28.
衝立の向こうから、途切れ途切れに布擦れの音がする。
「下着まで着替えるの……!?」
「そうよ。見えないからって油断せず、いつ勝負時がきてもいいようにしないと。ついでに、形が綺麗に見える付け方を教えてあげるわ」
「何から何まで、ありがとう……!」
アスタは感激しているようだが、同じ部屋で待機させられているロルフは堪ったものではない。女性の裏舞台の話をきかせないでもらいたい。アスタの方は野営のテント越しと同じ感覚でいるのだろうが、カロリーナは絶対に解ってやっている。衝立に消えるまえ、こちら側に可笑しげな視線を向けたから確信犯であることは確定だ。
何の拷問だ、これは。家のようにラジオで誤魔化すこともできず、手持ち無沙汰なロルフは酒を煽る。素面ではこの空間と状況に耐えられない。
「さすがに、衝立一枚だけで着替えるのは恥ずかしいものね……」
みえないとはいえ、異性が近くにいる状態で着替えることにアスタは緊張を覚える。カロリーナが配慮して、護衛の男性は部屋の外にやってはくれたが、付き添いのロルフはいるのだ。まぁ、彼がいるからこその衝立なのだが。
「あら、こういう音だけって効果的なのよ。見えないからこそ煽れるの」
カロリーナのいう通り、現在想像を駆り立てられて苦悩している男がここに一人いる。彼女の教えに感心しているアスタは、すでに効果を発揮していることに気付いていない。
色仕掛けにちょうどいいものがあると、アスタは着替えさせられている。そういうからには布面積が少ない衣装なのかと思いきや、スカート部分の丈が足首まであり彼女は気負わずに着ることができた。髪型もいじられ、カロリーナに化粧を施されて完成だ。
何杯目かの酒をグラスに注ごうとしていたロルフは、衝立からでてきた彼女の姿にごとん、と酒瓶を落とした。持ち上げかけていただけなので、酒瓶は無事だ。
「えと……、ロルフ、どうかしら……?」
初めて着る系統の衣装で、自身では似合うかどうか判らない。所在なさげな瞳でアスタは問うが、ロルフからは一向に返答がない。彼は呆然と彼女を見つめていた。
「東の方にあるトンインって国から流れてきたドレスなの。身体のラインが分かっていいのよ。それにこのスリットが色っぽいでしょ」
「そういうものなの?」
首を傾げたアスタが、スリット具合を確認するために足を動かす。すると、太股まで彼女の脚が覗いた。足のラインが際立つほどタイトなスカートのドレスだが、このスリットがあるおかげで動きやすい。
「分かってないわねぇ。最初から全部だすより、ちらつくぐらいの方がそそるのよ」
鎖骨が覗く窓もそうだ、とカロリーナは人差し指でとんと突く。襟も首元でしっかりととめる形状で、袖なしドレスのため露出しているのは肩ぐらいかとアスタは感じていた。胸元までみえる訳ではない小窓にも効果があるとは、色気というのは奥が深い。
長い髪は高い位置で結わえられ、お団子を作っていた。動きが判るよう一房だけ肩甲骨までの長さで降ろされている。だから、首を覆う襟があっても項が覗く髪型だった。体型がくっきりでるドレスは紅い布地に金銀の刺繍が施され、この国ではみない八重の大輪の花が咲き誇っている。また、前面は布地がしっかりあるが、背中は広く開いていた。下着を着替える必要があったのはこのためだ。通常の下着では背面の留め具がみえてしまう。
アスタは身体を捻って確認しようとするが、自身では背中の開き具合が判らない。だが、彼女の動きでロルフには普段陽に晒されない白い背中が目に入る。
「常連客もいるからマンネリ防止に、こうして普段と違う格好をして趣向を変えるの。恋人や夫婦も、似たようなものでしょ」
娼館からすると経営努力も、夫婦においては関係を持続させるためのコツになる。気分転換も時には大事なのだと、アスタは勉強になった。普段しない髪型や服装に戸惑いはしたが、確かに心浮き立つものがある。たまにはこういうのもいいかもしれない。
「ロルフ? 変じゃない? その……何か、言ってほしいわ……」
ただ気になるのは、ロルフが何も感想をいわないことだ。ずっと視線だけが向けられるから、なんだか肌に視線が刺さるようで気恥ずかしくなってくる。
カロリーナに見惚れられているのだと教えてもらい、アスタはさらに頬を熱くした。外されない視線がその証明のようで、沈黙の分だけじわじわと熱くなってゆく。視線が嫌ではないのに、逃げだしたい衝動が湧くのはなぜだろう。
「お手洗いを借りてもいいかしら!?」
「でて右の突き当りよ」
ロルフの視線に耐えられなくなったアスタは、席を立つ理由を作り一度部屋から飛び出した。
顔が熱いので水で冷やしたかったのだが、鏡をみて施された化粧を落とす訳にはいかないとアスタは諦める。せめて流水に触れていたくて、本当に手を洗った。
彼の目に、どう映ったのだろう。妹のような庇護対象から脱却できたならいいが。食い入るような眼差しが嬉しかったと知られたら、彼に軽蔑されるだろうか。
頬は熱いままだが、流水で少し気分は落ち着いた。アスタは、手洗いをでて、きた道を戻る。すると、ゆらりとした動きの男性とすれ違いかけた。彼も手洗いにいこうとしていたのかもしれない。
しかし、男はアスタに目を止める。
「あれ? 新しいコ入ったんだ」
「いえ、私は客で……」
「そんなカッコして、分かりやすい嘘つかなくてもいいよ」
女性が客であることが珍しい店に娼婦と同じ扇情的な服装をした女性がいても、言葉通りに信じにくい。そのうえ、男はいささか酒気を帯びているようだった。アスタの言い分を正しく理解できていない。
「本当です。こういうお店にきたのも、今日が初めてで」
「え。キミ、二十歳かそこらでしょ? なのに、まだ処女? それは面倒だなぁ」
「めん、どう……?」
「だって、年増の処女なんて固くなるばかりでなんの面白味も」
かみ合わない会話のなかで聞き逃せない情報をきき、呆然とするアスタの目の前で力強い手が伸び頭部を掴まれた男が持ち上がった。肩を引かれ、アスタはもう一方の腕に隠すように抱えられる。
「彼女に何か?」
地を這うような怒気が籠った声だった。彼をよく知るアスタでも、一瞬びくついてしまった。
頭部だけで持ち上げられた男は、掴まれた指の間からロルフと目が合う。据わった目に射すくめられて男は怯え、状況も解らないまま謝罪の言葉をひたすらにくり返した。このままだと殺されかねないと本能で恐怖したのだ。
「大丈夫よ、誤解されただけだから。もう解けたわ」
アスタが安心させるように微笑むと、ロルフは無言のまま手を離した。もちろん男は落下し、しりもちをつく。男が顔をあげると、殺気立った眼差しが消えろ、と指示していた。彼の怒気に腰を抜かした男は、四つん這いになりながらも慌てて自分に宛がわれた客室へと消えていった。
「ありがとう、ロルフ」
助けられた礼をアスタが口にするも、ロルフの腕の拘束が解かれることはない。
「ロルフ……?」
反応がないロルフを見上げると、静かに見下ろされていた。
「……こんな姿のアスタさんを、誰にも見せたくないのに」
後悔や怒りがないまぜになった瞳にアスタが動けずにいると、抱き竦められてしまう。言葉通り、隠すように。
いつにないロルフの行動に、アスタは目を白黒させる。一体、彼はどうしたというのか。騒ぐ心臓に声もでない。
彼女は知らなかった。自分が着替えている間に、ロルフが結構な量の酒を空けていたことを。