に護られ、優しく気遣われれば、職務の一環と理解していても彼に惹かれるしかなかった。少女の頃から知っている彼からすれば、きっとよくて妹程度かもしれない。それでもいい。
聖女ではない自分で、一度でいいから彼と向き合いたい。
アスタの願いはそれだけだった。一人では何もできない自分が、彼に好かれるなんて思っていない。異性としてみてもらえるかも怪しい。だから、せめて彼にお世辞だとしても、お嫁にしたいぐらいの女性になったといってもらいたい。
花嫁修業先を彼にしたのは、そんな理由だった。
最初で最後のチャンスだと、振り絞った勇気が無駄にならなくてよかった。アスタは、彼の情け深さに感謝する。
ともに暮らしてゆけば、護衛でない彼を知れる。平素の彼を知ることで幻滅するかもしれないし、自分も彼に幻滅されることがあるかもしれない。それでいいのだ。幻滅してこの想いが砕けることがあってもいい、聖女ではない自分が嫌われてもいい。きっとそれぐらいの方が、抱えた想いに決着がつけられる。
聖女と護衛の主従関係では踏み込めなかった、彼の素。それを知ってゆけるのかと思うと、明日がとても楽しみだ。
始まった新しい関係に胸を躍らせ、アスタは窓の外の星を瞳に映しながら微睡みが訪れるのを待つのだった。