20.
早い鼓動の音、きっとこれは自分の鼓動だ。だから、相手の鼓動が聴こえない。
血の気が下がっていても、心臓だけは騒がしいなんて。そんな事実に可笑しさを覚えながら、アスタは瞼の重みに従った。相手の心音もこれぐらいだったらいいのにと願いながら……
ロルフの腕のなかにいたので、アスタはあたたかさを感じながら昼寝から目を覚ました。
「おはよう、ロルフ」
「オハヨウゴザイマス」
寝ぼけ眼で笑むと、ロルフは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。しかも、なぜか片言で敬語になっている。自分はそんなに変な寝顔だったのだろうか、とアスタはぺたぺたと顔を触って確認する。そうして、涎を垂らしていたのではないかという危惧にいたったが、すぐさまそんなことはなかったと彼が否定してくれた。
アスタが起きたことで、自由になったロルフは停滞していた家事に取りかかった。彼女はといえば、そんな彼にてぽてぽ、とひよこのようについていき、作業中は少し離れたところで眺めて終わるのを待っていた。
彼女がついてくる気配が判るので、ロルフはつい歩調をゆるやかにしてしまう。ロルフが三歩進むと、アスタも三歩歩く。彼が足を止めると、背後の彼女もぴたりと止まる。
「……アスタさん」
「なぁに?」
「退屈しないのか?」
「全然」
なら、そうかと返すしかロルフはできない。彼女にずっと見つめられるとむずがゆさを感じる。その眼差しが幸せそうだから余計に。
アスタは食卓の椅子を一脚移動させて、台所に立つロルフを映す。筋肉のついた腕や長い指で器用に材料を切ってゆく。作業スピードはアスタより早いが、大きさは微妙にまばらで存外雑なのだと判る。ささいなことに気付いてはアスタの笑みが零れた。
「ロルフがいるのが嬉しくて」
そう素直に理由を明かす。
月籠りのときは、食事や着替えなどのときに世話人がくるだけで、ロルフもドア越しで声だけだった。彼の声で一人ではなかったが、こうして彼を視界に映すことは叶わなかった。
誰かがいる空間がとても心地よい。視界にいるのが想い人なら余計だ。
人恋しい状態だと解っていても、彼女の言葉はロルフの動揺を誘う。さきほどからいちいち挙動が愛らしいので、内心では悶絶していた。
そんな彼の心境を他所に、宣言通り甘えることにしたアスタは、晩御飯のときも気だるさを理由に彼の隣に座った。いつもなら対面で座るので、ロルフは首を傾げるも、食べさせてほしいと乞われれば位置取りにも納得がいった。
葛藤しながらも結局ロルフは折れ、雛鳥のように待ち侘びている自分より小さな口にスプーンを運んだ。今晩は彼女の体調を考慮して、野菜多めのポトフだ。野菜の甘みたっぷりの優しい味に、アスタの表情は綻ぶ。
ロルフが律儀に二本のスプーンを持ち替えようとするのをみて、アスタはそのままでいいのではないかと提案する。アスタはそこまで潔癖ではないし、洗う食器が減っていいように思えた。
「いや、それは……」
間接キスになるだろう、と思いつつもロルフは自分から口にはできなかった。昼下がりの密着に比べれば易いと思えなくもない。しかし、間接キスぐらいでと思う自分と、それはそれこれはこれと思う自分がせめぎ合っている。
いい歳して、と自身を叱咤したくなるが、本人を目の前に同じ食器を使うのは、妙に緊張する。
無垢な瞳に見上げられ、自分ばかりが気にしているのが馬鹿らしく感じ始める。ロルフは半ば自棄になって、自分の分のポトフを口にした。
「ふふ、間接キスね」
嚥下前だったので、ロルフは思いきり噎せた。
「やだ、冗談よ?」
アスタは、自分より歳上の彼がそれしきのことで動揺するとは思っていなかったので、意外だった。妹のような扱いをされていると思っている彼女からすれば、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだ。意識され倒しているとも知らないで。
タイミングが悪く気管支に入っただけだと、誤魔化してロルフはその場を乗り切った。ただ彼女が心配になってくる。甘えモードになった彼女が、他の人間にも同じことをしたら、と。
あくまで心配なのだ、と自身にいい聞かせロルフは忠告する。
「こういう甘え方を他の奴には」
「ロルフだから甘えるのよ」
他の人間にこんな甘え方ができる訳がない、とアスタは当然のようにいう。暗に自分だけにしてほしいというロルフの独占欲を封殺してしまった。もう兄扱いでも今はいいと思えるくらいに。
アスタは難しいものだと感じる。女性として意識されていないから彼はこれだけ甘えさせてくれるのだ。甘えられるのは嬉しいが、好きだからという理由が伝わる気配もないのは少しばかり物足りない。この物足りなさが募れば、不満になるのだろうか。
意識してほしいと願いながらも、意識されていないことで受ける恩恵を享受している。矛盾した心は本当に難しい。
現状に我慢できなくなるまでは、この幸福に浸かっていよう。
意識してもらうまでの道のりは遠いと勘違いしているアスタは、ロルフが内心で自惚れないように必死になっていることを知りようがない。だから、残り二日もアスタは甘え倒し、彼の理性をぐらつかせたのであった。