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夢と朝日と夕闇に  作者: 海田マヤ
第三章 夕理の初恋
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初恋の奮闘 ①



 此方ヶ丘駅南口からバスで十分ほど、町外れの高台にある私の自宅マンション『オレンジヒルズ』からは、此方ヶ丘の町が一望できる。アイボリーに近い薄い赤煉瓦の外壁は、遠目で見れば文字通り淡いオレンジ色をしていて、夕日に照らされたオレンジヒルズはまるでその場所だけが現実から乖離したかのような独特の世界観を醸し出す。

 ヨーロピアン様式の大きなアーチ状の扉、エントランスに設置された本棚にこれ見よがしに置かれた外国語の書籍、内装は徹底して白色と橙色を基調とした豪奢な造りとなっている。

 広々とした中庭、多くの植栽が配された中庭やジョギングコースになっている遊歩道、コンシェルジュサービス、宅配ボックス、ゲストルーム、カラオケシアタールーム、セミナールーム、ライブラリ、サロンなども完備され、敷地内にはコンビニエンスストアや認可保育園が併設している。

 それらの充実した共有施設は、約七百世帯というスケールによって賄われており、意外なことに管理費は一般的なマンションと大差はない。

 小学校入学と同時に、私はこのお城のような外観のマンションに家族で引っ越してきた。最上階に位置する我が家のルーフバルコニーからは、町の風景がよく見える。沈みかけの夕焼けの空が特に好きだった。

 憧れの一人部屋よりも、六十五インチのテレビがあるリビングよりも、バルコニーを気に入って昼夜問わず入り浸っていた私は、小学校でアサガオの種をもらって以来、園芸の虜になる。そこはやがて私専用の植物園となり、今では野菜や花が元気に実るようになった。

 寄せ植えの花壇には咲きかけのパンジーとビオラ、日当たりの良い場所にリンドウの鉢植え、壁際には種類豊富な花々と料理用のハーブ、そしてトマトやキュウリなどの野菜栽培コーナー、植物の生命が活発になるこの場所は私にとっては楽園とも言えるほどに落ち着ける空間だ。

 その日の夕方も、水遣りついでに、乾かしたての湿った髪を風に晒しながら、私は同居人と一緒にお喋りに興じていた。

「明日から修学旅行だったか」

 すぐ横から聞こえた柔和な声に頷いて、私は今にも飛び上がりそうな笑顔で答えた。

「うん! 楽しみすぎて今夜はきっと眠れないや」

 同居人の蝶は、その名の通り蝶々のように華やかないで立ちで、肩まである長髪にすらりとした長身痩躯、色素の薄いバサバサの睫毛を瞬かせて私に笑いかける。私にとって蝶は、歳の離れたお兄ちゃんのような存在だ。

 昔からの付き合いだからか、私は蝶と話しているとうっかり幼い子供のようにはしゃいでしまうことがある。蝶はそんな私を見て、いつもふんわりと優しく微笑む。

「その間の植物の世話は任された。二、三日の間なら保たせてみせよう」

「水遣りはお父さんに頼んだから大丈夫だと思うけど、お願いします」

「善処する」

 堅苦しい不思議な言葉遣いをする蝶は、冷静でいて物知りで普段から私の相談に乗ってくれている。無趣味だった私に、植物についての様々な知識を与えて、園芸の楽しさを教えてくれたのは、他でもない蝶だった。

 人と上手く話せないのならば、花々と対話をすれば良い。花を愛でることは、生命に触れること。言葉をかければ答えてくれるし、触れ合うことで心を落ち着かせてくれる。

 年の功と言うべきか、彼の言うことはどうも私には難しくて、ちょっぴり哲学チックで、妙に説得力がある。

 私はいつも彼に頼りきりで、挙げ句の果てには恋愛相談までしてしまう始末だ。

「ねえ蝶、この中だったらどの部屋着が一番可愛いと思う?」

「そうだな。噂の恋人君に、直接好みを聞いてみてはどうだ?」

 蝶はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてそう言いながらも、並べられた私の部屋着のいくつかを眺めて、何着か見繕ってくれた。

「ムリムリムリ! 絶対に無理!」

「意気地無しめ。折角念願の恋人同士になれたんだ。もう少し自信を持ちなさい」

「うう、本当に眠れなくなりそう」

「そのまま勢いで唇も奪って来るといい」

「破廉恥だ! けしからん!」

「私の口調がうつったな」

 騒ぎに騒いで、ようやくキャリーケースに荷物を詰め終わり、リュックサックの中身も確認し終えたところで、共働きの父と母が一緒に帰ってきた。

「おかえりなさい」

「ただいま、明日の準備はもうできたの?」

「うん、蝶が手伝ってくれたの」

「そうかあ、今日は早く寝るんだぞ」

「もちろん、ほら、先にお風呂入っておいたもん」

 二人を出迎えると、キッチンで夕飯の材料の鶏肉を解凍して、さっとシンク周りを拭いておく。本日の私の仕事は買い出しまでだが、母の仕事は少しでも減らしたい。本当は私が毎日作ってもいいくらいなのに、両親ともに料理好きでいつまで経っても敵わない。ベランダに戻る。

 此方ヶ丘の町は、夜も賑やかだ。日が落ちかける頃には、マンションの近隣を車とバイクの鋭いエンジン音が通り過ぎて行く。不良や暴走族が多いのが玉に瑕だ。

「ねえ蝶、私は朝陽君に好いて貰えてるのかな」

 無意識のうちにそう口走っていた。

 惚れた弱みというやつか、朝陽君は私の告白を受け入れてくれた側だ。別に元から私が好きだったわけではない。彼と私の気持ちは、当然対等ではない。

 そんな何気ない小さな不安も、蝶は聞き逃さず答えてくれる。

「少なくとも、嫌われてはいない。むしろ好意的だからこそ、お前の告白を受け入れたのだろう」

「うん」

「再度念を押すが、自信を持て、お前はやればできる子だ。長く見守って来た私が保証しよう」

「うん、ありがとう。蝶」

 蝶には、好きな人がいたらしい。その人は、もう帰らぬ人となってしまったけれど、彼は生涯その人以外を愛する気はないらしい。私には想像もつかないくらいの悲恋を乗り越えた彼の言葉は、何より私の励みになる。

 私の悩み、不平不満、苦しみも悲しみも、全部受け止めてくれる優しい蝶なら、朝陽君を好きになった私の気持ちを分かってくれる。

 ベランダの窓が開いて、父と妹弟が私を呼ぶ。

「夕理、夕飯だぞ」

「おねえちゃーん! 今日、オムライス!」

 妹の朱理しゅりは六歳で、今年の春に小学校に入学した。明るくて可愛いやんちゃな妹だ。お気に入りのくまさんフォークを持ってはしゃぐ姿が微笑ましい。

「朱理うるさい。フォーク置いて。姉ちゃん早く」

 そう言って朱理を抱き上げた衿来えりくは中学二年生、しっかりものでいつも冷静、多感なお年頃だからか、最近はめっきり二人で話す機会も減ってしまった。しかし、朱理の面倒も見てくれるし、何も言わずに皿洗いや洗濯をしておいてくれたりする。可愛い可愛い私の大事な弟だ。

「あ、はーい。お父さん、衿来、朱理」

 食卓は全員揃って囲めという韓神家の家訓がある。職場や学校での出来事を話したり、テレビを見ながらみんなで笑い合ったり、私の一日のうちで一番大切な時間。


 そこに蝶はいない。


 サンダルからスリッパに履き替えると、笑顔で私を迎え入れた父が窓を閉める。

「なんだ。また蝶君と話していたのか」

「ずるーい。私も蝶とお喋りしたい!」

「こーら、あとでにしなさい。今からご飯だから」

 再びフォークを振り回す朱理を母が諌めて、座布団を敷いて高さを調節した朱理専用の椅子に座らせ、五人揃って手を合わせる。

「いただきます」

 暖かいオムライスとケチャップの味が口いっぱいに広がって、料理上手の母に美味しいと伝えずにはいられなかった。

 蝶にも、食べさせてあげたいな。叶わぬ願いは飲み込んで、真っ赤なチキンライスを一粒残らず平らげた。

ふと、あの日の夕食もオムライスだったことを思い出す。朝陽君に、恋をした日のことだ。懐かしくて、口元が緩む。

 「そんなに美味しいの?」と、衿来に引き気味に言われ、照れながらも「美味しいよ」と答えて誤魔化した。




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