生贄
月の明かりさえも通さぬ曇天の下、生い茂る草むらの色濃い影の内に、息を殺して忍ぶ者がいた。まだ少年ともとれるような童顔だが、その双眸には強い覚悟と志を孕み、虫も泥も意に介さず潜んでいた。
幸いにも周囲に人の気配はなく、ただひたすらの暗闇が少年……浅葱を包み覆い隠した。
彼の目的は一つ、この広い屋敷の離れに幽閉された鈴蘭と話しをする事、そしてあわよくば人身御供として死ぬ運命から救い出す事だった。
鈴蘭が土地神様の生贄となり、深い谷底に落とされその骸は地の神の嫁となる。
その筋書きを聞いた時、生まれて初めて彼は自分の育った村の人間を恐ろしいと感じた。
どうして皆それを受け入れる。どうして誰も止めようとしない。どうして鈴蘭だけ。昨日まで、あんなに愛されていた彼女を、どうして犠牲にできる。
行き場のない「どうして」ばかりが募り、彼は歯をくいしばった。
土地神の為に死ぬ事が、本当に鈴蘭の望む道なのだろうか。鈴蘭は供物となる事を受け入れたのか。
あの気丈な鈴蘭が、このまま黙って死を受け入れる訳が無いと、そんな曖昧な確信を持ち、真夜中に家を抜け出して、鈴蘭のいる屋敷の敷地に忍び込んだ。
裏口から外壁沿いに迂回し、本邸の反対方向に進む。突き当たりに広がる石造りの壁の高い位置に、おざなりにはめ込まれた木格子があった。
夜の闇に紛れてそっと近寄ると、慎重に緊張が勝ったのか、誤って木の枝を踏んでしまいパキッと足下で小さな音を立てた。
「誰っ?」
まずいと思ったのもつかの間、久しく聞くことのできなかった、聞き慣れた鈴の音の様な凜とした声に安堵する。
浅葱はか細い声で、しかし中にいる彼女まで届くように必死で叫ぶ。
「俺だ。浅葱だ。浅葱が来たぞ、鈴蘭!」
息切れと歓喜が入り混じって、舌足らずな言葉になってしまったが、鈴蘭にはそれだけで全てが伝わったようだ。
「浅葱? 浅葱なの……本当に? 何をしに来たの?」
室内には何か足場になる物があったのか、高い格子の窓から、鈴蘭が顔を出した。
彼女は困惑した様子で、浅葱以上に支離滅裂な口調のまま疑問符を聞き立てる。
浅葱は鈴蘭の目を見つめた。
そして、「この手を取れるか」と、届くはずもない窓へと向けて、日に焼けた豆だらけの手を伸ばす。
「お前の意思を聞きたくて来た。贄になる事が本当に鈴蘭の望みか?」
雲が晴れ、月明かりが俺の姿を照らした。
格子さえ外してしまえば、小柄で細身な鈴蘭が潜り抜けて、自分が受け止めてやるくらい訳もない。逃げて、逃げて、逃げ切ってやる。
浅葱の目は血走っており、冷静さを失っていた。鈴蘭も自分と同じ気持ちだと疑わない。
彼女はそんな浅葱を見て、少しの間も無くこう言った。
「当然よ。私は村の姫宮ですもの。その為の命、村の皆を護れるならば安い物よ」
彼女の瞳には、諦めも後悔も、憎悪も、悲しみすらも映っていなかった。
幼い頃の話だ。子供の少ないこの村で、二人は夢みがちな幼少時代を過ごしていた。彼の夢に触発された彼女が憧れを膨らませる。彼女の憧れに希望を抱いた彼が二人の小さな世界に新たな可能性を見出す。
今の彼女は、二つの山を越えて大きな川を下り、海へ向けて冒険をするのだと語ったあの日と同じ目をしている。希望を溢れさせて、幼子の様な瞳のまま自らの死を受け入れようとしている。
浅葱の心を絶望が襲う。伸ばした手を握りしめて、
「逃げよう、鈴蘭! 俺が替え玉を用意する」
「ならないわ」
「鈴蘭、如何してだ!」
「私は死ぬのよ。神に身を捧げるの!」
「谷に落ちて死ぬだけだ! この世に神などいない!」
「なんてことを!」
「いないんだよ、鈴蘭! この世に、神なんて」
神なんてものがいるなら、どうして鈴蘭を連れて行く。幸福になるべき人間を見捨てる。村人を惑わす災いなど起こす。
行く宛のない叫びをぶつけ合い、変えようのない運命に喚き、彼らは争った。
普段通りの可愛らしく他愛もない口喧嘩でも、偶にする意地の張り合いでもない。人の命のかかった喧嘩だった。浅葱は鈴蘭を守るために、鈴蘭は浅葱を含めた村の全てを守るために、互いが互いのためにする喧嘩だ。絶対に譲れない。自分の命に代えても譲る訳にはいかない喧嘩だ。
これまで何十、何百と言い争ってきた二人だったが、この日は、それらが霞むように鮮烈な感情のぶつけ合いだった。
攻防は、夜明けが近づき、騒ぎに気がついた家の者が、無理矢理に浅葱を屋敷から引き離すまで続いた。二人は最後まで、爪先から血が出るほどに格子にしがみついていたという。
最後まで素直になれぬまま、互いに睨み合ったまま、彼らは儀式当日まで対面の機会が与えられることはなかった。