双子同士で恋をするのは間違っている
彼女の血肉を体内に取り込めば、私は完全な自分になれるんだろうか。
私には双子の姉がいる、名前は一葉。
勉強も運動も優秀で、外見はテレビ越しに見る若手女優が霞むぐらい美しく、性格も聖母のように優しい。
誰が見たって完璧超人で、まさに私とは真逆の人間だった。
ちなみに、わかりやすいことに私の名前は二葉。
たぶん姉の名前を付けるついででそう名付けられたのだと思う。
勉強はぱっとしない。
運動は苦手。
外見は異性が鼻で笑う程度には姉を下回っていて、性格はひねくれている。
どれぐらいひねくれているかと言うと、誰もが慕う姉のことを、世界でただ一人私だけが嫌うぐらいひねくれている。
そして私はそれを己のアイデンティティと考え、すがりつくことで自己を確立しようとする愚かな人間だった。
そんな私のことを、世界で一番嫌っているのはたぶん私自身だと思う。
誰かに嫌われるまでもなく、私は嫌われ者なのだ。
しかし厄介なことに、人間はいくらプライドを捨てても“ゼロ”にするのは難しい生き物である。
死んで消えれば楽になるのに。
周りの人たちも喜んでくれるのに。
そう思いながらも、死ぬのが怖くて、もっとマシな自分になりたくて。
どうやったらそうなれるんだろうと考えた末に、私はすべてを姉のせいにすることを思いついた。
私たちは双子だ。
本来持っているべき能力を二つに分け合って生まれてきた。
もしも双子でなければ、どちらか片方が死んで生まれてきたら、私みたいな不完全な人間が生まれてくることはなかったのに。
でも、今からでも遅くないのかもしれない。
例えば私が姉を殺して、肉を刻んで骨を砕いてすべて食べてしまうとか。
例えば私が風呂に浸かった姉を殺して、そのまま数ヶ月放置してどろどろのスープになるまで腐らせ、そこに体を沈めて啜るとか。
それを実行したら、ひょっとすると、私はようやく完全なる一人の人間になれるのかもしれない。
そんな夢を見ていた。
そんなありえない夢だけを支えに、私は意地汚く命にしがみついていた。
わかっているよ。
死ぬなら私の方で、私が死ねば姉は足かせがなくなって、もっと高くに羽ばたけるんでしょう?
◇◇◇
一葉の帰りは私よりも遅い。
帰宅部の私と違って、生徒会に所属しているからだ。
母が夕食を作る音を聞きながら、無言のリビングでスマホをいじっていると、玄関から「ただいま」という声が聞こえてくる。
「おかえり!」
母は嬉しそうにそう返事をすると、料理を中断してわざわざ玄関に顔を出した。
私のときはそうしない。
たぶん姉は知らないけど、姉が帰ってくるまでの我が家は静まり返っている。
仕方ないよ、私なんかと会話したら生んだこと後悔するもんね。
「ただいま、二葉」
彼女はリビングに顔を見せると、長い髪を揺らしながら私に満面の笑みを向けた。
そのあまりの可憐さは私の劣等感を刺激する。
何よりも嫌いな表情だった。
「おかえり」
そう返事をする私の声は低く、スマホから視線と動かすこともなかった。
そんな私を見かねてか、母は露骨にため息をつく。
しかし注意はしない。
そこまでの価値は私に無いからだ。
「なーに見てるのっ」
一葉はかばんを近くに下ろすと、膝立ちでソファに飛び乗る。
そして私に顔を近づけて、スマホの画面を覗き込んだ。
甘い香りが流れてくる。
少し腕に触れた髪も柔らかく、双子であることが嘘のように潤っている。
細胞の一つ一つに至るまで劣っているのだと実感する。
「何でもいいじゃない」
「そうだけど、興味あるの。二葉が興味あるものに」
「……そう」
私はそっけなく返すと、スマホの画面を暗くして立ち上がった。
「どこ行くの?」
「自分の部屋、一人になりたいから」
「そっか……いってらっしゃい」
一葉はいい子だから、私に対してもいい子を続けなければならない。
大変だなぁ、と思う。
みんなみたいに、もっと冷たく接したほうが楽なのに。
そういう意味でも、私という存在は彼女にとってのマイナスなのだと思う。
例えるなら、寄生虫?
ああ、案外本当にそうなのかもしれない。
母が妊娠した時、実は私たちは双子なんかではなく、得体のしれない虫が子宮に入って生まれたのが私だったのかもしれない。
それならどんなに幸せなことか。
だって、双子じゃないっていうんなら、私が不公平だって喚く理由もないから。
◇◇◇
それから一時間後、父も帰ってきて夕食がはじまる。
母は姉に、学校であったことを尋ねた。
姉は楽しそうにそれを話す。
寡黙な父も、口元に笑みを浮かべながらその話に耳を傾ける。
リビングに笑い声が響いた。
その輪の中に私はいない。
静かに料理を口に運ぶだけなので、自然と他の三人よりも食べるペースは早くなった。
私は同じ場所にいあわせただけの他人である。
いっそ、完全に関係を断ち切れればいい。
しかし、母や父はたまに私の方をちらりと見て、決して姉には見せない、温度のない視線を向けてくる。
仕方のないやつだ、なのか。
気持ちの悪い娘ね、なのか。
はたまた、どうしてそこにいるのか、なのか。
感情は不明。
義務感に起因する見せかけだけの行為なのか。
はっきりしているのは、それがポジティブな意味ではないということだけ。
まあ、生まれて16年――ほとんどの時間をこうして過ごしてきたのだから、慣れてはいる。
でも慣れているからって痛くないわけではなく、下腹部を締め付けるような、嫌なストレスが私の表情を曇らせた。
食欲も失せる。
元から食が細いのに、これではまた痩せてしまいそうだ。
こんな汚らしい見た目の女が暗い表情をしていたら、それだけで食事は何段もまずくなるに違いない。
「ごちそうさまでした」
そしてごめんなさい。
静かに、声と心でそう告げて、私は席を立つ。
そして無言で部屋に戻る。
ベッドに寝転んでスマホを見ていると、リビングから笑い声が聞こえてきた。
私がいたときよりも、ずっと明るい声だった。
◇◇◇
それから二時間ほどして、誰かがドアをノックする。
「お風呂あがったよー」
顔を見せたのは、風呂上がりで頬がわずかに赤らんだ一葉だった。
家の中だからなのか、パジャマの着方は少しだらしなくて、火照った肌も相まって少し色っぽい。
男が見れば一発で誰でも落ちるだろう。
「わかった、すぐ入る」
姉の用件はそれで済んだはずだったが、なかなか部屋から出ていかない。
私は相変わらずスマホから視線を外さずに、愛想のない声で問いかける。
「まだ何かあるの?」
「ううん、特にはないけど」
「そう」
「……二葉はさ」
「用事無いんじゃなかったの?」
「用事とかじゃなくて、雑談じゃダメかな」
「別にいいけど」
「その、二葉は……私のことが嫌い?」
雑談にしては重すぎる質問だった。
普段の態度からわかりきっていることだとは思うけど、いざ答えるとなると胃が痛い。
何より、それを私に言わせてどうしたいのか。
この家における私の立場をもっと悪くしたいとか?
いや――この姉のことだ、そんな三流の悪知恵なんて働かせるわけがない。
たぶん、単純に疑問を抱いたのだろう。
もしかしたら嫌われているのかもしれない、と。
ああ、羨ましい。
私だったらすぐに気づいて確信するのに。
一葉は誰にも嫌われたことがないから、私からの悪意に鈍感でいられるのだ。
そうか、彼女の弱点はそこにあったのだ。
嫌われることへの耐性は、嫌われることでしか培われない。
誰からも好かれる彼女は、もし私が直球で『嫌い』と答えれば大きな傷を負うに違いない。
そのとき、彼女はどんな顔を見せるだろう。
――少し、興味が湧いた。
私は口元に笑みを浮かべ、我ながら最低の下衆女だと脳内で何度も自分自身を刺殺しながら、しかしためらわずに答える。
「当たり前のこと聞かないでよ。この世で二番目に嫌い」
一番目は私自身だから。
それは譲れない。譲りたくない。
「……」
答えは沈黙だった。
傷ついているのだろうか。
だとしたら最初から聞かなければいいのに。
ああ、常人ぶって胸に痛みを感じる自分が憎い。
得意げに答えて見たけれど、この問答で一体誰が得をしたというのか。
さらに沈黙は続く。
動いた様子もないのでおかしいと思い、私は一葉のほうを見た。
彼女は――
「あぁ……」
両手を頬に当て、顔を赤らめながら、うっとりとしていた。
潤んだ瞳。
笑みを作る口。
その表情すべてが、私の知る一葉と一致しない。
あまりに異様な光景すぎて、私は体を半端に起こした状態のまま固まった。
同様に、動揺により思考もフリーズする。
そんな私に対し、姉は恍惚とした表情のまま、夢心地で言った。
「やっぱりそうなんだ……私には二葉しかいないんだね……」
そしてこちらに歩み寄ると、ベッドの前でしゃがみ、私に顔を近づける。
嫌な予感がする――そう思い後ろに下がろうとしたが、一歩遅かった。
一葉の手が私の袖を握り、引き寄せ、唇を重ねる。
「んっ!? んむぅぅううっ!」
慌てて逃げようとしても、今度はもう一方の手が胸のあたりを掴んで離してくれない。
しかも単純に力で劣っているので、振りほどこうにもびくともしなかった。
何なんだ一体。
どうして私は、血のつながった双子の姉にキスなんてされてるんだ――
一葉も慣れていないのか、唇を重ねた瞬間に、肉越しで前歯がゴツッと当たってしまった。
あまりの驚きに麻痺していた痛覚が復活し、今更ながらじんじんと熱く痛みだす。
だが一葉はまだ正気に戻れていないらしい。
目を細め、私の方を見ながらも、私不在の世界に浸り、唇の感触を味わっている。
あるいは、唇を重ねているという事実に酔っているのか。
どちらにせよ、その瞳に理性は宿っておらず、本能のままに私のことを求めていることが理解できた。
――気持ち悪い。
率直にそう思った。
双子に劣情を向けられることの嫌悪感は、私が自分に抱く自己嫌悪よりも巨大で、重い。
「ぷはぁっ!」
呼吸も忘れていた一葉は、ようやく私から顔を離すと、上気した顔で「はぁ、はぁ」と荒く呼吸を繰り返す。
だがキスが終わっても悪夢は終わらない。
その眼差しに溶岩のようにどろりとした熱情を宿し、彼女は私を真っ直ぐに見つめている。
私も私でまともに息ができなかったから、逃げるように目をそらして、手の甲で軽く口元を拭いながら息を整えた。
歯をぶつけた衝撃で口の中が切れたのか、奪われたファーストキスの残り香は、鉄のような匂いだった。
互いの呼吸音だけが部屋に響く。
私に部屋に、実の双子が二人きり。
なのに聞こえてくるのは、どこか湿っぽく、色気すら宿した吐息。
その状況を改めて認識し、私の下腹部がぎゅうぅっと痛む。
痛みはもはや吐き気にも似ており、それが嫌悪感であることは今さら考えるまでもなかった。
体内に押し留めておく理由もないし、何より私には一切の非がなかったので、お構いなしに感情をそのまま言葉にして吐き出す。
「……最悪」
言ってから気づく。
この言葉は、今の一葉を喜ばせるだけだと。
「ごめんね」
謝罪の言葉は、欲しかったおもちゃを与えられた子供のように跳ねていた。
どういうわけかわからないが、どうやら私から向けられる嫌悪の言葉が、今の彼女にとっては最上の餌となっているらしい。
いつからそうなった?
なぜ貴女がそんな歪みを抱くの?
あれだけ満たされた人生を送っておいて。
中身がいっぱいなら、多少の重みでフレームが歪むことはない。
だったら、恵まれた人ほど真っ直ぐに育っていくものじゃないの?
「ごめん」
二度目の謝罪は、なおも歓喜の色が濃く。
しかし先ほどと違い、若干の“揺らぎ”があった。
頬がひくりと震える。
笑顔は曇らず、爛々とした光を放ったまま、しかしそこに雨雲がかかる。
ほろりと、ひとしずくの涙がこぼれ落ちた。
「本当に、ごめんねぇ」
その奇妙な様は、さながら天気雨のようだ。
見つめる天上は鮮やかに晴れているのに、落ちる雫は紛れもなく本物で。
歓喜と悲嘆が同居した、およそ理解不能な感情をぶつけられた私が、『ごめん』の一言程度で状況を把握できるはずもなく。
謝罪なんていいから、どうしてこんなことをしたのか。
なぜ私はこんな得体のしれない気持ちの悪いシチュエーションでファーストキスを奪われ、口内に怪我をし、さらには自己満足的な涙と謝罪を見せつけられているのか。
まずそれを教えてくれ。
そう言いたかった。
しかし残念なことに、私はそれらの感情を正確に伝えられるコミュニケーション能力も、そしてこの状況で一葉を問い詰める勇気もなかった。
「何で……どうしてっ」
それが、精一杯。
けど意図ぐらいはわかってくれていいんじゃないだろうか。
腐っても双子なんだから。
普段の知性的で他者の心をくむことに長けた一葉なら、可能だったかもしれない。
だが、今の彼女には期待するだけ無駄だったようだ。
「ごめんね……ごめんね……っ」
彼女はそう言うと勢いよく立ち上がり、私に背を向け部屋を出ていった。
バタンと勢いよくドアが閉められ、その音に驚いた私の体がびくんと跳ねる。
嵐が過ぎ去り、部屋には平静が残ったものの、私の心はかき乱されたままだ。
「ほんと、何だったの今のは……」
確かに以前から、一葉は何かと私を『気にかけよう』と心がけている様子だった。
きっとそれは、優秀な姉としての義務感から来るものだろうと思っていたのだ。
あるいは、聖者のロールプレイをするのに、哀れな私に救いの手を差し伸べる、という行為が便利だったからだと。
だが――まさか、あれらは本気だったとでも言うのだろうか。
本当に私のことが好きで、ずっと気にしていたとでも。
「無い……無い無い無い無いっ! そんなの、そんなこと……」
一葉みたいなロイヤルな人間が、私みたいな底辺を好きになるなんて。
キスされたからって単純すぎる。
だったら私に対する嫌がらせ?
いや、一葉の価値を100とするのなら私の価値は1、そんな自分の価値を落としてまで私を蹴落とす理由が無い。
錯乱状態? 夕食に変なものが入っていた? 幻覚を見ている? 熱が出ていた?
わからない、わからない、わからない!
「ああぁああっ! 何なのあれ、誰か説明してよ……ッ!」
私には家族に相談するという選択肢がない。
相談できる友人もいない。
一人で悩むしかないのだ、この唇に残る感触に蝕まれながら。
「……でも、仮に理由がわかったとして、それが取り返しのつかないやつだったらどうするのよ、私」
例えば、本当に一葉が私のことを好きだった、とか。
我慢できずにキスしてしまった、なんてことがあれば――理不尽ではあるが、責められるのはたぶん私だ。
どうしてお前なんかが。
お前が間違った道に導いたんだ、と。
「うああぁああ……どうあっても私にプラスになんないじゃん……!」
その日、私は一葉と再び顔を合わせることはなかった。
だが、残った感触と記憶、そして部屋にわずかに漂う甘い香りが私の感情をめちゃくちゃに乱し、一睡もできないまま朝を迎えるのだった。
◇◇◇
翌朝、ふらふらの体でリビングに起きた私を、朝食を作る母は無言で迎えた。
テーブルに座る。
父はテレビのニュースを見ていたが、ちらりと一度こちらを見ただけで挨拶はなかった。
別にいい、今日はそれどころじゃない。
それから十分ほどして、一葉がやってくる。
生徒会をやっている彼女にしては遅い時間だった。
「おはよう、一葉」
「おはよう」
両親は穏やかな声で彼女を迎える。
「おはよ……」
一葉は弱々しい声で返事をした。
肌は青白く、目は腫れている。
どうやら彼女も眠れない夜を過ごしたらしい。
わけがわからない、そんなになるなら何でやったんだ。
「大丈夫なの一葉、顔色が悪いわよ?」
「うん……平気。昨日、眠れなかっただけだから」
「無理は禁物よ、まずは熱を計りましょう。あなた、体温計もってきてくれる?」
実に優しい両親だ、私の親もこうあってほしいものである。
一葉はおぼつかない足取りのまま私のほうに近づくと、定位置である隣の椅子に座った。
そして、首をひねってじっと私の顔を見つめる。
瞳はわずかに潤んでいる。
昨日ほどではないものの、視線に込められた熱も消えていない。
どうやら、夢ではなかったようだ。
「おはよ」
昨日の件を反省しているつもりなのか、少し悲しそうな表情で彼女は言った。
私は何も言わない。
できる限り無表情で、テレビをじっと眺める。
一葉はしばし私の反応を待っていたが、しばらくすると諦めたようにうなだれた。
すると、そんな一葉を見た母が強めの口調で私を叱る。
「二葉、返事ぐらいしなさい。もう高校生なんだから、それぐらいの常識は身につけるものよ」
偉そうに言ってくれる。
事情も知らないくせに。
常識的な育て方もしなかったくせに。
しかし、娘のこととなると母は凶暴だ。
仕方ない、得体のしれない虫の子供である私が、愛する娘である一葉に反抗したのだから、怒って当然だろう。
私はしぶしぶ、一葉のほうを見ずに「おはよう」と返事をした。
彼女の表情がわずかにほころぶ。
まったく、どうして私が悪者にされなければならないのか。
そう思っていると、一葉は私にしか聞こえない音量でつぶやいた。
「いつもごめん、私のせいで」
何に対する謝罪なのかは明言されていない。
だが、それは十中八九、両親の不平等な扱いに関するものだろう。
自覚はあったんだ。
わかった上で放置して――いや、一葉が言ったところで何も変わらないし、仮に変わったとしたら余計に私はみじめな思いをしただろう。
だから彼女にはどうしようもなかった。
けれど今さら……もう十年以上もこんな生活を続けておいて、あれだけ私の心をかき乱した翌日に、そんな謝罪なんてされたって――
「どういうつもりか知らないけど、一葉は身勝手すぎるよ」
言わずにはいられなかった。
幸い、両親は体温計を探していたから、その言葉は聞こえていなかったらしい。
再びうつむく一葉。
「わかってる」
「だったら……」
「でも、抑えられなかったの。どうしても」
何を抑えられなかったというのか。
それがどんな形をしていたとしても、おそらく血縁者に向けていい感情ではないことは間違いない。
私もため息と共にうなだれる。
「勘弁してよ。本当に気持ち悪いんだって」
「それも、わかってる」
わかった上で、ということらしい。
余計にタチが悪い。
結局、一葉に熱は無かったが、そのとき私の体温を計ったら、知恵熱で40度ぐらい出ていたに違いない。
◇◇◇
身支度を終えて登校の時間。
なぜか一葉は私と同じタイミングで家を出た。
いつもは生徒会の用事があるからとか言って早く出るくせに。
見送る母も、一葉の珍しい行動に少し戸惑っていたようだ。
まあ、私みたいな劣った人間とはできるだけ接してほしくないだろうからね。
玄関先の階段を降りて歩道に出る。
そこで私は一葉に問いかけた。
「で、どういうつもりなの?」
内心緊張しながら、できるだけストレートな物言いで。
いつもは『私が悪い』と抱え込むところだけど、今回ばかりは圧倒的に一葉が悪い。
私みたいな劣った人間が強気に出られるぐらい、絶対的な“非”が彼女にあった。
可愛らしくかばんを両手で抱えた一葉は、足は止めずに問いに答える。
「みんなが、私のことを好きになるんだ」
「は?」
いきなりの自慢に、思わずどすの利いた声が出てしまった。
けれど、一葉はその反応に対して笑みを浮かべる。
「そうやって嫌ってくれるのは二葉だけだよ」
「私に理解できるように話してくれない?」
「私は誰かに言われて、誰かに望まれて、そのとおりに生きてきたの。けど、別に私はこんな自分になりたいと望んだことなんてない。みんな望んでない私を好きになるけど、そこに私の意志なんて無いの」
聞けば聞くほど、私の神経を逆なでしそうな話だ。
しかし一葉の顔を見る限り、彼女は至極真面目に語っているらしい。
思わず足を止めて頭を抱えたくなるところを、ぐっと我慢して聞き手を続ける。
「夢とか、なりたい自分とか、そんなものどこにもなくて。たぶん私、空っぽな人間なんだろうなってずっと思ってた」
「……そう」
奇妙な話だと思った。
なぜ正反対の私たちは、似たような悩みを抱いているのか。
いや、私に比べたら一葉のそれは贅沢すぎる悩みだが。
沢山のものを持って生きているくせに、自分が空っぽだって?
それは満たされ過ぎて気づいてないだけだ。
「けど、二葉は違う。私のことを嫌いでいてくれる。前から、“ひょっとしたら”って思ってたけど、直に言葉で聞けて、嬉しくて仕方なかったの」
足を止め、胸に手を当て微笑む一葉。
私も一歩前に出たところで足を止める。
たぶん、その笑顔は本来もっと別の、人間性も能力も優れた人に向けられるべきものだ。
そして直接その笑みを向けられた者は、誰一人として抗うこともできずに彼女の虜になるだろう。
それぐらい、滅多に見せることのない幸せそうな顔だった。
生憎、私に効果は無いけれど。
ただ、『私なんかに見せるなんて無駄だなぁ』という感情だけがある。
「ううん、ただ嬉しかっただけじゃない。私にとって二葉は世界に一人だけなんだって、そう思うと愛おしさが湧き上がってきて」
「だからキスしたってこと?」
「そう……止められなかったの。申し訳ないとは思ったけど、きっと双子で、嫌いな私にキスされるなんて二葉にとっては屈辱だろうと思ったけど、それでもっ!」
「言っておくけど私、そんな異常な恋愛感情に付き合うつもりはないから」
「わかってるよ! 当たり前だもん。けど……二葉が私を嫌う限り、私のこの気持ちは消えないと思う」
無敵の理屈すぎて、もはや私は呆れるしかなかった。
マゾヒスト、というのも違う気がする。
とにかくおかしいんだ、こいつは。
頭がどうかしている。
つまり万が一、私が一葉の気持ちに応えるようなことがあったとしても、その時点で一葉は私に興味を失うってことじゃないか。
好きで、つきまとって、襲いかかって唇だって奪う。
だけど向き合うことは許さない。
ああ、なんて傲慢で身勝手な恋心なんだろう。
「どうしたら、いいのかな」
あろうことか、諸悪の根源たる一葉がそんな言葉を口にした。
「そんなのこっちが聞きたいよ……」
「そうだよね、ごめんね」
「私はいつもどおり、一葉とは関わりを持ちたくないだけ。けどそのいつもどおりを続けてたら、いつ襲われて押し倒されるかわかんないわけでしょ?」
「もうしないから!」
「なら最初からしないでよ」
「そ、それは……」
「もう一度同じ状況になったとして、私は一葉が自分を抑え込めるとは思えない」
「うぅ……」
「ほら、一葉だってわかってるんでしょう? 自分で自分の感情を制御できないこと。しかも相手は双子の妹。そんなのもう病気だよ、付き合ってらんない」
「あ……二葉っ!」
一葉を置いて先に進む私。
彼女は小走りで私に追いついて、再び隣に並んだ。
落ち込んだり、慌てたり、陶酔したり。
今日の一葉はまるで別人だ。
いや――むしろ人間らしいと言うべきか。
何となく一葉の言っていることが理解できそうな自分が嫌だった。
「待って、わかってる。私もわかってるけど、でも二葉と一緒にいたいの! 一緒にいるだけで……私は、やっと私になれるの」
「違うよ一葉。一葉は十分に満たされてる、そこからさらに私を取り込もうとしてるだけ。納得できないんでしょう? 私だけ嫌っているのが」
「そんなんじゃない! 私は――二葉だけでいい。他は、全部なくたってたぶん何も変わらないから」
「世界が滅びてもいいって?」
「それはちょっと違うけど。たぶん、二葉以外の人が消えてもすぐに代わりが出てくるから」
……寒気がした。
いや、そういうことなのか、一葉が言っていたのは。
人間という生き物は、自分一人で勝手に生まれて育つものじゃない。
人格とは周囲の環境や人間の存在によって形作られるもの。
私は他人に優しくできない。
だって、他人に優しくされたことがないから。
だから他人に優しくできる人間は、他人から優しくされて生きてきた幸せな人間だ。
私はそう思う。
つまり、一葉が己の人間性の希薄さを憂うということは、彼女から見た世界には人間がいない。
「どうせみんな同じ顔をしてるもん」
さしずめ、同じ理想を求め、同じ賞賛を与える人形といったところだろうか。
ゆえに一葉も人形のようにしか振る舞えない。
「……頭おかしいよ、一葉」
まあ、理解したところで、納得できるかは別の話だが。
私がふいっと彼女から目をそらすと、一葉は「ふふっ」と笑った。
「何?」
「双子っていいなと思ったの」
「私は罵倒してるんだけど」
「でも二葉は考えてくれた。こんな馬鹿げた話を理解しようとして……そしてたぶん、少しはわかってくれた」
――見抜かれていたのか。
ああ、双子って最悪だ。
「そうやって嫌そうな顔をしてくれる。二葉と話してるときだけは、私は自分のことを人間だって思えるの」
「自分より汚いものを見て安心してるだけでしょう。性格悪いよ、そういう遊び」
「遊びじゃない。本気」
「余計に悪いんだけど」
「うん、ごめんね」
これほどまでに反省が感じられない『ごめんね』がかつてあっただろうか。
あれだけ落ち込んでおきながら、一葉はすでに吹っ切れているようにも見えた。
その証拠に、笑顔を浮かべて私に腕を絡めてくる。
幸せそうな顔ですり寄ってくる。
振りほどこうとしても、やはり力が強いので無理だった。
……本当に勘弁してほしい。
◇◇◇
ほとんど接点のない双子が仲睦まじく登校するものだから、私たちは他の生徒の注目の的となった。
さらに、休み時間のたびに一葉は私のクラスに来る。
なので私は毎回トイレに行くフリをする羽目になった。
昼休みも一緒にご飯を食べようと誘ってくる。
もちろん私は逃げて、誰も居ない場所で惣菜パンをかじる……まあ見つかったけど。
放課後は一緒に帰りたいので待っていてくれと言われる。
当然、すぐに帰宅した。
数時間後、一葉が帰ってくると「置いていかないでよぉ」とどこか嬉しそうに言われた。
それからもやたらべたべたしてくるので、両親は困惑していた。
◇◇◇
その日の夜、部屋にいるとドアをノックする音が聞こえた。
無視していると、勝手に開かれる。
「入っていいって言ってないんだけど」
侵入者を私は睨む。
一葉は口癖のように「ごめんね」と言いながら、私が寝転ぶベッドに近づいてきた。
私は彼女がベッドの上に乗れないよう、位置を変える。
「何してるの?」
「動画見てただけ。あのさ、今日のあれ何なの? みんなびっくりしてたじゃん」
「二葉と一緒にいたいと思ったから、そうしただけだよ」
「……何で開き直ってんのよ。今朝までは形だけでも反省してたのに」
「朝、話をして確信したの。私には二葉しかいない。いくら悩んだところで、それは変わらないことに気づいちゃったんだ」
「もっと広い世界を見た方がいいよ、私より素敵な人なんていくらでもいる」
「ううん、いない。私を理解して、否定してくれるのは、血がつながってる二葉だけ」
そう言って、一葉は私に馬乗りになった。
しまった……場所を空けなかったばっかりに上に来られてしまった。
「わかるよ、双子だから気持ち悪いって思うんだよね。私もそう思う、実の双子に恋愛感情を抱くなんておかしいよ。でもね、私はそうじゃないとダメなの。だってみんなが私のすべてを肯定するから。きっと告白して断る人なんて誰もいない。異性でも、同性だって」
「随分な自信だね」
「今までそうだったから。お母さんやお父さんですら私だけを優先して、中学で同じクラスになったときも、クラスメイトや先生は私のことしか相手にしなかった」
「古傷をえぐらないでよ」
「双子だから、私たちは奪い合ったのかもしれない。本当は二人に分け与えられるべき才能を、私だけが二葉からすべて奪ってしまったのかも」
腕を投げ出し、スマホを手放す。
私の上で膝立ちになる一葉を見上げた。
「一葉もそう思うんだ。だったらもう決まりだよ、私たちは神様が間違って作ってしまった双子だったってこと」
「そうだね。だから私には才能を与えて、二葉には人間らしい感情だけを与えたの」
「人間らしい、か」
いかにも人生の勝者である一葉らしい、前向きな言い方である。
「だったら、私たちどうしたら普通の人間になれると思う?」
「埋め合うしかない」
「けどその時点で普通じゃないよ」
「他に方法なんて無いよ。愛し合う以外に」
「ある」
「……無いの」
「あるってば。ちょうどいいや、そのまま私の首に手を置いてみてよ」
「もし、もしも本当にそれが正しい方法なら……死ぬのは二葉じゃない、私だよ。私を殺して、食べてほしい」
一葉は私の体の上に倒れ込む。
双子のくせに私より大きい胸が押し付けられる。
というか、単純に重いし熱い。
……やだなぁ、私はまだ首に手を置いてとしか言ってないのに、“殺して食べる”ところまでわかっちゃうんだ。
「私を殺せるのは二葉だけ。どうしても愛し合うのが嫌なら、そういう終わり方でもいいよ」
「でもそれってさ、私は残りの人生を刑務所で過ごすオチだと思うんだよね」
「私を食べたら完璧な二葉になれる。刑務所でもみんなちやほやしてくれるよ」
「ははっ、そりゃ一葉はそうかもしれないけどさ。私だってわかってるよ、殺したところで私は私のままだってことぐらい。双子だから食べたらお互いに補完できる――そんなファンタジーみたいなこと起きるわけないんだよ」
「でも私に殺されようとしてたよね」
「それは……ただ殺されたかっただけっていうか。自殺は怖いけど殺されたなら他人のせいにできる。私はこの下らない人生を終わらせられる。何より一葉の人生に泥を塗ることができるじゃない」
「その程度の泥なんて意味ないと思うな」
「人殺しがその程度なんだ」
「血の繋がりには勝てないよ。その程度の罪で私を憎んでくれる人なんていない」
少し体を起こした一葉は、至近距離で私を見つめると頬に手を当てる。
私は体温がゼロになるんじゃないかってぐらい気持ちが冷めていたので、きっと呆れた顔をしていたと思う。
だから一葉は笑った。
「二葉が殺せないっていうんなら、やっぱり私たちは愛し合うしかないんだよ」
「頭の病院探してあげようか?」
「それに二葉だってわかってるはずだよ。私がすべての人に愛されるってことは――」
「私は一人でも平気だけど」
「でも自分の人生を“下らない”と思ってる」
う、痛いところを……。
私の動揺を察してか、一葉はさらに畳み掛けてくる。
「慣れてしまっただけで、本当は平気なんかじゃないんだよ」
よく考えてみれば、口先勝負で頭のいい一葉に勝てるはずがなかった。
相手のフィールドで戦う必要はない――もっとも、私のフィールドなんてものは無いとは思うが。
そうだ、そもそもこんな会話に付き合う必要がないのだ。
私にそのつもりなどさらさら無いのだから。
しかしこれまでの経験上、強引に引き剥がそうとすると向こうも強引な手段に出るし、力でも敵わない。
蛇に睨まれたどころか、巻き付かれて絶体絶命のカエル状態だ。
この完璧超人に狙われた時点で、劣等人類の私にできることなど何も無いのかもしれない。
「たくさん言い訳していいよ。全部私のせいにしてもいいから」
「するも何も、全部一葉のせいじゃない」
「私は神様のせいだと思ってる」
「責任転嫁も甚だしいわ」
「一卵性の双子って普通は似てるものだよ? こんなに違って生まれてきたんだもの、きっと最初から番うように作られてたんだよ」
「……んなわけないじゃん、気持ち悪い」
拒絶をしっかりと聞いてから、一葉は私の唇を塞いだ。
ひょっとするとこいつは、マゾどころかサドなのかもしれない。
私の生理的な嫌悪を愉しんでる節すらある。
しかもタチの悪いことに、二度目となると私も少し慣れていて、昨日より拒否感が弱い。
このまま何度も続けて、私がこの行為を受け入れて嫌がらなくなったら、一葉はそれをやめるんだろうか。
どうだろう、昨日までの認識ならそう思えたけれど――今日の話を聞くと、少し違うような気がする。
世界でただ一人だけ、自分を嫌ってくれる人。
たとえ愛し合ったとしても、ここから私が一葉の魂や精神、そして肉体から髪の毛一本に至るまでを肯定する人間になることはないだろう。
愛は愛情だけでは成り立たない。
愛憎という言葉があるように、愛の裏には必ず憎しみがあって。
要するに灰色なのだ。
一方で真っ白な愛情は、無味無臭で作り物じみている。
だけど憎しみだけの、真っ黒な感情では人は愛し合えない。
一葉は白い世界を見て。
私は黒い世界を見て。
灰色を作るための正しい方法は――
悔しいが、彼女を殺して食らうことではなかったらしい。
唇に押し付けられる感触、体にまとわりつく体温。
“慣れ”の中で、若干の余裕が出来て思考が可能となった私は、その結論にたどり着いてしまった。
私はひねくれているので、今はまだ認めるつもりはないが。
◇◇◇
その日から、一葉は調子に乗りはじめた。
あえてそういう言い方をしようと思う。
彼女は完璧な人間ではあるが、性格はどちらかと言うと“明るい”ほうである。
それ自体は以前から周知の事実である。
しかし、一般的に明るい人間というのは、空気を読まなかったり、私のような影の人間には眩しすぎるという欠点があるものだ。
それが一葉には無かった、少なくとも今までは。
良い明るさの範疇で収まっていたのだ。
おそらく、一葉は自分の周りにある世界を“つまらない”と思っていたので、冷静さを失うほど舞い上がる、といったことが無かったからだろう。
だが今は違う。
嬉しいことがあると飛び跳ね、楽しいことがあると節度を越えてはしゃぐ。
私とくっついている間の一葉は、そんな子供じみた姿を見せた。
例えば、朝起きるとき。
窒息するぐらい長いキスをして起こそうとする。
「ん……んぐっ、んむぅうううっ!?」
「ふはっ。あ、おはよう二葉」
しかも深夜のうちに勝手にベッドに忍び込んで隣で寝ている。
正直、恐怖である。
例えば、登校のとき。
堂々と腕を絡めて歩いてくる。
「暑いんだけど」
「今日は涼しいよ?」
「目立つんだけど」
「私にとってはいつものことだよ」
「……普通、好きとか言うなら私の嫌がることはしないもんじゃないの?」
「それより一緒にいることを優先したかったから」
生徒会の仕事はいいのかと聞いたら、大事な用事があるので朝は出れないと言ったらあっさり承諾されたらしい。
どうなってるんだ彼女の人望は。
例えば、昼食のとき。
わざわざ弁当を作ってまで二人きりになりたがり、執拗に食べさせ合いっこをしたがる。
「あーんして」
「学食が良かったんだけどな」
「あーんして?」
「自分で食べなよ」
「あーんしてっ」
「涙目になってもしないから」
「口移しがいいのかな……」
「どっちも嫌だっての! ご飯は静かに食べる派なんだけど」
「そっか……ならそれでもいいかな」
「あっさり引き下がった」
「だって二葉が私の料理を食べてくれるってだけで嬉しいから。不思議だね、今まで料理したってそんな風に感じたことなかったのに」
屈託ない笑顔を向けられるたびに、何度も思う。
その相手が私でさえなければ、好意を生ゴミとして捨てられることもなかったろうに。
それはこの世界にとっての大きな損失に違いない。
他にも一葉は、事あるごとに私に絡んできた。
休み時間も毎回顔を見せ、帰りはわざわざ一度私と一緒に帰ってから学校に戻り、家に帰ってきてからも私の部屋に入り浸って出ていこうとしない。
あわよくば一緒にお風呂に入ろうとして、夜も夜這いのようにベッドに忍び込んでくる。
これを“調子に乗る”と言わずに何と呼ぶのか。
それとも――“慣れ”が私との距離を埋めることを期待しての行動?
嫌われたいのか、好かれたいのか。
何を私に求めているのか。
最初に唇を奪われてから一週間ほどが過ぎたある日の朝。
私はそれを確かめるべく、通学路でとある実験を行った。
家を出てすぐ、いつもは一葉から腕を絡めてくる。
そこを先手必勝と言わんばかりに、私のほうから手をつないでみたらどうなるのか。
若干――いや、かなり恥ずかしいが、それだけで答えが見つかるのならば、と私は勇気を振り絞る。
もちろん指を絡めたりなどしない。
ただ、ぶっきらぼうに、汗ばんだ手で彼女の繊細な手を握るだけだ。
「あ……」
彼女は小さく声を出して、私のほうを見た。
たぶん耳まで真っ赤な顔が目に映ったはずだ。
すると一葉の頬もぽっと桃色に染まり、口角があがる。
「んふふー」
彼女は特に何も言わず、そう笑うだけだった。
私の顔と、繋いだ手を見て、学校にたどり着くまでずっと笑っていた。
何なら、休み時間に私の教室に遊びにきたときも、自分と私の手を見て思い出して笑っていた。
とてつもなく嬉しかったらしい。
答えは見つかった。
どうやら一葉は、私が彼女を受け入れても失望したりはしないらしい。
安堵する。
胸が締め付けられる。
私はその痛みを、嫌悪感から来るものだと思うことにした。
大丈夫、今のところはまだそれで合っているはずだ。
◇◇◇
二週間が経った。
相変わらず、一葉は飽きもせずに私にべったりである。
いつの間にか勉強も教えてくれるようになった。
心なしか、前よりも授業がわかりやすくなった気がする。さすが天才である。
それでいて、自分の成績が少しでも下がる様子を見せないのだから驚きだ。
一体、いつ自分の勉強をする時間があるのだろう。
一葉は常に私にくっついているが、私がゲームをしているときは『構ってくれ』と言って邪魔することはない。
むしろ、私が遊んでいる姿をじっと見て楽しそうにしているぐらいだ。
恐怖を感じるぐらいに好感度が高い。
さて、そんな感じで一葉視点だとうまくやれている私たちだが、周囲はそう思わないだろう。
これまで接点の無かった劣りに劣った妹と、まるで恋人のように仲睦まじくしているのだから。
特に、姉は成功作で妹は失敗作――そう考える母にとっては、気が気でないのは当然のこと。
私の帰宅後、一葉が再び学校に戻ったため、家の中で母と二人きりになったタイミングで、私は彼女に呼び出された。
いつもは私に興味など示さず、最初からいないものとして扱う母が珍しく声をかけてきたので、私はかなり警戒した。
リビングにて、テーブル越しに向かい合って座る私たち。
母は不機嫌そうな眼差しを私に向ける。
私の記憶が正しいのなら、人生で初めて、母が私に向き合った瞬間だ。
「最近、一葉と仲がいいようね」
「向こうが近づいてくるから」
「そんなはずないでしょう。あなた、一葉に何をしたの?」
会話が成立する気がしない。
まあ、どうやら私と一葉の関係性が気に食わないのは間違いないらしい。
姉妹仲がよくてキレる親ってどうなのよ。
「一葉に聞けばいいじゃん」
「私はあなたに聞いてるのよッ!」
ヒステリックな声が響く。
私は思わず顔をしかめた。
「一葉が間違えるわけないでしょう、原因はあなたにあるに決まってるわ!」
「間違うって何?」
「あなたみたいな人間と一葉が仲良くするはずがないじゃない!」
一葉に聞いてはいたけれど。
ああ――確かに、世界がこんなだと、彼女も嫌気が差すはずだ。
私も私で嫌だけど。
「私、見たのよ」
「何を?」
「あなたと一葉がく、唇を、合わせているところをよッ! ああ汚らわしい、汚らわしいわっ、血のつながった姉妹でそんなこと! どうしてよ! どうして一葉の人生の邪魔をするの!」
「私もされたくなかったよ」
「黙りなさいッ!」
「……」
「どうしてあんなことをしたの!」
「……」
「何とか言ったらどうなの!?」
「黙れって言われたから黙ってたんだけど」
「答えなさいよ一葉があんなことするはずないでしょう! あなたがやらせたに決まってるわ。信じられないわ実の姉にあんなこと、変態よ! どうしてあなたみたいな子が生まれてしまったの!」
その変態って言葉は、ぜひとも一葉に言ってやってほしい。
絶対に言わないんだろうけどね。
けれど母から見れば、責任を認めようとしない私の姿はさぞ悪態をついているように見えただろう。
さらに怒りはエスカレートしていく。
「あなたさえいなければよかったのよ。一葉だけ生まれていれば、全てうまくいっていたのに!」
「今さらそんなこと言い出すんだ。私はもっと前からそう思ってたよ?」
「反省しなさい! あなたが劣っているから、どれだけ一葉に迷惑をかけているか!」
「あれだけ露骨に差をつけて育てておいて、それは無いと思うな」
「黙りなさいよぉっ!」
「はーい」
「どうしてこんな……私たちはうまくやったわ。ちゃんと育てたから一葉が育ったのよ。だったらあなたは何? ちゃんとやった私たちから、どうしてあなたみたいな子に……ッ!」
いやあ、しっかり一葉も歪んでると思うけどな。
教育の賜物だよ、まったく。
「……もう、いいわ」
すると母は急にすんっと落ち着いてしまう。
その落差が大きすぎて、逆に不気味だった。
彼女は椅子から立ち上がると、テーブルをぐるりと回って私に近づいてくる。
その手には――ずっと下で隠していた、包丁が握られていた。
「お母さん?」
「最初からこうしていればよかったのよ」
「ちょ、ちょ、待ってよ! それは無いって、いくらなんでもっ」
「一葉の人生がかかっているんだから。親である私がちゃんとしないと」
「お母さん……」
私も立ち上がり、後ずさる。
悲しかった。
家族の情なんてもの、もう何もかもすべて捨ててしまったと思っていた。
けど心の片隅には残っていたらしい。
血の繋がりは捨てられないということか。
これが一葉の言ってた、人間らしい感情ってやつ?
捨てたくても捨てられないから、私は“正常”だっていうの?
一葉になら、殺されてもいいかなと思ったけど。
母に――この人に殺されたって、私には得るものが何もない。
そっか、誰でもいいわけじゃなかったんだ。
私の中には、自殺できないだけでなく、殺す相手を選びたがる程度のプライドも残っていたらしい。
劣っている。
私は覚悟や絶望すら半人前だ。
「今度こそちゃんとするわ……一葉のために。一葉のために。一葉のためにいぃぃいっ!」
後退しても、もう後ろには壁しかなかった。
すっかり正気を失ってイカれた目をした母が、包丁片手に突進してくる。
妄想ではこういうとき、自分だけ素早く動いてさっそうと取り押さえるものだけど、現実はそうはいかない。
声すら出せずに「ひっ」という引きつった音だけが喉から絞り出される。
恐怖に体は震え、足はすくみ、避けるなんて夢のまた夢。
鈍色の包丁がぞぶりと私のお腹に突き刺さる。
「あ、ぐぅうう……っ!」
一瞬、冷たい。
目を見開き刺された部位を見る。
じわりと制服の上着に血が染み込んでいる。
次の瞬間は熱い。
全身にぞわりと鳥肌が立ち、脚に力が入らなくなる。
そのまま膝をついた。
母は包丁の柄を握ったままで、その拍子にずるりと刃が抜けた。
そしてその次に、ようやく痛みがやってくる。
「あ、が、ああぁああああっ!」
全身から冷や汗がぶわっと噴き出して、膝立ちすら維持できなくなった。
床に横倒れになると、私は両手で傷口を抑え、のたうち回った。
「は、ひいぃいっ、い、いたい……あ、おおぉ……たひゅけ、て……あ、だれ、かぁ……っ」
痛い。
とにかく痛い。
痛すぎて立てないし声も出ないし吐き気はこみ上げてくる。
全身から血が、水分が、命が、何もかも抜けていって。
熱いのに、寒い。
頭がぐわんぐわんする。
視界が揺らぐ。
でも、このまま意識を失ったら、二度と目を覚まさない気がする――ああ、怖い。それはやだ。やだ、絶対にやだ!
「仕方ないのよ、あなたが余計なことをするから。ただいるだけなら、何も問題はなかったのに……!」
母がわけのわからないことを言っている。
言い訳にもなってない、この人殺し!
生んでおいて、十年以上も生きる苦しみを与えて、その末にこんな痛みの中で殺すぐらいなら――本当に、最初に殺してさえくれれば。
物心がつく前とかさぁ、それぐらいならまだ、いや、それも嫌だけど!
でも、でも、こんな死に方っ!
「え……一葉……?」
「お母さん」
あ、れ? 何で、一葉がここに?
ああ、意識が、遠のいていく。
目の前、ぼやけてわかんないけど、一葉……いるん、だよね。
お母さんに、近づいて。
「逃げないでお母さん。私たちは双子だよ? 片方が刺されたなら……ね?」
「や、やめて一葉……違うの。私はそんなもつもりでっ! いやっ、手を離して、お願い……お願いよぉ! いやああぁぁあああっ!」
「づっ、ぐ……うぅ……」
どさりと、何かが倒れる音がした。
私の目の前だ。
ぼやけた何かが、近づいてくる。
口元の形――これは、笑ってる――?
「ごめんねぇ、二葉」
そして、唇に生ぬるい感触。
呼吸は鉄の匂い。
遠くからは――救急車の音がする。
理解、できない。
この状況は、一体――
◇◇◇
目を覚ますと、病院の天井があった。
あたりを見回しても誰もいない。
個室?
体を起こそうと力むと、鈍い痛みが腹部に走った。
起き上がれない。
再び寝そべり、後頭部がぼふんと枕に沈む。
布団をまくった。
着せられたダサいパジャマもまくった。
包帯で巻かれていた。
「夢じゃ……ないかぁ」
寝起きのかすれた声で私は言った。
「しかも生きてるし、幸運なんだか何なんだか」
寝起きだが、記憶はしっかり残っている。
母に刺されたこと。
そのあと一葉が現れたこと。
そして一葉もなぜか、母に刺されたこと。
ひとまずナースコールを押してみる。
現れた看護師さんは私の顔をみるなり、慌ててお医者さんを呼びに行った。
私を診察する医者に聞くと、どうやら刺された日から三日が経ったらしい。
そして、一葉もどうやら同じ病院に入院しているらしかった。
さすがの私もほっと一安心である、誰か死んでたら後味悪いなんてもんじゃないからね。
しかし、母のことは教えてくれなかった。
たぶん捕まったんだろうとは思うけど。
そんなことを考えていると、病室を出る医者と入れ替わる形でスーツ姿の二人組の男性が入ってきた。
警察手帳を向けられる。
今だ覚醒しきれず、ぼんやりした頭で、『何だかドラマみたいだな』と思った。
警察との会話で、母の現状は把握できた。
現在は留置場にいるらしい。
警察は無理心中と思ってるみたいだ。
私としても、そういうことにした方が都合が良かったので話を合わせておいた。
ただし、自分が知っているのは、自分が刺されたところまで、と付け加えて。
なぜ学校にいるはずの一葉がいたのか。
なぜ母は一葉を刺したのか。
そして早すぎる救急車の到着。
それらの疑問を逆に投げかけると、こんな話を聞かせてくれた。
「一葉さんは生徒会の用事が早く終わったから、家に戻ってきたそうだよ」
「君たちの母親は、一葉さんを刺したのも自分の意思だと話している」
「救急車を呼んだのは公衆電話からだったそうだ。男性の声だったそうだが、君たちの父親は仕事場にいたようだから、今のところ誰なのかはわかっていない」
そこまで聞いて、私は何となくすべてを把握した。
その後も、家庭環境などを根掘り葉掘り聞かれ、ようやく私は取り調べから解放される。
やっと休める――そう思ってベッドに体を投げ出した直後、足音と、カラカラというキャスター付きの何かが近づいてくる音がした。
看護師かな、と思って天井を見上げていると、視界にひょっこりと一葉が顔を出す。
点滴が繋がれた彼女は、目を合わせるなり、深々と頭を下げてこう言った。
「ごめんなさい」
私は薄目で彼女見ると、「はあぁ……」と大きくため息をついた。
やっぱり、どうも私の想像通りみたいだ。
「お母さんにキスしてるところを見せた」
「見そうなタイミングでしたから」
「私が刺される前に外で救急車を呼んだ」
「そろそろお母さんも限界かなと思ったから」
「……一葉、こっちに顔近づけて」
「ん」
前かがみになる一葉。
私は横たわったまま、その頬を思いっきりひっぱたいた。
ぺちんと渇いた音が鳴る。
残念ながら、体勢が悪いので全然威力は出なかったけど――私の気持ちは伝わったはずだ。
「一葉はいっぺん死んだほうがいいと思う」
「今回ばっかりは、私もさすがにそう思ったかな」
「目的は?」
「双子で愛し合うのに一番邪魔なのは親だと思ったの」
平然と言い放つ一葉に絶句する。
私ですら、親への情が少しは残っていたというのに。
「お母さんは排除できた。この状況だと、私たちが二人で暮らしたいって言っても、お父さんはきっと反対できないと思うな」
「どうかしてる」
「たとえ親でも、私にとっては親ってだけで他の人と何も変わらないから」
「何度も言うけど、どうかしてる!」
「それだけ二葉のことが好き……ってことじゃダメかな?」
「駄目に決まってるでしょうがっ! う、いっつぅ……」
「大丈夫!?」
大きな声を出すと、傷口がじくりと痛む。
何で一葉は私を支えられるぐらい回復してんだか。
そこまで双子で差が付いてるっていうの?
「無理しないでね」
「誰のせいだと思ってんだか」
「私のせい。だから責任は取るよ」
「責任取らせたって喜ばせるだけじゃない……いっつつつ……」
「だ、だったら、二葉の言うこと何でも聞くから」
「何でもって……どのレベルで?」
「二葉が望むならどんな私にだってなるし、どんなことだってするよ」
「人殺しも?」
「もちろん」
聞かなきゃよかった。
そりゃするよね、しかも証拠も何も残さず、疑われることなく相手を消しそうな雰囲気がある。
「最近ね、自分が怖いんだ」
「私はずっと前から怖いんだけど」
「それ以上に! 二葉のこと好きって気持ちを確かめてから、色んな欲が出てきたの。ほら私って、その気になれば誰の心だって操れるでしょう?」
「でしょうって言われても……」
「操れるの。だって勝手にみんなが私のことを好きになって、私の味方になってくれるから」
母親という実例を見せられただけに、私は何も言えない。
「けど、今まではそうしてまでやりたいことが無かった。でも今は――」
私がいる、と。
勘弁してよ、とんだ地雷女じゃないか。
「一葉は、いつから私のことをそういう目で見てたわけ?」
「わからない。ずっと特別だとは思ってた。我慢ができなくなったのは最近のことだけど」
私を好きになった理由を聞く限り、最近になって――ということではなさそうだ。
もう何年も前から自分の欲望を表に出さずに溜め込んできた。
何だってできる一葉は、我慢だって超一流のはずだ。
溜め込んできた感情の量はあまりに多く、ゆえに溢れ出せば暴走気味になってしまう。
正直、私なんかが受け止められるとも思えない。
「だからとにかく、今は二葉のために何かをしたいの!」
「やっぱり罰になってないじゃん」
「ごめん……今の私は、二葉になら何をされても喜ぶと思う。仮に無視されたとしても、それを嬉しく感じるぐらい」
「はぁ……どうしようもない変態だわ。わかった」
とは言ったものの、何一つとして納得していない。
おそらく、どれだけ話したところで、最後まで納得できる話ではないだろう。
だが一方で、私が納得できないからといって、一葉だけで解決できる話でもなく。
そう――二人の間に圧倒的な力の差がある以上、選択権は一葉が持っているのだ。
そして彼女が私に恋愛感情を抱いていると自覚した時点で、私に勝ち目などなかった。
“いつ諦めるか”。
私が選べるのはそのタイミングだけ。
「じゃあこっちに顔を近づけて」
「こ、こう……?」
「もっと」
「いいの……?」
「いいから」
つまりこれは白旗を揚げるということ。
断じて、私が一葉に口説き落とされたとか、そんな話ではない。
「んっ」
わずかに体を起こし、唇を重ねた。
しかし腹筋に力を入れるとかなり痛いので、維持できたのはほんの一秒。
すぐに顔は離れる。
目の前には、完全にフリーズした一葉の顔があった。
「まあ、そういうことだから」
要するに、『母親を犯罪者に仕立て上げるやつに逆らえるわけないだろー!』ということである。
私がぶっきらぼうに言うと、一葉はにへらぁっとだらしなく笑った。
両頬に手を当て、瞳をうるませる。
「二葉ぁ……好き」
「知ってる。私は好きじゃないけど」
「私も知ってるよ、諦めただけなんだよね?」
「そう、私は自分の人生を捧げて、大人しく一葉の執着に付き合ってあげる。一葉っていう化け物を抑え込むヒーローになるの。だからもう肉親を利用したり、私を傷つけたりしないでよ?」
「うん、うん、わかった! 全力で二葉のこと幸せにするね!」
「そうね、せっかく一葉にもらわれるんだから、養ってもらうぐらいしてもいいかもね」
「私もそうしたい。二葉を養いたい!」
「……半分冗談だったんだけど」
「二葉はヒモでいいよ。私、いっぱい稼ぐから。家でだらっとして、あ、でも私が帰ってきたら構ってほしいかも!」
「まあ……一葉がそれでいいなら」
ヒモ……かぁ。
あまり聞こえはいい話ではないけど、双子の姉と付き合うなんて気持ちの悪い関係になるんだもんね。
それぐらいの対価はあったっていいはずだ。
◇◇◇
一週間後、私は退院した。
一緒に退院した姉と家に帰ると、やつれた父親が私たちを迎えた。
母親は拘置所にいるらしい。
これから裁判やら何やらで大変なことになりそうだ。
だというのに、一葉は容赦なく父親に自らの要求を突きつける。
『こんな怖い家に私たちは住めない。二人で部屋を借りて別の場所に住みたい』
今の精神状態の父親を一人にしておくのは可哀想だと思うが、私たちは刺された側の被害者だ。
その要求は拒否できるものではなく。
ひとまず部屋が見つかるまで、私と一葉はホテル住まいとなった。
で、その夜に一線を越えた。
欲望むき出しの一葉はもはやケダモノである。
そこから二人で暮らせる部屋に引っ越したのは二週間後のこと。
部屋の広さに不満は無い。
しかし、ベッドはダブルサイズが一つというのはどうかと思う、狭いんだけど……。
まあ、結局は抱き合って眠るからいいということなんだろう。
一葉は身体能力の高さからもわかるように、体力おばけだ。
なので要するに、毎日……ということである。
だったらダブルで十分という判断なんだと思う。
つくづく化け物である。
母の裁判が終わったのは、さらにそれから半年ほど後のことだった。
一葉が熱心に情状酌量を求めたおかげか、刑は執行猶予がつき、母はあの家に戻れることになった。
やせ細った父も少しは元気になることだろう。
もっとも、一葉と私があの家に戻ることは二度となかったが。
高校卒業後、一葉は進学せずに就職した。
さらに二年後、そこで貯めたお金で起業し、とんとん拍子で大成功。
22歳となった今は、急成長するベンチャー企業の女社長として、雑誌で紹介されるぐらいの成功者となっている。
部屋も最初に借りた場所から引っ越し、今は都心の高層ビルの上層階ぐらしだ。
私はそんな超エリートとなった一葉の稼ぎで、悠々自適なヒモ生活を満喫していた――
◇◇◇
20時過ぎ、玄関から鍵を開ける音が聞こえた。
私はゲームを一時中断して一葉の出迎えに向かう。
「おかえり」
スーツ姿の一葉は、私の姿を見るなりパンプスも脱がずに抱きついてきた。
「ただいまぁ~」
今日は少しばかりお疲れモードのようだ
と言っても、私以外にはそんな顔は見せないし、その気になればまだまだ動けるとは思うけど。
抱き返して「よしよし」と背中を撫でると、私の胸に顔を押し付け甘える一葉。
最近は、割と可愛いと思えるようになってきた。
5年以上交際を続けてようやくそこまで来たのだ、薬指の指輪にふさわしい夫婦のようになるには、まだまだ10年以上はかかると思っている。
まあ、前向きに倦怠期知らずとでも言っておこう。
「ほら、靴を脱ぎなさい」
「はぁーい。あ、脱いだらちゅーしてもいい?」
「嫌だ。汗臭い」
「抱きつくのはよかったのにぃ!?」
「ふ、冗談よ」
落ち込む一葉の顎を持ち上げ、不意打ちのキス。
顔を話すと、「ふわぁ……」と彼女は蕩けていた。
「夕食できてるから」
「メニューは何?」
「鳥肉とか色々入ってる煮物」
「私が好きなやつだ! 二葉はもう食べたの?」
「待ってたよ」
「いつも待ってくれるよね……んふふ、二葉のそういうところ好きー」
「好きじゃないところあるの?」
「無いけど特に好き」
「ふっ、調子いいんだから。準備しておくから、早く着替えてきたら?」
「了解っ! にっものっ、にっものっ」
小走りで着替えに向かう上機嫌な一葉。
表であんな姿を見せたら、幻滅する社員が――いや、逆にファンが増えそうで嫌だな。
ただでさえ、最近はビジネス面だけでなく、外見目当てでの取材とかも増えてきてるらしいのに。
夕食の準備を進めていると、部屋着に着替えた一葉がキッチンにやってくる。
「うわ……相変わらずダサいTシャツ」
部屋着は何着もあるのだけれど、お気に入りなのか、胸元に巨大でブサイクなネコの描かれたTシャツを彼女は好んで着る。
私はそのたびにこんな反応を見せるのだけれど、
「えぇ、かわいいじゃーん」
一葉は着るのをやめようとはしない。
ひょっとしたら、私に罵倒されるのを楽しんでるんじゃないかな……。
そんな姿で、夕食の準備を手伝う一葉。
料理をテーブルの上に並べると、私たちはソファに隣同士で並び、肩をくっつけたまま手を合わせる。
「いっただっきまーす」
「いただきます」
少し遅めの夕食。
一葉はいつも『先に食べてていいよ』と言うのだけれど、何となく同じ時間に合わせている。
基本的に一日中ゲームしかしてないから、あんまお腹空かないんだよね。
彼女はそれを『わざわざ待ってくれる』と前向きに捉えてるらしいけど。
あと、さすがに日付変わりそうなぐらい遅い日は一人で食べてる。
「んふー、おいひぃ……二葉、また料理の腕をあげたね」
「お世辞はいいから、それ毎日言ってるし」
「毎日そう思ってるの! それにしても……二葉ってさ、結構ちゃんと家事してるよねー」
「かなりだらっと生きてるけど」
「でも、最初はヒモになるって言ってたじゃない? 今の二葉は、どっちかっていうと……主婦というか……私のお嫁さんみたいっていうか……」
勝手な妄想で頬を赤らめる一葉。
違うって言いたいところだけど、立場はまんまそれである。
ネトゲでも『○○さんって主婦?』と聞かれたときは、少し顔が熱くなった。
「食事中に発情しないでよ」
「発情はしてないよぉ!」
「この前はその流れで押し倒されそうになった」
「あれは……ごめん。でも口移しプレイは新鮮でいいと思う」
「よくない」
「むー」
「変な顔しないで。あと口の端っこに米粒が付いてる」
「口で取って?」
「指で取る」
米粒をつまむと、それを私は自分の口に運んだ。
「それもかなり大胆だと思うな」
「……言われてみれば」
毒されてるなあ、とは思う。
ただ同時に、彼女の“白”が流れ込むことで、私の“黒”は徐々に灰色に近づいているとも感じていた。
正常化している。
こんなにも、間違っているのに。
「二葉は今、幸せ?」
ふいに、一葉がそんなことを聞いてきた。
「さあ? 今日はガチャの引きが悪かったから落ち込んでるかも」
私は誤魔化すようにそう答えた。
ガチャの運で幸せと不幸が決まる時点で、幸せだと自白しているようなものだが。
前は、毎日のように死にたいと思ってたのに。
一葉はそんな私の心を見透かして、言葉を続ける。
「私は、心から二葉と一緒になってよかったと思ってる。こんなに幸せなことがあるんだって、毎日が満たされてる!」
「お腹の傷も含めて?」
「うん、含めて」
彼女の辞書に後悔という文字は無いのだろうか。
最近は、毎晩のように腹部の傷跡を舐められて困っている。
ひょっとすると、あの時の記憶を別の記憶で上書きできないか、と企んでいるのかもしれない。
「私は間違ってなかった。私たちが幸せになる道は、これ以外になかったんだよ」
正直、私もそう思っている。
世間から見たら私たちは正常ではないだろう。
今のところ、両親は口をつぐんで週刊誌に私たちを売ったりはしてないけど、スキャンダルになれば一発で社長をクビになる程度にはヤバい関係だ。
だけど――
「世間一般で言う正しさに合わせたら、私と二葉は幸せになんてなれなかった」
考えてみれば、私たちの選択は当然のことだ。
他人のために不幸になる道を選ぶ人間なんていない。
誰もが、自分の幸せを求めて生きている。
それに私たちが愛し合うことで、誰かに害をなすわけではない――この際、両親のことは考えないものとする。
「これからも、二人で間違った道を進んでいこうね」
一葉は私にしなだれかかり、甘い声でそう告げた。
いつもなら、『食事中は食事に集中しなさい』と軽く叱るところだけど、今ばかりは許そう。
私たちは人生そのものが間違っているのだ。
多少、行儀が悪いことをしたって構わないはず。
そう自分に言い訳をして、抱きしめ、キスをする。
「二葉……愛してるよ」
「……私も、少しだけ愛してる」
らしくないと思いながら、けれど“たまにはいいか”とそんなことを言ってみる。
その後、興奮した一葉に襲いかかられ、私は彼女を引き剥がすべく激しい戦いを繰り広げた。
もちろん負けた。