第2話 「昨日起こった奇跡」
(蒼汰)
黒板に書かれた彼女の名前は『天野美咲』。
美咲ちゃんか、名前まで美しい。
昨日と違い制服姿だが、萌え度はいささかも下がっていない。
いや、むしろワンピースよりスカートの丈が短い分、萌え度が上がっていると言っても過言じゃない。
「というわけで、今日からクラスメイトとして分からない事など教えてあげてちょうだいね。天野さん自己紹介を……」
紹介した担任の彩乃先生もスタイル抜群の美人だけれど、紹介された美咲ちゃんはその上をいっている。
年上の綺麗なお姉さまが好きなら彩乃先生だが、俺は昨日から美咲ちゃん一択だ。
いや、彩乃先生が選択肢から消えたわけじゃない。
何の選択肢だか分からないが、男とはそういうものだ。
「天野美咲です。皆さん宜しくお願いします」
ややハイトーンの声色。天使の声とはきっとこんな声なのだろうと思う。俺には美咲ちゃんの背中に翼が見える。
美しい姿勢を保ったまま頭を下げる美咲ちゃん。いや、今日この瞬間から『美咲さま』だ。
美咲さまの挨拶に、周りの男子共が色めき立つ。ウザイ。
「天野さん。取りあえず一番後ろの空いている席に座って頂戴。始業式の後に席替えをするから、荷物は中に入れずにね」
彩乃先生の説明を聞いて、自分の席の後方に机が増えている事に気が付いた。
先生に促されて席に向かう美咲さま。
おお、自分の真横を美咲さまがお通りになられるのだ。
彼女を追う男子共の視線がウザイ。こんな時にあからさまに目で追うなど、浅ましい奴らだ。まあ、自分も横目でバッチリと追っているけれどね……。
彼女が通り過ぎる時に、目線の先で男子のひとりと目が合った。航だ。
小学校の時からの幼馴染の楠木航。コソコソと目で追う俺に気が付いて、ニヤニヤしてやがる。
横を通り過ぎる時に、美咲さまが起こした風がふわりと届く。
シャンプーの香りだろうか、昨日の髪の香りと同じく清涼感溢れる香りが漂って来た。
でも、もし叶うのであれば、あの汗ばんだ香りが嗅ぎたくて、思わず限界まで深呼吸をしてしまった。
流石に今日はあの香りはしなかった。当たり前か……。
それでも、美咲さまの良い香りのせいか、深呼吸が原因なのかは分からないけれど、クラクラしてしまった。
目を瞑り静かに息を吐き出す。
残り香を追って、もう一度深呼吸……残念ながら、美咲さまの幸せな香りはもうしなかった。
目を開けると航とまた目が合う。
俺が深呼吸をしているのを見て、口元に手を当てて笑いを噛み殺していやがる。
奴がこの席なら間違いなく同じ行動をしただろうに。男とはそういうものだ。
それに、俺がこんなにも深呼吸をした本当の理由をお前は知らないだろうが……。
ホームルームが終わり始業式に行くまでの合間、美咲さまは女子に囲まれて質問攻めにあっていた。
もちろん、そこに割り込んで行けるはずもなく、別の事をする振りをしながら女子達のしている質問に聞き耳をたてていた。
でも、残念ながら有用な情報は得られなかった。
美咲さまは女子勢の「彼氏は?」や「家は何処?」などの質問に対し、小声で返事をしていて、俺の席からは聴き取る事が出来ない。誰か集音マイクを持って来てくれ!
結局、女子勢のリアクションで質問の答えを想像するしかなく、それで自分を納得させるしかなかった。
美咲さまに彼氏なんて居ない。
だって転校生だぞ。
居ないはずだ。
居て堪るか!
居ないよね……。
────
始業式に向かう廊下の道すがら、一部のウザオ達が女子に話しかけて美咲さまの情報収集をしている。
会話が弾んでやがる。お前ら女子と話せるならそれで十分だろうが。お前らはそれで充分リア充だ。俺の美咲さまにまで興味を持つな!
「変態め!」
イライラと余計な事を考えていると、航が肩を掴まえながら話しかけて来た。横には龍之介が居る。
楠木航と立花龍之介。
あまり人と馴染めない俺が心を許せる数少ない存在。
コミュ障じゃないぞ。人とちょっと馴染めないだけだ。
「彼女の顔。蒼汰のドストライクだろ! だからって残り香をクンクンって。お前ただの変態だぞ!」
航め、いきなり直球できやがる。
「お前だって、同じ事するだろうが!」
「いやいや、紳士の僕はそんなこと致しませんよ」
「ほう。今日【恋する魔法少女マロンちゃん】の最新刊持って来たけど、やっぱり貸すの止めるわ」
「って……蒼汰様。わたくしめが悪うございました。わたくしでしたら、恐らく深呼吸のし過ぎであの場で気絶していたかと思われます」
「うむ。分かれば良い」
ポケットに入れておいた【恋する魔法少女マロンちゃん】の最新刊を、航に手渡す。
この手の物は、人目につかない所で受け渡しをしなければならない。教室など論外だ。もしも女子勢に見つかったら、とんでもないレッテルを貼られかねない。
もちろん、俺たちはオタクじゃない。ちょっとだけサブカルチャーに造詣が深いだけだ。
まあ、サブカルチャーがとても好きなのは事実で恥ずかしくはないが、高校生活の崩壊に繋がるリスクは可能な限り避けるべきなのだ。
航は小躍りしながらポケットに本をしまい込んだ。
「上条はああいうのがタイプなのか。最近まで彩乃先生が至高って言ってなかったか?」
龍之介が痛い所を突いて来る。
サブカルチャーにあまり造詣の深くない龍之介には、俺の琴線に触れた美咲さまの素晴らしさは分かるまい。
それに、美咲さまの素晴らしさは美しい顔だけじゃない。
彼女の汗ばんだ香りは、俺の脳を蕩かせてしまう程の素敵な香りなんだぞ!
確かに彩乃先生の事は大好きだ。美咲さまに俺の心は奪われてしまったが、選択肢から外してはいない。
何の選択肢?
繰り返しになるが、男とはそういうものだ。
「悪いが、俺は昨日から美咲さま一択さ!」
「昨日から?」
怪訝そうな顔をしている二人に、昨日起こった奇跡について語ってやった────