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夢と朝日と夕闇に  作者: 海田マヤ
第二章 真昼の命
15/19

少女の決意 ③

 関東郊外の田舎、古民家は多けれど街灯も少ない山林ばかりの場所で、ふと空を見上げたくなるのは都会人の性だろう。見上げたそこには満天の星々が、なんて都合の良い事はなく、天気予報通りの曇り空が広がっていた。多少の期待外れは致し方ない。

 三崎玲奈は疲弊していた。煙草が吸えたら一服して一息つけたのだろうが、生憎と煙は苦手な性分だ。本館と別館を繋ぐ渡り廊下で風に当たっていると、流石に少し体が冷えて来た。ブルリと体を震わせて、少し乱れた髪を梳いて耳にかけた。

 高校一年生の陶芸体験が無事に終了した。あとは専門の職人の方が仕上げを施し、後日焼いて学校まで発送してくれる時を待つのみとなった。全体のミーティングからの班長会議、丸一日班員の面倒を見た各班の器用貧乏達に賛辞の言葉を贈り、教師陣共々無事に解散したところである。

本館に入り、ロビーを通って自室へ向かう途中、つい先程聞いたばかりの声が、刺々しい嫌悪をあからさまにして耳に入って来た。喧嘩という程には荒々しいそれではないが、明らかな悪意を持ってその言葉は発せられていた。

「どうして、僕達の班に近づいたの。あの時僕にしたように、真昼に何かするのなら絶対にお前を許さない。あんなふざけた嘘をついて、夕理にまで取り入って、一体なにが目的だ。僕がただ流されるばかりだと思うなよ」

 美影朝陽、温厚で真面目な性格をした、私のクラスの生徒だ。あの彼がこんなに敵意をむき出しに話す相手は一体誰なのか、揉め事ならば止めに入ったほうがいいかもしれない。そう思い足を踏み出そうとした。

「真昼に何かをする気は無いよ。勿論、君の彼女にもね」

 逆に聞き慣れない、やけに穏やかな声が私の足を制した。どうやら喧嘩では無いらしい。あれは、二年の園城夜空?話は読めないが、少し様子を見た方が良さそうだ。この状況、少し前にも経験したばかりな気がする。

「本当の目的はなんだ」

「虐められて一人きりの修学旅行なんて寂しいじゃないか」

 いじめ?!高校二年生の授業は担当しておらず関わりは浅いが、真面目で堅実な教師揃いのあの学年でまさかそんな問題が起きているとは考えにくい。夜空の口調や様子は、冗談混じりにも見えないことはない。しかしもし本当なら、それこそ私の出番だ。

 私は緊張で強張った拳を握りしめた。

「そんなすぐに分かる嘘をついて、プライドとか無いわけ?」

 嘘で良かった。やはり彼の冗談だったようだ。園城夜空の噂は、教師の中で浮いている私でも耳にすることがある。

 曰く、『筋金入りの不良』

 曰く、『文武両道の優等生』

 曰く、『政治家である地主の息子』

 曰く、『問題児』

 通り一遍でないどころか見る者によって評価がバラバラ、真偽も不明、中には一見対義語であるような別々の噂を聞く事もあった。

「ボクの矜持なんて、真昼の前では無価値に等しい」

 そう言い切る彼を、まるで雲のような少年だと思った。掴み所がなく、見る者によって違う形として認識される。青年と称しても違和感ない成熟した雰囲気を醸す夜空の空気感に、遠くから隠れ見ているだけの私まで飲まれそうになる。

「君はそもそも、真昼の何なのかな」

 言い方に棘はなかった。単に疑問を述べただけ、短い言葉に込められた意味は、私には察する事ができない。真昼、と名指しされている相手が、同じく担任を持っている舞崎真昼の事だというのは分かる。もしや私はまた、生徒の修羅場に遭遇してしまったのだろうか。冗談じゃない。私は家政婦じゃないぞ。

「何って、真昼は僕の幼馴染で、家族だ。他人にどうこう言われて無くなるような、薄っぺらい付き合いじゃない」

 演劇部の顧問でもある私は、彼女との交流もそれなり深い。朝陽と幼馴染で家族ぐるみの付き合いだという事実は認知していたが、思った以上の仲らしい。真剣な表情で告げる朝陽の目には、迷いも戸惑いもまるでなかった。

 すると夜空は、笑った。

 朝陽も目を丸くしていた。

 心の底から嬉しそうに笑った。少なくとも最初は、喜怒哀楽の演技を見慣れた私の目にも、そうとしか映らなかった。しかし頬を染めて数秒、底抜けに純粋な笑顔を浮かべていたと思ったら、突然、狂ったように声を上げて笑い出した。

 手全体で口元を押さえ、男性的な節の目立つ長い指の隙間から、堪える気もない笑い声を曇らせている。長い足はその場に真っ直ぐ立っている事も出来ないといった様子でふらついた。大口を開けて笑った時に見えた赤い舌が妖艶で、黒々と輝く瞳は何かに取り憑かれたようだった。

 唖然として立ち尽くす朝陽の顔は、私の位置からは見えないが、見なくても分かるほどに困惑している。夜空が一歩朝陽に近づくと、朝陽は半歩程後ずさったので、もしかしたら恐怖しているかもしれない。それに構わず、夜空は更に距離を詰めた。引き攣った呼吸を一つして、未だ苦笑混じりの声を舐めるようにゆっくりと響かせて言う。

「家族、ね」

 時間が止まったような感覚だ。夜空の狂笑が鳴り止んだ途端、たった三人いるだけの筈のその場の空気が凍った。瞬きをしてしまえば、次の瞬間には自身の存在が消し飛びそうな爆発力を秘めた、冷徹で鋭利な何かを喉元に突きつけられているかのような錯覚を覚える。

 いや、あの気配を眼前で体感している朝陽は、既に身体をそれで貫かれているのかもしれない。

「本気でそう思っているのなら、君は果てしなく愚かな人間だ」

 それは紛れも無い怒りを含んだ言葉だった。今の今まで笑っていた人間の出せるような声では無い。

 背筋に走った気色の悪さに息を飲んだ時の苦しさで、自分が今まで呼吸を止めていたことに気づく。

  朝陽の手の内にあった修学旅行のしおりが、クシャリと切ない音を立てて潰れた。

 夜空はそのまま、無表情に朝陽の横を過ぎ去る。最後に私と目があった。気の所為などではなく、確かに私の方を見て微笑んだ。階段を上がって去って行った彼が、得体の知れない何かに思えて、この夜の出来事を誰かに話す気にも、本人達に振ることも、きっと一生できないのだろうなと思った。


********


自分の体の輪郭さえ曖昧な暗闇の中、身動ぎするたび触れる人の体温に強ばり、更にそれが朝陽のものと認識した瞬間、私はとうとう動けなくなった。ほぼ無いに等しい距離が、私の心臓のけたたましい鼓動を伝えてしまわないか不安で仕方がない。

 密着した朝陽から、柑橘系の淡い香りがした。おそらく旅館に備え付けの柚子石鹸の残り香だろう。

風呂上がりとはいえ、私は臭ったりしないかしら。体臭を気にしているわけでは無いけれど、昼間散々歩き回ってそれなりに汗をかいた。こんなことなら、もっと念を入れて洗っておくんだったわ。

 そうやって思考を他の事柄に移しておけば、顔に集まる熱を噛み殺せる気がした。

「真昼、もう少しだけ寄れる?」

「もう無理よ」

 外に聞こえぬよう小声で会話をするが、耳元にかかる朝陽の声と吐息がこそばゆく、どうしても頰が熱くなる。

「なんだ。もう全員寝たのか?」

 一年二組の担任、体育教師の有馬先生の声だ。

 襖を開ける音と、次いで靴下が畳を擦る独特の音も聞こえ、部屋の中まで入って来ていることが伺えた。かなり近い位置にいるようだ。

 私達は今、見回りに来た彼から身を隠している。

  しかし、あまりに咄嗟のことに、隠れる場所を誤ったと後悔してももう遅い。この状況は、とても不味い。

 必死に気配を消し、息を殺して、彼が通り過ぎるのを待つ。


 私は、こうなった経緯を回想する。


  数分前。

  時刻は二十一時四十分、場所は朝陽達男子の部屋である。二◯四号室、集められた私達の班員と辰巳、山田、黒稲城の九人といった大所帯は、夕理の持参したトランプでカードゲームに興じていた。

「ちくしょう。また青葉の一人勝ちじゃねえか」

 手元に残ったカードの枚数を数え終わり、圧倒的な数のカードの束を抱える青葉を恨めしそうに睨む。

 山田は青葉を一方的にライバル視しているようだが、青葉にその気は全く見られず、むしろ退屈そうに淡々と役を揃え続けていた。

「神経衰弱で定期テスト万年学年一位には勝てねえよ」

「お前、考査の順位は下から数えたほうが早いもんな」

「うるせえ、次ダウトな!」

「あ、私ルール知らないや」

「結構簡単よ。まずね……」

「青葉、誰が勝つかにお菓子賭けようよ。自分以外ね」

「いいけど」

 六人部屋とはいえ、十人近い人数、しかも学年でも群を引く個性の強さを持つ面々が勢揃いしているとなると、思い思いの会話が広がり、収集がつかなくなる。

(でも、そんな自由なところが、旅行の醍醐味でもあるのよね)

 六人分の布団が、頭を合わせる方向で部屋の中央に敷かれ、私たちはその上に円になって座っている。

  ふと左手が目に入り、消灯時間が迫っていることに気づく。流石に夜遅くまで男子部屋にいるのはまずいし、一日目から体力を使い果たすわけにもいかないので、皆にそろそろ帰ろうと伝えようとした時だった。

「ただいま。まだやってる?」

「おかえり」と、朝陽を出迎え、疲れ切った様子の朝陽は少しずつ移動して朝陽の座る場所を確保する。

「おう朝陽、お疲れ。遅かったな。会議、そんなに長引いたのか?」

「ううん。まあ色々あってさ。ババ抜き?混ぜてよ。僕今夜は全然遊べてないし」

 浴衣の裾をまくり、舌なめずりをして気合いを入れる朝陽の目に、少しだけ曇ったものを見た気がしたのは、私の勘違いだったのだろうか。

  接戦を繰り広げ、緊迫した空気が流れる中、朝陽が私の手札の一枚に手をかける。

「くっ、そっちか!」

「ふふふ、残念だったわね」

「これで最後よ。朝陽、覚悟はいい?」

「真昼ちゃんは悪役も演れそうだね」

 コンコンと軽い音がして、部屋の入り口の扉がノックされたことに気づく。

「有馬だ。入るぞー」

 そこからの行動は迅速だった。今まで散らばっていたトランプを、即座に側近の枕の下に隠し、踏み荒らした布団を整えた。

 青葉は電気のスイッチに手をかけ、入り口のある廊下と寝室を隔てる襖を閉め、他の男子も急いで自分の布団に潜る。ここまでは良かった。

 かつてないほど素早い完璧な連携で、全員が無事に難を逃れられると思われた。

 しかし、ここで誤算が生じたのだ。

「えっちょっ、黄栗そこ僕の布団……」

  結果、先に押入れに隠れた私と夕理の間に、朝陽を詰めるというラブコメ展開に陥った。

 残念ながら典型的な〜お布団の中で目があって〜とは行かなかったものの、十分な動悸とスリルは感じている。

「なんだ、もう全員寝たのか?」

 靴下と畳の擦れる足音が、押入れの前を通る。息を殺してじっとしていると、目が暗闇に慣れて押入れの中がくっきりと見え始めた。衣擦れの音を立てないようにそっと横を向くと、思っていた以上に近距離の朝陽の顔が私の方を向いていた。

 まだ目が慣れていないのだろう。合わない目線は好都合にも私の視線には気づかない。

 迫り来る先生など忘れて見惚れていると、ばさっと誰かの布団が勢い良く捲られる音がした。

「って、そんなわけないだろうが!」

「うわあうっ」

 奇声をあげたのは、運悪くも一番出入り口に近い布団で寝たフリをしていた辰巳だった。

 押入れの外の様子は見えないのでよく分からないが、男子は諦めてごそごそと起き出して正座させられ、有馬の説教を受け始めたようだ。

「全員が頭まで布団をかぶって寝ている光景なんぞ、実際にあったらひたすら不気味だからな。そもそもこの部屋の面子が消灯時間前にきっちり眠れるわけがねえだろ!」

「ごもっともです」

 先生の言葉に、赤暮が半笑いで対応している。

「ちなみになんで隠れた?」

「いや、なんとなく。修学旅行あるあるかなと」

「そこで寝たままの奴は誰だ?」

 上手くかわしたと思いきや、男子全員が起きてしまったせいで起き上がるわけにいかない黄栗が取り残されてしまった。赤暮が咄嗟に誤魔化そうとするも、有馬は白々しく赤暮に詰め寄っている。

「あ、朝陽です。こいつはいつも早寝なんで」

「ほお? 美影はいつ髪を染めた?」

 布団の隙間から、黄栗の金髪が見えている。これは言い訳のしようがない。流石に消灯時間前と言えど、男子部屋に女子がいるのはまずいかもしれない。さっきとは別の意味で動悸が早まる。

「えーと、その」

 赤暮がモゴモゴとなにか言いかけているが、有馬も流石にこれ以上は誤魔化されてくれないか。

「先生は」

 今まで黙り込んでいた青葉の唐突な声が、私達には救世主のごとく思えた。赤暮の胸をなでおろす仕草が眼に浮かぶ。冷静な低い声の頼もしさといったら、有馬など簡単に蹴散らしてしまえそうな程だ。

「先生は彼の担任ではないのでご存知ないかと」

「何をだ?」

 天才、星野青葉は教師の目すらも欺くロジックを組み立てた。部屋の中の誰もがそう期待したし、実際先生は何も言わずに部屋を後にした。

「朝陽は普段、ヅラなんです」

 青葉がしれっと放った大嘘に、黙り込んだのは有馬だけではなかった。

 有馬が去った後、一目散に押入れから飛び出た朝陽が、堪えきれずに吹き出した皆の笑い声に負けない大声で叫ぶ。

「おかしいよね!? とんでもなく酷い誤解が生まれたよ! 僕これから有馬先生とどう接していけばいいの?」

 今後、有馬の周囲で朝陽の地毛が金髪説を提唱されるのを想像したら、朝陽に申し訳ないが笑いが止まらない。

「青葉ナイス」

「ファインプレー」

「どんな誤魔化し方するのかと思ったら」

「被害は最小限に留めました」

 ずれた眼鏡を直す仕草が妙に様になっていて、ドヤッと効果音が聞こえてきそうな青葉の言葉にまた部屋が湧く。

 文句を言う朝陽も口元は笑っていて、私も朝陽を揶揄う側に回ってみた。

「僕だけ被害甚大だよ。そもそも消灯時間までは部屋の移動は禁止じゃないんだから、別に怒られなくない?」

「え、先生が来たら隠れるのは鉄則でしょう」

 指先で口元を押さえて嘲笑うと、朝陽はリスのように頬を膨らませた。

「さっきまで、誰が一番上手く隠れるかって話してたんだよ」

 辰巳は鮮やかな手つきでトランプをシャッフルする。器用なものだと呆気にとられた。布団を避けて、散らばったトランプを掻き集めてきた山田がまだまだ遊び足りないといった様子で言った。

「それじゃ、トランプ大会再開と行きますか!」

 わらわらと部屋の真ん中に集まり始めたが、先刻から黄栗が喋っておらず、朝陽の布団に潜り込んだまま起きて来ないことに気づく。

「おいこれ、朝見寝てね?」

「黄栗! そこ僕の布団だってば!」

「そいつどこでも寝れるけど、寝起き最悪なんだよな」

 赤暮の一言に誰が黄栗を起こすか揉め始めたところで、夕理もまだ戻っていないことに気づいた。

 振り向くと、押入れの中で体育座りをする小さな足が見えた。

「あら、夕理?」

「え? あ、ご、ごめん今出るね」

 慌てた声を出した夕理だったが、すぐに出てこないのを不思議に思い、押入れの奥を覗き込んで、私は後悔した。

 顔を真っ赤にした夕理が、必死に平常を装おうとしている乙女らしい姿に、私は小さな敗北感を感じてしまった。

 *******


  男子部屋でのトランプ大会が一息ついた頃、私は喉の渇きを潤そうと、ミネラルウォーターを買いに来た。

 一階のラウンジの一角に並ぶ自販機コーナーには、清涼飲料水や炭酸ジュースからお酒まで、種類の豊富なドリンクが、つめた~いと間の抜けた文字と共に飾られている。

 先程の会議の内容を反芻しながら、明日の予定を確認していると、ふとあることを思い出して、購入ボタンに伸ばした指が止まった。

 数秒迷って、意を決したと悟られぬように冷静を装ったトーンの声で言い放つ。

「ねえ、園城夜空。そこに居るんでしょう? 出て来てくれるかしら」

 それと同時に、指先で触れたままのボタンも押した。

  これは完全に賭けだった。人気の無い、照明も疎らになった薄暗いその場に、人が隠れるスペースなんて幾らでもある。あの男ならきっといると、私は突拍子のない信頼の様な確信を持って高を括ったのだ。

  ガションという音と共に、どこかの山脈の絵がプリントされたラベルの水が取り出し口に落ちて来た。

 同時に、スリッパと床が擦れる音、嫌にゆっくりとした軽い足取りで、段々と近づいて来て私の真後ろで止まった。

 私は拳を握り締めて、くるりと振り返る。

 結論から言って、私の賭けは成功だった。案の定、そこには頭一つ以上高い位置から見下ろして来るストーカー男が一人、私服のズボンのポケットに手を入れて立っていた。

 髪は少し湿っている様で、長めの襟足は撫で付けられ、いつもより大人しい印象を受けた。私服は黒い薄地のカーディガンに、Vネックの灰色に近い黒のシャツ、黒色のスキニージーンズが、その長身に見合った足を一層細く長く見せていた。

 上から下まで真っ黒で、闇に溶け込む彼の姿は幻想的で、とても妖しい。

「驚いたな。君が俺を呼ぶなんて、どうかしたの?」

 そして、またあの顔をする。眉尻を少しだけ下げて、変わらぬ笑みを浮かべているのに、どこか泣きそうも見える切ない表情で、彼は私を真っ直ぐに見つめてくる。

「別に、明日も一緒に行動するのなら、予定ぐらいは伝えておいてあげようと思っただけよ」

「ああ、それならもう黄栗達に聞いたよ。ありがとう」

「そう、ならいいわ」

 素っ気なく顔をそらす私に、夜空は気にした様子をなく微笑み続ける。

 彼に冷たくしようと決めた理由は、朝陽、延いては浅葱という運命の相手がいる私に対して、余計な期待を持たせたくなかったからの筈だった。

 けれど今は、八つ当たりにも等しい苛立ちを感じている。

 階段には厚みのある扉があり、数歩で届く位置にあるエレベーターは言わずもがな、人気の無いその場にしばらくの沈黙が流れ、真後ろに並ぶ機械が小刻みに振動する音だけが響く。

 夜空は私の左脇へと長い右腕を伸ばし、真後ろにある自販機の取り出し口に手を差し込んで、買ったばかりの水を取り上げた。

「俺は、善人ではないよ」

 上目遣いで突然そう言われ、びくりとして固まったままの私に、彼はそのペットボトルを手渡す。

 奪う様に掴み取ったそれの蓋を回して開けたが、私はそれに口を付けずに嫌味を言う。

「何よ。そりゃあ、不良のリーダーな上にストーカーなんだから、当然でしょう」

「うん。だから、遠慮なんてしなくて良いんだ。言いたい事を、言えば良い」

 自分に罪悪感なんて感じなくても良い。そう言われた気がした。

「まるで、私の言いたい事が分かっているかの様な物言いね」

「まさか。ただ、何かを言いたそうなのは分かるよ。ずっと、見ていたからね」

 この人と会話をすると、私は迷ってばかりだ。

 私は口を開いては、また閉じて、唇を噛む事を数回繰り返した。

「言っただろう? 俺は君の望む事ならなんでもする」

 くすりと、見透かした様にまた笑われた。

「私を好きになった理由、貴方は運命だとかって言っていたわね」

「うん」

「それは、貴方が一生私に片想いする可哀想な運命? それとも、私がいつか貴方に振り向くっていうあり得ない運命?」

 今度はこちらが小馬鹿にしてやろうと、皮肉気に嘲笑を浮かべて言い放ってやった。しかし彼の表情には一変の動揺も、傷ついた様子も見受けられない。それが私の怒りを余計に加速させた。

「どちらでもない」

「嘘よ! だってそうでもないと!」

「確かに、後者を望む自分もいる。でも俺は、君が幸せになれる運命が一番好ましい」

 私の運命の相手は朝陽だ。それはまごう事無き縁なのだと信じていた。

 そして、今も信じている。

  最初に彼が現れた時、私が感じたのは得体の知れない恐怖だった。

 けれどその感情の中にはきっと、自身のストーカーに対する気持ちの悪さと嫌悪だけではなく、他の感情が混じっていたのかもしれない。

 今やっと自覚ができた。

「私は、貴方が好きじゃないわ」

 この男は持っている。私にはなくて、私に必要だったかもしれない物を、彼は持っているのだ。

 この感情の名前はなんだろう。羨望に近い尊敬と、醜い嫉妬心、私の持たぬものを他人が持っているという事実への怒り、そしてほんの少しの

  彼は軽く頷く。

「君は、美影朝陽が好きだよ」

 ほんの少しの、嬉しさだ。

  私は、自分の気持ちを言葉にしたことはなかった。

 いつか言おう。いつか必ず、朝陽と結ばれる未来のその時に、言えるはずだからと先延ばした。

 運命の赤い糸で結ばれているから、慢心して、調子に乗って、でも頭の片隅には不安もあって、自分への猜疑に悩まされていた私を、夜空は認め、肯定した。

「あんたなんかに、何が分かるの」

 それでも、見透かされたような悔しさと羞恥が、素直になれずに凝り固まった私の意固地を加速させた。

 様々な感情を一挙に感じたせいで溢れそうな涙を塞ぎ込んで、私はどこぞの面倒な女悪役の様な台詞を吐いてその場を離れた。

 実際、今の私は面倒な女なのだろうけど。

 ああ、役者失格だ。

 あんなストーカーに、感情を読まれるなんて、ムカつく。

 ……ムカつく。


 ******


  心のどこかで、迷いがあったのかもしれない。

 私が朝陽を好きになったのは、鈴蘭の生まれ変わりだという義務感から来るものでは無いのかと、運命を信じるフリをして不安になって、そして夜空に嫉妬した。

 夜空は信じていた。彼が私へ向ける好意には、一切の迷いも恐怖もなく、無償の愛を捧ぐ覚悟がある。

 それを向けられている私が思うのも可笑しな話だが、それは舞崎真昼としての私が最も欲していた物の形であると、確かに思えた。

 欲しているのはは愛ではない。覚悟だ。

 それをあの男に気づかされるなんて、何と屈辱的なのだろう。とても見苦しく、私の信念に反する。

 もう二度と迷わないと、決意を固めて男子部屋へと歩を進める。

 途中、二階の踊り場から少々離れた廊下の突き当たり、非常階段の扉にほど近い場所から話し声が聞こえてきた。

 その声が、聞き慣れた二人のものだったので、咄嗟に足を止めて聞き耳を立てた。

「朝陽君、あの……」

「うん。僕も……」

 会話は断片的にしか聞き取れないが、間違いなく朝陽と夕理の声だった。

 恋人同士なのだから、廊下で二人きりで密会くらいするだろう。

 直接声をかけて邪魔をしてやろうか。実際通り道なのだし、一緒に部屋へ戻れば何の問題もない。

 いよいよ悪役だなと自嘲して、角から姿を現そうとした時だった。

 朝陽の手が、夕理の頬へ伸びた。

 やめて、見たくない。

 そう思うのに、足は床に杭で打ち付けられたかのように動かない。

 朝陽の顔が、夕理の顔に近づいた。

 嫌、どうして、何を間違えたの。

 二人の唇が触れた。

 そこにいるのは、私のはずだったのに。

 顔を真っ赤にして照れ臭そうに微笑む幸せそうな夕理の顔が、憎くて堪らない。

 けれど、同じくらい幸せそうに笑う朝陽の顔を、憎むことなどできなくて、胸の奥が軋んだ。

 私には、二人の間に割り込む勇気なんて、最初からなかったのだ。

 改めたばかりの決意が揺らぐ音がする。

 これ以上、この場にいてはいけない。


 最初は二人に気づかれぬよう少しだけ足早に、段々と速めて競歩に、気付くと私は旅館の廊下と階段を走っていた。

 俯いたまま、前も後ろも何も見ないように、今にも溢れ出そうな涙を抑え込むために、私は走った。

 熱を持って滲む視界と目頭の鈍い痛みが、私の悲しみを助長して、一層苦しくなる。

 行くあてもないが、とにかく遠くへ行きたい気分だった。

 だから、階段を上へ上へと上がって行き、最上階で勢いよく曲がった。そのせいで、前から来た人影に微塵も気配を感じられず、頭から突っ込んでしまった。

「うおっ?!」

「きゃあっ!」

 衝突の衝撃でバランスを崩して後ろに倒れそうになったが、間一髪のところでぶつかった人物の手が私の腕に伸びた。

「あっぶね」

「赤暮……」

 力強いその手は、いとも簡単に私の体重を操ってその場に立ち直らせた。どうしてこんなところに、という疑問よりも、先走る気持ちは止められない。

「真昼? こんなとこ走るなよ! 俺じゃなかったらどうす」

「ねえ赤暮! 確か、貴方は黄栗の事が好きなのよね?!」

 驚いた様子で眉を顰めて注意してくる赤暮の優しい言葉を遮って、デリカシーも遠慮も欠如した容赦のない質問を浴びせる。

 けれど、今は誰でもいいから、私と似た状況にある人の意見を聞きたかった。聞いてどうなるわけでもないのに、私は私以外の誰かの言葉を欲していた。

「はっ? 突然なんだよ」

「そういうのは良いから!」

 有無を言わさぬ私の勢いに押され、顔を少し赤くしていた赤暮は怯みながらも素直に答えた。

「まあ、そ、うだけど」

「もし……もしもよ? 青葉と黄栗が付き合い始めたらどうする?」

「そ、そんな事ありえないだろ」

「もしもの話よ! 例え話なの! いいから、いいから答えなさいよ」

 語尾に力が入らなくなった。

 何を言っているのだろう。

 三人と私達は違うのに、こんな事を聞いたってどうにもならない事なんて、分かっている。

 友人の心を踏みにじってしまった。最低が加速して行く。自分がどんどん嫌いになる。

 だって、仕方がない。今までこんな私を助けてくれた人は、私が最低な人間に成り下がるのを止めてくれた大切な人は、もう私のものではなくなってしまった。最初から、私のものなんかではなかったのに。

 私は自分がどこまでも堕ちていくのを感じていた。

「俺達にそんなことは起こらないし、そうなったとしても、どうするかは起きてからじゃねえと分からねえよ」

 真剣な声色だった。赤暮は私を軽蔑しただろうか。朝陽にこのことを伝えるだろうか。

「そう、よね。ごめんなさい」

 顔を上げられず、消え入りそうな声で呟くと、ぽたりと絨毯に染みを作った。罪悪感と自己嫌悪で、胸が潰れそうになる。

「だけどな!」

 赤暮が私の両肩を掴んで揺らし、半ば無理矢理に上を向かせた。力強いその手が、私を真っ直ぐに立たせてくれた。

「きっと俺は、その時にやりたいようにやる。客観的に正しいかじゃない。自分がしたい事を、正しいと思える事を、後悔しないようにやる。言いたいことは、はっきり言う。できることは、全部やる。できなくても、やる」

 赤暮の大きな丸いつり目が、私を射抜くように見つめてくる。そこには、私に対する侮蔑や嫌悪は全くなかった。

「赤暮……」

 彼の瞳は暖かくて、迷いなど微塵もなくて、まるで肩を掴む力強い手が私の荒んだ心を浄化していくようだった。

「『もしも』の話だろ?」

 あまりにも真摯に訴えてくる、励ますように優しく笑うその表情を、不覚にも格好良いとか思ってしまった。

 なまじ顔がいいだけに、その天真爛漫な優しさは恐ろしい。けれど、私が彼に感じた格好良さは、もっと人間的な魅力、尊敬に値する何かだった。

 涙はいつの間にか止まった。心に羽が生えたように軽くなる。

 彼は魔法使いか何かなのだろうか。いや、違った。彼がなりたいものは、魔法使いではなかった。彼を形容するにふさわしい言葉を、私はよく知っている。

 理解はできなくとも、今は彼の信条をちょっとだけ認めてあげたくなった。

「ありがとう。貴方今、ほんのちょっとだけ、ヒーローっぽかったわよ」

「おう、俺にはよく分かんねえし、今は何も聞かねえ、その内詳しく聞かせろよ。ほら、行ってこい」

 控えめに、それでいて力強く押された背中から、心に何かが流れて来たような感覚だった。

 私はこの時確かに、赤色の頭をしたヒーローに救われた。彼はきっとこの先多くの人間を救うのだろう。そんな未来が少しだけ楽しみで、自分の行く先にも一筋の希望の光を差してくれているように感じた。



 ***


 走った。


 足を床に叩きつけるようにして、走った。

 スリッパが足や階段に引っかかる感覚が邪魔だった。

 私はスリッパを無理矢理に脱いで、片手の中指と人差し指とを差し込むようにしてぎゅっと握り込む。

 その間も、私は走り続けていた。

「朝陽!」

 二人は先程と同じ場所にいた。二人の世界へ入りこむことが、あんなに怖かったのに、今はもう何も怖くはなかった。

 驚く二人を無視して、私は叫んだ。

「私は認めないわ! 二人が付き合ってるなんて、絶対認めないから!」

 正直に、真っ直ぐに、私にできることは、私がまだできていないことは、きっとこれしかない。

 ぽかんとした顔でその場に立ち尽くす二人に、右手の人差し指を突きつける。

 修羅場上等、なりふりかまっちゃいられないわ。開き直ったっていいじゃない。

 私が私のまま、朝陽に見てもらえるように、二人の仲を引き裂く為に、できることをしたい。

 自分の気持ちを伝えることに、小賢しい演技なんて最初から必要なかった。

 私は、舞崎真昼だ。

 私は役者である以前に、朝陽を好きな一人の人間なのだ。







 私の中に未だ生き続ける鈴蘭が、延々と願いを唱えている様な気がしてならなかった。私の願いと鈴蘭の願いが混濁し、運命を覆そうとしている。


 君が願うのなら、朝も昼も夕も夜も、この身を盾に永遠に守り抜くの。


 貴方が望むのならば、私の力も四肢もこの想いも、その全てを差し出してしまいましょう。


 君が笑うのなら、全ての苦に耐え抜いて、笑い返して見せるわ。


 そして、貴方が言葉を発したなら、声の一つ一つを聞き届け、その言の葉を噛み締めましょう。


 私の持ちうる全てのものを君に捧げます。


 叶うなら貴方も、私を決して手放しませぬように。


 私達は、切に願い続けるの。


 だから、朝陽


 そして、浅葱


 私をみて








 《昼間にも月は輝くと言う。私は馬鹿なと笑ってやった。しかし、今ここにある眩い蒼空に浮く白い月は、如何してこうも心に染みるのか。》



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