少年の非日常 ④
一方その頃、此方ヶ丘中央広場近くのコンビニエンスストア内で、赤暮はブツブツと文句を言いながら漫画雑誌コーナーを物色していた。
周りの客や店員からは、若干遠巻きに見られている。
「ったく黄栗の奴、街中を歩いてて突然用事ができるとか、訳分からねえ」
当の本人は目立つことに慣れきっているので、特に気にした様子もなく呟き続ける。
黄栗とは、コンビニに向かう道中、他愛ない話で盛り上がって居た。
しかし唐突に、「ちょっと行ってくる」とこちらを振り返りもせずに人混みに紛れた彼女に、多少なりとも苛立ちを覚えた。なにやらしきりにスマホを確認していたような気もするが、後で聞いてみればいいか。
結局、目当ての筆記用具も買わずに走り去って行ってしまった。
昔から何の前兆もなくどこかへ行く奴だが、俺が置いて行かれる事など最近は無かった。それだけ大事な用事なのだろう。
「仕方ねえなあ。俺が買っておいてやるか」
俺は渋々と言う体裁を取り繕って、けれど彼女の役に立つのが嬉しくて、文房具売り場でシャープペンシルの芯を手に取り、鼻歌交じりにレジの列へ並んだ。
ニヤニヤと独り言を呟きながら店内を物色する様子を、学外の友人数名に目撃されて、また黄栗関連だろうと詮索され、憶測でからかわれるのはこの翌日のことである。
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ファストフード店に残したままの班員に、本日の解散を伝えるという名目で、あのストーカー男を黄栗に任せて退散してきてしまったが、あんな危険に満ちた人間を女子二人に任せて大丈夫だったのだろうか。たしかに黄栗と親しい知人らしいが、不安は残る。
怖かったのだ。逃げたともいえる。僕はあの場から一刻も早く立ち去ってしまいたかった。それほどまでに、あの夜空という先輩が恐ろしくてたまらなかった。だが、あの人が敵意を持っているのはおそらく僕だけだった。事を荒立てるよりも、当人同士で話し合って解決して欲しいのも本音だ。
自分のした選択が正しいのか戸惑いながら、朝陽は表通りへの近道である小さな公園を直進しようとしていた。
トンネルが開通した砂の山、泥だらけの足の跡がついたブランコ、塗装の剥がれた遊具達、走り去る野良猫、夕焼けに染まる公園の景色は、幼い頃から遊んでいた時と全くと言って良い程に同じだ。
怒涛の一日が過ぎ、安らぎを求めた僕の体は、変わらない光景に安心感を覚える。
ふと、朝陽は公園の中央に設置された公共の水道から、水が滴っているのを見咎めた。
蛇口が緩んでいるのか、それを止めに行こうと足を進めた。
丁度その時、背後から驚いた声が聞こえた。
「朝陽君?」
目指していた公園の入り口には、これから会いに向かうはずだった面子の一人である夕理が立っていた。
夕理は子犬のような垂れ目を丸くしたまま、入口に設置された小鳥の飾りのついた柵を避けて、小走りで駆け寄って来た。
「どうしたの? お店に残ってたんじゃ?」
僕も同じように目を丸くして聞くと、よほど心配してくれたのか、焦った声で捲し立ててきた。
「二人が遅いから心配で、赤暮君は戻ったのに黄栗ちゃんも帰って来ないし、真昼ちゃんはいないみたいだし、そっちこそどうしたの?」
赤暮と青葉はまだ店にいるということか。
お陰で今全員がどこにいるのかが把握できたが、彼女と青葉とを二人きりにした挙句、探し周らせてしまったのは本当に申し訳なかった。
「ああ、ごめんね。色々あって、取り敢えず今日は解散しようと、僕だけ先に戻ったんだ。二人にも伝えに行こう」
「あ、待って、私が連絡しておくよ」
スマホがあった事を失念していた事に気づく。夕理は僕の携帯の充電が切れたとでも勘違いしたのか、いそいそと班員へ連絡を入れてくれた。気が弱そうに見えて、行動力もあるし、よく気が回る子だ。同じ班になってから、彼女の印象がどんどん更新されていく。
肌身離さず連れ歩いている文明の利器の存在を忘れてしまうなんて、余程僕は混乱していたのだと思うと少し恥ずかしい気持ちになった。
居た堪れないが、夕理の有り難い行為に甘えて、やはり真昼と黄栗の様子を伺いに行こうと、僕は踵を返した。
「ありがとう。それなら、僕は真昼を迎えに行ってから帰るよ。じゃあ、また明日!」
「ま、待って!」
鞄を背負い直して走ろうとすると、彼女は意外な程に大きな声で僕を引き止めた。
振り向いて耳を傾けた僕に、本人も予想外だったのだろう、「その、あの」と口籠る姿を不思議に感じながら、なるべく優しく聞いてあげた。
「どうしたの?」
「私、実は……」
「え?」
ようやく発してくれた小さな声は、語尾が上手く聞き取れなかった。神妙な空気が流れ、何かしらの重要な告白をしようとしているという所だけ察して、僕は彼女に一歩近づく。
少し屈んで目を合わせる。夕陽が彼女の後光となって、俯く顔を見ようとした僕の目を曇らせた。
なんとかはっきりと見えた両の手は、ひだが乱れるのも気にせずに、自身のスカートを握りしめていて、相当の緊張が伺えた。
もう一度声をかけようとしたが、次の瞬間には、再度意を決した様子の夕理が僕に向き合った。思っていたより距離が近くて息を呑む。
「あの、私ずっと朝陽君の事が好きで、青葉君に頼んで、班に入れてもらったの」
あまりにも予想外のその言葉に、僕は咄嗟に間抜けな声を上げた。
「え?!」
「下心があってごめんなさい! やっぱり、何も言わないままじゃ駄目だと思った」
周りに人気がないことも幸いして、夕理は大胆にも僕に一呼吸で叫びきった。
一度吐露してしまったら、何かのタガが外れたかの様に、戸惑う僕に追い討ちをかける様に、先程と同じ辿々しい挙動で、先程とは打って変わって大きな声で、唇を震わせて夕理は言う。
「もし良かったら、私との事考えて……くれますか?」
まるで、その時を待っていたかの様に、雲は夕日を遮った。
やっと正面から見る事のできた夕理の顔は、尋常じゃない程に赤く染まっていて、臆病で真剣で、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
長い沈黙、時間が止まったようにも思えた。
「僕は」
そして僕は、答えを出す。
その日の夜、また夢を見た。
目尻には涙が浮かんでいる。
悪い夢だった気はしない。悲しい夢と言うのも何かが違う。
胸が引き締められるような、体が千切られるような、そんな切ない夢を見ていた気がする。
今の今まで見ていたはずなのに、殆ど記憶には残っていない。だから、気持ちは晴れない。
これだから夢を見ることは嫌いなのだ。
辛うじて覚えているのは、長い黒髪を靡かせる少女が、僕の目の前からどこか遠くへ落ちて行く姿と、燃え盛る赤い業火だった。
「浅葱」
嗚呼、でも、綺麗でか細い、少女の声が聞こえた気がする。
朝日がまた、僕の夢を無理矢理に覚ました。
《朝焼けの眩き日照の朝。私の眠りを良く覚ます。目を閉ざしても眼前にある明るき世界。其れ以上に美しい物を私は嘗て知らなかった。》