少女の能力 ②
待ちに待った修学旅行が開始する。
晴天の空に都会の雑踏、集団での遠出に色めき出す賑やかな友人達が新鮮だ。滅多に来ない都心の大規模な駅の雰囲気に圧倒されながら、私は集合場所で重い荷物を床に下ろして、隣にいるクラスメイトとお喋りに夢中になっていた。
新幹線に乗るのは、私が十六年の歳月を経た人生の中で二度目の経験だ。
一度目は小学校の修学旅行で、栃木県の日光へ行った時の事だ。未だ記憶に新しい小学校高学年の頃、あの時は初めての遠出の旅行に気が流行って、幼い朝陽と一緒にはしゃぎ倒した思い出がとても懐かしい。
私達の学校は比較的少人数なので、経費削減の為に、高校一、二年生の合同で同時に修学旅行が執り行われる。つまり、二年に一回修学旅行があるという形になるのだ。少子化と過疎化の深刻な田舎の学校にはありがちな話だが、私達の様な関東圏の学校では中々に珍しいケースである。
電光掲示板に表示される新幹線の名称と、正面近くから見た新幹線の外装を記念にカメラで記録して、私達は列を乱しながらも無事に乗車した。
席に着くと、座る前に荷物を置いて、回転可動型の座席を班全員が向かい合わせになるように動かした。
触感の良い座席は、肘掛けやテーブルも可動型で、窓にかかっていた上下式のカーテンを開けると、外に並ぶ店先の名前や看板の文字を目で追う間も無く、街の景色は流れ過ぎて行く。
ここは新幹線の大体真ん中付近の車両、一年生は全員この車両に詰め込まれ、隣の車両には二年生が同じ様に用意された座席で和気藹々としている様子が想像に容易い。
私は、浮かれた気分が滲み出ている生徒を見回しながら窓の外を眺める。座席上の棚に収納スペースがあるというのに、狭い床に敷き詰めた手荷物の中の、自分のリュックに膝裏を預けた。
中学の修学旅行で、兄に強請って買ってもらった空色のリュックサックは、汚れ一つない私のお気に入りだ。
隣に座っていた夕理が、売店で買ったのであろう棒状のチョコレート菓子を袋から取り出しやすい状態にして差し出してきた。
「真昼ちゃん、これ食べる?」
「ありがとう、頂くわ」
思いの外弾んだ自分の声に、冷静を気取った私も案外浮かれているのだなと納得せざるを得なかった。
普段より少し気合を入れて整えた髪も、変えたばかりのシャンプーも、気分を助長して鼻歌でも歌い出しそうな気分になる。
「あたしも、これ持って来たよ」
「ありがと」
「ずりぃ、俺にもくれよ」
「えー」
「えーってなんだよ!?」
「ちょっと、一応、他のお客さんもいるんだから、騒ぎ過ぎないの」
口では偉そうに注意を喚起しつつも、浮いた気分を鎮めることなどできずに、みんなで広げたお菓子を頬張った。
赤暮の持ってきたトランプで、ババ抜きにポーカーにダウトなど、飽きずにカードゲームを何戦もして時間を潰す。終いには、全員の膝の上にカードを広げて七並べまでし始め、初っ端からはしゃぎ倒す勢いだった私達は、そこでやっと先生に散らかすなと注意をされて落ち着きを取り戻した。
楽しい時間はあっという間だと言うが、濃密な時間はそれなりに長く感じるものだ。
「青葉、顔色悪いぞ?」
それは唐突に、通路側に座る赤暮が、隣で立て肘にぐったりと頭を凭れる青葉へ向けて発した言葉だった。
長く鬱陶しい前髪と、眼鏡やマスクが邪魔をして分かりにくいが、確かに彼の顔色は悪く、いつも以上に気怠そうな体勢で背もたれに体を預けていた。
「ん、平気」
赤暮に対して、タメ口で端的に余裕なく答える青葉の声に、先刻一緒になって笑っていた時程の力は無かった。
見兼ねた朝陽は、私の正面、つまり青葉の左側の席から立ち上がった。
「席、代わろうか? 窓際の方が楽かもしれない」
「いいえ、大丈夫です」
手で口元を覆っておいて、何が大丈夫だというのか。
普段の大人びた態度の割に意地っ張りというか、意固地に主張し続ける青葉を見て、不謹慎ながらも友人の新たな一面を見られて得したような気がしていた。
その様子を傍観していた黄栗は、呆れたように微笑んで、青葉へ向けて言い放った。
「代わってもらいなよ」
「いや、別に関係ないし」
ぼそりと呟いてそっぽを向いた時に覗いた青葉の顔色は、ますます青白くて、私も少々不安になってきた。
「ね?」
再度響いた念押しの声を聞いた時、背筋に走った悪寒に一瞬耳を疑う。
声のトーンも張り付いた笑顔もいつも通りの優しい黄栗そのもので、それなのにも関わらず本能的な恐怖を彼女に覚え戦慄が走る。
「……お願いします」
黄栗の圧力に堪え兼ねた青葉が折れたのか、律儀に腰に回して占めていたシートベルトを外して立ち上がった。
狭いスペースを、椅子の背もたれを掴みながら、床に置かれた鞄と足を避けるのに苦戦しながら、朝陽と場所を交代する。
不安定な体制の中、案の定ふらりとよろめいた青葉が、握っていた小型オーディオ機器を溢れ落としてしまうも、運良く朝陽が両手を皿にして掬うように掴み取った。
「おっと」
「どうも」
会釈をしてそれを受け取った青葉が、朝陽の居た窓際の席にゆっくりとした動作で腰を落ち着けた。
音楽プレーヤーを受け取った時に曲名を覗き見たのか、朝陽が青葉の方に身を乗り出して聞いた。
「あのさ、青葉が聞いてる曲ってもしかして」
「え これは……」
「【COSMO・A】だよね! 結構マイナーな歌い手だから、ファンの友達いなかったんだけど、青葉も好きなの?」
朝陽は食い気味に目を輝かせ、青葉に詰め寄る。こんな朝陽の様子は、私にとってはそんなに珍しい事でもない。好きな物の事となると、どんな時でも途端に機嫌が良くなる癖は昔から変わらずだ。
しかし、折角席を移動してまで休もうとした青葉が、これでは酔いを落ち着かせることもできない。止めようかと思った矢先、青葉がマスクの鼻先を指で引っ掛けて外した。
「まあ」
素っ気ない態度は変わらず、しかし何処となく興味有り気に朝陽に視線だけ寄越すその様子に、思わず止めるタイミングを失った。
彼の手は、腰の横に置かれていたミネラルウォーターを掴む。
芸能人やアイドルに入れ込むことの少ない朝陽は、唯一好きなアーティストについて熱く語り出す。
「僕、動画全部ダウンロードしてるんだ。この人の音域は滅茶苦茶に広いし、歌い方は無茶苦茶に聞こえるのに声に感情が乗ってるというか、感情がそのまま声になってる感じで、かと思えば繊細な曲は凄く綺麗に表現されていて、初めて聞いた時は感動したんだ。最近出したオリジナル曲も、CD出さないかなあってずっと……」
「………」
青葉は黙ったまま、手に持った水に口をつける事なく朝陽を見つめていた。観察している、と言っても過言ではないくらいには、穴が開きそうなほど目線を合わせている。
「あっ! ごめん、嬉しくてついペラペラと」
マスクを外していていつもより鮮明に伺える青葉の表情は、興奮した朝陽のマシンガントークに呆気にとられていて少し間抜けだ。
居たたまれなくなって、私も会話のフォローに回る。
「朝陽、この人の歌いつも聞いてるのよね。私も聞くけど詳しくはないし、語れる人見つかって嬉しいのよ」
青葉は私の方を見たかと思えば何故か再度顔を背け、やっとペットボトルの蓋を開いて水に口をつけた。
赤暮が目の前の黄栗に話しかけて、それから窓際の青葉にも話しかける。
「いいよなあ【COSMO・A】の曲。なあ青葉、お前もそう思うよな?」
悪戯が成功した子供を思わせる、無邪気な明るい笑顔のまま、赤暮は両手を枕にして勢い良く背凭れに頭をつけた。
黄栗も口にポテトチップスを咥えて、ニコニコと傍観している。指についた塩を舐めて流し目をする仕草が、妙に艶やかで様になっている。
その視線は青葉と交わり、逸らされた。
青葉はペットボトルを膝に挟み、パーカーのポケットからスマホを取り出して呟く。
「…楽曲を、総集したファイル、いりますか?」
「え? あ、欲しい! まじか、やったあ!」
どちらも積極的に話を切り出す性格ではないので、今までは二人きりで居る時は必要事項くらいの会話しかしなかった様に感じる。
意外な趣味の共通点に、もしかしたらこれからもっと仲良くなれるのかも知れないと、私は親が巣立つ子を見守る様な優しい気持ちでそれを見つめていた。
良かったわね、朝陽。
微笑みと共に浮かんだその言葉は、声にする事もなく消え去った。
「良かったね。朝陽君」
決して故意にではなく、とても偶然に被さった言葉だった。
その声に込められた意味は同じでも、朝陽の反応は私にするようなものとは余りに異なっていて、空を彷徨う目線は朝陽とは合わない。
恥じらうように頰を染めた朝陽が、イヤフォンをそっと斜め前の席の夕理に差し出す。
「うん。夕理も聞いてみる?本当に格好良くてさ」
「良いの? なら、少しだけ」
イヤフォンを受け取った彼女が、朝陽が傾けた端末を覗き込む。人には、一人一人にパーソナルスペースと言うものがあるが、朝陽と夕理の近づきは、確かに少し距離があるものの、互いに気を許した上で恥じらいを持つ初々しさを実感させる距離だった。
朝陽が曲の説明をするのを真剣に聞く夕理、そんな二人の様子を見た私達は、前と明らかに変化した何かに直ぐに気がついた。
「おっ? なんかお前ら仲良くね?」
肘で朝陽をつつきながら、赤暮はニヤニヤと揶揄う様に言う。思春期の男女のクラスメイトに、ちょっかいをかけるという年相応のいらないお節介だ。
普段の私なら、恋愛話は祝福と妬みの意を込めて楽しく持ち上げる限りだが、今回ばかりは本気でいらぬ世話だと感じる。
「へっ?!」と慌てた様子の朝陽を、益々面白そうに弄ろうとした赤暮だったが、冗談交じりに始まったその話に、意外な人物が乱入した。
「付き合っているんですか?」
「え?」
その場のふざけ半分な雰囲気に合わず、落ち着いた低音が響いた。誰からともなく、不意をつかれた驚きの声を上げる。
こんな話題に、青葉が乗ってくるとは誰も思わなかっただろう。みんなが青葉に注目する。
相変わらず顔色が伺いにくい特徴の青葉だが、それでも至極真面目な無表情で朝陽の答えを待っている。
罰が悪そうに視線を彷徨わせて、けれど本当は誰かに伝えたい喜びがあるなんて事は、付き合いの長い私には分かる。
上手く自慢のできない子だった。そんな朝陽が、いくら気を許した親友や幼馴染の前でとは言え、人前で重大な告白をできるようになるなんて、思いも寄らない成長だ。
両手を握ったまま親指の先と先を擦り合わせて弄る仕草は、言い難い言葉を選ぶ時の彼の癖だ。
「実は僕達、この間から付き合ってるんだ。」
もっとも私にとって、それはいらない成長だったのだが。
瞬間、沈黙の後に祝福の声が響く。
「マジで?!凄え、知らなかった!」
「おめでとう。ほら、青葉もなんか言ってあげなよ」
「……おめでとうございます」
お祝いしないと、不自然に思われる。赤暮も黄栗も、青葉すらも祝福の言葉を送っているのに、私も何か言わないと、朝陽は人の気持ちの機微に鋭いから、知られてしまう。
そうか、私は知られてしまうのが怖いんだ。それは、同じ気持ちで、同じ人を好きになった私と夕理の最大の違い。
今更、気がつけたところで後の祭りだった。
「まあ、素敵ね。驚いたわ、まさか朝陽に彼女ができる日が来るなんて!」
「ちょっと、どういう意味さ。」
目を合わせてはいけない。
「おめでとう。」
「あ、ありがとう真昼ちゃん。」
二人を妬むような、見っともない真似は絶対にしたくない。
「本当にびっくりだね。どっちから告白したの?」
「それ俺も聞きたい!朝陽か?夕理か?」
「内緒です」
聞きたくない。二人を祝福する言葉なんて、いらない。
本当は私が願ったものだった。
悔しさを噛み殺して、私は笑顔で席を立つ。
「私、三組の友達のところに行ってくるわ。さっき呼ばれたのよ」
折角の盛り上がりに水を差して申し訳ない、なんて内心で思っても居ないことを匂わせて、私は足の隙間を抜けて通路へと脱出しようとする。
「人気者は大変だね。」
「嫌味になってないわよ。ついでにお手洗いにも行ってくるから、少し遅くなるわっ!?」
震える手を隠すようにして握り込んで居たのが悪かったのだろうか、咄嗟に庇う手が伸ばせず、滑った勢いのまま夕理の席の肘置き部分に腕を強かに打ちつけた。
「真昼ちゃん!」
床に手を付いて無様に転がる私に、すぐそばにいた夕理は悲鳴をあげる。
痛む箇所を摩る私に赤暮が親切にも手を伸ばしてくれたが、不遜でないように小さく片手で制して自分で立ち上がる。
平手で床についた掌と、ぶつけた肘から腕にかけてがズキズキと痛んだ。
「大丈夫か?今凄い音したぞ?」
「ごめんなさい。狭くてうっかりしてたわ。」
「流石にちょっと片付けようか、犠牲者二人目だよ」
「あ、赤くなってる!冷やすもの」
手で覆って隠したつもりが、程近い位置にいる夕理に傷を見られてしまった。
「大丈夫、大したことないわ。水で冷やすついでに行ってきます」
「おー、いってら~」
手を振って送り出された私は、怪我の痛みよりもずっと酷い痛みを抱えていた。
むしろ、表情が歪むのを誤魔化せた点においては、怪我をした方が都合が良かったとすら思えていた。
これ以上、あの二人の幸せを目に入れ続ける事は、私にとって激毒でしかなかった。
****
新幹線の車内のトイレは、至極綺麗に清掃されていて、密閉された空間にラベンダーの芳香剤の香りが漂っていた。
落ち着ける一人きりの個室は、今の私の頭を冷やすのには最適だった。揺れ続ける不安定な場所が、今は心地良い。
ぶつけた肘を見ると、擦り剥けて少し血が滲んでいた。このままだと痣ができるやも知れない。
しかし、私の能力の前には関係のない事だった。
次に気が付いた時にはもう、どうせ傷は消えている。
目の前の、磨かれた鏡を見つめながら、幸せそうに笑った夕理の顔を思い浮かべる。
「嬉しそう、だったわね」
散々妬み嫉みを感じたけれど、私は韓神夕理という少女の事が嫌いではなかった。
あの取っつきにくい青葉に頼んでまで、朝陽に近づこうとしたその行動力と、気持ちを伝えた勇気と素直さ。
それはやはり、私にはなかったものだ。
嫉妬、憎悪、怒り、羨望、後悔、自己嫌悪、渦巻く気持ちのかけらの一つずつを整理して、自分に喝を入れる様に頬を軽く叩いた。
傷の治りの早さを感づかれぬように、捲っていたシャツの袖を戻し、腰に巻いていたカーディガンを羽織った。これなら何かを聞かれても、肌寒いからと言い訳をすることができる。
怪我の治りが早くとも、ただ免疫力の高い健康体という体で誤魔化せる。その上、無意識化で発現という条件のお陰で、傷の治る瞬間を目撃されるなんて事も起こり得ないのだ。
完璧なカモフラージュだ。大丈夫、今迄こうやって人の目を欺いて来たのだから、少々動揺したくらいでその努力を無駄にして溜まるものか。
前髪も整えて、お気に入りの桜色のリップクリームを塗って、普段通りの私で修学旅行を楽しもう。
そう意気込んで、個室の引き戸を開く。
「やあ、随分と長かったね」
耳に残る、落ち着いた低音が、そこに居ることをさも当然といった風に響く。にこやかに挙げられた片手が、動けば触れてしまいそうな距離にあった。
バタンッと、私は扉を開け切らずに勢いよく閉めた。勿論、しっかりと施錠もして。
深呼吸をして思考を巡らせるが、焦って早刻みな動悸は止まらない。
今、トイレの前で、よりにもよってトイレの前に待ち構えるストーカー男の恐ろしい図が見えた気がした。
いくらなんでも、用を足すまでドアの前で待っているなんて恐ろし過ぎる。信じられない。その事実がどうであれ、なかったことにしたい。
けれど、
(そんなわけにも、いかないわ)
覚悟を決めてそっとスライド式の錠を滑らせて、音すら立てずに慎重に扉を開ける。
「あら?誰も、いない」
警戒しながら外へ出て来た手前、車両間の狭く人気のないデッキには隠れるスペースもない筈なのに、キョロキョロと辺りを見回してしまう。隣の個室にも人影はなく、ただ新幹線の出入り口の窓に景色が流れて行くのが見えた。
気のせいか見間違いか、ストレスや不安から疲れがきて居るのだろうか。能力の副作用の可能性も無くはない。
内心で自己完結して、何事もなかったかのように高校一年生貸切車両方向に歩を進めようとしたその時だ。
「まひる」それは私の真後ろ、右耳に近い場所から囁かれた。
「ひっ」
嗚咽にも似た、呼吸と悲鳴の中間ぐらいの甲高い声が出た。
呼ばれた名前は、まるで旧知の仲の人間を呼ぶ様なそれで、自然で当たり前で、爽やかな響きすら含まれていた。それなのに、この少年の優しいテノールが、こうも恐ろしく感じる。
「ごめん。驚かせてしまったかい?」
振り向けないまま硬直した私の顔を、正面に回って真っ直ぐ見つめて来たその男は、間違い無く先日のストーカー男で、逃げようにもたった今目の前の出口を塞がれてしまった。
狭苦しい踊り場は、薄暗さも相まって両隣の車両からは見えない位置となっている。
「大丈夫?顔色が悪いようだけど。」
「あんたのせいでしょうが!」
余りに他人事のように心配して話しかけてくるものだから、勢い余って叫んでしまったが、この状況はもしや、かなり危険なのでは無いだろうか。
だがその少年は、怒りを露わにするどころか至極嬉しそうに微笑む。
「よかった。いつもの真昼だ」
彼の何処までも純粋で明るい笑顔は、とても嘘をついている様には見えなかった。
「ええと、貴方は……」
どうにか逃げ果せようと、話を切り出そうとした私の言葉を遮って、彼は言う。
「ねえ、取り引きしようか」
「は?」
私の方へ差しのべられた、骨張った節のある細い指の手は、私が握り返すのを待っているのではなく、呆然とする私を見つめた後、ただ虚空を掴むように握り締められた。
[取り引き]と、確かに少年は言った。
おおよそ高校生が使うような台詞ではないが、真剣な表情の少年の剣呑な雰囲気に、私は完全に飲まれてしまっていた。
鋭利で不穏な雰囲気を纏う切れ長の瞳に、襟足の長い黒髪、不良の親玉だなんて噂を聞いた割には清潔に着こなされた制服、ここに来てやっと相手を観察する余裕が生まれた。
「美影朝陽と韓神夕理を破却させたい?」
微笑みを絶やさぬまま、言ってのけたとんでもない台詞に、私は紛れも無い憤りを覚えた。
「何を、言っているのよ」
「君は美影朝陽が好きだろう?」
大前提として人の気持ちを決め付けて掛かるその態度が気に食わず、ついつい喧嘩腰で対応してしまう。
「なんで、貴方にそんな事を」
言われなくちゃいけないのよ。そう口走ろうとした私の声は、またしても彼の言葉に遮られた。
「見ていたからさ」
「え?」
「ずっと君のことを見ていたからこそ、確信しているんだ」
もう、言葉にならなかった。恋は盲目とは言うけれど、彼は当事者である筈の私の事すらもその目に写っていないのでは無いだろうか。
「君曰く、俺はストーカーらしいけど、不法侵入や盗撮は誓ってしていない。ただ、見ていただけさ」
「だからって、何故そんな迷惑行為を、初対面の私にしているのよ?」
そう口に出してから、ますます疑心は募る。彼は初対面からこの状態だったのに、私の旧知の仲のように振舞って、私の全てを知った気でいる。
けれど、それは本当に彼が私に一方的な好意を抱いていたからなのだろうか。
それ以外にもっと別のきっかけがあって、私は彼に気に入られる様な何かをしたのだろうか。
この男はまだ何かを隠している。含みのある瞳が翳りを帯びて、私を見つめる目はどこまでも純粋で暗い。
側から見たらただただ素敵な笑顔、その裏に隠すのは悪の化身の如き邪心と打算だ。正しく、悪の権化、不良を束ねているのなら、悪の総統といったところか。
そんな想像を繰り広げていると、しばらく思案した様子だった彼が言った。
「勿論、好きだからだよ。君にとっては違うけど、俺はずっと近くにいたからね。何故好きか、と問われると少し困るけど、敢えて答えるならばきっと運命さ」
歯の浮くような台詞の数々を、まるで挨拶を零すような軽さで口早に言ってのける。いや、軽くでは無い。
整った唇から吐き出される言葉の一つ一つに、気持ちと言う名の重りが乗せられているようだった。
口早になるのは言いたい事が溢れそうだから、言葉が声が優しいのはその感情の全てが凝縮されて、私に向けられているからだ。
これは、どうしようもなく気持ちが悪い。
(やばい、この人はやばい。予想の十倍くらいやばいわ)
冷や汗を流すのを気丈に誤魔化しながら、私は一歩前へ出た。
「待ちなさいよ。それなら、私が朝陽を好きだと知っていて、どうしてそれを応援するような真似をするのよ。普通、貴方の立場なら阻止するはずよ!」
「そうかな?」
彼はいけしゃあしゃあとして首を傾げた。
「そ、そうよ。おかしいわ。言っていることがちぐはぐよ!」
「【普通】がそうなら、俺は普通のストーカーではないのかもしれないね」
「いや、ストーカーよ。普通に、犯罪なのよ?」
すると彼は、ふっと力を抜き微笑んで見せて、恍惚とした顔で幸せそうに頬を染める。
「俺はね、好きな人には幸せになってほしいんだ」
気障ったらしい最もな台詞も、この男が言うと胡散臭さが滲み、恐怖の対象にしかならない。
「誰だってそうでしょう」
「ならさ、もし俺が、万が一君を振り向かせて彼女にしたとして、君は永遠に美影朝陽と付き合えなかったとして、それは幸せかい?」
「そんなの、あんたしか得しないじゃない」
「そう、その通りさ。俺は自分の幸せなんていらない。君が幸せになればそれで良い」
理屈は分かる。しかし意味は分からない。
一歩前進して詰め寄る彼に、私は背をドアに擡げて動けずに居た。
「さあ、俺を利用してよ」
細められた目が、まるで誘うような妖しい光を放ち、蠱惑的な声が私を追い詰める。
「そんなの、おかしいわ」
絞り出した声は、また震えていた。
どうしてだろう。
責められている訳でも、襲われている訳でもないのに、とても泣きたい気持ちになった。
緩んだ涙腺が目に雫を貯めて、零れ落ちそうになった時、拍子抜けする程明るい笑い声がその場に響いた。
「あはは、そう言うと思った」
「何を笑っているのよ!」
辛うじて落ちなかった涙を殺すように眉を釣り上げて、本気で楽しそうな彼を責める。
「君は優しいから、他人の好意を利用しろだなんて、本人に言われたってしないと思っていたさ」
悔しい事に、本当に私と言う人間の性質を、性格を、行動を知り尽くされているらしい。
それは恐怖や嫌悪といった負の感情と同時に、心強い理解者を得たと私に錯覚させる。
それがまた悔しくて、私は腕を組んで強気に言った。
「分からないじゃない。そんなこと、本当に私が貴方に二人を別れさせてって命令したら、どうするつもりだったのよ」
「したよ?」
「なっ……」なんて事を言うの、とは言えなかった。余りにも真面目な表情に惑わされた。
試すつもりで言った軽口が、何倍もの重さで打ち返される。
「君が俺に死ねと言うのなら、俺は自ら亡骸となって君に会いに来る」
どうしてだろう。
何も言い返せない。
だって、嫌という程本気が伝わって来る。
本心は見えないのに、嘘は吐かない。
言いたい事だけを言って、私には何も言わせない。
私を好き?冗談じゃないわ。私は朝陽が好きなのよ。昔からずっと、夕理なんかよりずっと長い間、朝陽を見てきたの。園城夜空、貴方にだって邪魔はさせない。貴方になんか靡かない。他人の事なんて関係ない。それこそ、本人の意思だって関係ない。私だってそんな風に、想う人だけを見つめていたいの。上等よ。その取り引きとやら、条件次第でしてやろうじゃない。
「貴方は私に何を要求するの?」
「ん?」
「取引って言ったわよね。双方の希望が通らないと成り立たないでしょう」
「ああそうか、それなら」
さあ来なさい。どんな要望だって聞き届けてやる。
朝陽を好きな気持ちなら、誰にだって負けたりしない。
こんな奴に、負けてたまるか。
と、決意を固めたものの。
「君の班に混ぜておくれよ」
それは簡単に覆され、私は間抜けな声を出した。
「はあ?」
「赤暮と青葉と黄栗とは顔馴染みだし、君もいるだろう。何も問題はない」
「問題だらけよ!大体において、あんた自分の班はどうするのよ」
「俺は名前だけ班員で、元々個人行動の予定だったから大丈夫さ。どの道、君と一緒に居るつもりだったからね」
「そんなのダメに決まって……旅行中もストーカーするつもりだったの?!」
「勿論だよ」
どうしてだろう。
また彼のペースに乗せられて、悦楽として笑う彼の調子を助長するのみだ。
腑に落ちないが、これはあくまで平等な[取り引き]だ。
「分かったわ。夕理と朝陽次第だけどね」
口を尖らせるなんて真似、朝陽の前でだって数年はした覚えがない。
すっかり見慣れたストーカーの笑顔から目を逸らして、今度こそ席に戻ろうとする。
「ありがとう、真昼」
名前で呼ぶなと注意する間も無く、夜空は私が来た方とは反対の、なんと二年生の屯する車両へと戻って行った。
「嘘でしょう」
瞠目する私の頭の片隅で、赤暮達が『先輩』の舎弟をしていると言う噂の事を思い出した。
この前の路地裏で黄栗が、当たり前のように敬語を使わずにタメ口で話していたものだから、完全に誤解して偉そうに喋ってしまった。
今更、先輩扱いするのも違う気がするし、そもそもストーカー野郎なのだから、話す必要だって機会だって無いはずだった。
どうしたらいいのだろう。
舞崎真昼の悩みは、益々と募るばかりだった。