29.
どきばくと鼓動が煩くて、思考がまとまらない。アスタは混乱の極致にいた。
色仕掛けを覚えたいと希望したのは自分だ。本人にはいっていないが、色仕掛けしたい相手はロルフだった。少しぐらい自分のようにどきどきしてくれれば、と期待したのだ。
なのに、まさか抱き締められるとはきいていない。
彼の名前を呼ぼうとするも、はくはくと声にならない。それに、声にだせたとして、何を話せばいいのか。ロルフの腕の力が緩む気配なく、強まっている気がするのは気のせいだろうか。
「大体、アスタさんは危なっかしすぎる……、俺の前でこんな……」
「ひゃぅ!?」
熱い掌が晒された背中のうえを辿り、変な声がでた。色気もへったくれもない自身の声に、羞恥が湧く。急ごしらえした格好では中身までついてこないということか。
直に肌に触れられ、掌の感触を追ってしまう。神経すべてが背中に集中しているかようだ。
「俺が男だって分かってるか?」
疑問というよりいい聞かせるような声音に、アスタはこくこくと頷く。さきほどの男に向けたような怒気は潜んでいるのに、叱られてるような気分になるのはなぜなのか。
自分からこの胸に身を預けるときは頼もしさに安らぎを覚えるのに、彼の方からだと心臓が今にも壊れそうだ。
「盛り上がるのは結構だけど、部屋のなかでしてくれない?」
「カロリーナさぁん……っ」
このままどうなるのかと混乱しきっていたアスタは、呼びにきてくれたカロリーナの存在に救われる。ロルフの様子が変なのだと申告すると、色仕掛けが成功してよかったではないかといわれた。こんな心臓に悪い成功の仕方は困る。
カロリーナの指摘をどう受け止めたのか、ロルフはアスタを離さないまま元の部屋へ戻る。そして、自身の脚の間にアスタが収まるように座り、後ろ抱き状態でソファに落ち着いた。テーブルにある酒瓶がほとんど空になっているのを目にして、アスタは彼が酔っている可能性に気付く。
「ロ、ロルフ、この体勢は……」
腰に回った彼の腕が固定されて外れそうにない。
「こうしないとアスタさんの背中が見える」
どうやら彼は、晒されたアスタの肌を隠したいらしい。頑として譲らない様子に、アスタは弱りきる。ロルフの隠し方は、とても落ち着かない。
「面白いぐらいあなたしか眼中にないわね」
ころころと可笑しがるカロリーナが正面に座る。助けてほしいと願いでるも、無理だと断られてしまう。カロリーナの護衛よりもロルフの方が強いため、助けようがないのだ。それに、助けようにもアスタに近付こうとしていると思われ、ロルフが殺気立つと容易に予想できた。
そして、帰るにしても彼の酔いが醒めないことには帰れない。アスタは身動きできない現状に甘んじるしかなかった。
気を紛らわそうと、カロリーナと会話に興じることにする。ちょうどさきほど気になったことがあったのだ。
「年増の処女は面倒だって聞いたのだけど、本当?」
「あぁ、うちにくるタイプの男はそういうのが多いから。慣れた相手に童貞捨てる方が気が楽なのよ。水揚げしたいなら、伝手は融通してあげるわよ」
新人の水揚げを店側から依頼される経験豊富な上客もいれば、処女を捨てるために女性の間で秘密裡に信頼を得ている男娼の店もある。女性にとって初めては痛みが伴いやすく恐いものだ。いくら好いた相手だろうと初心者だった場合、こちらを気遣ってもらえない可能性が懸念点となる。初めてこそ丁寧に優しく扱われたい女性は、あえて手心知れた男娼に相手になってもらい、本来の相手には破瓜の偽装をする。
そういうこともあるのかと、アスタは新鮮な驚きをもつ。初めてを捨てて本番に臨みたいと考えるのは、理由は異なれど男女ともにありえる思考のようだ。
カロリーナの最後の提案には、アスタより先にロルフが答えた。
「絶対ダメだ!!」
抱く力が強まったため、ロルフと密着する面積が増え、アスタの顔は赤くなる。
「えと……、ロルフは経験のない適齢期をすぎた女性って、どう思う……?」
酔っているときに訊くのは卑怯かもしれないが、彼に面倒がられるのは嫌だ。アスタは恐る恐る、後ろに訊ねる。
「好きな女としかしたくないのに、面倒になるか」
「そう……、ロルフに好きになってもらえる女性は幸せね」
問題視しないというロルフの断言に、アスタは羨ましくなってしゅんとなる。カロリーナはこの状況でどうして落ち込む要素があるのか、甚だ不思議だ。どこをどうみても、腕の中に囲っているのが好きな相手だろう。
「で。どうするの?」
水揚げの手助けがいるのか再確認され、アスタは言葉を探る。
「きっと好きな男性でも、初めてって恐いものよね……、誰が相手でも恐くて痛いなら、好きな相手とがいいわ」
「いいんじゃない? そういうのも」
選択肢があるのなら望むものを選べばいいとカロリーナは思う。
娼婦には選択肢がほとんどないが、この娼館はまだ選ぶ余地ぐらいは用意されている。自身で選んだ相手である方が覚悟が決まりやすい。支配人の配慮なのだろう。世間からみれば歪んだ関係なのだろうが、支配人は親のような存在なのだ。
アスタの浮かべる笑みは、叶わぬ願いを口にしているそれだった。真実を今伝えるのは簡単だが、慰めと受け取る可能性もある。だって、カロリーナは彼女に買われた存在なのだ。
だから、返す微笑みに祈りをのせる。彼女が傍にある幸福に気付けるように。きっと望みが叶った彼女の笑顔は格別だろう。
「--それで、そこの旦那寝そうだけど」
カロリーナは、醒めるどころか瞼を重そうにするロルフを指した。アスタは苦笑を零す。
「延長、お願いできるかしら」
結局、一晩買うことになった。