23.
ロルフが職務復帰してから一ヵ月。
仕事にも慣れ、ロルフの心も平穏を取り戻しつつあり、どうにか二度目のアスタ甘え期間を乗り切ったあとのことだった。甘え期間だけは慣れる気がしないと思っていたら、アスタが深刻な表情でいいだした。
「大変だわ」
「どうした?」
「ロルフにも甘え期間を作らないと……!」
何事かと構えていたロルフは思いきり肩透かしを食らった。一体何をいいだすのかと思ったら。
しかし、アスタは大真面目である。自分が三日間甘えられる分、ロルフにも同様の日数分甘える権利があってしかるべきである。でないと不公平だ。それに、彼は働いていているのだ。どんなに体力があっても、疲れることもあるだろう。
彼女の主張もそれなりに正当性があるように思えるが、ロルフからすれば彼女が笑顔でおかえりなさいと迎えてくれるだけで癒されているし、いってらっしゃいと見送ってくれるからその日一日頑張れるのだ。一人暮らしの頃と違い、勤務日に自分で食事を作る手間もない。疲れて帰ってから、自分のためだけに食事を作る、というは必要だと理解していても億劫に感じることもある。花嫁修業をするアスタの存在は、かなり助かっている。ロルフからすれば、充分甘えさせてもらっているようなものだ。
「アスタさん、俺は別に……」
「ダメよっ、ロルフだってちゃんと甘えるべきだわ」
すでに事足りていることをどう伝えるべきか、ロルフは悩む。本気で感謝しているのだが、これは一人暮らしを経験した者にしか解らないありがたみだ。
頷こうとしないロルフに、頑として譲らない姿勢だったアスタは意気消沈する。
「ロルフは、私にしてほしいことない……?」
しょんぼりと見上げられて、ロルフは別の意味で言葉に詰まる。欲望では、してほしいことだらけに決まっている。不用意な発言はやめてほしい。
「その言い方は」
別の意味に捉えられかねないから使わない方がいい、といいたかったが、アスタの悲しげな瞳を真っ向からみると駄目だった。表現の訂正以前に、彼女は真剣に自分を気遣ってくれている。
アスタからすれば、自分に頼り甲斐がないのだと落ち込むばかりだ。自分が甘えるばかりで、何もできないのは辛い。家事を手伝うのは、自身の技術向上のためにしていることなので、甘え期間の分の代償にはあたらない。そちらで役に立っていても、単に成果を認められているだけだ。
何かないのか、と縋る眼差しを向けて五分経ち、十分経ち、ロルフがどうにか絞り出した。
「……あるには、ある」
正直にいうしかない、とロルフは観念する。あるときいた瞬間、アスタの表情がぱぁと輝くものだから、彼はもう逃げられない。
「じゃあ」
ロルフは、掌を彼女の眼前に向けて、待ったをかける。
「週末まで待ってくれ。心の準備をするから」
なぜ甘えるのに心の準備が必要なのか。首を傾げながらも、アスタは了承し週末を待った。
そして迎えた週末。昼下がりに、アスタはソファの端にゆったりと腰かけていた。
「それじゃ、失礼します」
「ふふ、どうぞ」
緊張した面持ちで敬語になるロルフに、アスタは可笑しそうに笑って促す。これから甘えるというには、力みすぎている。
若干ぎくしゃくとしながら彼はソファに横になり、頭をアスタの膝に預けた。重さを与えないよう、身を固くする彼の額にやさしく手を当てて、アスタは微笑みかける。
「大丈夫だから。ね?」
当てた掌で押され、ロルフの後頭部が彼女の太腿に埋まる。力を抜いていいといわれても、やわらかな感触にロルフはどうしても緊張する。いってみたものの、膝枕など同居人でしかない自分には贅沢すぎないだろうか。彼はもう言葉もない。
さすが元聖女というべきか、あたたかな陽光のように慈愛の微笑みが降る。今はこの微笑みが自分だけに向いているのだ。
「そういえば、聖歌以外も知っていたのよ。私」
そうして、アスタは聖女の頃から唯一聖歌以外で覚えている歌を歌いだす。眠りに誘うように、やさしく頭を撫でる手とともに降るそれは、子守歌だ。聖女巡業の際、孤児院訪問もすることがあった。子どもと接するのが好きな彼女は、遊び疲れた子どもたちによく子守唄を歌って休ませていた。
まさか自分に子守歌を歌われる日がくるとは。幼子のような扱いを受けて恥ずかしいという気持ちはなく、ロルフには降り注ぐ慈愛が心地よい。徐々に身体の緊張がほぐれてゆく。
アスタの歌声に身をゆだねていると、今だけは思考を放棄していい気がしてしまう。本気で昼寝をするつもりのなかったロルフだが、ゆるやかに瞼が落ちていった。
ロルフが寝入ったのを確認して、アスタは微笑む。力の抜けた寝顔に安堵する。自分でも彼に一時の安らぎを与えることができるのだと。
「いつもお疲れさま」
労りをもって彼の頭を撫でる。膝にかかる重みが信頼の証のようで、心地よい。甘えさせるのが目的だというのに、自分まで癒されている。
ただの人の自分を頼りにしてもらえて嬉しい。聖女でなくなっても、彼が自分を瞳に映してくれるのが、とても光栄なことに思える。
彼のなかの自分の価値がどれくらいかは判らないが、確かに自分は存在するのだ。
感謝を込めて、アスタは囁く。
「おやすみ、ロルフ」
どうか彼の視る夢が安らかであるように、と彼女は祈るのだった。